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■2006年4月。以前からどうしても一度は行ってみたかった香川県琴平町のこんぴら歌舞伎に
行ってまいりました。 現在の私は田舎に住んでいるので、本当に道程が長くて大変だった。田舎 to 田舎。片道実に5時間 くらいをかけて金毘羅まで参ったのでございます。(しかし、往路で時間がかかったわりには、復路で実質時間が 短くてびっくり) 仕事もとても忙しい時期であったし、疲れもあったりして、往路飛行機の中では 「なんでこんなことしてるんだ、私…」 と、自分を呪うため息ばかりが出て仕様もない。忙しさのあまり本屋さんへも行かず、あらかじめガイドブックを買うこともできず。 空港の売店でかろうじて「たびまる」シリーズの四国編をゲット。 そんなぐだぐだ無気力旅行の一部始終を、 ここに記録しておこう。 |
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■1日目。 午後の仕事を何時間かお休みして、19時05分羽田発の飛行機にて一路四国へ。 通常であれば1時間程度のフライトが、機械の故障で1時間遅れ。なんと2時間も飛行機の中に 閉じ込められていた我々乗客である。 高松に着いてから夕食をいただこうと思っていたのに、時間が遅くなってしまって、それができなかった。 ホテルのフロントで「これから食事ができるところ」と言って教えてもらった「ライオン通り」(商店街の一角、 飲食店街である)は、けっこう大衆居酒屋さん的なお店が多く、とても女一人で入れそうなこじんまりとした 居酒屋さんもなく。すごすごホテルへ舞い戻り、空港で買っておいたお弁当を食べる。 地元の人にお話をしてもらいたかった…。 |
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■2日目。 高松から「ことでん」というローカル電車に乗って琴平を目指す。トコトコと進む電車で約1時間。 車窓を、田舎ののどかな春の風景が過ぎていく。外は曇っていて、あいにくの寒空。しかし幸い 雨は降っておらず、琴平へ着くと電車に乗っていた乗客はみな、一様に芝居小屋を目指して歩き始める。 あんなに意気消沈していた私も、お芝居ののぼりがはためく坂道を登ってゆくうちに少しずつ興奮が高まっていった。 こういう感覚が、楽しいのであった。 初めて目の当たりにした金丸座に、感動で心がうち震える。 「ここでお芝居を見られるのだ!」 という思い。この芝居小屋は、現存するもののなかでは日本で最も古いものである。 |
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■私の午前の席は「出孫席」といって、桟敷の前に設けられているもの。ひとつの「出孫席」に3人が座る。
もちろん椅子などはなく、座布団が3枚、それとなく敷かれているだけだ。
席へと案内してくださったお姉さんに「どこへ座れば?」と、支持を仰ぐ瞳を向けるも、 「どの座布団でもお好きなところへ」 と言われてしまう。 さては早い者勝ちで、この席は決まってしまうのだな、と判断。3つのうちの真ん中に私は陣取った。 のちに東京からいらっしゃったというお2人連れがこの枡の仲間となり、お二方が並んで座れるようお席(?)を譲って、私は舞台よりの座布団へ移動。 相席となったこの女性方と、第二部と一部との間におうどんを一緒にいただく。 そのころにはもう、雨がざあざあ降ってきていてとても寒い。温かいおうどんが冷えた身体に染み入るようである。 ■出孫席では、平場の客席より高い位置から舞台を臨める。 金丸座は舞台の高さと客席との高さとの差がほとんどないが、出孫席は座っている位置がそのまま、仮花道の高さであった。 午後の部の席は平場の升席。一つの枡内に5人が座る。 とにかく、狭い! ■あらためて会場の中を見渡してみても、金丸座は本当に小さな芝居小屋である。 江戸時代の人々がどれほど小さな体であったか、疑問に思うほど、小さい。 そうしてその芝居小屋の中にぎゅうぎうに押し込められて、客席と舞台のとっても近い場所で、人々は役者を眺めるのだ。 人々の人いきれがムッと熱いような、そんな密度の高い空間が現出する。 役者のせりふはものすごく生々しく聞こえるし、何より、役者の足くらい簡単につかめそうなほど、舞台は近い。 これってすごい空間だ、と思う。 たましいがわしづかみされてしまうくらいの、芝居との近さが、この芝居小屋にはあるのだ。 まだお芝居は始まっていないのに、私は早くも興奮が止まらない。 |
