逢魔が書評 〜書評の頁〜
逢魔が書評
Red-robin's book review
LAST UPDATE 2003.2.20

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井和正がお嫌いな貴兄に

「自分でもわからなかった。空気が吸えないんだ。いくら深呼吸しても空気が入らない」
「なっちゃんがそれを知ったら、救いになるかもしれないね。そこまで自分を真剣に愛してくれているひとがいるとわかったら」
 律子は顔を背けていった。窓の外に視線を投げている顔は、何かを一心に凝視しているようだった。

■■■平井和正「ストレンジ・ランデヴー」(集英社文庫

 幼なじみとの恋。そんなシチュエーションが、現実にどの程度存在するものか、ワタシは知らない。ワタシにはそうした経験はなく、また該当する知り合いもいない。それはたぶん、夫となるはずの新郎を振り切って、本当に好きな男のもとへ街中を駆けてゆく、ウェディングドレス姿の花嫁のごとく珍しいことなのではないかと思う。
 だが、物語世界では定番中の定番だ。律子が浩志に気易い昔なじみから、いつしか一人の男として意識していることは一目瞭然である。だが、浩志が好きなのは、なっちゃんこと菜摘子である。浩志はなっちゃんがレイプされたというショッキングな報せを受け、姿を消した彼女への想いに気付く。
 だから律子は自分の気持ちを告げられない。それ以前に、親友のなっちゃんが浩志を好いていると知っていればなおさらである。律子は健気にも、自分の想いを胸に秘め、浩志となっちゃんとの恋のキューピット役を務めようとする。エゴイスティックに関わり合う者を傷つけまくり、それでもエンヤの曲さえ流していれば何となく美しくなってしまう恋愛映画がもてはやされるなか、こうした爽やかさは一服の清涼剤である。

 奇妙な緊張感を孕みながら、物語は進んでゆく。一家ぐるみ行方知れずのなっちゃんは一向に登場せず、一方、不良仲間から菜摘子強姦犯の目星がついたことを聞いた浩志は――

「うちに先祖から伝わっているコヅカがある。包丁ぐらいある短刀だ」
「本気で殺す気か?」
「最初からそう言ってるだろ」

 だが、本当に気懸かりなのは、ヒロイン律子の恋の行方である。言うまでもなく、物語のヒロインは、なっちゃんではなく律子である。なっちゃんがなかなか登場しないからではない。少年を軸に、彼に(ひそかに)想いを寄せる幼なじみの女の子と、彼の好きな美少女という構図においては、真のヒロインは前者と相場は決まっている。
 タレントに置き換えれば、前者・律子役には前田愛的女優が、後者・菜摘子役には前田亜希的女優がキャスティングされることになろう。個人的には、Folder5のAKINAとHIKARIにそれぞれ当てはめたいところだが、ここではより一般向けに前田姉妹で説明してみた。
 律子の想いを置き去りに、浩志となっちゃんが結ばれても、後味は悪い。といって、律子が自分の恋に忠実に振る舞い、親友から浩志を奪うのは、ありがちな九時台十時台の痴情のもつれドラマでしかない。無論、物語の魔術師・平井和正が、そんな凡庸な小説を書くはずがないのである。
 ラストに位置する短編ゆえに、残り少ない頁数で、どう収まりが着くのか、ハラハラさせること請け合いである。クライマックスの思いがけない展開は、作者のストーリーテリングの妙に舌を巻いた。
 このレビューは(というより、当コンテンツの主旨でもあるのだが)、未読の方にその魅力を伝え、できることなら読みたいと思わせることを目的にしている。従って、話の筋に触れることは避けたい。ネタバレ批評は、またの機会に譲ることにする。

 平井和正を少しでも知る者が聞けば、彼が短編を書いたことに驚かれるかもしれない。言霊使いを名乗り、ストーリーのディティールを予め決めることなく、裡から湧きあがる衝動の命じるままに(彼はそれを“言霊”と呼んでいる)物語を紡ぐ。いきおい、彼の書く作品は何十巻にも及ぶ大長編になるのだが、その平井和正が少年時代の習作のリメイクとは言え、新作の短編を書いたのである。もちろん、未完なんてことはないし、おまけに完全な非SFである。
 本書『ストレンジ・ランデヴー』では、ご紹介した「待っている」の他に、表題作「ストレンジ・ランデヴー」と「鏡の中の少女」の三編が収録されている。いずれも、不良少年・少女にまつわる、ちょっぴり物騒で、清涼感あふれるラヴ・ストーリーである。平井和正という作家、とことん男女の痴情のもつれとやらには興味がおありにならないらしい。歳は取っても、こころは少年のままである。「大人のロマンス」だけは、このさき死んでも書けないだろう。
 やたらと長いから。話の収拾がつかないから。非現実的だから。そうした理由から、平井和正を敬遠する向きにこそ、この一冊をお薦めしたい。

2002/01/03

〜暗黒書評番外編 暗黒映画評〜
本では創れない帝國海軍礼賛映画にラリホー!

「もし和平の道が開け、それ故帰れと命ぜられてなお、帰れぬと考える指揮官があるならば、ただいま直ちに任を解く! 即刻辞表を出せ!
……なお、もう一言、付け加えておく。多くの日本人は、アメリカ人の民主的政治を統一を欠く政治、明朗に生活を楽しむ態度を贅沢、自由な精神を道徳の頽廃とこじつけ、国力は見掛け倒しだと教え込まれているが、とんでもない誤りである。もし戦わば、アメリカは日本がこれまで戦った最強の敵となることを、肝に銘ぜよ」

■■■リチャード・フライシャー監督「トラ・トラ・トラ・」(70年米)

