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主催 財団法人大倉精神文化研究所   共催 横浜市大倉山記念館


    大 倉 山 講 演 会


会 場 : 大倉山記念館ホール(東急東横線大倉山駅下車、徒歩7分)

日時・定員 : 各講演の項をご覧ください(入場無料、予約なし当日先着順)

問合せ : 財団法人 大倉精神文化研究所 〒222-0037 横浜市港北区大倉山2−10−1
            電話 045−834−6637
            URL http://www006.upp.so-net.ne.jp/ookuraken/
            E-mail okuraseishinbunka☆js6.so-net.ne.jp
                 ☆を@に変えて下さい。


第27回大倉山秋の芸術祭参加企画

平成23年11月4日(金)
インドの詩聖タゴールと日本文化
−タゴール生誕150周年記念−


講師:臼田雅之(元東海大学教授)、丹羽京子(東京外国語大学講師)、奥田由香(タゴールソング研究)

 大倉精神文化研究所とも縁が深い、インドの詩聖タゴールの生誕150年を記念して、
臼田雅之(インド近代史)、丹羽京子(ベンガル文学)、奥田由香(タゴールソング)の3名の先生をお招きして、
タゴールの精神世界を探求し、タゴールの来日が日本人や大倉邦彦に与えた影響について伺います。

時間:午後2時30分〜午後5時00分(開場は午後2時20分〜)
定員:80名(聴講無料、予約なし、当日先着順)
会場:横浜市大倉山記念館ホール

後援:インド大使館


平成23年度
昔話に見る人間観、自然観、宗教観

 昔話は、世界の国々やそれぞれの地域のなかで、人から人へと長く語り継がれてきた伝統的な文化遺産です。人びとによって親しみ伝えられてきた昔話には、その人たちの国や地域の固有の文化が脈打っています。昔話を通して、人びとが、人間や自然をどう見ていたか(人間観、自然観)、神仏をどう考えていたか(宗教観)、あるいは人びとの人生観、家族観、動物観などが分かるというわけです。
 昔話には、例えば、日本独自の話がある一方で、世界各地にそっくりの話があったり、似ているようで実は結末が異なるという話があったりします。外国から日本に、また日本から外国に伝えられた話もあります。
 今回は、日本、スペイン、韓国、インドで語り継がれている昔話を採り上げて、人びとのものの見方・考え方などの同じところや異なるところ、またはるか昔の異文化交流の一端を見ていきます。

第1回 
平成23年4月16日(土)
日本とスペイン語圏の昔話の比較−三という数字をめぐって−
講師:松下直弘(拓殖大学教授)


 「二度あることは三度ある」「三人寄れば文殊の知恵」「仏の顔も三度」「三度目の正直」「三羽がらす」など、わたしたちは数字の三を含む表現をよく使っています。日本の昔話にも、「三枚のお札」をはじめ、三回の繰り返しや三人兄弟、三姉妹の出てくる話がたくさんあります。縁起の良さ、快いリズム、動きと安定感が感じられる「三」へのこだわりと愛着は、日本人に独特のものなのでしょうか。実は、太平洋の彼方にあるメキシコでも、数字の三はとても好まれているようです。「トリオ・ロス・パンチョス」「三つの言葉」「三文化広場」など、三を含む表現がメキシコ社会のいたるところで使われています。
 今回の講演では、日本の昔話をスペイン語圏の類話と比較しながら読み、両者の共通した考え方と微妙な相違点を探ってみたいと思います。

時間:午後2時〜午後3時30分(受付開始午後1時30分〜)
定員:80名(入場無料、予約なし当日先着順)

第2回
平成23年5月21日(土)
韓国の蛇信仰と昔話
講師:村上祥子(拓殖大学教授)

時間:午後2時〜午後3時30分(受付開始午後1時30分〜)
定員:80名(入場無料、予約なし当日先着順)

ある美しい娘のもとに毎夜通ってくる若者がいました。娘が身ごもったことを知った両親は怪しみ、床の前に赤土を撒いて、男の衣に糸のついた針をつけておくようにと言いました。若者が訪れた翌朝に糸をたどっていくと、針が刺さった大蛇が苦しんでおり、ついに死んでしまいました。娘の産んだ男子は、後に優れた人物となります
 
これは日本の三輪山神話や、韓国の百済の王 伝説として『三国遺事』の記事にみられる話です。日本では苧環型昔話として、韓国では夜来者婿譚として民間でも語られてきました。 
この昔話で語られる象徴的なことがら、夜来者の正体と死、赤土、糸、針などが意味することとは何でしょう。韓国の民俗信仰の視点から読み解いてみたいと思います。なにげない日常のなかに潜む蛇信仰は、今も昔話として身近にあることを確認できればと考えます

★関連企画 「おはなし会」
日時:5月21日(土)13時〜13時30分
場所:大倉山記念館 第4集会室
話す人:港北おはなし会
→「おはなし会」プログラム


第3回
平成23年6月18日(土)
昔話の世界で、日本とインドはどのようにつながっているか
講師:坂田貞二(拓殖大学名誉教授)
 

時間:午後2時〜午後3時30分(受付開始午後1時30分〜)
定員:80名(入場無料、予約なし当日先着順)

 竜宮城のお姫さまが病気になったときに猿の生き肝を食べると治ると言われ、亀が猿を騙して肝を取ろうとして------という設定の「猿の生き肝」、亀が池の外も見たいと言うので鶴がくわえる棒を亀もくわえて空を飛んで------とはじまる「鶴と亀の旅」は、日本で親しまれています。これらは「日本の昔話」です。ところが西暦1〜6世紀のあいだに成立したインドの説話集『パンチャタントラ(五巻の書)』に、「猿の心臓をとりそこなった鰐」や「亀と二羽の白鳥」の話があります。これらは、仏教伝来にともなってインドの話が日本に伝わり、日本の風土に馴染んで親しまれている例です。
 いっぽう地域と民族に独自の昔話も多々ありましょう。昔話がどのように語られ、聞かれて時間と空間を旅するのか。そういうことを、日本昔話の記憶を掘りおこしながら考えましょう。
 日本の昔話については、語りの雰囲気を伝え、注で昔話の国際比較のヒントを示している稲田浩二・稲田和子編著『日本昔話百選 改訂新版』(三省堂、2003年)を参照します。

第4回
平成23年7月16日(土)
日本の神話と昔話

講師:平藤喜久子(國學院大學准教授)
 

時間:午後2時〜午後3時30分(受付開始午後1時30分〜)
定員:50名(入場無料、予約なし当日先着順)
会場:大倉山記念館 第10集会室(通常と会場が異なりますので、御注意下さい。)

 日本の神話は、今からおよそ1300前に『古事記』や『日本書紀』にまとめられました。そんなに古い文献というと、難しそうなイメージがあるかもしれません。しかしその神話を読み解いていくと、そこにはわたしたちがよく知っている昔話とよく似た物語があったり、現代にも残る風習と共通する場面があったりと、興味深い世界が繰り広げられています。
 今回の講演では、『古事記』に記された伊耶那岐神(イザナキ)と伊耶那美神(イザナミ)という一組の夫婦の結婚と別れの物語を取り上げます。この夫婦は神話に描かれた最初の夫婦であり、わたしたちが住むこの国土をつくり出した創造神でもあります。彼らの物語を、わたしたちがよく知っている昔話や、ギリシア神話の有名な物語と比較しながら、古代から現代へと受け継がれた神話世界を味わっていきたいとおもいます。


