逢魔が書評 〜書評の頁〜
逢魔が書評
Red-robin's book review
LAST UPDATE 2003.2.20

トップページ  書名索引  NEXT  PREV

1983年 梶原一騎

 くり返していうが、季実子は十五歳のときからオレがめんどうをみているんだ。季実子にとっては、オレは雲の上の怖い社長さん。その怖い社長さんが、ガキを相手に、
「季実子、パンツを脱ぎなさい」
 とは言わないんだ。

■■■梶原一騎「懺悔録」(幻冬舎アウトロー文庫

 聞くところによると『空手バカ一代』の作画が、つのだじろうから影丸譲也に替わったのは、つのだ氏が梶原一騎との付き合いを忌避したためらしい。その後、つのだ氏は『うしろの百太郎』や『恐怖新聞』でオカルト漫画家としての地位を不動のものにするが、当時極真会館の最高幹部として極真の猛者達を引き連れ、つのだ氏のもとを訪れる梶原一騎に対する恐怖が、のちのオカルト漫画の原点として生きているのかもしれない。夜な夜な窓ガラスを破壊して投函される恐怖新聞(やな新聞だね)。それを読むと百日寿命が縮まるという。つのだ氏も梶原一騎に会う度に、寿命が百日縮まる思いをしていたのではないだろうか。
 少年の頃、『巨人の星』や『あしたのジョー』は知っていても、梶原一騎の名は知らなかった。偉大なる漫画原作者の名を知ったのは、かの83年の梶原一騎にまつわるスキャンダルでである。「アントニオ猪木を監禁!」「某有名女優を逆さ吊り!」そんな東スポの一面のような凄すぎるキャプションが、まるで「アサ芸」に登場する暴力団組長のようなイカツイ梶原センセイのご尊顔の写真とともに紹介されると、妙なリアリズムを醸し出していた。このオッサンならやりかねないと。しかも、名前が凄い。梶原一騎。名は体を表すというが、これほどこの漢(オトコ)にピッタリとジャストフィットした名前はないと思う(ペンネームだけどね)。オザケンが“梶原一騎”であってはならないし、滝沢くんが“梶原一騎”であることは赦されない。このインパクトの強すぎる名前は、百姓一揆や一向一揆とともに、歴史上の事件としてワタシの脳内にインプットされたのだった。
 本書はそんな梶原スキャンダルから三年、晩年を迎えた著者が当時のマスコミの虚報を正すと同時に、大物プロモーターでもあった自身の華やかなりし芸能界での「暴れっぷり」を綴った、痛快なる自伝である。天下の美女達をお相手に、いまはなきホテル・ニュージャパンの“トライアングルゾーン”(5階のオフィス、1階のバー、3階のプライベートルーム)を舞台に繰り広げる「悪行」(笑)は圧巻だ。この手があったかあッッッ、と何の参考にもならぬと知りながら感心してしまった。実際、この悪行録はまさに得意満面の武勇伝といった書きっぷりで、終盤にさしかかるまで「梶原センセイ、ちっとも懺悔してませんやん!」(笑)とツッコミたくなってしまう。

 獄中の人ととなり、シャバへ復帰したとき、すべての連載は打ち切られ、ホサれていた。失意の彼を襲ったのは、仕事での酷使と遊び回った不摂生のツケともいうべき大病である。
 かつて、夜の帝王として天下の美女達と豪遊を重ねた病床の梶原を看取っていたのが、別れた妻だったというのは、なんという運命の皮肉だろうか。そして、なんという幸せな漢なのだろうか。
「パパ、不潔!」 そう言って家を飛び出した長女とも再会を果たす。

「パパの声、まるで別人みたいに迫力がなくなったのね」
 と、それだけ彼女はつぶやいた。
「家に帰っておいで、ママも妹も、弟たちもみんなお前の帰りをまっているよ」
 帰りのクルマに乗りぎわ、肩を貸す娘にいった。彼女は、かすかにうなづいた。


 銀座あたりで血を吐いてくたばるのが似合いの豪傑は、こうして平凡な“フツウの亭主”としての幸福を手に入れる。その回心がなければ、本書が書かれることもなかったであろう。
 出来過ぎたまるで一編の文学作品のような。劇作家の自伝であってみれば、実際そうなのかもしれぬ。それでもよい。オレはいま、モーレツに感動しているうううううぅぅぅぅぅ