 映画「パール・ハーバー」が物議を醸している。反日プロパガンダとしての意図があるかどうかは知らないが、実際やらかしたことなんだからしょうがなかろう。なんだったら、こちらはこちらで「東京大空襲」とか「ヒロシマ」とかを作ればいいのである。いや、そんな話をしたいのではなかった。
 少なくとも、非戦闘員を爆弾で殺しまくるよりは、戦闘機が戦艦を撃沈する映像のほうが、娯楽スペクタクルとして痛快であることは言うまでもない。カメラアイを爆弾目線で、米戦艦に吸い込まれていくシーンは、TVスポットを見ただけで、これは観たい!と思わせる。現代CG技術の本領発揮である。
 さて、「パール・ハーバー」より遡ること約三十年前、ミニチュアを排したリアル実物大映像による日米開戦をドキュメンタリータッチで描いた映画が「トラ・トラ・トラ・」である。開始早々いきなり飛び出す、連合艦隊旗艦・長門の実物大。この途方もないビッグバジェットはハリウッドならではだ。ニッポン特撮陣のミニチュア職人芸も、それはそれで素晴らしいものだが、この圧倒的物量の前には敵すべくもない。というかやはり、こんな国と戦うべきではない(苦笑)。当初、日本側シークェンスの監督であった黒澤明が、プロデューサーと折り合いがつかず、舛田利雄・深作欣二に替わった話は有名だが、お二人にとっても、ハリウッドの予算で思い切り贅沢に帝國海軍の雄姿を描く仕事は、やりがいがあったのではないだろうか。
 事実、日本人に作らせたということもあるだろうが、実に日本人が格好良く撮られている。早朝、赤城以下6隻の空母から、朝焼けの大空へ真珠湾を目指し出撃する零戦の雄々しさと言ったら! 男の子スピリッツの持ち主は、この映画を観るべきである。また、山村聡演じる連合艦隊司令長官・山本五十六が、ドイツとの同盟にも、対米戦争にも、極めて否定的であったことも、史実に忠実に描かれている。なにより、アメリカ海軍省の暗号解読センターが、東京−駐米大使館の無電を傍受し、真珠湾奇襲作戦も事前に察知しながら、ハワイにはそのことを報せなかったことまで盛り込まれているのだ!
 ワタシはこの映画について、ひどく誤解していた。どうせアメリカが作った太平洋戦争映画、日本が思い切り悪者に描かれているに違いない。そう思い込んで、記憶も定かならぬ幼少期に観て以来、この歳になるまで再鑑賞せずに過ごしてきたが、とんでもない誤りである。(by 山村聡) この映画は、ハリウッドが創った、アメリカ人の登場する、日本映画なのだ。
 それが証拠に、本作の主人公は、どう観ても山村聡である。山村は新任司令長官として長門に現れる最初の出演者であり、そして後述するが、最後のシーンを締め括るのもまた彼である。キャスティング・ロールこそ、米国出演陣に先を譲っているが、客観的に言って、太平洋艦隊司令長官・キンメル提督役のマーチン・バルサムは、ダブル主演の片割れとしても、存在感で劣っている。これは役者としてどうこうではなく、そういう脚本だからしょうがないのだが。
 そもそも、「トラ・トラ・トラ・」というタイトルそのものが、日本目線である。言うまでもないことだが、これは日本の配給会社(東宝)がつけた邦題ではない。「Bonnie and Clyde」が「俺達に明日はない」になったのとは訳が違う。原題そのものが「TORA! TORA! TORA!」なのだ。映画では、「トラ・トラ・トラ・」のカナタイトルが現れ、次いでアルファベットの原題が表示される。ちなみに、本稿では画面上のタイトルを採用しているが、日本公開時には「トラ・トラ・トラ!」という題名だったようである。語尾がナカグロ、というのは、日本人としてはおかしいと思ったのだろう。日本語では、英語の感嘆符を普通に使えるということを知らない、いかにも外国人がやらかしそうなポカだが、逆に言えば、このことがアメリカ人自らが主体的に、このタイトルを決定した証左とも言えよう。
 ハリウッドは、何故こんな映画を創ったのだろう。リチャード・フライシャー、よほどの親日家なのか? ワタシが無知なだけなのだろうが、そのことを裏付ける資料は見つからなかった。本来なら、「パール・ハーバー」こそ、アメリカ人が創るべき日米開戦劇であるはずだ。
 真珠湾攻撃は、その本質はともかく日本の一方的勝ち戦である。アメリカ人側の痛快さは微塵もない。描くとすれば、卑怯な日本の戦法がもたらした「悲劇」にするほかない。ところが、「トラ・トラ・トラ・」では、ワシントンの思惑によってハワイが犠牲になる。まさに戦争に善も悪もないという、身も蓋もないリアルさで、これではアメリカの自己批判映画である。案の定、本国での評判はさっぱりだったらしい。さもありなんと言うべきだが、日本国国民として、ワタシは大いに感謝しているのである。帝國海軍をカッコ良く描くなんてことは、実物大の長門以上に我が国では困難だからだ。

 対米戦争に勝ち目がないことをわきまえる山本五十六は、近衛首相にその見通しを訊かれてこう答える。「それは是非やれと言われれば、一年や一年半は存分に暴れてご覧に入れる。しかし二年三年となっては、全く保証できません」
 その山本が考える暴れ方が、対日開戦を睨んでサンディエゴから移された、ハワイ真珠湾の太平洋艦隊基地を緒戦で叩く奇襲作戦だった。政府が対米交渉を進める一方、交渉決裂=開戦に備え、赤城以下空母艦隊がハワイを目指す。十二月二日、赤城に入電。「ニイタカヤマノボレ一二○八」。――日米交渉は決裂した。
 最後通牒に間髪入れず、米艦隊とその基地を徹底的に潰してしまう。それによって、アメリカの戦意をも喪失させるのが、山本司令長官の意図だった。その戦法そのものは悪くなかった。だが、ご承知の通り、大使館での翻訳が遅れ、野村大使がハル国務長官に最後通牒(いわゆる宣戦布告)を渡したのは、攻撃より1時間過ぎたあとになってしまう。いかにも日本的な詰めの甘さだが、これによって日本は卑劣な国際法違反をしでかしたことになる。
 最後のシーン、このことを知った長門の山本五十六は、ラジオが伝える大勝利の報とは裏腹に、複雑な胸中をこう述懐して、物語は幕を閉じる。
「アメリカの国民性から見て、これほど彼らを憤激させるものはあるまい。これでは、眠れる巨人を起こし、奮い立たせる結果を招いたも同然である
 果たして、その通りになった。反戦ムードだったアメリカ国民の世論は、これで一気に日本憎しに傾くことになる。では、手筈通りに宣戦布告がなされたならば、その後の戦況は変わっていたかと言えば、無論そんなことは有り得ない。もとより、日本の和平交渉のカードも、一方で水面下で進めていた戦争の計画も、全ては米政府に筒抜けであった。それゆえ、太平洋艦隊を敢えて日本に餌として与えつつ、日本にとっては最大の目標でもあった虎の子の空母、エンタープライズとレキシントンだけは、ちゃっかりミッドウェーに呼び寄せ、難を逃れさせていた。国力で敵わぬ国家に、さらに情報を掴まれて、万に一つも勝てるはずはなかったのだ。
 日本にも、知に長けた軍人はいたが、アメリカの老獪さしたたかさは、それを遙かに上回っていた。アメリカの国力をよく知る山本五十六さえ、アメリカという国の本当の怖ろしさを読み違えていたのだ。
 かくして、山本大将の見通し以上に戦況は早期に悪化し、日本軍が存分に暴れ回ったの最初の半年で、以後は泥沼の四年に及ぶ長期戦へと雪崩れ込んでいくことになる……

2001/07/10

徳教室 みなさん全員、逝ってよろしい!