これまでの講演会



第26回大倉山秋の芸術祭参加企画

平成22年11月5日(金)
明治天皇の創られたイメージ
−束帯から軍服へ−

 日本人の生活と文化は、明治維新を迎えて大きく変わりました。それは、西洋諸外国と同じような制度を政府が取り入れたことによります。明治5年(1872)には、天皇の服装も伝統的な束帯(そくたい)から洋服へと変化しました。明治天皇は歴代天皇のなかで初めて洋服を着た天皇です。
 それ以前の天皇の肖像が束帯姿であるのに対し、明治天皇の肖像の多くは軍服姿で描かれています。天皇の服装は軍服に限られていたわけではないのですが、私たちは明治天皇というと軍服姿をイメージしてしまいます。なぜ明治天皇は軍服姿なのか、創られたイメージの謎を解き明かします。

講師:刑部芳則 (中央大学兼任講師) 


平成22年度

幕末・明治の異文化体験

 江戸時代の日本は鎖国政策が採られていて、外国との交流が制限されていました。そのため、わが国は西洋を、西洋人は日本をほとんど知ることができませんでした。しかし幕末・明治期になると、日本を訪れ、日本や日本文化を体験する西洋人が、また海外へ出かけて、西洋文化に触れる日本人が出てきます。日本人あるいは西洋人それぞれに、初めて接した、体験した、見聞きした異文化はどのように映ったのでしょうか。価値観の相違による異文化の評価はどうだったのでしょうか。
 交通や情報伝達の手段が未発達であり、今以上に異文化間ギャップが大きかった時代幕末・明治の異文化体験―を考えてみます。

平成22年6月19日(土)
明治9年の文部省留学生 ―穂積陳重の渡英日記から―

講師:伊村元道(元玉川大学教授)

 穂積陳重(ほづみ・のぶしげ、1855−1926年)という人をご存知でしょうか。東京大学の前身である東京開成学校の第2回留学生として、イギリス・ドイツに5年間留学、帰国後は20代で東大教授・法学部長となり、明治の末年に退官するまで東大法学部の発展のために尽力した人です。
 本日はご案内のテーマのもとに、穗積の留学時代を中心に、今回の共通テーマである異文化体験についてお話ししようと思います。
 まず最初に彼の生涯のあらましをお話しします。次に留学期間中の動向を少し詳しく追ってみます。最後に、彼の異文化体験の中から、当時はまだ珍しかったエレベーターや、ロンドンの地下鉄、スモッグといった風物面と、精神面として西洋人の夫婦関係、親子関係について彼の受けたカルチャー・ショックの記述を読んでみることにしましょう。

平成22年5月15日(土)
日本の讃美歌と東アジアの異文化交流
講師:手代木俊一(明治学院歴史資料館研究調査員)

 150年ほど前、横浜をはじめとして港が開かれ、キリスト教の宣教師が来日しました。プロテスタントでは、布教のときに、その土地の言語で礼拝をし、その土地の一般大衆が讃美歌を歌うことを基本としています。そのため聖書や讃美歌が日本語に翻訳されました。日本の近代において讃美歌は日本語で歌う最初の西洋音楽で、しかも新しい詞(詩)でもありました。異文化体験は自国の文化の再確認でもあります。この異文化体験は何を体験し、何を再確認したのでしょうか。
 来日したプロテスタントの宣教師はアメリカ・イギリスが中心でした。すなわち讃美歌は英語からの翻訳で、翻訳したのは中国伝道の経験者、またはその影響を受けた宣教師たちでした。このことは讃美歌の翻訳にどんな影響を与えたのでしょうか。また近代化の早かった日本は中国にどんな影響を与えたのでしょうか。そこには単に一方的な異文化体験ではない交流がうまれているので、そのことを検証していきます。そして異文化体験・交流から生まれた日本の讃美歌と近代詩をとおして幕末・明治期を再考していきます。

平成22年4月17日(土)
日本からの手紙 ―米国青年の幕末日本渡航記より―
講師:高橋俊明(日本英学史学会会員)

 1867年12月(慶応3年11月)、当時19歳のアメリカ人の青年が、単身サンフランシスコを出航、開通したばかりの太平洋横断航路を利用して日本へ渡航し、横浜、鎌倉、江戸を見物します。丹念に旅行記を書き綴って、ニューヨークに住む家族への便りとしますが、それがやがて当時の米国の有力雑誌に連載されます。
 この青年は、年末年始の行事をはじめとして、日本独特の風俗習慣に接することになりますが、当時の日本は物情騒然たる幕末で、ある時はこの異国の若者の身辺にも危険が迫ります。
 太平洋横断も日本見物もすべて初めての経験ですが、若者らしい率直な感想がユーモアをまじえて書き綴られます。若者なりの異文化の評価が、その渡航記の中に自然に表明されていることが、興味深く観察されます。好奇心にあふれて冒険に挑む若者の異文化体験記の一端をご紹介したいと思います。

平成22年3月20日(土)
幕末・明治期に来日した異国人とフジヤマ ―オールコック卿の富士登山を中心に―
講師:庭野吉弘(工学院大学教授)

 古来、日本人と日本の国土・風土を象徴する富士山とは切っても切れない関係があります。平安時代に何度か噴火をしてコニーデ型の美しい形状の山を作り出して以来、富士山は日本人の畏敬と信仰の対象となってきました。江戸時代には富士講という山岳信仰をも生み出しました。この美しい富士山に異国人たちも注目しないではいられませんでした。幕末・明治の近代化の時代、多くの異国人たちが来日していますが、彼らはその記録・日記に富士山、フジヤマの景観を綴っています。そして、かつては女人禁制でもあった富士登山を自らの足で登ろうとする“夷狄”(異国人)も登場しました。江戸幕府は“夷狄”の富士登山に対しては当然反対の立場を貫こうとしました。しかし、その反対を押し切って登頂を敢行する外交官が現れました。初代英国大使のラザフォード・オールコック卿です。その意図するところは何だったのか? その意味合いを探りつつ、異国人たちの目に映った富士山の景観を探ってみます。


  第25回大倉山秋の芸術祭参加企画

平成21年11月5日(木)  
幕末の漂流民が体験したアメリカ
講師:茂住實男 (大倉精神文化研究所所長)
 

 今年は横浜開港150周年ですが、開港の少し前、まだわが国が鎖国をしていた時代に船で漂流し、アメリカを体験した者たちがいます。もっともよく知られているのはジョン万次郎こと中浜万次郎ですが、このたび取り上げるのは、万次郎より10年ほど後(嘉永3年、1850)に漂流した栄力丸(えいりきまる)の乗組員たちです。
 栄力丸の漂流民たちはアメリカという異文化に接しているうちに、異文化に積極的に同化していく者や、異文化を政治的・軍事的な観点から見る者、近代的技術を観察し見よう見まねで学び取る者、異国の権威を笠に着る者、異国の地に足を踏み入れたことで極端に幕府を恐れる者など、それぞれが異なった反応を示すようになります。漂流民たちの様々な反応は個性によるものなのか、あるいは漂流中に置かれた環境によるものなのか。
 漂流記などを通して彼らのアメリカ体験に迫り、異文化体験とは何かを考えます。        


平成21年度

大倉山記念館の建築様式と思想
−施主大倉邦彦と建築家長野宇平治の熱き想い−

 横浜市大倉山記念館は、施主大倉邦彦が建築家長野宇平治に依頼して、大倉精神文化研究所の本館として建設した建物です。大倉山記念館は平成3年(1991)に横浜市指定有形文化財に指定されていますが、市内に数ある他の近代建築とは異なる特徴を有しています。
 昭和7年(1932)4月9日、施主大倉邦彦は開所式の挨拶において、「形式は信念の具象である」と述べています。大倉邦彦が懐いていた信念とはどのようなものだったのでしょうか、建築家長野宇平治はそれに如何に応えたのでしょうか。
 完成した大倉精神文化研究所本館は、戦中・戦後と苦難の歴史をたどり、昭和56年(1981)に横浜市へ寄贈され、昭和59年(1984)からは市民利用施設の横浜市大倉山記念館として親しまれています。
 施主大倉邦彦と建築家長野宇平治、その合作である大倉山記念館の秘密に迫ります。