1998/12/21

作至上主義を嗤え

「この売女め! こんなエッチな格好をして、いつも男を誘ってるんだろ! お前なんかアイドルでも何でもない! 純真なファンを悩ませやがって! よし、わかった。お前、お前を実験材料にしてやる! 待ってろよ!」

■■■竹内義和「パーフェクト・ブルー1998」(メタモル出版

 この小説を読もうと思ってる皆さん、それは是非、アニメ版を観る前にしていただきたい。でも、実際「PERFECT BLUE」を観てからこれを読んだひと、多いんだろうだなあ。竹内義和の作風を知らず、アニメ「PERFECT BLUE」の高度に洗練されたサイコサスペンスのムードをこの小説に求めたとすれば、卒倒するというより、心臓に悪いであろう。アニメが話題となって、原作にもスポットが当たったはいいが、読んでクラクラッとした読者、多いんじゃないだろうか。
 そもそも、「パーフェクト・ブルー」は知る人ぞ知る小説であった。竹内義和ファンのワタシが、八方手を尽くして遂に手に入らなかった幻の書物なのである。「パーフェクト・ブルー1998」はアニメ「PERFECT BLUE」の公開に合わせて出版された、改装版である。だから、1998と銘打ってはいても、インターネットも登場しない。なにしろ、最初に出たのは91年なのだ。
 小説家・竹内義和のデビュー作と言ってもいい(正確には、それ以前に短編を書いているのだが)。そのせいか、正直下手だなと思える部分はある。若い娘が「ホホホ……」と笑ったり、絶対にギャフンと言わせてやるわよ、なんて思ったりするのは、ちょっと苦笑いものではある。最新作「シンプル・レッド」に比べると、やや洗練さに欠けるのは、ひと昔前に書かれた作品であることを差し引いて考えなければなるまい。
 そんなことよりも、本作の真骨頂はその「気持ち悪さ」にある(笑)。ストーカーという言葉すら存在しなかった当時、アイドルへの偏執的執着をここまで描いたタケウチの先見性は驚嘆に値する。この物語に登場する男――この“男”には名前すら与えられていない。終始“男”と呼ばれ、そのことがホラーの怪人としてのテイストを一層際立たせている――こいつのやることというか、考えることが凄まじい。
 よくあるアイドルの「転身」に、それを快く思わない熱狂的ファンが、強迫状を送ったり、犯罪まがいの行為に走ったりすることはままある。だが、この“男”はケタが違う。こいつは好きなアイドルの皮を剥ぎ、それをすっぽり被って、自分がそのアイドルになってしまおうという、「お前は『幻魔大戦』のザンビか!」と言いたくなるような、実に途方もなくトンデモないことを実行に移すのである。あわれ霧越未麻の運命は!?

 この原作から、あのアニメが生まれたのは、今敏監督ほかアニメ制作者の大胆な練り直しの成果以外の何物でもない。アイドル霧越未麻と彼女をつけ狙う男という構図以外、ストーリーを初め、なにからなにまで全てが違う。ある意味、原作無視も甚だしいと言える。普通、こうしたアレンジや、それによって映像化作品が評価されることは、原作者からすれば面白くあるまい。竹内氏が「PERFECT BLUE」のクオリティと、その成功を素直に喜んでいるのは、自ら映像化の企画を立ち上げ、原作云々よりも、映画そのものの成功を願っていたが故のレアケースではあろう。
 しかし、「原作に忠実であるべし」と思っている方は、是非この小説とアニメの両者を見比べてみてほしい。自分の信念がグラつくことになるのではないか。「原作に忠実でない」「原作の持ち味を生かしていない」そうした批判はありがちだが、それはそのこと自体が問題なのではなく、それによって、つまらなくなってしまったことこそが問題なのではないだろうか。原作者が自分の作品に忠実であってほしい、作品に愛をもって作ってほしいと願うのは当然だ。しかし、我々は作者ではない。極論すれば、原作の破壊によって優れた作品になるなら、そうすべきなのだ。受け手はそれを歓迎する。自分の好きな作品だって例外ではない、と言い切るワタシは、心の冷たい人間だろうか?
 もっとも、「パーフェクト・ブルー」に限って言えば、こんなもんこのまま映像化できるかッ! ということになるとは思うのだが(笑)。