「そこで、私は、この3人を指名手配したいと思います。明日の昼の11時45分に、3人をこのグラウンドに連れて来て下さい。条件は、生死に拘わらず、とします。手段も問いません。制限時間以内に、3人の身体がグラウンドにあればクリアです。賞金は、今グラウンドに在る3億6千万円を充てます。どうぞ、もう1度3人を映して下さい

■■■黒武 洋「そして粛正の扉を」(新潮社

 痛快な復讐譚である。
 この物語が「今日的な問題」に立脚していることから、「現代社会への問題提起」であるとか、「教育問題への一石」「最終的手段としてのテロの肯定」(まさかとは思うが)などという捉え方をすると、素直な愉しみ方ができなくなると思う。
 教師が生徒を殺す――。そのシチュエーションは、いまに始まったことではない。マーク・L・レスター監督「処刑教室」(CLASS OF 1984)、新田たつお「ビッグマグナム黒岩先生」などは有名どころであろう。だが、受け持ちのクラスほぼ全員を《処刑》する作品というのは、稀有ではないだろうか。

 その「問題作」ぶりから、「バトル・ロワイアル」(高見広春)と、しばしば対比される。だが決まって、「性質が違う」と異口同音に評されるのが面白い。そう、まさに性質が違う。「バトル・ロワイアル」が問題視されたのは、級友同士が殺し合うというシチュエーションの残酷さであって、登場人物の多くは、異常な状況に置かれたまともな生徒達でしかなかった(一部、キチガイもいたが)。だからこそ、残酷でありながら、どこか爽やかな青春小説でもあり得た。
 この作品は違う。クラス全員を人質に教室に立て籠もり、一人また一人と生徒達を葬り去るのは、誰あろう主人公の女教師である。主人公の行動そのものが、反社会的なのだ。そんな主人公に肩入れ、感情移入ができるのか? それができるのが、物語というものだ。痛快な復讐譚だと冒頭で述べた。「必殺仕置人」であれ、「マッドマックス」であれ、敵(かたき)の死を以て報いる復讐とは、それ自体、非合法であり、非人道的な行為には違いないのだ。
 にも関わらず。いや、だからこそ、というべきか。敵(かたき)への煮えたぎる憎しみを共有するとき、復讐譚は最もストレートに観る者の胸を撃つ。正義ではない。世の則を超え、人であることをやめ、一匹の鬼として行動する姿は、我々日常世界の住人が決して果たし得ない、冥き血の代弁者である。本作が今日的問題を材にしたことで、単に主人公の私怨に共感するのみならず、凶悪増加の一途を辿ると喧伝される少年犯罪に、旧態依然とした薄甘いヒューマニズムで当の犯罪者を保護する社会と、それをいいことにのさばる年少犯罪者達に、憤懣やるかたない想いを抱く者は、スカッとしたカタルシスを味わうことだろう。引き合いにするのはなんだが、どうしようもない生徒を超法規的に殺すことを、こともあろうに文部省から許可されている黒岩先生よりは、ずっと素直に肩入れできるというものだ。

 主人公、女教師・近藤亜矢子は、抑圧的な性格の持ち主である。厳格な教職にある父と、従順な母とに育てられ、常に自分を抑え「いい子」として振る舞い続けてきた。素養としては向いていなかったであろう、教師の道を選んだのも、父親に認められたいがためだった。
 そんな彼女が、ただ一度、父親に逆らったのは、妻のある男を愛したときである。男は誠実に彼女に応え、離婚を約束し、また実際に離婚するのだが、この元妻が妊娠を理由に元夫にストーカー的につきまとい、結局、別れた妻に男を「略奪」されてしまう。そんな鬱々たる彼女の人生の支えとなったのは、男との間にできた子どもだった。
 勤める高校は、先代校長の失脚とともに、最低の掃き溜め校へと落ちぶれ、生徒にも、教員達にも馬鹿にされ続ける生活。草臥れ色褪せた中年女でしかなかった彼女の日々は、それでも、素直で優しい娘によって、救われていた。
 そのただひとつの生き甲斐、ただひとりの肉親である、娘の亜希を暴走族によって奪われたとき、彼女を律する戒めは壊れ、己れが憎んでやまぬ全ての人間をこの世から消し去ることを誓う。亡き娘に向かって「だから、お願い。その間だけは、私の事を見ないで」と呟きながら……。

 物語が始まって早々、Xデーは唐突に幕を開ける。卒業式の前日、珍しくクラス全員が揃った3年D組で、亜矢子は開口一番、全員が人質になったことを告げる。なんの冗談だと嘲笑に沸くクラスは、ナイフと拳銃で生徒数名が絶命するに及んで凍りつく。対閃光・催涙ガス用ゴーグルまで用意した彼女は、持ち込んだノートパソコンで、殺した生徒のデータを呼び出し、「緊急措置」に及んだ理由、即ち彼らの死に値する罪深い行いの数々を読み上げる。
 これは上手い、と思う。ふつう、復讐譚はその発端から復讐の決意までに、物語の半ば以上を費やす。そのための準備や訓練なども含めれば、「実行」のシーンは殆どクライマックスに位置づく極一部となる。その点、本作はのっけから復讐が始まる。言わば、オイシイとこ取りである。こんなことをすれば、主人公は異常な殺人者にしかならないのだが、それを亜希が死ぬクリスマスイヴの夜をプロローグとして導入することで、亜矢子に感情移入させることに成功している。また、平凡な中年女性に過ぎない彼女が、いかにして銃や生徒達の情報を入手し、テロリストばりの武器の扱いと身のこなしを体得したのか? その疑問が謎となって、ミステリーとしての興味をも与えている。