   関連企画第14回研究所所蔵資料展  大倉山記念館の建設 施主大倉邦彦と建築家長野宇平治
                                         

平成21年7月18日(土)
大倉精神文化研究所本館から大倉山記念館へ  
講師:平井誠二(大倉精神文化研究所専任研究員)
 

 今年は、大倉精神文化研究所の本館が竣工して77年、その建物が大倉山記念館として開館して25年になります。この間に様々なことがありました。施主大倉邦彦がその生涯をかけて実践した精神文化活動。それに共感して建物を訪れた多くの著名人。精神修養に訪れた大人や子供たち。
 戦争中は海軍気象部分室となり、戦後は国会図書館の支部図書館となったこともあります。荒れ果てて化け物屋敷と呼ばれたことすらあります。建物の維持管理が困難になり、研究所は横浜市へ本館を寄贈しました。
 横浜市は、研究所本館を大倉山記念館にするために、どこをどのように改修したのでしょうか。実は、改修によって封印されてしまった開かずの間もあります。
 大倉山記念館が歩んできた77年の歴史を紹介します。

平成21年6月20日(土)
長野宇平治と大倉山記念館  
講師:吉田鋼市(横浜国立大学教授)

 横浜市大倉山記念館は、その建築様式の細部に、古代ギリシアに先駆けてエーゲ海に発達したクレタ文明とミュケナイ文明の建築様式を用いています。設計者の長野宇平治は、19世紀末以降に発見されたばかりのこの古くかつ新鮮な造形をなぜ採用したのでしょうか。長野はその造形の細部をなにから学んだのでしょうか。
 この日本では独特の造形を、同時代の西洋でもまったく用いていないのでしょうか。
 この造形を採用するのに、長野と施主大倉邦彦の相談はあったのでしょうか。そもそも大倉は、なぜ長野に大倉山記念館の設計を依頼したのでしょうか。
 などなど大倉山記念館の建設にまつわる様々な謎について考えてみます。

平成21年5月16日(土)  
昭和の横浜をつくった建築家たち  
講師:青木祐介(横浜都市発展記念館主任調査研究員)

 横浜の都市と建築の歴史を振り返ったとき、大倉精神文化研究所が建設された「昭和」という時代は、どのように位置づけられるのでしょうか。
 開港以来、横浜では外国人居留地を中心として、洋風建築による街並みが整備されていきますが、その都市景観を一変させたのが、大正12年(1923)の関東大震災でした。
 それまで都市の主役であった赤レンガの建物は甚大な被害を受け、震災後の街並みは、耐震耐火構造である鉄筋コンクリート建築が中心となっていきます。
 昭和期に活躍した建築家たちは、この鉄筋コンクリートという骨格の上に、まるで衣服のごとく多種多様な建築様式をかぶせていきました。クレタ・ミケーネ文明の建築様式をまとった大倉精神文化研究所の建物は、昭和戦前期の百花繚乱ともいえる建築様式のなかでも群を抜いた存在だといえるでしょう。
 その設計者である長野宇平治をはじめ、震災復興に尽力した市建築課の木村龍雄、多彩な様式の使い手であったJ.H.モーガンなど、横浜ゆかりの建築家たちを紹介します。


平成20年度
横浜錦絵からオールド・ノリタケへ
−明治の起業家大倉孫兵衛の生き方と商売道に学ぶ−

 人は何のために働くのでしょうか、企業は何のために活動するのでしょうか。いま、人生の意義や企業倫理が大きく問われています。
 幕末の開港地横浜で、外国船員に錦絵を売っていた若き日の大倉孫兵衛は、明治から大正への近代日本の歩みの中で、様々な会社を立ち上げ次々に成功を収めます。大倉孫兵衛は、金の儲け方から儲けた金の使い方へと考えを巡らし、晩年にいたり人生の意義を考え「商売もツマリは宗教である」との悟りを得ます。しかし、起業家大倉孫兵衛は自己宣伝をしなかったために、近代日本の実業界に大きな足跡を残しながら、その存在は現在ではほとんど知られていません。
 大倉山記念館(大倉精神文化研究所本館)を建てた大倉邦彦は、孫兵衛の孫であり、晩年の孫兵衛から大きな影響を受けていますから、記念館は孫兵衛の遺産ともいえます。
 大倉孫兵衛の足跡をたどりながら、その実践哲学を学びます。

平成21年3月21日(土)
大倉孫兵衛の残したもの― 精神の継承と諸事業の今日 ―
講師:打越孝明(専任研究員)

 大倉孫兵衛は錦絵の製作・販売を家業としていました。開国後、横浜で錦絵の販売を手掛けたことをきっかけに出版業や洋紙問屋へ事業を拡大する一方、同志森村市左衛門と共に陶磁器の輸出を手掛け、明治20年代以降、大正期に至るまで製陶業の近代化に力を尽しました。
 孫兵衛の手掛けた事業は後継者たちに引き継がれました。出版業を担った義弟保五郎は大倉書店を全国有数の大規模出版社へ発展させ、製陶業を担った長男和親は日本陶器(ノリタケカンパニーリミテド)・大倉陶園・東洋陶器(TOTO)・日本碍子(日本ガイシ)を始めとする我が国の近代製陶業の基礎を築きあげました。
 洋紙問屋を引き継いだ養子の大倉文二は、事業を多角化して総合貿易商社の経営を目指しましたが、志半ばにして病に斃れました。文二の後継者が大倉神文化研究所の創設者大倉邦彦です。孫兵衛の精神は邦彦に受け継がれ、研究所設立に多大の影響を及ぼしました。
 講演では、孫兵衛の精神遺産の継承と諸事業の現状についてお話しします。

平成21年2月21日(土)   オールド・ノリタケの美しさ  ― 美の創造者大倉孫兵衛 ―   井谷善惠(多摩大学)

 大倉孫兵衛は、明治9年頃森村組(明治37年日本陶器合名会社設立、現ノリタケカンパニーリミテド)に参加し、創立者森村市左衛門と共に日本の近代輸出磁器業の発展に寄与しました。
 孫兵衛が主体的に関わったオールド・ノリタケと呼ばれる明治期以降の輸出磁器は、近年、公立の美術館でも数々の展覧会が催され、近代美術工芸の至宝としての評価を受けるようになりました。
 大倉孫兵衛の長男和親は、日本陶器、大倉陶園、伊奈製陶、東洋陶器設立等にも深く関わりました。森村組の最大の絵付工場の親方河原徳立の子百木三郎は、孫兵衛の娘と結婚します。その子春夫は、デザイナーとして大倉陶園を代表する名品の数々を生み出し、後に大倉陶園の社長となります。
 まさに大倉孫兵衛こそ、日本の近代陶磁器業の父といえるでしょう。孫兵衛の足跡と彼の周りの人々の業績をたどることで、彼がいかに品格のある作品を世に出したか、そしてその美を国内外の多くの人々に知ってもらいたいと願ったかを語りたいと思います。

平成21年1月17日(土)
大倉孫兵衛と博覧会― 万国博覧会・内国勧業博覧会への出品 ―
講師:関根仁(渋沢史料館)

 1851年にイギリス・ロンドンで万国博覧会が開催されて以降、世界各地で博覧会が開催されるようになりました。そして、1867年にフランス・パリで開催された万国博覧会に江戸幕府が公式参加し、1873年にオーストリア・ウィーンで開催された万国博覧会に明治政府が公式参加して以降、日本も海外で開催される博覧会へ積極的に参加するようになりました。
 また明治政府は、1877年に東京・上野公園で第一回内国勧業博覧会を開催し、日本においても博覧会の時代が開幕し、博覧会事業は日本の近代化に大きな影響を及ぼしました。
 出版業を営んでいた大倉孫兵衛は、こうした海外で開催された万国博覧会や、内国勧業博覧会に錦絵などを出品しています。大倉孫兵衛が出品したり、実際に訪れた博覧会はどのようなものだったのか、そして大倉孫兵衛はどのようなものを出品していたのかを見ていきながら、大倉孫兵衛の活動の一端を、考えてみたいと思います。