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■歌舞伎の内容については、観劇記で記そうと思うけれど、金丸座は本当に楽しかった。 苦しかった。(おしりが痛くて痛くて) そしてさむかった。(昔の建物なので障子の向こうは外。そしてその障子もかなり頻繁に開け閉めされるのである) ■ああ、昔の人は本当に寒い生活よなぁ、と、私は近代以前の人々の暮らしを思うにつけ、自分の貧弱さと忍耐力のない冷え性を反省するのだが、 「冬はつとめて」なんて、清少納言もよく言ったものだ。 私にとっては木炭が燃え尽きてぷすぷすしているのだって、暖かければノープロブレムですよ。 とにかく、江戸時代の人々の生活も、相変わらず寒かったであろう。 それを思えば、ほんの数百年で急激に人類は生きる力と耐える力を失っているよなぁ。 |
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■3日目。 宿は高松でとっていたので、またまたことでんに乗ってこんぴらさまへお参りに行く。 行かなければ。ここまできたら、神さまのところへ行かなければ。 そう思って。 ![]() こんぴら宮へは石段を600何十段と登らなければならない。 600段程度なら、そんなにつらくないはずだと、私は思っていたし、それは帰ってきた今でも変わらない思いなのだが、 やはり上っている最中は足が痛くなってしまうものだ。 しかもあいにくの雨模様である。 朝から私のやる気はそがれた。 それでもゆっくりと坂道を上ってゆく。この坂道を上る、という行為が「神さま」の近くへ行くためには、 とても大切な行為なんだと思う。
一歩ずつ上っていくのだ。しかも高いところへ。それだけでも非常に象徴的な行為である。「山登り」って、そういうことなんだな、と思う。 本宮へ到着しても雨はやまず、細い糸のような線を描いて、降り続く水滴。 日ごろの行いが悪いということか。仕方がない。 本当は奥社まで行こうと思っていたが、天候を理由にして私はその計画を中止した。 下山はあっという間だった。途中、書院造の建物で応挙の襖絵(あの有名な虎の絵など)を見られるところもあったのに、 私はなぜか 「ここには多分、また来ることになる」 という確信を抱いていて(根拠は何もない)、そのときにきっと襖絵を見よう、と思ったのだった。 ![]() |
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■高松空港へ行く途中で栗林公園を見学。 長く生きてきた命のすごみがある。圧倒される。 ちなみに赤壁の戦いにちなんで名づけられた「赤壁」もあって、面白かった。 藤の花盛り。 |
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■さぬきうどんのこと。 恒例の(?)タクシーの運転手さんのお話つきだ。 私はこの旅の間ずっと讃岐うどんを食べ続けていた。香川といえばうどん、という思い込みがあったのである。 この思い込みゆえにずうっとうどんを食べ続けた。いただいたおうどん全メニューは以下の通り。 2日目の昼はわかめ。2日目の夜はてんぷら。3日目の昼は生醤油。そして3日目のおやつに最後のおうどん。ぶっかけ。 うどんばかり食べていて良かったこともあるし、都合が悪かったこともある。 一つには、うどんの美味しいいただき方は、うどんそのものを楽しめる形態に限る、ということを発見したこと。 当たり前と言えば本当に当たり前のことなのだけれど、麺の美味しさがイコールうどんの美味しさなのだった。 生醤油でいただくとか、(私はできなかったけれど)生卵で、という方法もあるらしい。 シンプルな食し方だけれど、これが一番、おうどんの美味しさが味わえる食べ方だ。 