 殺される生徒達、というのがまた凄い。3年D組29名のクラス名簿(?)を別表にまとめてみたので、差し支えのない方はご覧ください。揃いも揃えた掃き溜め学級。学園無宿の犬神明も、こんなクラスはご存知あるまい。いくらなんでも、ここまでひどいクラスはない。そんな批判もあることだろう。すれっからしのワタシも、さすがにそう信じたい。しかし、現実に存在するかどうかは、物語を愉しむ上でさしたる問題ではないし、近い将来、こんな教室が現実にあらわれることも、ないとは言い切れない。ひょっとすると、近藤亜矢子教諭の言う通り、我々が現場を知らないだけで、既にこんなクラス、あるいは、もっとひどいクラスが、現実に登場しているかもしれないのだ。
 余談だが、このクラスで、担任教師の行動に対するリアクションも、考え方も、最も人間としてまとも(悪党ではあっても)だと思えたのが、進太郎、直子、竜彦の《ワルの三巨頭》だったのは興味深い。一番始末に負えないのは「不良」ではなく、想像力を欠如させた一見普通っぽい子なのだと、作者も考えているのかもしれない。

 腕に覚えのある男子生徒との、組んず解れつの死闘も交えつつ、しかし見所は、なんといってもマスコミを巻き込んだ警察との攻防であろう。人質の数、二十名以上。接近すれば、躊躇いなく人質を殺す果断さ。そして、テレビ局の空撮映像を監視カメラ代わりに利用する抜け目の無さ。説得も強行突破もままならず、犯人の動機目的さえ不明確なまま、一人二千万円の身代金が要求されるに及んで、混乱は極に達する。
 警察、マスコミ、教員、生徒達の家族。これらが入り乱れての悪い意味で人間的な、醜悪な騒動は、こう言っては不謹慎だが面白い。身代金が足りない家族に向けて、亜矢子はひとつの提案を持ち掛ける。父母両名が身代わりとなれば、子どもを解放すると――。家族の反応はどうだったか?
 とりわけ白眉は、その身代金を報酬に、娘を殺した真犯人3名を狩り出すよう、顔写真入りで生放送するくだりだろう。荒んだ社会に殺されたといってもいい娘の弔いに、彼女は非情で面白がりな世間とマスコミを逆に利用するのである。かくして、東京中に《人狩り》の騒乱が巻き起こる。
 だが、敵もさるもの。亜矢子に私的に「指名手配」された三人組は、意外な奇策で逆襲に転じる。その駆け引きの行方は?
 一方、タイムリミットを前にした警察は、テレビ局各局に、犯人を欺くニセの空撮映像を流すよう要請。綿密な打ち合わせのもと、一時間前に録画されたダミーの「生映像」が一斉に放映される。同時に3年D組のある新校舎へと突入を開始する警察特殊部隊。息つまる女教師VS警察の闘いの帰趨は、近藤亜矢子に関わる謎とともに読者の前に開示される。ラストまで興味と興奮を途切れさせない本作は、最高級のエンターテインメントの傑作と言っていいだろう。

 とは言え、ひとつだけ不満もある。それを言うのは、大きなネタバラシになってしまうし、それに読んだ者なら誰もが感じることであろうから、ここで述べるのは避ける。いずれ、ネタバレ批評をすることもあろう。感想だけ言うとすれば、ああいう種明かしをするよりは、亜矢子のテロ・スキルに関して謎を残したままで良かったのではないかと思う。そのほうが、少なくともワタシの好みではあった。
 もっとも、それではホラー・サスペンス大賞受賞はかなわなかったかもしれないが。

(参考資料)3年D組悪行リスト
安斎史生 放火癖あり。ビデオやカメラに撮ることを好む
岩松由紀江 痴漢騒ぎを起こし、金品をせしめる。否定する相手は鉄道警察に突き出す
浦上 泉 短大生OL狩りの常習。OL1名自殺
及川奈津子 岩松由紀江と幾度も痴漢騒ぎを共にする
大久保忠教 暴走族「美射紋」メンバー。報酬を受け取り、依頼の対象人物の個人情報をインターネットに流し、誹謗中傷する代行業を運営
奥村進太郎 「美射紋」総長
小沢康郎 「レイチェル」サブ。説教をした中年2名に暴行。重症を負わせる
金沢直子 暴力団「入内島組」組長の娘。根本敏夫の女
加納雅行 「美射紋」メンバー。バイクの走りの最中、飼い犬を撥ねて死亡させる。飼い主の老女は生きる気力を失い死亡
久我 豊 「美射紋」メンバー。加納雅行との件の走りに同行
熊谷 学 乳幼児を切り付ける犯行多数。細菌を武器に卒業式占拠を計画
児玉秀幸 線路に置き石、死者7名、負傷者68名を出す
後藤克洋 高校一年生長谷部君を恐喝。総額約二百万。長谷部君は自殺。その後も恐喝行為を繰り返す
坂田謙二 後藤克洋の恐喝仲間
佐々義博 「美射紋」特攻隊長
真田美和 援助交際で相当数の男と性交渉を持つ。淋病、ヘルペス、HIV等、数々の性病キャリアー
白井竜彦 「レイチェル」リーダー
白柳吉成 岩松、及川らと共謀し、伝言ダイヤルで呼び出した男性を暴行。金品を奪う
田部明久 女子高校生にストーカー行為。インターネット、チラシ、電話、FAX等で本人および家族をも中傷誹謗
土屋広幸 「レイチェル」メンバー。3件の通り魔強盗。被害者の一人が死亡
根本敏夫 「美射紋」副総長。橋本梓をヤク漬けにし、後ろで糸を引く
橋本 梓 ヤクの売人。関連するヤク中による事件事故多数。小中学生にも売り渡す
林 小織 教師と関係。二度、堕胎する
藤井 潔 白柳吉成の伝言ダイヤル強盗仲間
堀野 聡 安斎史生の放火仲間
三原真一郎 後藤克洋の恐喝仲間
宮本浩明 動物虐待の常習
吉元 茂 「レイチェル」メンバー。土屋広幸との件の通り魔強盗に共犯

2001/04/09

ナトスという本能

――こういってしまってはミもフタもあまりにもありませんが、するとアメリカ人にとっての理想の人生というのは、(略)タバコも吸わず酒は適度かまったくたしなまず、恋愛は正しい絶対自分の人生を破壊したりしない相手とだけ1回か2回だけするもので、むろんセックスは適度がよろしく、食事はきちんとバランスのとれたものを規則正しく、お買物は計画的できちんと運動してどんな娯楽もほどほどに、何かに溺れて家庭を破壊するほどバランスをこわすようなことは決してしない、そういうものなんでしょうか? それってあまりにもあまりにも、下らなくありませんか?
 というより、これこそまさに「理想の人生依存症」じゃねえのけ、とやくざなグレたニッポンの芝居者たる私など思ってしまいます。(略)すべてをコントロールして、何もかも適度を守ってうまくゆく。こんな人生やってて楽しいとでも思ってるんでしょうか? 脆弱にもそんなモンを理想だと思ってるから、だから目の前に出てきたクイック・フィックスにとびついて溺れてしまうんじゃないでしょうか?