平成20年12月20日(土)
夏目漱石と大倉書店―『吾輩ハ猫デアル』等の出版をめぐって―
講師:岩切信一郎(東京文化短期大学)

 夏目漱石は大倉書店から、橋口五葉の装幀による『吾輩ハ猫デアル』、『漾虚集』、『行人』等の主著を出版しています。これらは小説としても名作ですが、造本、装幀においても名品として知られています。では、大倉書店とはどのような出版社だったのでしょうか。漱石が、これらの著作を、あえて大倉書店から出版したのはなぜでしょうか。漱石が大倉書店に求めたものは何だったのでしょうか。
 また、当初『吾輩ハ猫デアル』等は大倉書店と服部書店との共同出版でしたが、それはなぜでしょうか。そして服部書店は後に手を引くことになりますが、それはなぜでしょうか。
 『吾輩ハ猫デアル』が上中下の三冊で出版されたのはなぜでしょうか。
 このような様々な問題について、残されたこれらの「本」を通して検討してみようと思います。そして、夏目漱石にとって「出版」とは何だったのかを考えてみます。

平成20年11月15日(土)
横浜錦絵と版元大倉孫兵衛
講師:佐藤美子(川崎市市民ミュージアム)

 近代日本の実業界に大きな足跡をのこした大倉孫兵衛は、幕末から明治初期、日本が大きな変革の時を迎えた頃、版元として活躍しています。版元とは、現在の出版社と本屋を兼ねたようなものですが、木版で刷られた本や浮世絵、便箋などを企画し、販売するところです。もともと大倉家の家業は版元だったようですが、大倉孫兵衛は、新しい時代に必要とされる情報を提供する版画を制作し、積極的に販売しはじめます。
 当時の出版界をみてみると、役者絵や美人画とともに、横浜錦絵という、いわゆる開化絵が人気を得て、西洋文化を紹介したり、鉄道や銀行、ホテルなどを描いたものなどがたくさんつくられました。こうした作品とともに、大倉孫兵衛の版元としての活動についてご紹介したいと思います。

平成20年10月30日(木)
大倉孫兵衛の目指したもの―起業家の遺言―
講師:平井誠二(専任研究員) 

 大倉孫兵衛は、大倉山記念館を建てた大倉邦彦の祖父にあたります。孫兵衛は、大倉邦彦に社会貢献の必要性を説き、将来を託していました。これが記念館建設の始まりです。
 大倉孫兵衛は、幕末に裸一貫から商売を始め、錦絵の製作販売から出版業、洋紙問屋へと家業を拡大します。その一方で、森村市左衛門と共に陶器の製造輸出を始め、伝統的な製陶業を近代産業へと発展させ、送電用の碍子製造で日本の近代化に貢献し、水洗トイレの製造により、日本人の衛生観念まで改革しました。
 いま企業家のモラルや企業の社会的責任、商売活動の意味などが問い直されています。明治の起業家大倉孫兵衛が次世代を担う若者たちへ託した想いについて語ります。


日本古典に親しむ−『神典』の魅力再発見−

 昭和11年(1936)に初版が刊行された『神典』は、わが国の主な古典を読みやすく編纂した本です。大倉精神文化研究所が編纂したこの『神典』は、平成18年刊行の第20版で70年目を迎えました。
 『神典』編纂の任を担った植木直一郎博士は、昭和10年代に「『神典』講座」の講師を長く務め、一般市民向けに『神典』に収録する全古典を講読して好評を博しました。実用の書として平成の今日に至るまで読み継がれてきた『神典』とその収録古典について、その魅力を改めて見つめ直します。

平成20年6月21日(土)
『神典』の魅力を語る
講師:島善高(早稲田大学) 

 昭和11年(1936)に刊行された大倉精神文化研究所の『神典』は、『古事記』『日本書紀』を始め、日本の成り立ちを記した古典の読み下し文が収録されており、しかも附録に詳細な索引もついており、非常に有益な書物です。
 今回は、この『神典』を最大限に活用しながら、時節に合うように「六月晦日の大祓」を取り上げ、その源流を調べることにします。そして、日本人の基本的な観念の一つである「ツミ」意識がどのようなものであるのか、それを探ってみたいと思います。

平成20年5月17日(土)
「律」の刑罰と徳川吉宗
講師:高塩博(國學院大學) 

 江戸幕府の第8代将軍徳川吉宗は、一般には“暴れん坊将軍”のあだ名をもって呼ばれていますが、実は“法律将軍”という異名をとる無類の法律好きでした。吉宗はその晩年に精力をふり注ぎ、幕府の基本法というべき「公事方御定書」上下巻を編纂し、ここに、律の刑罰に示唆を得て「敲」という名のむち打ちの刑を定めました。
「敲」はその後、全国の諸藩でも採用するところとなり、江戸時代を代表する刑罰の一つとなりました。吉宗が律の刑罰からどのようにして「敲」刑を創り出したのか、「敲」という刑罰がその時代においてどのような意味をもったのか、これらの点を考えてみようと思います。

平成20年4月19日(土)
「風土記」読み歩きの魅力
講師:飯泉健司(埼玉大学) 

 「風土記」は、奈良時代に編まれた書物です。「古事記」や「日本書紀」には見られない伝承が多く載っています。我慢比べする神々、遠くから国を引っ張ってきた神、奢ったために零落した農民、朝まで愛し合い松になった恋人…など、バラエティあふれる神や人が登場します。
 これらの話は、その土地ならではの風土と深く関わって成り立っています。古代の人は、山や川、海をキャンパスにして壮大かつ面白くロマンチックな話を作り上げました。風景を視野に入れることによって、文字面だけでは見えてこない伝承の裏側や本当の意味が見えてきます。風土を基に「風土記」伝承を読み解き、さらに伝承地を廻り歩く楽しみについて、お話しさせていただきます。


平成19年度

日本古典に親しむ−『神典』の魅力再発見−

 昭和11年(1936)に初版が刊行された『神典』は、わが国の主な古典を読みやすく編纂した本です。大倉精神文化研究所が編纂したこの『神典』は、平成18年刊行の第20版で70年目を迎えました。
 『神典』編纂の任を担った植木直一郎博士は、昭和10年代に「『神典』講座」の講師を長く務め、一般市民向けに『神典』に収録する全古典を講読して好評を博しました。実用の書として平成の今日に至るまで読み継がれてきた『神典』とその収録古典について、その魅力を改めて見つめ直します。

平成20年3月15(土)
「万葉集」の歌の魅力
講師:内藤明(早稲田大学)

 万葉集は、千数百年にわたり、時代時代にさまざまな読まれ方がなされてきました。この歌集には、そこから多くのものを汲み取っていくことができるいろいろな世界があります。まさに日本の詩歌や抒情の源泉をなすものといっていいでしょう。
 今回は、万葉集の自然や恋愛の歌を鑑賞しながら、そこにあらわれている自然観や生命観、人間観といったものを探っていきたいと思います。地球環境の問題が言われる昨今、古代の人々の世界観に触れ、万葉人が歌の言葉に託して人に伝えようとした思いに耳を傾けることで、現代にも通じる万葉の歌の魅力に迫れればと思います。

平成20年2月16(土)
神祇氏族の古伝承−「古語拾遺」の魅力−
講師:土肥誠(國學院大學)