実は私には、この地方で好まれて使われる「いりこだし」の風味が刺激的すぎたのだと思う。 「いりこだし」のおかげで、うどんのつゆはとても風味豊かで、深い味わいなのだけれど、私はそれを楽しむよりも前に、 だしの香りが立ちすぎている、と感じてしまう。嗜好の問題だろう。慣れとか。 そんなわけでやはり、私にはシンプルな食し方が安心なのである。 都合が悪かったのは、地元の他のお料理を何も食べなかったこと。それから栄養が偏ったこと。 おうどんだけではダメなのだな。 お蕎麦屋さんには玉子焼きとか、もつ煮とかいった、一品料理がけっこうあったりするのだが、おうどん屋さんには あまりそういうものはなく、私が訪れたおうどん屋さんでおかずらしきものをおいているところは1箇所だけだった。 ■今回の旅ではタクシーに1回だけ乗ったのだが、やはり現地の情報はタクシーの運転手さんに聞くに限る。 私はおうどんに関するとてもNICEでGOODな情報を、タクシーの運転手さんからいただいた。 けど、その日私はもう高松空港へと向かうだけの身となっていたので、残念ながら美味うどんを食することができなかった。 いつか、きっと…!という思いを抱いて帰郷。 屋島にも行けなかったし、応挙も見なかった。だから絶対にこの地へ再び、私はやってくることになるのだ。 そう思い続けることが、私とこの地を縁で結ぶはずである。 |
| 12月 |
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■2005年12月。1番ツアーの安い時期に、お仕事で沖縄へ行ってまいりました。
あらかじめ読んだ本は以下の通り。 ガイドブックは3冊読破。 一般書は『沖縄の言葉と文化』(外間守善/中公文庫) 『沖縄の神と食の文化』(赤嶺政信/青春出版社) 『沖縄文化論』(岡本太郎/中公文庫) 『ゴーマニズム宣言〜沖縄編』など。 柳田國男の「海上の道」は途中で力尽きた。時間切れ。てか、これは学生のときに読んでおくべき本だった。 ■読了本のタイトルからも推測されるように、私の今回の旅のテーマは「沖縄の文化」である。 旅の予習をしながら“行きたい”と強く思っていたところは「ウタキ」。でもやはりお仕事なので行けなかった。残念。 |
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運転手さんの話。 ■今回の旅の移動手段は、タクシーと観光バス。沖縄には那覇の国際通り近くにモノレールがあるだけなので、基本的に車での移動となる。 私が出会ったタクシーの運転手さんは、なんというか、サービス精神のある方ではあるのに、それが時々空振りするのであった。 「美味しいお店を教えてください」と言ったら「う〜ん…」という感じでファミレスを教えてくれたり。 「お酒の安くて美味しいお店はご存知ですか」と聞くと、やっぱり「う〜ん…」という感じで「お酒飲まないからなぁ〜…」なんて言ったりして。 ■けれど一生懸命話をしてくれる。沖縄には産業がないということ。沖縄で言う豪華な家というのは、木造家屋で瓦葺の屋根があるのだということ。 沖縄の言葉には「エオ」の音が基本的にないということ。 例えば「船・フネ」は→「フニ」となる。母音が「アイウエオ」ではなくて「アイウイウ」なんである。 私はこうした規則性については予習をしていたので、運転手さんが出してくれる例題にスラスラと答えられた。それですごいすごいと褒められる。 恥ずかしい。まるで小学校の優等生だと思った。本質が分かっていなくて、しかし規則性だけは知っているから、それをただあてはめただけの。運転手さんはただ素直に 「すごいすごい」と言ってくれたのだろうけれども。 ■さらに運転手さんの話は続く。 沖縄ではダメ息子のことを「あの子は足も自分で洗わない」というような表現をするらしい。土地の言葉ではもっと別の言葉を使うのだけれど、メモを取らなかった。 外で遊んでいた子どもが家へ帰ってきて、両親が子供かわいさのあまり、汚れた足も自分では洗わせず、すべて面倒を見てあげてしまう。そういうことの積み重ねがダメな子どもを作り、 そうしたダメ息子(娘も含むと思われる)のことをこう表現するのだと言う。 ■琉球の誇る歌人に「恩納ナベ」という女性がいる。