| §近藤勇:萩原代官屋敷道場を訪れる§ |
| 近藤勇が戸塚区平戸の萩原代官屋敷道場に安政5年に訪れていた。 近藤勇が萩原代官屋敷とその敷地にある直心影流達人萩原行篤の道場を安政5年(1858)8月に訪れた。徳川十三代将軍家定死亡で喪に服する通達により試合はせず剣客名に直筆で記帳のみ。 近藤勇は嘉永2年(1849)17才で天然理心流目録を授り、9年後の26才で第四代目を継いだ年号が1858年(安政5年)で萩原道場を訪れた年号と一致する。徳川十三代将軍家定死亡で喪に服する通達が出され他流試合ではなく天然理心流を継いだ挨拶に行ったのではないかと推測するが本人の性格上26才の天然理心流四代目として試合を目的としたかは諸説におまかせ。又はその5年後に志を持った同志と共に新撰組を立ち上げ京都に向けて旅立っているので同士集めに訪れたか?。いずれにしても記帳簿には本人の自筆があるのみで訪問の目的は不明。 ![]() 当家御主人のお話によると屋敷正門を潜り右側に道場、左隣りが母屋、その左に代官執務家屋とお裁き白州の場、母屋から庭を挟んで向かい側に牢屋があったとの事。現在は正門と母屋天井の梁について原型を残しているお話を頂いた。 [時代の背景] *安政5年(1858)の年は徳川十三代将軍家定死亡。日米,日蘭,日露,日英と修好通商条約が調印された年度で、翌年1859は安政の大獄があり大変な時代。 *文久2年(1862)江戸城坂下門外で大老掃部守井伊直弼が浪士に刺殺される。同年生麦事件発生。尊王攘夷風雲告げる。 *風雲急を告げる文久3年(1863)に近藤勇を含む浪士隊が京都に向けて江戸を旅立っているので萩原道場へは5年前に訪れていた事になる。 *文久3年(1863)に近藤勇を含む浪士隊が京都に向けて江戸を旅立った同年に二人の尊王攘夷論者が変死している。 ・横浜の豪商仲居屋重兵:井伊大老襲撃の嫌疑で幕使の探索がある情報で隠れ家に逃避中に ・幕末の剣客清河八郎:麻府一之橋付近(現・麻府十番商店街近く)で幕府の刺客佐々木只三郎など6名により暗殺される。 [交通]東戸塚駅バス停より境木中学校行きに乗り境木地蔵尊前下車。信号を渡って東戸塚行バス停背後にある坂を下り右折して竹林に沿って小道を抜けたところで左折。 [道場の地域環境]この境木地蔵尊前下車した場所は旧東海道日本橋〜保土ヶ谷宿を旅立って初めて出会う難所の権太坂、また戸塚宿からは品濃坂、焼餅坂を登ってきた旅人が茶屋、立場があり富士山が 眺望できる一時の休息場所。 |
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| 萩原代官屋敷道場 | 顕彰碑 |
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| 一門の墓 | 直心影流達人:萩原蓮之助太郎行篤・七十八才 |