オランダ人元慰安婦の証言

私の名前はジャンヌ・オヘルネです。オランダ人です。一九四二年、私が一九歳の時、オランダ領東インドを侵略した日本軍によってジャワにある捕虜収容所に入れられました。第二次世界大戦中、三年半にわたって日本の捕虜収容所で生活させられました。〜(中略)〜  私は最初、アンバラワ収容所に、母と二人の妹といっしょに入れられました。約二年間そこにいました。

一九四四年二月のことでした。収容所の重労働から戻る途中でした。突然収容所が騒がしくなりました。 日本の軍人たちが大勢トラックで到着したのです。最初、点呼のために呼び出されるのだと思いました。 しかしそうではなく、「一七歳以上の独身女性は中庭に整列しろ」という命令が出されました。 私たちはこの命令に不吉な感じを受け、何か変だと疑わしい気持ちになりました。 「あなたもそうよ、ジャンヌ」、母が言いました。その声は震え、目は恐怖に満ちていました。

収容所全体が恐怖ですっぽり包まれ、中には隠れようとする少女もいました。 私たちは長い列に並ばされ、何人もの軍人が列に向かって歩いてくるのを見て、怖くて震えました。 軍人たちの顔つきに不吉な予感がしました。 上から下までじろじろ見て、お互いに笑ったり、私たちの誰かを指さしたりしていました。 若い私たちはおびえ、うなだれ、顔を上げる勇気もなくそこに立っていました。 日本人は列にそってゆっくり歩きながら、時々、私たちの顔を見るため無理やりあごをあげさせました。

 彼らは歩きながら、にやにや笑ったり、指をさしたり、私たちの体に触ったりしました。 何か話し合った後、半分が帰ってよいと言われました。私は長い列に残されたままでした。 恐ろしさで体全体が震えていました。そこからまた誰にするか選び、最後に十人の少女が前に出ろと言われました。 その他の少女たちは心配する母親の元に帰ってゆきました。私は残った十人の内の一人でした。

 女性たちの泣き声や叫び声が聞こえてきました。勇敢に日本人にはむかい、私たちを取り戻そうとしているのです。 通訳を通して、所持品を一つのバッグに詰めて、ただちに正門に集まるよう言われました。 そこには私たちを連れて行くトラックが待っていました。詳しいことは何も聞かされませんでした。 少女たちと母親たち、収容所にいる全ての人が力の限り抵抗しました。あたりは悲鳴や叫び声、泣き声に包まれました。

 しかしすべては無駄でした。凶暴な敵の前に押え付けられ、力なく従うしかない私たちは、まるで屠殺場に連れて行 かれる羊のようでした。わずかな荷物を詰めている間も監視の目は続きました。 私は聖書、祈祷書、十字架を鞄に入れました。その時、私にとってこれらが一番大事に思えたからです。 私を守って強くしてくれる武器のように思えました。

 看守に付き添われ、私たちは正門へ行きました。そこでそれぞれ母親や家族に別れを告げました。 母と私は言葉もなく、ただお互いの目を見て抱き合いました。その瞬間、二人は互いの腕に抱かれたまま、 まるで死んでしまっているように感じられました。  みんな泣きながら無理やりトラックに入れられました。 六人の少女が、新たに私たちのみじめなグループに加えられました。 結局一六人の少女が、不本意にもアンバラワ収容所から連れてゆかれたのです。

 私たち一六人は、恐怖におののく動物のように、かたまってうずくまりました。 どこに連れて行かれるのか想像もつきません。  しばらくして、セマランへ通じる幹線道路を走っていることが分かりました。 市街地近く来ると、セマラン郊外の丘陵地帯の道に入りました。トラックは一軒の大きな家の前で止まりました。 七人が降りろと言われました。私もその一人でした。 連れてこられた家がどんな目的で使われているのか、その後すぐに分かりました。 一人ひとりに部屋があてがわれました。 その夜、私も他の少女たちも眠ることができなかったので、みんなで大きなベッドに集まり、恐怖の中で抱き合って、 祈ることで勇気を奮い立たせようとしました。

 次の日、多くの日本人が家にやって来て、私たちは居間に呼ばれました。 日本人の性の慰みのためにここにいるのだと、彼らは説明しました。つまり売春宿に連れてこられたのです。 いつでも彼らの言う通りに従わなければならず、家から出ることは許されませんでした。 事実、家は監視されていて、逃げようとしても無駄でした。 私たちがこの家にいる目的はただ一つ、日本人のセックスの相手をすることです。 強制売春の奴隷にされたのです。

「アジアの声 第7集 世界に問われる日本の戦後処理@ 「従軍慰安婦」 等国際公聴会の記録」
国際公聴会実行委員会 東方出版1993年(P.80〜83)