戦犯裁判の経過

情報公開の権利行使でより詳しい事実がわかってきました。国立公文書館に「法務省/平成11年度/4B-23-4915」及び「法務省/平成11年度/4B-23-4956の資料が公開されています。政府はこのような資料を隠して「慰安婦の強制連行を示す文書はなかった」などと言っていたのですから驚きます。秘密保護法が出来たので今後はこういった資料が現われることはないでしょう。確かな事実であることの確認に、ここでも実名を挙げておきます。全部故人ですから歴史的事実として政府も実名を隠さなかったのだと思います。

南方軍士官候補生隊は、南方軍で士官となる候補生を現地で教育する部隊です。南方軍直属ですが、実際にはジャワ島にある16軍に属する運営がなされていました。校長にあたる隊長は、方面軍司令官能崎清次少将です。学生は大久保朝雄大佐の歩兵隊に属します。ジャワはオランダの植民地でしたので、日本軍が占領した時にも多くのオランダ人が住んでいました。これらのオランダ人を敵性外国人としてハルマヘラ抑留所、アンバラワ抑留所、ゲダンガン抑留所に収容していました。

ここにいるオランダ人の女性を慰安婦にして慰安所を開設する事を画策したのは、大久保大佐と経理主任の池田省一中佐だったようです。能崎少将と相談の上、16軍司令部に伺いを立てました。16軍司令部からは、自由意志を確認してやれとの指示でしたが、これを確認する資料はありません。アリバイ的に言っただけのことかも知れません。池田中佐は、16軍の憲兵隊と打ち合わせて、ある程度強制することを通知しています。少なくとも下部で勝手にやったことでないことは確かです。

能崎少将から、スマラン支庁陸軍司政官三橋弘に慰安婦の選抜を指示したのですが、抑留民団の反発に遭って難航しました。そこで軍が直接乗り出すことになりました。全体の指揮を執ったのは大久保大佐で、能崎少将の副官高橋少佐と池田少佐が、慰安所経営者たちを呼び出し、計画協力を命じたのです。その後、池田少佐が内地出張となり、岡田少佐が指揮を取ります。

岡田少佐は抑留所に兵を連れて乗り込み、人選をしました。嫌がる女性を慰安所に連れて来て、部屋に押し込み、自ら殴ったりして強姦しました。単なる命令責任者ではなく強姦の実行犯でもあります。獄中日誌にきれいごとを並べていますが、岡田が積極・Iだったことは他の被告たちも証言しています。女性たちに読めない日本語の承諾書にサインさせたのも岡田です。

陸軍省から、小田島大佐が視察に来たのは、拘留所の所管が軍から民政官に変わることで、様子を見に来たのです。日本軍の捕虜虐待が国際世論から問題にされていたからです。拘留所では栄養状態が悪くすでに何千人もの死亡者を出していました。自分の娘を慰安婦にされた居留民団長が小田島大佐に直訴して、大佐が陸軍省に報告しました。尋問された松浦主計中尉は、アメリカの放送(VOA)がスマラン事件を報道し、国際世論が沸騰しかかっていたことが、軍が急に慰安所閉鎖を決めた理由だと語っています。

戦後、戦犯に問われた岡田少佐は死刑となりましたが、高橋少佐は戦死して裁判なし、池田中佐は15年の刑でしたが発狂したということで執行停止。大久保大佐は、復員していましたが戦犯裁判の呼び出しを受けた時点で自殺しました。河村千代松大尉は禁固10年、村上類蔵軍医少佐は懲役7年、中島四郎軍医大尉は懲役16年です。古谷巌(スマラン倶楽部)、森本雪雄(日の丸倶楽部)、下田真治(青雲壮)、葛木健次郎 軍属(将校倶楽部)の慰安所業者にも20年、15年、10年、7年の禁固刑が言い渡され、その量刑の違いを説明する証言が挙げられている具体的なものです。三橋弘司政官は、かなり事件に関わっており、慰安婦の強姦もやっているようなのですが、実行犯が軍人であり、命令系統になかったことで無罪になっています。

能崎少将の経緯はなかなか複雑です。日本軍では慰安婦強制連行の罪は問われず、出世して内地の152師団長になりましたが、戦後は、まず墜落した米軍パイロットをリンチ殺害した件で戦犯被告になりました。この審理に時間がかかり、監督責任は師団長にまで及ばないことで無罪となり、チビナン刑務所に移送されたのは1948年になってからです。バタビア軍法会議では死刑の判決を受けたのですが、量刑に意義があり、高等軍法会議に廻されました。ここで、インドネシアは独立政変に巻き込まれ、巣鴨への移送となります。巣鴨刑務所で1951年8月になって、「禁固刑12年」の通知を受け取ったのですが、1953年頃、日本政府の配慮で釈放されてしまいました。政策が変わり、ほとんどの戦犯が刑期をまっとうせず、出所しています。岸信介などは、釈放されて首相にまでなりました。

裁判の証言なども沢山あり、スマランの事件が従軍慰安婦の強制連行であったことも、陸軍の将官まで含む組織的犯行であったことも、暴行、強姦といった、おぞましいような内容も明らかです。何よりも、これを日本軍は一切処罰の対象とせず、逆に当事者は出世しているということが重要です。閉鎖のときに言われたことは、「オランダ人女性を使うな」であり、慰安所はまたすぐに再開されました。再開されたスマラン慰安所は、現地の人たちへの強制を続けました。これについては、極東軍事裁判は何も触れていません。被害者がたまたま白人だったために戦犯事件になったのであり、この陰には何百倍ものアジア人犠牲者がいたことは明らかです。