 平安時代初期につくられた『古語拾遺』は、神祇氏族の斎部広成の撰になるものです。「古語に遺りたるを拾ふ」という趣旨で執筆された同書は、『古事記』や『日本書紀』などに見られない伝承や記事を含む貴重なものです。
 古くより神祇祭祀は忌部(斎部)・中臣の両氏が預かってきました。ところが、しだいに藤原氏の一族である中臣氏が政治的権力を背景として専横を極めるようになり、斎部氏はその職から排除されるようになりました。『古語拾遺』には、その間の事情や忌部氏に伝わる独自の古伝承が興味深く記されています。
 『古語拾遺』という書物を通じて、神道の古い伝承を読み解いていく楽しみを実感していただきたいと思います。

平成20年1月19日(土)
「日本書紀」ヤマトタケルの物語
講師:谷口雅博(國學院大學)

 ヤマトタケルの物語は、古代日本の英雄伝説として広く知られています。天皇として即位することなく、戦いの後に死を迎えるヤマトタケルですが、文献によっては「天皇」と記されるものもあり、また名前の読み方に異説があるなど、謎の多い存在です。また、一口にヤマトタケル物語といっても、『古事記』と『日本書紀』とでは描かれ方に大きな相違があります。父子の確執や、悲劇的な死の様子を語る『古事記』に比べ、『日本書紀』の方は文芸性が乏しいと評価されることがあります。しかしそれは両書の語ろうとする目的の相違であって、優劣をつけられるものではありません。
 今回は特にヤマトタケルと、三浦半島沖の走水の海で入水したオトタチバナヒメとの話に焦点をあて、『日本書紀』独自の物語世界について考えます。

平成19年12月15日(土)
奈良・平安時代の法曹教育−「令義解」の魅力−
講師:宮部香織(亜細亜大学) 
 

 『令義解』は、奈良時代に制定された養老律令の令法典についての注釈書です。平安初期に国家事業としてその編纂が行われました。この事業が発足したきっかけは、律令を学ぶ官僚候補生たちが、複数ある学説のいずれを採用するべきであるのか判断に迷うという事態が生じたためでした。そこで、間違った学説をとりのぞいて、正しい学説を示すことを目指して、『令義解』の編纂計画が立てられたのです。
『令義解』は、文学的な古典に比べて一般の人々には馴染みがないかもしれません。しかし、法律に携わる役人を育成するための教育という側面から、『令義解』という書物を見ていくことにより、今日の教育にも通ずる問題を考えてみたいと思います。

平成19年11月17日(土)
外国人をひきつけた「古事記」の魅力
講師:松井嘉和(大阪国際大学) 

 我が国最古の古典と言える『古事記』は、明治以降、世界各国の言語に翻訳されはじめ、現在、原典からの翻訳だと思われる訳本が9種類の言語に及び、重訳や内容紹介の書物も含めると14種類の言語で『古事記』が紹介されていています。関連の書物は40種にも及んでいます。21世紀になってからも、ロシア語とフランス語訳の再版、イタリア語の新訳が出版されています。
 なぜ外国人も『古事記』に惹かれるのでしょうか。世界の神話が注目されているという思潮もあるのでしょうが、しかし、『古事記』の独特の世界を発見して読む人もいます。
 外国人の視点に立って、『古事記』の魅力を再発見したいと思います。

平成19年11月2日(土)
神道古典と昭和−大倉邦彦と植木直一郎−
講師:打越孝明(専任研究員)

 昭和11年(1936)大倉精神文化研究所が刊行した『神典』は、「古事記」「日本書紀」を始めとする我が国の主な古典を読みやすくした本です。一般の人々が古典に親しむことを意図していました。平成18年で刊行70年目を迎え、今でも神職の養成・研修などに欠かせないロングセラーです。
 『神典』の作製を思い立ったのが研究所の創設者大倉邦彦、主たる実務を担ったのが国学院大学教授植木直一郎博士でした。講演では、『神典』の実物を手にしていただきながらその魅力を語るとともに、昭和を生きた二人の人物の足跡を振り返りたいと思います。


平成18年度

大倉邦彦とその時代−1920年代・記念館建設への道−

 皆さんに親しまれている横浜市大倉山記念館は、1932年(昭和7)実業家の大倉邦彦が大倉精神文化研究所の本館として建設したものです。
 本年度の大倉山講演会では、大倉邦彦が青年期を過ごした20世紀初頭から、研究所の構想・建設期である1910〜20年代を主として取り上げます。精神文化の研究所を横浜市の太尾に創立するに至る背景や当時の社会のありさまを多様な視点から考察します。

平成18年12月16日(土)
精神文化図書館構想と当時の図書館事情
講師:竹内セ(図書館情報大学名誉教授)

 1932(昭和7)年4月、大倉精神文化研究所図書館が現在地に竣工しました。大倉邦彦が多年にわたって温めていた、「図書館を作って国民の精神の力を抽出そう!」という理想の実現でした。大倉は、自らイギリス、ドイツ、フランスの図書館を視察し、国内では各分野の専門家に委嘱して精神文化の深遠さを表現する優れた本の広範な収集に努めました。そして、この建物と蔵書が共に貴重な文化財である、立派な図書館を作り上げたのです。
 大正末年は、第一次大戦後の好景気の崩壊と、関東大震災の大被害によって、国民の志気が低下した時期でした。指導層の一人として大倉が対策を考えるのに不思議はありませんが、なぜ「図書館」を選んだのでしょうか? そこがこの時代の人としてユニークなところです。その答えは未だ明らかではありません。しかし、図書館とは何か、ということとつき合わせて考えることで、大倉の考え方に近づきたいと思います。

平成18年11月18日(土)
20世紀初頭の中国情勢と東亜同文書院−青年期の大倉邦彦−
講師:栗田尚弥(國學院大學講師)

 1900年、東亜同文書院の前身南京同文書院が開校しました。同年、清王朝が列強に宣戦布告して北清事変が勃発、中国大陸は動乱・混沌の時代に突入します。大倉邦彦が入学したのは、三年後の1903年(明治36)のことです。在学中には日露戦争が起こります。
 東亜同文書院の歴史は激動の中国史とともにありました。例えば、革命派の恵州起義には書院の教授山田良政が参加して処刑され、1913年の第2革命では上海の桂墅里校舎が兵火に焼かれ灰燼に帰しました。一方、中国情勢の複雑化は、中国エキスパート養成学校である東亜同文書院の日本国内における価値を必然的に高めることにもなりました。
 ドラマティックかつシヴィアな現実と中国保全という建学精神の狭間で、東亜同文書院の学生や関係者はいったい何を考えていたのでしょうか。

平成18年10月21日(土)
「天恩に感謝す」−大倉孫兵衛の商売道−
講師:平井誠二(専任研究員)

 大倉山記念館を建てた大倉邦彦は、有能な実業家でしたが、その生涯を教育活動や精神文化活動に捧げました。金を儲けるだけでなく、儲けた金を有意義に使うことを知っていたのです。邦彦に商売道と金の使い方、そして人としての生き方を教えたのが義理の祖父大倉孫兵衛です。
 では、大倉孫兵衛とは一体どの様な人物だったのでしょうか。
 今回は、年老いて病に倒れた大倉孫兵衛が、次代を担う若者への遺言として残した言葉を読みながら、孫兵衛の実業家人生をたどり、彼が教える心豊かな生き方について考えます。

平成18年9月16日(土)
禅と『葉隠』と大倉邦彦
講師:納冨常天(総持寺宝物館館長)