18世紀ごろの女性である。本土の場合、和歌に代表されるように、歌のリズムは5・7・5・7・7と、5音と7音の音数の組み合わせ によって作られる。これが沖縄の歌の場合、8・8・8・6の8音と6音の組み合わせで歌が作られるらしい。ナベさんは国王が万座毛に御幸した際にこういう歌を詠んだという。 「波ぬ声ん止り/風ぬ声ん止り/首里天がなし/美御機拝がま」 波よ静まれ、風よ止れ、国王がやってくるから。というような意味らしい。文字にしてしまうと何の感動もなくなってしまうのだけれど、運転手さんが声に出して語ってくれるその音の響きは なんとも心地よくて、不思議な祈りのようである。 もう一つナベさんの歌。 「恩納岳あがた里が生まり島/森ん押しぬきて此方なさな」 私はこの歌をホテルに帰ってからメモしておいたのだが、「恩納岳」のところが「女山」になっていた…。 恩納岳の向こう側の恋しい男性を思って詠まれた歌なのだと言う。やはり音の響きが酔わせる。 沖縄の言葉の持つ響きは、まったくの外国語とは言えないと私は思う。中国の言葉も混じってはいるのだろうし、まったくの日本語でもあるまいが。 タクシーの運転手さんの繰り出す言葉は、とても耳に心地よくて、細かい言葉の意味は分からないし、聞き取りもできないのだけれど、 もっと聞きたいな、と思わせるものなのである。 ■私はやはりこの歌を聴きながら、「この歌が文字になっていれば、目でこの歌を読むことができるのだ」と思う。何か文献は残っていないのか、 あるとしたらそれを入手したい、と思う。そうしてやはり恥ずかしいことに、 「それは何かの本に載っていますか?『おもろそうし』とかに載っていますか?」 などと運転手さんに尋ねてしまった。運転手さんは 「さぁ…。その『おもろそうし』て言うのもよく知らないなぁ。そういうのは分からないなぁ。」 とおっしゃる。 音は音として味わうものだ。私は誤った。文字にこだわっても仕様のないことだ。文字とされれば、歌そのものは後世には残るだろうが、音が残らなければこういう類のものは何の意味もないのだろうに。 私は再び自分を恥じた。なんだか、切なかった。 私にはこの音を再生できる能力はない。多分、沖縄の若い人々もだんだんそのような能力は失くしていくのだろう。とするならば、こんなにすばらしい音を持っている歌も、いずれは何かの文献として、文字として、 残されるのみで、永遠にその音の持つ、不思議な祈りのような陶酔の響きを失ってしまうのだろう。切ない。 |
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万座毛で感じたこと。 万座毛を訪れた日は天気が悪く、ものすごい強風で、沖縄の人も「まるで台風みたいな風だ」と言っていた。 その暴風吹きすさぶ中で、南海のエメラルドグリーンも暗く翳りながら、激しく岸壁に波が打ちつけられている。 戦争中はここからたくさんの人が身を投げたと言う。こんなに激しい海を見ていると、そんな話もことさらに恐ろしく思われてゾッとするけれど、 普段はもっと違う景観なのだろう。有名な景勝地である。 けれど、波の激しく打ち付ける海のなんと美しいことか。穏やかな美しさもあるのだけろうけれど、私はこの激しさこそに惹かれるものを感じた。 崖から身を乗り出して波の打ちつける様子を眼下に眺めていると、あの美しい海に吸い込まれていきたいような欲求が湧き出てくるのを感じる。 ふと、飛び降りてみたくなる欲求に駆られてしまうのである。人は危険と言うかも知れないけれど、それが、根源的な(岡本太郎の好んだ言葉だな) 人間と自然との共感というか、交感のようなものなんじゃないだろうか。圧倒的な自然。自然の力に押し倒される感覚である。 |
戦争のこと。旅の間にはガマに入る機会もあったし、平和資料館にも行った。 資料を読み、展示を見て、戦没者に黙祷を捧げた。 思春期のころ受けたような衝撃は、もうない。昔抱いた思いをなぞるのみである。 それでけで、ただ疲れる。疲れる。 海だけが美しい。 |