1998/11/22

田町よ、こっちの総裁を無視するなかれ

やり続けるからえらいとは思うんだけれど、決して絹が流行ったわけでもないし、「半そで背広」も流行っていないし、木のアタッシュケースも流行ったわけではない。そこがいい。もし羽田がルーズソックスを流行らせたら羽田でなくなる気がするだろ。
 なんでこんなに身につけたがるのか。実はあることに気がついた。
 本当だったら女によるプロファイリングにところに入れようと思ったんだが、なんと羽田孜の奥さんは実はあの岡本理研、現在のオカモト、コンドームの会社の娘さんなんだ。
 コンドームも身につけなければ役に立たない。

■■■大川 豊「誰が新井将敬を殺したか」(太田出版

 新井将敬って、消されたんじゃないかなー、って内心そう思っている。伊丹十三やダイアナ妃にしてもそうだ。殺しておいてそう見せかけることも可能だが、当人の生活や性格を知りつくしていれば、自殺や事故に追い込むことだってできるだろう。未必の故意、である。ヒットの確率は少ないが、それを繰り返していけば、いつかはブチ当たることになる。
 てなことを言っておいてなんだが、本書は別に「新井将敬他殺説」を訴える本ではない。むしろ、ワタシはこの本を読んで、やっぱり純粋な自殺だったのかなー、と考え直してしまった。本書によれば、新井将敬の著作『エロチックな政治』(なんじゃそら)には、「死」という文字が211箇所に渡って登場するという。欄外の注釈には、その具体的箇所が全て列記されている。
 政治家を志す人間なんてのは、やっぱりどこか常人とは異なる生き物なのだろうか。結婚前の妻に血判のラブレターをしたためた新井将敬しかり、現夫人の寿子さんとお近づきになるなり家まで上がり込み、その日のうちにプロポーズした三塚博しかり、電話で「お見合いしたいのですが出てきませんか」と自分で見合いをセッティッングしちゃった渡部恒三しかり、尋常でないヤツラのオンパレードである。恋愛・結婚ひとつとっても、ここまでやるヤツでないと政治家が務まらないのだとしたら、やっぱりワタシにはとうてい政治家は務まりそうにない(笑)。
 本書は、そうした彼らの尋常でない言行をもとに、「女」「暴言」「金」といった様々な切り口から、まるでFBIの捜査官のごとく政治家達をプロファイルしていく。著者は最もコストパフォーマンスの低い芸人として名高い、大川興業総裁・大川豊。
 一億総白痴と呼ばれる現代日本にあって、政治ネタの笑いは一番しんどいジャンルだろう。しかも、大川のそれは、かつてのコロンビア・トップのような、いわゆる庶民感情に根ざしたものではない。それはもっとマニアックで、かつデンジャラスなものだ。赤尾敏が街頭演説をする、その傍らで「赤尾敏を称える歌」を熱唱。赤尾の手下から、こめかみに拳銃を突きつけられた逸話は有名だ。
 その過激さ故にテレビからもお呼びがかからず、大衆に背を向けた一部マニアへのピンポイント爆撃のような笑いを追求する、病的なまでのひたむきさがどこから来るのかは知らない。ただ、これだけは言える。大川はマジだと。それはワタシのようなマニアックな人間が、泡沫候補と呼ばれる珍妙な人物の政見放送を観ておもしろがるのとは訳が違う。
 彼のライフワークとも言うべき政界ウォッチングにかける情熱は、ルポライターや市民運動家に匹敵する。だって、フツウそこまでしないというか、行かないでしょ。自治省の政治資金収支公開室なんて。本書で克明に記載されているけど、これが結構ウサン臭い支出があったりするのだ。差し入れ、ドミノ・ピザ赤坂店、95,660円(橋本龍太郎・新政治問題研究会)とか、親睦会、ピンクエレファント、114,000円(佐田弦一郎自民党副幹事長)とか。これ表に出ている会計なんですけどね。
 ところが、その成果を告発ではなく、笑いに持って行ってるのは、ルポライターや市民運動家の原動力が権力者への憎悪であるのに対し、大川総裁のそれが愛だからではないか。彼の的確であるが故に辛辣な政治家プロファイルには、しかし愛情を感じる。怪物的政治家にも、小物の政治家にも。
 政治的理念とは無関係に、政治家という人間(あるいは政治家になろうとする人間)に愛情を注ぐ人間は稀だろう。その意味で、本書ほどニュートラルな政治本はあるまい。楽しみながら、政治(家)がわかる。そして、その中身は、どんな報道よりも深く、濃く、ショッキングだ。もっとセンセーションを巻き起こしていいはずの書である。