■■■中島 梓「タナトスの子供たち 過剰適応の生態学」(筑摩書房

 われらがオブチ総理は、英語を我が国の第二公用語にしたいらしい。英語を解さねば、世界に取り残される。昔からさんざん聞かされた言葉だ。取り残されたからといって、別にどうということはないと思うのだが。所詮、島国。大陸の人達など気にせず、勝手にやっていればよろしいのだ。グローバリゼーションとは要するに、人聞きのいい全体主義である。
 肩肘張って、先進国の仲間入りをしていることもない。むしろ、さっさと後進国に退いてしまえとさえ思う。だいたい「ゆとりの教育」などと言い始めた時点で、国民がアホ化するのは覚悟の上ではなかったのか? 結局、いまだに富国強兵がホンネだったりするのか。たぶん、そうなんだろう。
 視点を一般ピープルの側に向けてみれば、こちらはこちらで英語ぐらい嗜まなくっちゃと、駅前留学はじめなキャメロンは大繁盛である。が、受講生が切実に英会話能力の必要に迫られているかというとそうではなく、妙な不安感もしくはブランド志向に駆られているだけだったりする。それは近年の、パソコンの消費のされ方によく似ている。これからの世の中、パソコンぐらい使えないと置いていかれるからねえ。ところで、パソコンって、何に使えるの?
 受験偏重の詰め込み教育については、昔から問題にされてきた。全人教育というおよそ実現不可能な理念は、今日の「ゆとりの教育」に結びついた。だが、それが青少年の人格育成につながったかと言えば、子ども達の精神はますます荒んで、いじめに自殺、学級崩壊は一層深刻化している。
 受験戦争に生徒達は悲鳴をあげている――という、学歴社会に対する識者の批判に、ワタシは当の受験生であった頃から首を傾げていた。そんなにイヤならさっさとやめてしまえばいい。損得勘定のうえで学歴社会の勝者になることを選んでおいて、それで苦しみに耐えきれずに壊れていくヤツの、どこに同情の余地があるのか。勉強という「尊い努力」ができないことでなく、これ以上の負荷をかけると自分はどうかしてしまうという、自分自身に関する計算ができないという点で、彼らは救いようがない。受験勉強はおろか、一切の「お勉強」という行為を学校の授業以外では行わなかったワタシは、そう思ったものだ。
 そうではない。「君はそれでいい」という家族や社会からの承認――ひとはそれを酸素のように必要としており、それに逆らって生きることは、親とはぐれた幼児のような不安をもたらすのだ。そう気付いたのは、けっこういい歳になってからである。社会的マイノリティが市民権を得ることに躍起になるのはそのためだし、流行に遅れまいとトレンド情報に眼を光らせるのも、市民の「常識」として実際にはテレビ覧しか見ない新聞をとるのも同じことだろう。
 ワタシは長年の間、社会という軛からドロップアウトして、暴走族だの、ヤクザだの、宗教だのといった、よりキツイ軛のなかに飛び込んでいく人々の非合理・非論理性に首を傾げていたのだが、上記の心理に気付いて胸落ちした。彼らは、認めてほしかったのだ。一般社会に背を向けてなお、そんな自分を「それでいい」と受け容れてくれるムラを家族を切実に欲し、そして、身を寄せていった。
 子どもは、将来の裕福な生活や、立身出世といった明確なビジョン抱いて、勉強に励むわけではない。それによって周囲や家族から認めてもらえ、また、それによってしか認めてもらえないという、消極的、受動的な動機によって駆り立てられているに過ぎない。それはまるで、地球を守るという崇高な理念も、最新鋭の兵器に搭乗して敵を葬り去る雄々しい血潮もなく、ただ、そうすれば「父さんが誉めてくれるから」という理由でエヴァンゲリオン初号機を駆る少年・碇シンジの姿そのものだ。
 それが「普通の人々」であって、自分の支えは己れ自身だけ、それが真理だと言い切るワタシのような人間こそ、精神的モンスターなのか? そう思い始めて、ワタシはそれまで軽侮の対象でしかなかった人々に、興味を抱くようになった。

