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ブラジル音楽をキライな人はあまりいない。一口にブラジル音楽といってもその内実はさまざまだが、どんなジャンルのアーティストであれ、とりあえず名前をあげとけば「ああ、アレ、いいよね」と必ず誰かが返してくれるというものだ。
ジャズファンも、ワールドミュージックファンも、クラブミュージックファンも、ロックファンも、そしてクラシックファンでさえも、それぞれに「自分たちの」ブラジル音楽を持っているわけで、それを考えると、今、ブラジル音楽の「汎用性」に及ぶものはちょっと他には見当たらない感じだ。
こうした状況は、一時熱心なMPBフォロワーだった筆者としては嬉しいことではあるが、あまりにこう猫も杓子もブラジルみたいなことになってくると、つい「おっと」と足踏みしたくなる。ポルノグラフィティのおかげで「サウダージ」という言葉が小中学生の間で流通するような事態には、ブラジル音楽はもはや単に「女こども向け」の消費財でしかないのではないかという危惧さえある。ブラジルやってればOKっしょ、という免罪符。
そこでユリ・ケインである。ユリ・ケインはジャズピアニストのなかでもとりわけ先鋭的な御仁で、過去にマーラーやワーグナー、ガーシュインの音楽をジャズのフォーマットで換骨奪胎してみせる野心的な作品で知られている。その彼が今回「RIO」のタイトルのもとブラジル音楽に挑戦したというわけ。
買って聴いてみるまでは、実はふたつの可能性があると思っていた。ひとつはマーラーを手掛けた流儀でブラジル音楽を「脱構築」するようなちょっと小難しい音楽。もうひとつは、演奏家としての自分の技量をブラジル音楽にぶつけてみる、正統的なジャズピアニスト的アプローチ。どっちに転んでもそれなりに魅力的だろうと踏んで購入したのだが、結論から言うとどっちでもなかったのである。
バトゥカーダドラムで派手に幕を開けたと思いきや、フュージョン臭い水っぽいボサノヴァが続き、ジョルジュ・ベンばりのファンクチューンがあったかと思えば、正統的ジャズボッサがあったりと、かなりゆるく、雑多で、野心のカケラも感じられない「ダメな」内容なのだ。ユリ・ケイン、どうした?
野心のなさということでいうと、ユリ・ケイン以外のミュージシャンはリオで調達したと思われる無名(少なくとも筆者は知らない)の面々で、マーラーのアルバムでニューヨークの精鋭をこれでもかとつぎ込んでいたのとはえらい違い。
しかしよくよく考えてみると、ニューヨークの精鋭を使ってブラジル音楽をやることにどれだけ意味があるのか、という気もしてくる。それはもうアートリンゼイにまかせておけばいいし、ある意味そうした脱構築的手法でさえももはやクリシェになった感もある。
つまりこのアルバムをつらつら聴いていると、ブラジル音楽があまりに広範に消費されてしまって、もはやそこに新しい意味を付け加えることが難しい状況が浮き彫りになってくるのだ。消費されて消費されて消費され尽して、もはや摩滅寸前となったブラジル音楽を演奏する方法。それを多分ユリ・ケインは考えたのだろうと思う。
もはや「意味」を失いかけているものに、いまさら「意味」を与えようとする努力は不毛だし、とても「寒い」。彼がそう考えたとするなら、著名なミュージシャンを起用しなかった理由もよくわかる。そもそも「意味」のない音楽なんだから、ミュージシャンに「意味」があってはまったく意味がない。曲にしてもそうだ。あえてジョビンの名曲なんかは入れない。全部本人のオリジナル。だけど、どれもどこかで聴いたことがあるようなメロディなのだ。これをもってユリ・ケインの作曲家としての手腕を云々するのは間違いで、どれも「数分で作りました」みたいな曲だから、当然ここにもあんまり意味はないのだ。
そうやって考えてみるとユリ・ケインは非常に意地悪なアルバムをつくったことになる。世に流通しているブラジル音楽のイメージを丁寧になぞっただけのものだから非常に良くはできているものの、そこには何のスリルも発見もない。薄めに薄められたブラジル音楽のエッセンスのさらに上澄みをすくって、「はい、これがブラジルの味よ」としれっと出してしまう。まったく人が悪い。
しかし、世のブラジル音楽好きは決してこのアルバムを「まずい!」と吐き捨てることができないのだ。なぜならば、この「薄さ」こそが今我々が耳にしているブラジル音楽そのものなのだから(だからこそ万人がこのアルバムを楽しんで聴けるという逆説も成立する)。
さすがユリ・ケイン、確信犯なり。
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