1998/11/06

ールドタイプの熱きこだわりに脱帽

「シロウ・アマダが隊長に就任するために地球へ降下するシャトルの中で、ギレン・ザビの演説を聞くわけだろう。あの演説は、ホワイトペースがジャブローに着く前だ。まだ、ジムがようやく量産しはじめた頃だ。ジャブローで量産されているジムを見て、シャアが『連邦もここまで来たか』と言う。なのにゼロハチではあんなにガンダムが量産されている。そんなはずないだろう。それに、あのサンダース軍曹の一言だ。『ジムとは大違いだ』――これ、変だよ。歴史的に……。まだ、ジムの量産体制が整う前のはずだ」
 慎治には何のことかわからなかった。まだ『08小隊』は見ていない。
 古池は自信を持ってこたえた。
「あのギレン・ザビの演説は、録画だったんだよ」

■■■今野 敏「慎治」(双葉社

 オタクの何たるかを明確に定義するのは難しい。そもそもが、漠然としたニュアンスで使われてきた言葉に過ぎないからだ。オタクは別段特異な人種ではない。言ってしまえば、無趣味な人間を除く誰もが、グルメオタクであったり、ファッションオタクであったり、アウトドアオタクであったり、マリンスポーツ・ウインタースポーツオタクであったり、ギャンブルオタク、風俗オタクであったりするのだ。ただ、それが世間的に認知されていたり、オシャレであったりすると「オタク」とは呼ばれずに済む。それだけの話だと思っている。
 ワタシが本書に注目したのには、少々お恥ずかしい経緯がある。実はワタクシ、今野敏と映画「PERFECT BLUE」の監督、今敏を混同していたからなのだ。そういえば子供時分、石森章太郎と勘違いして、安岡章太郎の小説を「ぜんぜんSFっぽくない」と思いながら読んだことがある(笑)。北村薫と高村薫、谷恒生と谷甲州のような犯しやすい誤りではあるが、作家ご本人には失礼極まりない話である。
 期待して読んだ本ではない。「究極のオタク覚醒小説」。折しも、社会的エヴァ現象の最盛期、いかにもありがちな「企画」ではないか。しかも、タイトルが「慎治」ときた。この名が「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公、碇シンジがモチーフになっていることは、誰しも連想するところだろう。だが、ワタシの先入観に相違して、一気に引き込まれてしまった。
 特に“オールドタイプ”と呼ばれる、少年期に初代ガンダムにハマり、卒業できぬままガンダムにこだわり続けるただいま三十代(←決めつけてます)の“熱い”ウンチク(笑)に、オタクのハシクレとして、共感と称賛を捧げずにはいられない。本書のカバーには、今野氏自らがフルスクラッチしたガンダムのジオラマが飾られている。作者自身がディープなガンダムファンにしてモデラーだからこそ、書き得た小説である。外野からのルポタージュでは絶対にこうはいかない。結局、よくわからない人種、として外側からなぞるだけに終わってしまうからだ。そうした外野の言葉ほど、的外れで不愉快なものはない。てめえなんぞにエヴァ語ってほしくないんだよお>鳥越俊太郎(笑)、みたいな。
 時事風俗を具体的に描写した物語は、フィクションとしては不利だ。どうしても、時間の経過とともに陳腐化してしまう。たとえば、『ガラスの仮面』で北島マヤが「田原俊彦」の名前を口にするとき、違和感ありまくりなように。このケースなら、架空のスターの名前にすればよかろう。しかし、本書の場合、もしガンダムではなく架空のアニメを物語のアイテムとしていたならば、これほど濃密なディティール感を醸し出させたかどうか。敢えて事実に基づいて描かなければならない物語は存在する。西村京太郎のミステリが、架空の時刻表(笑)で成立し得ないようにだ。
 本書に記されたウンチクが本当に正確なのかどうか、ワタシは知らない。ガンダム世界のオフィシャル年表が存在することも、「一年戦争もの」「グリプス戦」「アクシズ戦」といった分類も初耳であった。ワタシは無知なオタクのパンパ者である。「G20」でも読んでベンキョーするか(笑)。だが、事実かどうかはさしたる問題ではない。事実を基に描かれた故のリアリズムこそ重要なのだ。文学史に残るばかりが名作じゃない。時代とともに在る、そんな小説もあっていいじゃないかと「慎治」を読んでそう思った。
 ストーリー的な不満は残る。オタクな落ちこぼれ教師、古池との交流から、主人公・慎治がいじめを克復するくだりは、少々ご都合主義的に感じられないでもない。サバイバルゲームの特訓に音を上げずついていく慎治は芯の強い男の子であって、まずイジメに遭うタイプとは思えない。もっとも、そんなことは些事でしかなかろう。オタク的ホビーを通じて、いじめを克復するモデルケースを示すことが、本書の趣旨ではないからだ。それでも、教育の改革だの、地域社会の見直しだの、できもしないゴタクを並べるイジメ対策よりは、よほどいじめの被害の当事者には、役に立つかもしれない。好きな何かを通じて、自分の世界を築けたなら、少なくとも真っ暗闇な人生ではなくなるだろう。古池のような趣味の先達が、クラスの担任であるという僥倖が現実的でないというだけだ。自分で気付けばいいのだ。勉強やスポーツが全てではないという真実に。
 それよりも、意外と物語の題材にはなりにくいであろう「オタク」というテーマを、見事に一編の小説にしたことに驚嘆せずにはいられない。繰り返すが、プロの作家で、本物のオタクでもある今野氏だからこそ、この小説は書けた。いささか時事的鮮度は落ちるが、サブカルチャー的濃さと、物語が融合した希有の書として、ここに留めておきたい。