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お土産。 国際通りはお土産屋さんの通りである。私が自分のために買ったお土産は @琉球ガラスの器3つセットで A『伝説と昔話』(沖縄トラベルサービス刊) B島とうがらしせんべい 家族や知人のために買ったお土産で面白そうだったもの&好評だったものは、 @ぴりんぱらん(なんじゃ、こりゃ?) Aマンタやうつぼのマグネット Bミンサー織り C大穴だった黒糖プレッツェル ■前者の@について。私はいつも旅先で、その土地の焼物を買おうと心に決めている。 なんと言っても形に残るし、焼物にはその土地土地で特徴があって、その土地の人々の人柄やら、 大切にしてきたものやらが、なんとなく現れているような気がするから。今回もいろいろと焼物を物色したのだけれど、 あんまり「これ!」というものが見つからなくて、琉球ガラスの器を購入した。これは、本当に美しい。 琉球ガラスというと赤い色が特徴的なのだけれど、このガラスの器は深い緑の地に深い青の色を重ねて作られている。 浅い器でお豆腐を乗せるくらいの大きさ。1枚あたりのお値段が2,500円程度だったか、しかし5枚のセットでは残念ながら買えなかった。 すでに2枚は売れてしまったとのこと。作家ものなので作られただけしかなく、取り寄せもできないとのこと。本当に残念だ。 3枚ください、と言うとお店の方は「全部で○○円くらいになってしまいますが、よろしいのですか?」と丁寧に確認してくださる。 親切だと思った。 ■Aについては、しらゆり会館で購入。かなりの年代物(?)で2001年に刊行なのに、もう日焼けしてしまっていて、けっこうボロボロだった。 「第2弾」というのと「第3弾」というのがあるので、とりあえず2冊レジへ持っていくと、レジの方が 「同じ本ですけど、よろしいのか?」 と確認してくださる。親切だと思った。 この本に上記の恩納ナベさんの歌のことも記述されていたので、私はここに正確な歌詞を書き記すことができたのだ。 ■後者の@については、大豆に黒糖だかきなこをまぶしたお菓子、という説明があった。名前が面白かったので購入してみたのだ。 お味は差し上げた方のみぞ知る。。。。 |
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まとめ。 ■今回の旅は思い出せば思い出すほど「もう一度行きたい」と思わせるものである。私は業務上、この旅の残務処理(報告書作成など)をしていたため、 いろいろな人からこの旅についての思い出を聞いた(というより書面で読んだ、の方が正確だ)。それでますます、自分の中で未消化だった思いやら、 自分一人では知り得なかったことやらが、大きくなってきて、「もっと知りたい!もっと聞きたい!もっと見たい!」と思うようになったのだった。 ボティーブローのように、沖縄のもたらした残滓が私の中で大きくなっていく。不思議な旅だったな、と思う。 ■一方で切ない部分もあるのだ。 玉泉洞というかなり大規模な鍾乳洞が、沖縄南部玉城村にある。鍾乳洞そのものの全長が1.6キロあるからだろうが、そこを出てから駐車場のある場所まで戻るのに、 これがまたものすごく長い道のりを歩くようになっている。ただ歩くのではない、何件ものお土産屋さんの中を通らねばならないような順路になっている。 お土産屋さんを通らないルートはないのである。そして必ずお店の人たちは、なにかしら我々観光客に声をかける。 タクシーの運転手さんがこんな話をしてくれた。 石切場から石を運ぶ仕事がある。一日2往復運べばもう、それだけで1日が暮れるだけの距離を移動しなければならない。 けれど人によっては2往復のところを3往復して、それだけ一生懸命稼ぐ人もいるのだそうだ。 ■沖縄の生活は何によって成り立っているか?少なくとも、東京などの都市部にあるような仕事はないだろう。 これだけ人間を圧倒する豊かな自然と、それとともに生きる豊かな精神文化を持っていながら、「日本」に組み込まれ、 「日本人」として生きることによって、沖縄はジリ貧のように、少しずつ失っていくものが多々あるのではないか。 私にはそんな気がする。 沖縄の人が沖縄の人らしく生きる道はないものか。 中央の権力に押しつぶされてきた歴史しか持たない県の出身者としては、沖縄の文化がとてもうらやましく、また現在の姿が切なく 映るのであった。 |