 大倉邦彦は佐賀藩時代からの伝統的な勤倹尚武の環境に生れ育っています。とりわけ佐賀中学時代の葉隠四誓願に基づく教育は、1年下にいた下村湖人の『次郎物語』などを通して、その思想形成に大きな影響を与えたことがわかります。
 後年、目黒の富士見幼稚園や、郷里に農村工芸学院を設立したのをはじめ、最後に大倉精神文化研究所を創設して、研究や研修会、さらには坐禅会などを開催していますが、これらは四誓願の一つ「大慈悲を起し人の為になるべき事」を実践したものといえましょう。
 また禅への関心は、天竜寺管長由利滴水について修行した東亜同文書院初代院長根津一によるものでした。その後、小浜発心寺の原田祖岳に参禅していますが、これは『正法眼蔵』などを著した永平道元に親しむ切っ掛けになっています。
 ここでは禅や『葉隠』による大倉邦彦の人間形成と、昭和初期における農村の振興や、女子に対する職業教育を目的とした農村工芸学院の、禅に基づく経営についてお話ししたいと思います。

平成18年7月15日(土)
大倉邦彦著『感想』を読む
講師:打越孝明(専任研究員)

 大正14年(1925)7月、大倉洋紙店社長の大倉邦彦は自著『感想』の其一を刊行しました。43歳のときです。この本は洋紙店の社員教育を目的とし、個人の心のありさまや精神修養の大切さを綴ったもので、51編の随想風の短文を収めたわずか30ページあまりの小冊子に過ぎませんでした。
 しかし、刊行後は『読売新聞』にその内容が紹介されるなど好評を博しました。『感想』は其十三に至るまで毎年一冊ずつ刊行され、全体で291万部も普及したベストセラーとなります。大正15年にはイギリスのロンドンで英訳も出版されました。
 『感想』に綴られた随想は、いずれも大倉邦彦の心の奥底から迸り出た信念の言葉であり、昭和7年(1932)4月に創設した大倉精神文化研究所の礎となったのです。
 講演では、研究所創設前に書かれた随想を中心に皆さんと読み味わって参ります。


平成17年度

−港北の地名と文化−

 地域の字名など歴史地名は、地域の人々が生活の中で生みだし、継承してきた精神文化の所産です。行政地名は、歴史地名を基にして定められましたが、行政改革や区画整理等により大きく変化してきています。近年でも、いわゆる「平成の大合併」により、由緒ある地名が全国的に改変されつつあります。
 本研究所の立地する横浜市港北区では、昭和45年に篠原地域から地番変更が行われており、既に大半の地域が新しい住居表示に切り替わっています。ちょうどその頃から急激な都市化も進み、農業や昔ながらの生活に根ざしていた旧来の歴史地名は、その由来と共に忘れられつつあります。こうした状況に対して、平成12年7月、地元有志により「港北・地名を調べる会」が結成され、歴史地名とその由来の調査・記録を続けています。
 今回の講座は、この「港北・地名を調べる会」の協力を得て企画しました。横浜や港北の歴史地名を事例として取り上げ、地名の由来や変遷と地域で生きてきた人々の生活や生き方に学ぶことにより、地域への愛着や心豊かな生き方について考えていきたいと思います。

平成18年2月18日(土)  座談会 港北の地名と文化  港北地名を調べる会

港北区域には、古代以来の長い歴史を持つ地名が沢山あります。そうした地名を見ると、ここに暮らした人々の生活や考え方、地域の自然環境などが分かります。その一方で新しい地名も次々に作られています。
区民の有志で結成した「港北地名を調べる会」は、人々の記憶から忘れ去られつつある由緒ある地名を調べて記録してきました。その成果は「港北歴史地名ガイドマップ」となりました。今回は、会のメンバーの方から、港北区域の地名を知るための文献資料、地域の古老から伺った地名の由来、ガイドマップ作りの苦心談などを伺います。
私たちは、自分が暮らしている地域のことをどれだけ知っているのでしょうか。そしてどれだけ愛着を持っているでしょうか。港北区域の地名に関する皆さんの疑問もお受けします。

平成18年1月21日(土) 
『新編武蔵風土記稿』の世界−港北区域の地名を中心に−
講師:松澤常男(横浜地名研究会)

 講演の前半は、地名の変遷や由来について話をします。現在の港北区域には、江戸時代に19の村がありました。しかし、明治22年(1889)の町村制施行による大合併で、大綱・小机(城郷)・旭・日吉・新田の5か村に集約されて、旧村名は大字と呼ばれるようになります。5か村々は、昭和2年・12年・14年と、順次横浜市と合併し、大字は町へと変わります。昭和14年(1939)の第6次市域拡張の結果、港北区の一部となりますが、その合併の経緯と村名および区名の由来について述べます。
文化11年(1828)成立の江戸幕府編さんの地誌『新編武蔵風土記稿』には各村の小名が載せられています。小名は土地の名である字とは違い、集落名を指す名称と思われます。小名とは何か、また明治初期の地租改正に伴う字の合併と字名の改定によって、小名がどう変わっていったかを中心に後半の話を展開します。

平成17年12月17日(土)
中世の名残をとどめる故郷の地名−小机、新羽、吉田を訪ねて−
講師:相澤雅雄(郷土史研究家)

 地名は、何百年という幾星霜を経て定着し、今日に伝えられた無形文化財といえます。吉田・新羽・小机といった地名も長い歴史をもつ古地名です。ちなみに小机は、鎌倉幕府が編纂した史書『吾妻鏡』にその名を見いだすことができます。さらに中世の城跡・小机城址があり、周辺には城郭地名が伝わっています。新羽は中世の僧・道興准后の紀行文集『廻国雑記』にでてくるなど江戸時代以前にすでに地名として存在していました。また吉田は御霊・神隠といった神秘的な地名があり、土地に秘められた歴史を彷彿させてくれます。また武蔵国の古社である杉山神社が祀られ、一層の興味をかきたさせてくれます。今日でもこれら土地の路傍や寺社あるいは深い谷戸を訪れてみると中世の遺物を見ることができます。今回、連綿と歴史を刻む吉田・新羽・小机といった地名を題材に、古文書・地図・絵図・地誌などを使って、それぞれの土地に刻まれた歴史をひもといてみます。

平成17年11月19日(土)
江戸時代から明治の港北の地名と暮らし
講師:西川武臣(横浜開港資料館)

 港北区が成立したのは昭和14年(1939)のことでしたが、港北区は、昭和44年(1969)以降、分区を繰り返し、現在、かつての区域には港北区・都筑区・緑区・青葉区の4区があります。講座では、この4区を取り上げ、かつて港北区と呼ばれていた地域の地名の変遷と人びとの暮らしを紹介します。
 特に、近代化や都市化が進展する中で消えていった地名や村の暮らしを紹介し、現在では失われた港北区の原風景を偲んでみたいと思います。具体的には地域に残された地図や古文書を活用しながら、地名と暮らしについて考えます。また、地名だけでなく港北区の近代化や都市化に大きな影響を与えた道や鉄道などについても触れてみたいと思います。

平成17年10月15日(土) 
昭和前期・港北の土地模様−出版物が語る記憶−
講師:久野淳一(横浜市史資料室)

 菊名駅を出ると、斜め左前の理髪店の角に美しく彩色をした「牡丹園」の、案内の立札が立つてゐた。
 牡丹園は、この理髪店の横を入つて行くのだが、理髪店の裏はすぐ山であつて、道は狭い山路になつてゐる。辺りは住宅が多く、初めは山路らしく感じなかつたが、段々登つて行く程に、たんぽゝの咲く道や、雑草茂る道になり、山路らしくなつてきた。
 港北区が誕生した昭和14年(1939)、この年の7月に発行された東京横浜電鉄(現東急)の社内報『清和』の「随筆欄」に掲載の一節です。執筆者は濱中六華氏、「保線」とあります。「牡丹をたづねて」と題し、北寺尾の上遠牡丹園へ向かう途次の見聞をまとめたものです。
 『清和』が今日にまで伝わったことにより、濱中氏の記憶を私たちも共有することができます。今回は「都市化」と「工業化」をテーマに、こうした時代を語る出版物を読み解くことにより、みなさんと昭和前期の港北に思いを馳せてみたいと思います。