1998/11/05

安の世も不倫は文化!?
genji.jpg

■■■「週刊光源氏総集編」(なあぷる

 なにも言うまい(笑)。このカバーの前に、いかなる言葉も色褪せよう。
 通常、このページでは表紙画は掲載しない。重くなるから。そのかわり、印象的なサワリをご紹介することにしている。それが本の魅力を正確かつ効率的に伝える一番のやり方だから。ワタシの文章などつけたりに過ぎない。
 本書の場合、このカバーにとどめを刺す。本書のコンセプト、茶目っ気、すべてがこのカバーに集約されていると言ってもいい。裏表紙には「紫の式部ちゃん」という徹底ぶり。同様のムックには、エヴァンゲリオンを新聞記事仕立てで報じた「エヴァニュース」等があるが、女性週刊誌風に仕上げた点が斬新だ。しかも、取り上げているのは古典である。
 正直なところ、本書が本当に原典に忠実なのかどうか、ワタシには判らない。こんなとき、教養って必要よねえ、とつくづく思う。だが、本書がなければ、ワタシは一生を「源氏物語」とは無縁に送ったであろうこともまた間違いない。その意味で、原典に挑む根性のない者にとっては、絶好の入門書とも言える。メインカルチャーなしには存在し得ないのがサブカルチャーだが、メインカルチャーを知る者にしか通じないと考えるのは甘えだ。それ自体の面白さで受け手を捕らえ、メインカルチャーにさえも眼を向けさせるのが、サブカルの使命とは言えまいか。
 生真面目な「源氏物語」の愛読者からすれば、不謹慎、冒涜、といった非難もありえよう。だが、平安貴族のあまりにも現代的な愛と性のありようから言えば、もし現代に光源氏がいようものなら、彼の周囲には常にワイドショーのレポーターが群がっていることだろう。光源氏のその奔放な行状は、まさに女性誌向きである。
 早すぎたトレンディードラマ(笑)、と言えるかもしれない。小説という形態自体確立されていなかった平安中期にあって、かくも生々しい男女の愛を描いた紫式部、おそるべし。

1998/10/31

ツモトヒトシは脳内ドラッグストアです

そんなん言ってるうちは、男女平等なんて絶対ありえん話で。ファーストレディとかね。そんなもん、大統領の嫁なだけで、なにおまえもちょっと国動かせてるみたいな気になっとんねん、みたいなのありますよね。

■■■松本人志「松本人志 愛」(朝日新聞社

 シビレる言葉に出会った時、自分の信条さえ変えてもいいと思える瞬間がある。論旨の正当性など、さしたる問題ではない。シビレるか、シビレないか。そいつが肝心なのだ。
 そんなワタシの愛読書に、いわゆる知識人の手によるものはない。当たり前だ。いわゆる知識人のセンセイ方も、ワタシのような下賤な読者は相手にしていないだろうし、ちょうどよい。だが、下賤なる読み物の人気に少しでも嫉妬を感じているならば、心しておいたほうがいい。言の葉で読む者の脳にドーパミンを産生させる才能について。
 松ちゃんの言葉はシビレる。それは松本人志の卓越したセンスというか、発想力の賜だろう。怪獣がなんでウルトラマンと同じサイズやねん、というのは突飛だけれども、確かにその通りなのである。無論、昆虫サイズや惑星サイズの怪獣がTV番組として成立するかは別問題として、それを自覚するとしないとでは雲泥の差があろう。
 そうした常識を超越した視点から、「社長の嫁もヒラ社員の嫁も、嫁は嫁」や「『髪の長いヤツ』と言うように『障害持ってるヤツ』と言えるのが本当の平等」という、常識に異を唱える至極まっとうな主張は生まれる。それは著者が本書のなかで繰り返し述べているように、ひとと同じでいることをよしとしない、幼少からの姿勢に培われたものだろう。ひとと違う生き方、ひとと違う考え方にひとは憧れるが、実際にそれをやるのは難しい。周りと違う自分に、自分はおかしいのではないかと不安がり、自分と同じ他人がいることでホッと胸を撫で下ろすのだ。
 本書は「遺書」「松本」に続く三作目にあたる。自ら書き上げたのではなく、談話をまとめたものであり、語り口こそ変わっているが、その切れ味は相変わらず冴えわたっている。もう、松ちゃんなしでは生きていけない。そんなにいいのかあ。

