人間魚雷回天に関してご紹介いたします

銘菓回天のしおりです現在の大津島の様子を写真を交えてご紹介いたします映画「出口のない海」の回天模型セットの展示をご紹介いたします回天記念館設立の功労者、故毛利勝郎氏のアルバムから回天の歴史をご紹介いたします寿美屋で40余年製造販売している回天をご紹介いたします
回天三号機

人間魚雷回天

写真下英文注釈
A kaiten.This is the Number Three model,never used in combat.Note the white paint on top,making it more easily visible for observers on “target ship”during practice.

(回天。戦闘では未使用の第三号機。演習時、目標艦監視員が視認し易いように上部が白くペイントされている。)

黒木大尉 仁科中尉

回天創案者 黒木大尉 仁科中尉

回天の創始者、発案者。黒木大尉は海軍機関学校出身。仁科中尉は海軍兵学校出身でした。
呉軍港に隣接する倉橋島の大浦崎にあった魚雷実験部隊にて邂逅。親交を深めました。
資料によれば両人ともに両親に厳しく躾られたことが伺えます。黒木大尉は母親に「百人の人にそしられても、一人の正しい人に褒められるように。百人の人に讃えられても、一人の正しい人に笑われないように」と説かれ、また仁科中尉は小中兵学校をほとんど主席で通した秀才でしたが、武道にも秀で、父親からの手紙に「生死超越の道は多方なるべきも、要は『敬神の念』を高め、信仰に生くることと存候」と諭されています。
人間魚雷という一見非人道的とも思える兵器の発案の裏側には彼らの真摯な憂国の思いがあったのでしょう。
黒木大尉は訓練中に殉職。仁科中尉は回天第一回出撃隊員として出撃、戦死しました。出撃時、仁科中尉の胸には黒木大尉の遺骨が抱かれていたといいます。

故 毛利勝郎氏

故・毛利勝郎氏

回天記念館設立の功労者
故 毛利勝郎氏

戦時中大津島回天基地に民間人として勤務され、戦後「回天」搭乗員の遺品、絶筆を収集、管理し、「回天記念館」の基礎を築かれた故・毛利勝郎氏。

氏と親交のあった当店店主は、「回天」ゆかりの方々の「回天を語り伝えたい」「回天の名前を残したい」との強い思いに共感し、昭和39年より銘菓「回天」の製造、販売をさせて頂くこととなりました。

映画「出口のない海」の監督、佐々部清氏のお話によると毛利勝郎氏を主人公とした映画制作の話があるとか…実現することを心より願っております。

毛利勝郎氏に関してはリンクページにて関連サイトをご紹介させて頂きました。

〈毛利勝郎氏略歴〉

広島県呉市出身。

呉海軍工廠の水雷部員を経て昭和12年、酸素魚雷の実験基地になると同時に大津島基地に唯一の民間人として着任。

終戦後、米兵が大津島基地へ上陸する前に部隊の金庫を開け「回天」の設計図をはじめ出撃隊員の写真、遺品などを持ち出し、米軍の追求を逃れるため滋賀の友人に預け山中に隠す。

隊員の遺品を御遺族に届けることを生涯の課題とされた。

昭和61年、御逝去。享年79歳。