萬文書
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Red-robin's Factory
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踊るぽんぽこ論 〜もっとも過激なジブリアニメに刮目すれ!
2000.3.5
 ワタシがジブリアニメについてリスペクトする。ワタシをよく知る者が見たら、カナメさんいったい何があったの? 熱でも出たか? 悪いモンでも喰ったか? などと、あらぬ心配をさせてしまうかもしれない。
 そのくらい、ワタシはジブリアニメというものに、さしたる評価を与えてこなかった人間である。好き嫌いは、ひとそれぞれ。ジブリ≒宮崎駿の作家性・作品性を好もうが好むまいが、それは個人の嗜好の在りようでしかない。だが、これだけ誰も彼もどいつもこいつも諸手をあげて礼賛するとなると「確かにオモシロイけど、それほど権威として拝し奉るほどのもんケ?」と、怪しまずにはいられない。そんなわけで、ジブリに恨みはないのだが、ジブリ≒宮崎駿を礼賛する人間には、妙な宗教を信じるヤツと同じくらいに警戒心を抱いてきたワケなのだ。実際、彼らには共通項がある。心に「お花畑」を持っている、という共通項だ。もっとも、そんなのはワタシの思い過ごしでしかなく、本当はただの美少女好きかもしれないのだが。
 しかし、そんな金ヅルである美少女好きアニメオタクを当のジブリは大キライなのではないかという憶測は、ワタシだけではなくけっこう衆目の一致するところではあるようだ。ひとつには、いわゆる第三次声優ブームに乗っかった声優をまったくと言っていいほど起用しないし、ふたつめには、『となりの山田くん』(笑)をやったことで、充分証明されていると言えるだろう。
 その『となりの山田くん』に先んじて、美少女好きアニメオタクどもを失望のドン底に叩き墜とすアニメ映画があった。それが『平成狸合戦ぽんぽこ』だ。「トトロ」でやった「自然との共生」とやらを今度は動物アニメでやるかよ、ハッ。てな偏見に満ちた先入観で、ワタシはこの作品をいままで一顧だにしなかったし、実際に観た者もそのような感想を述べている。(一例
 テレビ放映を観て驚いた。ノスタルジックな野や山を懐かしむなどと評価されているが、笑止! この物語が突きつけているのは、人間様のライフスタイルの前に、自然保護の抵抗など、あっさり捻り潰されるという、身も蓋もない、絶望的なまでにシビアな現実そのものではないか。
 それは問題提起をしながらも、物語はなんの解決もせぬまま幕を閉じた『もののけ姫』と似通っている。寡聞にして、そのような主張を眼にしたことはないが、ワタシは『もののけ姫』は「ぽんぽこ」のより巧妙な語り直しのように思える。大きく異なる点は、人間社会に敵対する森の獣神たちの中心に、人間の少女がいるということだ。その意味で、『もののけ姫』は、美少女好きアニメオタクに歩み寄っている。悪く言えば、迎合である。
「ぽんぽこ」にもし、おろく婆に育てられた少女がいたら、まんま「たぬき姫」であるし、襲い来る狸の群に恐れをなした人間が、極秘裏に開発した巨人兵器を用いて彼らを焼き払ったら「多摩丘陵のナウシカ」になってしまうだろう。無論、一個の創作集団の手による作品が、そうした通底した世界観をもって描かれるのは、珍しいことでもなければ、非難すべきことでもない。余談だが、「ぽんぽこ」では、狸界のいにしえの変身術「化学」(ばけがく)を復興するにあたり、四国から高名な術者を招聘するのであるが、『もののけ姫』においても、鎮西(九州)からイノシシの神、乙事主が一族を率いてやって来る。面白い符合である。
 だが、「ぽんぽこ」の主人公は、たたかう美少女ではない。人間側に「狸を殺さないで」と訴える可憐な少女(←ナウシカとルビを振ってネ)の姿はなく、狸の側にも「わたしは狸だ。人間は敵だ」と叫ぶ勇ましい少女(←サンとルビを振ってネ)の姿はない。信楽焼仕様に擬人化されてはいるが、メインキャラは全員タヌキなのである。そして、人間を敵として、戦争をおっ始めるのだ。……こんな動物アニメ、いままであったか? 『ライオンキング』『ガンバの大冒険』、いろいろと思い浮かべてみるとよい。主人公が動物であれば、敵もまた動物であったはずだ。それは当然の話で、たとえ動物アニメと言えど、観ているこちらは人間なのであるから、動物が人間をブチ殺すストーリイなんて創られても、感情移入などできっこないからである。直截な描写こそ避けているが、「ぽんぽこ」の狸たちは、そのテロ活動によって、人間を何人も殺している。ここに「ぽんぽこ」の驚嘆すべきラディカルさがある。