 本書、『タナトスの子供たち』は、そんな――《ヤオイ》と総称される「美男同士」による自己投影なきセクシャルファンタジーに耽溺する「少女」たちという――「普通の人々」の分析を通じて、現代社会に横たわる病理に斬り込む、世紀末考察の書である。
 その道の創始者を自認する著者の手による《ヤオイ》論――彼女たちは何故やおうのか? への解答――は納得するに足るものだったのだが、現代社会批判に関わる部分については、ワタシ自身が前段で述べたような人間なので、我が意を得たりというよりは「当ったり前じゃ〜ん」と思えたのだった。言うなれば、至極まっとうな正論である。無論それは、クリモトだのアズサだのを好んで読む、ヤクザな読書家にとってそうなのであって、保守的良識主義者にとってみれば、けしからぬ悪書ということになろう。
「女は女らしくあらねばならぬ」「国家は繁栄しなければならぬ」「人類は滅びてはならぬ」――そうした「前提」に、本書は異を唱えるからだ。
 それ自体は、殊更に目新しいことではありはしない。それは戦前的規範に反撥する、戦後民主主義の申し子たる進歩派によって、さんざん語り尽くされた言い種そのものだ。問題はイデオロギーではない。「天皇陛下はお父様」という「迷妄」から脱却した気でいながら、たとえば「恋愛ってステキ」という「迷妄」についてはアタマから信じ込んでしまっている、人々の心の在りようこそが問われている。
 敢えてワタシは「当たり前」と言ったが、その「当たり前」のことに気付かないでいる人々の多さに、眼を覆わずにはいられない。まだ二十歳そこそこだというのに、ティーンの少女と自分を引き合いにして、私ももうオバンよね、などと冗談事でなく嘆息する女性の、なんと多いことか。クリスマスを独りで過ごすことに、バレンタインのチョコを貰えないことに、二十歳を過ぎて童貞であることに、肩身の狭い思いをしている男の、なんと多いことか。
 社会の基準の「合格者」が、いまの世の在りようを疑わないのはしょうがないとしても、合格ライン未達の者までもが、その基準を疑わず、自分を取るに足りない人間だと思い込んだり、逆に社会の基準を否定した挙げ句、更にいびつな基準が支配する狂信的・反社会的集団に身を置いてしまう現実は、ワタシをやり切れなくさせる。
 迷える人々よ、アズサの書を見よ。と、言っておこう。ありがちな、社会学的、人文学的、心理学的アプローチは、この病んだ社会で窒息している当事者達を救済することはかなうまい。それは執筆者自らが、正常なる社会のシステムの側に属する人間にほかならず、つまるところ、迷い子をいかに正常社会に帰順させるかに、論点が置かれているであろうからだ。
 アズサは違う。彼女は自ら《ヤオイ》の開祖にして、ヤクザでデカダンな物書きである。彼女は否定しない。繁栄に背を向けることを。生殖に背を向けることを。良識派が考えることさえ忌避するタブーを彼女はあっさり洞察してのける。ひとはタナトスに向かっているということに。
 この考え方は、ワタシにとっても新鮮であったと言っておかねばなるまい。同性愛、セックスレス――。ワタシはこれらを単純に「本能が壊れている」と断じていたのだが、そうとは言い切れない、と考えを改めた。それはレミングの集団自殺が、増えすぎた個体の数を適切に減らすという、種の保存のために行われるのと同じ、DNAの本能的要請なのかもしれない。
 積極的に人を滅殺しようと実際行動を起こしたカルト集団は、社会の激烈な拒絶反応によって、叩き潰されようとしている。だが、《ヤオイ》に象徴される、個々人の革命は、穏やかに社会に背き、滅びに至らしめるのかもしれない。著者、中島梓は言う。

まだファンタジーのなかみは借り物です。だからかなりそれはぐらぐらしますし、第一それが「少年」に仮託しているということそのものがきわめて奇妙に見えるでしょう。しかしそれはちゃんと意味のあることなのです。それはヤオイ好きの少女たちがいまにちゃんと成長して、「女であること」に進化するだろう、という意味ではありません。正反対です。仮託ではなく少女たちが自分を「少年である」と感じることができるようになったら――愛と性の闘技場に自分の分身の少年を送り出すのではなく、「本当の少年としての自分、少年戦士として、大人のあてがった闘技場なんかブチこわすために戦う自分」を見出すことができたら――

 社会の自己保存欲の化身たる保守主義(戦前主義に非ず)は、そうした考え方を「不道徳」として、排斥するだろう。だが、そんな社会のシステムそのものが破綻していることを、社会のシステムの側にいる人間も、そろそろ気付いてもいいのではないか。《ヤオイ》の猖獗を始めとするタナトスの現象化は、その反作用と言っていい。人類という種は、生き延びるためにタナトスを顕現させ始めたのではないか。そう考えたとき、コンサバティブな常識感が捉える世紀末的凶兆にも、別の意味が見出せよう。ひょっとしたら、現代社会の袋小路の突破口は、そこにこそあるのかもしれないのだ。
 この病んで歪んだ狂った現代に適応し、これで良いと思っている人々にまで改宗を迫りはすまい。それは《ヤオイ》に向かって、そんな奇態なシュミはやめて、よき妻、よき母になりなさい、そう説教するのと同じことだ。トーナメント社会の優秀な戦士として、自ら歓びを感じているならば、それはそれで《ヤオイ》とは位相は違えど、彼にとっての自分の居場所ということなのだろう。それは本書のなかで《ヤオイ》について繰り返し言ってるのと同じ、「いいじゃないの幸せならば」ということだ。
 だが、すべての人間にとっての「自分の居場所」は、コンサバティブなところにあるわけではない。そのことが、そういうひとにも、そうでないひとにも認識されるならば、もう少し、世の中は風通しのいいものになるのではないか。本書はそのための、貴重な伝道の書となりえよう。

2000/02/26

れのいる生活
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■■■末政ひかる「たれごよみ」(小学館

“たれぱんだ”がマスコットキャラとして特異であるとすれば、それは妙に「生活感がにじみ出ている」ところではないだろうか。
 マスコットの基本はメルヘンである。ミッキーにしろ、キティちゃんにしろ、彼らは彼らの所属する世界とともに創造される。ミッキーにはミッキーの世界があり、キティちゃんにはキティちゃんの世界がある。彼らはおとぎの国の亜人類であって、彼らはそこでしゃべり、遊び、恋をし、我々に「物語」を開示する。
 たれぱんだは違う。ヤツは言うまでもなく架空のキャラクターだが、ヤツらの棲む世界は、我々のこの現実である。それなら、ビカチュウやピョン吉だって変わらないと言われるかもしれない。だが、サトシもヒロシも、マンガタッチのヴィジュアルによって描かれている。つまり、彼らもまた現実を舞台にしたマンガ世界の住人に過ぎない。
 たれぱんだは、言わば実写である。トンボメガネのヒロシとリアルな兄ちゃんとのヴィジュアル差を勘定すれば、平面ガエルをリアルな実写にコンバートすると、もう少々グロテスクな外見をしているものと推測できる(あんまり推測したくないが)。対して、たれぱんだは、そのまんまだ。ヤツは紛れもなく、寸分たがわず、ああいうミテクレをしている生き物なのだ。
 それは「背景」や「人間」を写実的に描いているからなのだが、それ以前に、たれぱんだ自体がリアルで、マンガ絵のフレームを拒絶しているように思う。その理由を本物(リアル)が既にして、ぬいぐるみ然としている「パンダ」という元ネタに求めることは容易だ。これがたれ猫でも、たれ馬でも、たれ象でも、たいして愛嬌もなければ、リアルでもなかっただろう――と。だが、たれぱんだの生みの親、末政画伯の手にかかれば、それらもリアルな実在感を得るのかもしれない。愛嬌があるかどうかは別にして。
 たれぱんだのリアルさは、実写ドラマに配することで、容易に証明できる。ミッキーも、キティも、ビカチュウも、橋田ドラマにキャスティングされたら、ゼッタイにヘンである。ところが、たれぱんだにそうした違和感はない。
「あんたもたれてばっかりいないで、ちっとは手伝いなさいよ」
 そう言われて、泉ピン子につまみ出されるたれぱんだの図は、まさに『渡る世間は鬼ばかり』の一幕にふさわしい。