1998/10/28

から君を死体に変える

「ただ、あの作品で僕がいいたかったのは、永遠に変わらない人間関係。ゆるがない友情。それも表面的なお涙頂戴ではなく、深く深く人の心の深淵に働き掛けるもの。それを伝えたかった。もちろん、そのメッセージは、もえみさん、君には届いたはずだ」
「それは届いてます。と同時に、あの画面のクオリティも、私には、その思い以上に心を打ちました」
「ク、クオリティ!?」

■■■竹内義和「シンプル・レッド」(ぷんか社

「幻想の依り代」とワタシは呼んでいる。そうなってしまったヒトやモノは不幸だ。自分の意志とは無関係に、「あなたはこうあるのが正しい」「こうあらねばならない」という理想を他者から押しつけられる。それに反したことをしようもんなら、恐ろしい報復が待っている。「裏切り者」と誹られるのは、まだいいほうで、ヒドいときには危害を加えられる。逆恨みもいいとこなのだが。
「新世紀エヴァンゲリオン」が不作続きのアニメ界で爆発的な人気を呼び、それ故に、監督・庵野秀明の作家性の発露が大ブーインク゜を巻き起こしたのは、その顕著なケースだろう。極度の思い入れは、その対象が変化することを赦さない。
 だが、生きものは自ずと変化する(進行形の物語もまた生きものである)。だからこそ、何ものかを愛する者には、その対象を理解し、自ら譲歩もする優しさ、寛容が必要とされる。ところが、それができない人間が、ある程度のパーセンテージで存在する。そういう人間は、愛するものを殺そうとする。なぜなら、死んでしまったものは、決して裏切らないから。死体――それは、もっともふさわしい「幻想の依り代」である。

「シンプル・レッド」は、そんな超エゴイストな変態男にしてアニメ監督・氏家要(余談だが、フィクションで“カナメ”と名のつくヤツでロクな野郎にお目にかかったためしがない(笑))と、彼の「幻想の依り代」とされた声優・綾瀬もえみとの、おぞましくも壮絶な闘いの物語である。「パーフェクト・ブルー」に代表される“アイドル・ストーカー小説”の第一人者(というか、小説家としての竹内は、それしか書かないのである(笑))である竹内義和の最新作だが、アニメ監督と声優、という設定がいかにも今風である。
 あの監督(笑)を彷彿とさせる監督と、あの声優を彷彿とさせる声優が、脱出不能の孤島の洋館で、ふたりっきりのアフレコに臨む。このシチュエーションが素敵だ。変態男から一日も早く逃れたいという女としてのナチュラルな思いと、それでもなお、自分がアニメ界に入るきっかけとなった、天才・氏家の仕事をやり遂げたいというプロの声優としての意識が錯綜し、もえみは惑う。
 タイトルロールである『シンプル・レッド』が、アフレコの最終ステージを迎えたとき、ふたりの緊張はピークに達する。そのとき、なにが起こるか。ストーカー男も怖いが、腹を括った女だって、かよわいだけの存在じゃない。竹内義和の小説が、ホラーの体裁をとりながらも、どこか健康的なのは、身勝手な好意を寄せる「歩く災厄」に、敢然と立ち向かうところだろう。
 生きてるオンナはコアイのである。特に「清純無垢」などという幻想を押しつける男に対しては、ひときわ冷酷になれる生きものなのだ(笑)。

1998/10/21

トップページ  書名索引  NEXT  PREV


レッドロビンのポスト  ゲストブック(ご意見ご感想はこちらに)
Copyright (C) カナメ