平成17年9月17日(土)  
地名の魅力と地名研究の大切さ
講師:金子欣三(日本地名研究所)

 伊勢原市三の宮に「伯母様」という面白い地名があります。これが実は「小狭間」という地形から発した自然地名であるらしい。このような地名の面白さから入って、地名の魅力を語りたい。さらにそこから進んで、地名というものが、その土地の原地形や歴史を物語る「文化財」であることを、多くの実例を挙げて強調したい。
 その文化財としての地名が、実は現在大きな危機に直面しています。私たちは歴史を語る古くからの地名を守り保存したいと願っています。そのためには、地名そのものをもっと研究しなければなりません。「地名研究」というものはそういう緊急性と重要性をもっているもので、単に地名の由来を調べて、それで了解・終了というものではない、ということに言及する予定です。
 身の廻りの小地名を大事にして行きたいし、その土地の古資料を解析し保存していくことが大事ですし、また土地の古老の話に耳を傾け採録しておくことが今大切なのです。


平成16年度

−港北の自然と文化−

 「わたしは無駄にこの世に生まれてきたのではない
  また人間として生まれてきたからには
  無駄にこの世を過ごしたくはない
  私がこの世に生まれてきたのは
  私でなければできない仕事が
  何か一つこの世にあるからなのだ」(『いちずに一本道にいちずに』)
 詩人相田みつをはこのように謳っています。同様のことを、研究所の創立者大倉邦彦は、80年前に「人は使命を持って生まれ、生かされている」と説いています。さらに大倉邦彦は、あらゆる生き物は形こそ違え、その本質は同一であり、人間も動植物もその枝葉の一部に過ぎないと説き、生物も無生物も万物は同質同根にしてその中には宇宙生命の流れがあると説きました。
 科学文明の発達する中で、今日、私たちは地球環境を考え、自然保護や自然との共生を模索していますが、そこには人としての使命感や、こうした広い視野に立つ謙虚さが必要でしょう。
 今回の講座では、事例として、かつては豊かだった横浜・港北の自然環境と、その中で生きてきた人々の生活や生き方を取り上げて、自然と人間との関係を考えていきたいと思います。

平成16年10月16日(土)
身近な自然〜里山と私たちの暮らし
講師:吉武美保子(よこはま里山研究所)

 朧月夜、夏は来ぬ、虫のこえ、紅葉、冬景色。ふと口ずさむ歌は、各々の懐かしい風景を心に蘇らせます。
 港北区も、かつてはこれらの歌詞のような景色が広がっていました。私たちの身近な自然環境である「里山」そのものだったのです。
 里山の環境は、農業と密接な関係にあります。横浜の開港にともない、養蚕が盛んとなり、市街地との距離も近いことから、すでに都市農業の片鱗が表れていました。戦後、市街化の波とエネルギー革命によって農地や山林は宅地へとかわり、現在の港北区の緑被率は約28%です。
 私たちが何気なく日々を暮らしていても、その時代に翻弄される「業」があり、環境があり、小さな生命があります。かろうじて残された里山のかけらを紹介しつつ、身近な自然とのかかわりについて考えます。

平成16年9月18日(土)  
社寺林保護のエコロジーと精神環境  
講師:川瀬博(神奈川大学)

 1960年代の高度成長期以降30年間に、横浜の緑地は急激に減少しました。そして、地域の緑のシンボルともいえる社林、寺林の広さも、開発により狭められてしまいました。
 社林について歴史的に見れば、1906年(明治39年)に政府より出された神社合祀令によって、多くの神林も失われいったといわれています。当時、和歌山の地にあって、民俗学者の南方熊楠は、神社合併反対意見書を出して、その政策を批判しました。この熊楠の見識は時代を超えて現代にも生かされなければならないものと考えます。
 一方、高度成長期において、植生学者の宮脇昭は、鎮守の森の植物社会学的な価値を高く評価し、神奈川県内の社寺林調査を実施するとともに、その保護策を提唱しました。ここ横浜の港北においてはどうだったのでしょうか。この講演では、社寺林の生態学的な価値にとどまることなく、精神環境としての価値についてもお話しします。

平成16年7月17日(土)  
鶴見川流域の自然と沿線住民の暮らし−鶴見川と生きる:防災から共生へ−  
講師:岸由二(慶應義塾大学)

 鶴見川は豪雨が来襲すれば氾濫を繰りかえす暴れ川でしたが、平時には豊かな自然を支えて人々に幸いをもたらす地域の川でもありました。しかし1960年代以降の高度成長を経て、流域の急激な都市化で自然のにぎわいは一気に後退し、洪水と汚染ばかりが話題となる典型的な都市河川となりました。
 1980年代に入って危機に歯止めがかかります。総合治水対策が進み、下水道整備で水質も改善されて魚たちのにぎわいも戻ってきました。防災一色の住民意識にゆとりも生まれ、治水と同時に自然回復や流域文化の育成を焦点とする新しい市民活動も始まりました。新世紀に入り、市民、企業、自治体連携による「鶴見川流域水マスタープラン」の試みも進んでいます。防災から共生へ。自然と共存する流域文化の創造をめざし、鶴見川への私たちのまなざしは、新しい転換の時代を迎えつつあります。

平成16年6月19日(土)  
温泉の自然と文化  
講師:大山正雄(昭和女子大学)

 統計によると、ここ20年来、日本人は1年間に1回以上温泉場に宿泊しています。世界中に、これほど温泉場を訪れる国民は他にありません。また、『日本書紀』にも見られるように、日本人の温泉好きは遠い昔からのものであって、本能的ともいえます。
 温泉には、火山に関係するもの(火山性温泉)と、火山に関係しない深層の熱水と、太古の海水に関係したものなどがありますし、火山性温泉にもさまざまな泉質があります。神奈川県は、県西に箱根火山、中央北部に丹沢山地、東に横浜・川崎などの沖積平野から成っていて、いずれの地域でも温泉開発が活発に行われ、さまざまな成因と泉質の温泉を湧出しています。神奈川県は温泉の豊かな地域です。
 会場の近くには綱島温泉もありますので、講演では、神奈川県の温泉を例にして、温泉とは何かということや温泉の違いをお話しします。そして、温泉と自然との関係、温泉の歴史や文化について考えてみたいと思います。

平成16年5月15日(土)  
武士団「綴(都筑)党」を追う−中世の多摩丘陵に生きた武士たち−  
講師:飯森富夫(報徳博物館)

 平安時代の末ごろから、武蔵国では中小規模の武士たちが同族同士でグループを組むようになります。同族の武士のグループを武士団といいますが、武蔵国の武士団はとくに「武蔵七党」と総称されます。
 その「武蔵七党」のひとつに綴(都筑)党があります。綴(都筑)党の実態は不明ですが、港北を含む旧都筑郡域を地盤とした武士団であったことは間違いありません。丘陵地帯に属する都筑郡には平安時代、朝廷に馬を献上する石川牧・立野牧がありましたが、この牧の存在が武士団発生の一因ともなりました。
 講演では、中世の多摩丘陵の一角に生きた武士たちの姿をおぼろげながらにも、捉えてみたいと思います。


平成15年度後期

−横浜の教育と文化−

 江戸時代末期の開港以来、欧米社会の文物が次々と流入してきたことで、横浜は我が国の近代文明の情報発信地となりました。また、商業や貿易の国際的な拠点となるとともに、文化交流の面でも重要な位置を占めるようになりました。
 昭和7年(1932)大倉精神文化研究所は設立されました。創設者大倉邦彦は、実業界でその名を馳せたばかりでなく、我が国の教育・文化事業に多大の関心を寄せ、東西文化の融合を理念に掲げて教育実践に尽力した人物です。
 講演会では、横浜や大倉山に関わりのある教育・文化事業の中で、江戸時代末期から昭和前期の特筆すべき人物や出来事を取り上げ、現代の教育や文化について考えてみます。