 本書「たれごよみ」は、そんな“たれぱんだのいる日常”を綴った、たれぱんだ歳時記である。寒い日にはこたつにもぐり、暑い日には水泳もし(たれなりに)、縁日には「たれぱんだ釣り」で釣られ、勤労感謝の日だけ、はたらいてみたりする(たれなりに)。季節ごとの風情をたれなりに醸しているが、たれているのは変わらない。そうして、日がな一日、のべつまくなし、春夏秋冬、年がら年中たれている。それでいい。
 高度な知性を持っている(と思われる)が、人間とは意志疎通をしない。かまうことを拒絶はしないが、かまわなくても勝手にたれている。役に立たず、害をなさず、ディスコミニュケーション時代が生んだ理想のペットなどという論評もバカらしく、『プレジデント』誌に「たれに学べ!」と特集されることも決してなく、いつの間にかウチに同居していて、気がついたらいなくなって……と思ったら、押し入れのフトンにはさまっていたり、クリーニングに紛れていたりする。それでいい。
 たれぱんだは、ただそこにたれていればいい。それだけで、ワタシもなんだか、たれぱんだなのだから。

オマケ

1999/09/30

を信じて殺られるよりも、信用せずに殺すほうがいい

いいか、わかる必要なんてないんだ。とにかく、相手が自分に武器を向けたら、容赦するな。そうでなきゃ自分が死ぬ。相手のことをつらつら考えるよりは、まず疑うことだ。あまり人を信用しない方がいい。このゲームじゃな

■■■高見広春「バトル・ロワイアル」(太田出版

 平井和正『幻魔大戦』は「オカルトである」として、SFファンから忌避されてきた。たが、これは奇妙なことと言わねばなるまい。SFとはなにも、ガチガチのアカデミズムに則ったものばかりではないからである。UFO、宇宙人、超能力に亜人類……。およそ非科学的なトンデモ領域は、もとよりSFの守備範囲であったはずだ。ウルフガイの狼人間にしたところで、充分オカルトであろう。しかるに、『幻魔大戦』が非SFとして排撃されるその理由は、読者の触れてほしくない部分に容赦なく踏み込む(燗に障る、というやつですな)「お話としての安心感のなさ」にあるとワタシは考える。物語に狼人間が登場して、気分を害する読者はあまりいない。フィクションの範疇として、容認できるからだ。だが、GENKEN主宰・東丈の語る《宇宙の真実》には、架空の登場人物による架空のセリフとして黙過できないリアル――言い換えれば、現実の思想家が語る「気に食わない考え方」にも似た拒絶感が生じるのではないだろうか。
『バトル・ロワイヤル』が、文学賞の審査員から「不快である」として選考からはずされたり、否定的ニュアンスで「鬼畜系」としての評価を与えられたりするのも、同様の心性から発するものと推察するのはたやすい。本書を単にエキサイティングなサバイバル小説として片付けられなくする要素、それは「あなたならどうする?」という、あまり考えたくない設問を読者に突きつけるところであり、「子ども達はイノセントである」というテーゼに対する完全否定であろう。

 ファシズム国家、大東亜共和国が毎年、任意に選ばれた中学3年生の学級を対象に執り行う“プログラム”。それは決められたエリア(物語では、香川県沖木島がその舞台となる)を戦場に、与えられた武器でクラスメイト同志が殺し合い、最後の生き残り1名のみが生還を許される、地獄のデス・ゲームである。ルールはない。仲間を組むもよし。裏切るもよし。生死を懸けた、それはBATTLE ROYALE。
 平凡なミドルティーンの少年少女が、殺し合いを――それも見知ったクラスメイトの間で行わなければならないという過酷な極限状況に置かれたとき、なにが起こるのか? 本書は、濃密に描き切っている。怯え隠れる者、級友を信じ呼びかける者、自ら死を選ぶ者、錯乱する者、監視者である軍を出し抜こうと企てる者、そして、進んで“ゲーム”の勝者たらんとする者。
 冒頭には、沖木島の地図と、クラスの名簿が記されている。計42名のクラス生徒は、全員が物語に登場する。驚くべき群像小説である。優等生が、いじめられっ子が、仲睦まじいカップルが、札付きのワルが、金持ちのボンボンが、それぞれどんな思いで、いかなる選択をなし、どのように交錯し、そして息絶えていったか。奇しくも666頁に及ぶ膨大なストーリイのなかに、克明に叙述されている。一切、省略はない。
 これほどヘヴィーな文学的テーマに真正面から取り組んだ作品をつかまえて、「鬼畜系」としか評価できない人間をワタシはケイベツする。もっとも、そう言われるのもムリはない要素はあって、それはなによりも、長髪の担当官・坂持金発センセイ(笑)の存在によるところが大きいだろう。コイツがまた、いかにもな金八口調で、“プログラム”の概要を生徒達にレクチャーし、進行状況を放送する。深刻な物語に、作者の悪ふざけが過ぎる、といったところか。本書に好意的な書評においても、この部分には難色を示される向きが少なくない。だが、ここにこそ、高見広春の卓越したセンスがあると、ワタシは力説したい。たとえば、本書における「中学3年生」を「動物」に換えたとすると(なんちゅう仮定や)、担当官は「ヌツゴロウさん」になったりするのだ。このニュアンスをわかっていただけるだろうか。まあ、武田鉄也をマジでええヤツだとお思いの御仁には、ご理解いただけないだろうが。それはさておき。
 少年は、決してイノセントではない。未熟な身体と心の中に、大人と同じような、あるいはより研ぎ澄まされた形で、正義も、怯懦も、反骨も、卑劣も、友愛も、欲望も、猜疑も、虚無も、みな抱えているのである。物語に相応しく、やや個性派が揃いすぎているきらいはあるものの、本書に登場する中学生達には、絵空事を超えたリアルがある。誰もが知っているはずだ。誰もがかつては少年だったのだから。それがわからないのは、忘れたか、忘れたフリをして、無垢という幻想を子ども達に仮託しているだけだ。そして、本書を「鬼畜系」と顔をしかめるか。もったいないことだ。
 果たして、最後に勝つのは、信頼か、非情か。団結か、孤独か。読者に用意されているのは、一縷の希望か、全き絶望か。恐れおののきながら、それでもページをめくる手が止まらなくなることを筆者はお約束する。

人は敵が多いほど
非情になれる生き物だから
初めて殺した あなたのために
冥土の土産に 贈る言葉
「ごめんなさいね。あたしもあなたを殺そうとしていたのよ」

1999/07/29

追記.
あらためて「BR」を語ろう
続・あらためて「BR」を語ろう

トは情報のスレイヴである

「情報を平等にするということはすごい意義深いものがあるってこと、もう、カメさんにもわかってもらえたでしょ。なにも法律の条文だけじゃない。あらゆる公文書が平等に配られる可能性を、コンピューターネットワークは秘めているんです。そうして社会は、いや、人類は確実に進歩します。ね、カメさんも一緒にやりましょ。つまらん小市民の一人として生きるよりも、有意義なことを」

■■■畑仲哲雄「スレイヴ/パソコン音痴のカメイ課長が電脳作家になる物語」(ポット出版

「スレイヴ」とは、LXモバギを彷彿とさせる架空の機種、姉小路無線のハンドヘルドPCの名称である。本作は主人公カメさんこと亀井遠士郎が、果たせなかった書斎の夢を小さな手のひらパソコン「スレイヴ」に託すことから始まる。マネドス(笑)を基幹OSとして動作する反主流派に属するPCを通じ、主人公はユーザーの利便性を犠牲に、企業の権益のみを優先するマラクロソフト(笑)を初めとする業界の構造(システム)に疑問を抱き始める。そして、姉小路無線を中核とした大胆な計画に巻き込まれてゆく……。
 思想的プロパガンダに基づく道具としての小説は、物語として死んでいる。ワタシはそう確信する。にも拘わらず、この作品が面白いのは、作者の思いがメタフィクションとして生きているからかもしれない。アヤしいメンバーとのオフ会、リチャード・ドーキンス著『利己的な遺伝子』に記された壮大な仮説、文化の「生き残ろうとする意志」=ミームについて語り合うくだりは圧巻である。
 ヒトが文化を遺すのではない。文化の生き延びようとする意志が、ヒトを道具として使う。この考えかたは、なかなか愉快だ。例えば、出版社という主体が『幻魔大戦』(平井和正)を出すのではなく、『幻魔大戦』という主体が、角川、徳間、リム出版、アスキー、そして新たな出版社へと、乗り物を替えてゆく。『火の鳥』(手塚治虫)も『夢幻紳士』(高橋葉介)も、みんなそうかもしれないゾ。
 ヒトがマスターではない。情報がマスターなのだ。そう考えたとき、人間――より正確に言えば企業――の権益のために、情報が隷属されていることに気づく。情報は自由になりたがっているGNUグーテンベルグ計画は、企業のくびきから情報をときはなつ解放運動と言えよう。情報にも人権がある、というのではない(笑)。それが平等に分配されることで、間違いなく我々一般ピープルの財産となるのだ。ご存じ、Linuxのように。
 本作は情報の解放に体を張る人間達を描きつつ、本作自体が現行著作権運用への挑戦でもある。本作は無料でダウンロードできるのみならず、非営利に限って無断複製や無断改変することを作者が許可している。ペーパー本でも出版されているが、こちらをご覧の方はダウンロードしたほうが早いであろう。作者のページや青空文庫でオリジナルが入手できる。これを読んで、あなたも『スレイヴ』のスレイヴになろう。

1999/05/09

ョウドウガイよ、コレを買え

でも仕事がねえぞ金が入ってこねえぞ、という意見もありますが、それは努力が足りないからだという説がなきにしもあらずんば虎児を絵に描いた餅であって選り好みをしているからであって、その程度ではまだまだ不況の序の口の始まりの前夜といった、楽勝感漂いまくりの状況なのです。

■■■ スタパ齋藤「スタパミンGOLD」(アスペクト)

 知人にショウドウガイがいる。ショウドウガイとは、まさしく衝動買いする者のことである。ウルフガイみたいでカッコいいだろ。男らしく買う「オトコ買い」という言葉もあるが、行為ではなく人間性を示す用語として、ワタシはショウドウガイを提唱したい。
 前述の知人は「万単位のブツを大根でも買うように購入する」と言われる猛者で、ワタシの前でもフラリと立ち寄った電気屋で「お、安い」と《ザウルス》をオトコ買いされたのでございます。ヤツこそは、まさしくショウドウガイ。
 あまたいるショウドウガイのなかで、キングと思われるのが、パンコン界にその名も高いワリに、パソコン界を一歩出るとほとんど無名のこの漢、スタパ齋藤であろう。買った(含もらった)パソコン70台! その恐るべきパソコン遍歴はまさに、めまぐるしく変容を遂げるパソコン雑誌のトレンドを余すところなく己れのライフスタイルに取り入れるガイな奴である。
 パッと買って、パッ使って、パッと下取りに出して、そしてまたパッと買う、パッとサイデリアの新興産業もまっ青の怒濤の買いっぷりをカタギの衆は「そおゆー仕事やってっからできんでしょ」とヤッカミがてら言ったりするが、そうではない。金も時間も体力も、すべてパソコン及び関連機器に注ぐスタパ氏の情熱が、必然としてアスキー入社→フリーライターという道を選ばせ開かせたのだ。
 世に買い物依存症なる病がある。取り憑かれたように高価なものを買い、あとになって「またやってしまった」と落ち込む精神的障害である。そんなヒトは、スタパ齋藤を見習うとよい(保証はしないが)。彼は決して買ったモノ・コトに後悔はしない。買った以上はその機能のことごとくをとことんシャブり尽くし堪能し尽くし(その意味で、用途の限られたブランドもののバッグなんかは×だ。やっぱりパソコンに限る)、ローンを返済すべく勤労意欲を燃焼させ働きまくり、そして、仕事のし過ぎで溜まったストレスをパソコンを買うことで解消するのである。歩く永久機関といえよう。スタパという生き方。それがショウドウガイ。
 国民全員がショウドウガイになれば、日本のうすら寒い不景気など一瞬に燃え尽きよう。出口の見えない不況の不安は、パソコン買って楽勝に解消していきたい!

1999/03/20

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