平成15年11月15日(土)   
岡倉天心と横浜   
講師:新井恵美子(ノンフィクション作家)

 文久2年(1862)岡倉天心は横浜の本町で生まれました。それは横浜港が世界に門戸を開いてわずか三年目のことでした。その頃、横浜では人力車夫でさえ英語を話したそうです。天心も外国の風を一身に受けて成長しました。一方で神奈川新町の長延寺で漢学を学んでいます。
 これが天心の教養となって彼の生涯の活躍を支えました。四冊の著作も全て英文で書かれ、「アジアは一つ」の名言も記されています。
 西欧に追い付け追い越せと躍起になっている明治政府にとって天心はわけの分からぬ人物でした。「アジアよ誇りを持て」と天心は叫び続けました。横浜が生んだ巨人、岡倉天心の魅力的な人生を知って頂けたらと思います。

平成15年12月20日(土)   
幻の旧姓神奈川高等学校   
講師:平井誠二(専任研究員)

 昭和6年(1931)、東京横浜電鉄が大倉山に梅林を開園しました。翌昭和7年に大倉精神文化研究所の本館(現横浜市大倉山記念館)が開館し、周囲に附属施設が次々に建設されていきました。
 研究所を創設した大倉邦彦は実業家でしたが、幼稚園の経営もしており、女子教育の私塾を作ったり、東洋大学の学長も務めるなど、教育活動に力を入れました。やがて、昭和18年(1943)大倉邦彦は、この大倉山記念館や梅林の土地を使って「神奈川高等学校」を作ろうとします。開校すれば文部省所管では33番目の旧制高等学校となるはずでした。しかし、その計画は実現しませんでした。大倉邦彦は、どのような学校を作ろうとしたのでしょうか。この計画はなぜ実現できなかったのでしょうか。大倉山の知られざる歴史を繙きます。

平成16年1月17日(土)   
報徳思想と社会教育   
講師:宇津木三郎(研究所員)

 昭和27年(1952)8月、大倉山文化科学研究所の本館(現大倉山記念館)で、第1回「村造り研修会」が開かれました。この研修会は、二宮尊徳研究の第一人者・佐々井信太郎を理事長とする一円融合会が、報徳の教えにより市町村の振興を推し進め、日本の戦後復興をはかる目的で開いたものです。全国から希望する市町村職員・教員・経済団体職員などを横浜に呼び、2週間にわたって市町村振興のための研修を実施しました。
 第5回研修会からは、北海道から毎回数十名規模の参加者があります。これは全体の8割以上をしめ、この状態が平成10年(1998)にこの研修会が終了するまで続きます。メンバーは北海道経済農業協同組合連合会をはじめとする経済団体や紡績・乳業関係会社の幹部などです。
 彼らは、何を目的にはるばるこの横浜までやってきたのでしょうか。また、ここで何を習得していったのでしょうか。報徳思想による社会教育の生きた実例を紹介します。

平成16年2月21日(土)   
大倉山の修養会−心を鍛える−   
講師:打越孝明(専任研究員)

 昭和7年(1932)4月に実業家の大倉邦彦が創立した大倉精神文化研究所は、翌昭和8年8月、実践活動の一つとして「大倉山中等学生修養会」を開催しました。
 この修養会は、智育偏重の学校教育の弊害を集団生活を営む中で克服し、全人格的な陶冶の達成を念願したものでした。日の出の遙拝、坐禅や作務(労働奉仕)、大倉邦彦の講話などは、参加者にとって貴重な体験となり、好評を博しました。その後、家庭の主婦、公務員、教員、会社員等を対象とした修養会も開かれるようになり、戦争中の昭和19年まで続きました。
 講演では、「こころ」の鍛錬を求めて大倉山の修養会に集った参加者の感想文も紹介しながら、教育という営みを見つめ直してみたいと思います。


平成15年度前期

−武道精神とスポーツ精神−

 日本古来の武道と外来のスポーツについて、さまざまな側面から取り上げ、東西両洋の精神文化について考えたいと思います。子どもから高齢者に至るまで、武道やスポーツの精神が現代の生活の中にどのように受け入れられているのでしょうか。そして、私たち日本人がそこから得ている美意識、修行観、教育観、身体観、技術観などにつて皆様と一緒に考えてまいります。

平成15年7月19日(土)   
日本のたまごころ−蹴鞠(けまり)から野球まで−   
講師:渡辺融(東京大学名誉教授)

 「えごころ」という言葉は「絵心が湧く」のように、絵を描こうとする意欲を指す場合もあり、また「絵心がある」のように、絵を描いたり、鑑賞したりする能力を指す場合もあります。今回の「たまごころ(球心)」はこれに類する用法で、「球戯を楽しむ気持」あるいは「球戯をプレーし、これを鑑賞する能力」という程の意味です。
 我々は明治の初年にベースボールを知り、以来約130年間これを楽しんで来ました。その間に「野球」という訳語を作り、また「一球入魂」などという球心をも育ててきました。つまり、野球には、単なるベースボールではなく近代日本が作った固有の文化という側面があります。先年、助っ人として来た大リーガーが「海の向こうにもう一つのベースボールがあった」と言ったのはこのあたりの事情を指すのでしょう。
 古来、日本の人々は豊かな球心を持っていました。千年来日本で愛好されて来た蹴鞠を含めて、人々が育てて来た「たまごころ」についてお話ししたいと思います。

平成15年6月21日(土)   
「かるた道」とは何か−競技かるたの魅力−   
講師:渡邊令恵(かるた永世クイーン)

 毎年お正月に、競技かるた女性日本一を決める「クイーン位決定戦」が滋賀県の近江神宮で開催されます。競技かるたは、音を感じて札を払う敏捷性と精神的なタフさが要求されるスポーツそのものです。
 私はクイーンを連続11回、通算で14回務めています。突然の母の死、悲しみを乗り越えタイトルを手にした去年のクイーン戦。そして、今年は膝の故障を押してクイーン戦に出場。全身全霊をかけ、戦いました。辞退せずに出場した理由とは…。練習できない苦悩とは…。
 連続ドラマ「かるたクイーン」の裏話なども交えながら、魅力の尽きない競技かるたの世界をご紹介させていただきたいと思います。

平成15年5月17日(土)   
私のスポーツ観−箱根駅伝を通して−   
講師:横溝三郎(パナソニックエンジェルス顧問)

 大正9年(1910)に第一回大会が開催された箱根駅伝は、本年1月で79回目を迎えました。昭和34年(1959)から昭和37年にかけての四年間、私は中央大学の六連覇に貢献することができました。この記録は今日でも破られていません。区間賞をとったり、区間新を記録した年もありましたが、全くのブレーキとなった年もありました。
 横浜育ちの私にとって、コースのほとんどが神奈川県内である箱根駅伝を走ることはとても光栄なことでした。しかし、個人種目と異なり、駅伝は一本のタスキをゴールまで運ばなくては記録に残らないという非情な面がありますから、一方では走ることは重圧でもありました。
 講演では、箱根駅伝での体験を踏まえつつ、スポーツに対する見方や走ることの意味についてお話ししたいと思います。

平成15年4月19日(土)   
日本における弓矢の文化について   
講師:入江康平(元筑波大学教授)

 最近、武道を愛好する人が増えていますが、なかでも弓道は性別を問わず若い人から年配の人まで愛好者が多く、静かなブームをよんでいます。
 弓矢の文化は人類の文化と同じ位の歴史を持っており、ほとんどの国や地域にみられる文化ですが、日本の弓矢は他にみられない独自性を形作りながら今日に至っております。
 講演では日本の弓矢文化の独自性とはどのようなものかについて、「武道の中の弓道の位置付け」「弓具の特性について」「技術の特性について」「弓道の理念について」といった観点から参加者の皆様と考えてみたいと思います。