 この狸たちの大作戦は、一度はニュータウンの住民を圧倒するのだが、人間社会の老獪さの前に挫折する。四国から招いた三長老のひとり、松山の隠神刑部を術に殉じて犠牲にしてまでして起こした超自然的怪事件は、建設予定のテーマパークのイベントで、あっさりと片付けられてしまうのである。狸が主体の物語なのであるから、ずいぶんと救いのない話である。死んだ狸は、我々のよく知るリアルな動物の姿に還り、血を流し、その骸を横たえる。繰り返すが、こんな動物アニメ、いままであったか?
 この悲劇のなかでもとりわけ白眉なのは、四国三長老の一の大長老、齢九百九十九歳、太三郎禿狸がショックのあまりコワれてしまい、踊り念仏の教祖におさまった挙げ句、八畳敷きの金玉袋(笑)で作り上げた宝船で信者たちを乗せ、多摩川の彼方へと去ってゆくくだりだろう。

 阿弥陀の招く極楽の 普陀落目指し賑わしく
 宝の舟は死出の旅 それどんじゃんどんじゃん死出の旅
 並の狸は死出の旅 行きて帰らぬ死出の旅 それどんじゃんどんじゃん死出の旅
 哀れ狸は死出の旅 それどんじゃんどんじゃん死出の旅

 虚ろな脱力感とともに、戦慄さえも覚えるのはワタシだけなのか。これほどに残酷でありながら、「泣かせ」に走るならいくらでも泣きを入れるポイントがありながら、物語はあくまでも軽妙洒脱である。ストイックなまでに。
 玉砕覚悟で暴れ回り、最期にトラックに轢かれた狸は、こう呟いて息絶える。
「トホホ、人間にはかなわないよ」(バタリ)

 こんなアナーキーなアニメをジブリはファンタジック・コメディの体裁を装うことで、事もあろうに親子で見せてしまっているのである。高畑ぁ、オヌシもワルよのう
 歯痒いのは、こんなオッソロシい作品が、ファンタジック・コメディの体裁そのままに評価され、ジブリ作品の言わば脇役の座に甘んじていることだ。さらに絶望的なのは、こんな作品は、二度と創られないようにも思えることだ。「山田くん」でコケたジブリは、結局、たたかう美少女路線に回帰するのか。冒険的創作活動が嫌悪してやまぬ美少女好きアニメオタクの財布の前に屈するのは、人間社会の軍門に下り、人間に身をやつして生き延びることを選んだ、多摩狸たちの姿そのものだ。
 変わり者一匹吠えたところで、一アニメ映画の世間的評価が変わるわけじゃない。だが、ワタシは僅かでもいい、このことを伝えたいと思う。「ぽんぽこ」って、案外オッソロシいアニメなんだぜ、ということを。

ケイゾク/映画ネタバレ批評
2000.4.7
『ケイゾク/映画』鑑賞。
 十五年前の船舶遭難事件の関係者を招待した、南海の孤島でのパーティー。そこで行われる大胆な連続予告殺人。乱歩テイストのミステリーは、これまた乱歩的な種明かしによって、あんまりな解決を迎える。脚本的なムリもある。柴田(中谷美紀)と真山(渡部篤郎)は、招待客の女性の依頼によって、言わばボディカードとして同行するのだが、実は彼女は招待主の妹で、この計画の共犯者なのである。ということは、二係に助けを求める必要性は、そもそも全くなかったはずなのだ。もっとも、観ている最中には気付かなかったのだが。
 が、そんなことはどうでもよい。シリーズ最凶の悪の首魁、固有の肉体を持たない悪霊存在《朝倉》とのファイナル・ウォーズの前に、いかなるツッコミ処も些事でしかない。柴田、真山に執拗につきまとった朝倉の真の目的、それはひとり人類補完計画だったのだ! エクセレント〜。
 朝倉とともに、柴田、真山を涅槃にいざなうかに見えた縁りの死者たち。だが、彼らは朝倉を否定をする。「お前なんかと、ひとつになりたくないんだよ」
 トレビアン〜。シンジに言ってほしかったこの科白、「エヴァ」では最後まで口されることはなかったこの科白。「エヴァ」の残尿感をこの映画は見事に払拭してくれた。エヴァンゲリオン・テイストをふんだんに盛り込んだ「ケイゾク」は、まさに「エヴァ」という迷宮を解いてみせたのだ。

ジラフではない、ラ王と呼べ
2000.4.14
 ドラマ『永遠の仔』第一回を観る。
 原作つきドラマにありがちな、ヒドイ話の筋の変更があるかと心配していたのだが、実に天童荒太の小説に忠実な作りをしていた。それだけに、近年稀にみるキっツいドラマになっている。
 梁平(ジラフ)=椎名桔平、笙一郎(モウル)=渡部篤郎、というキャスティングも、イメージとしては逆のような気がしていたのだが、そこは演技には定評のある両人、見事に役をこなしていたように思う。
 特に椎名桔平の全裸シーン、イカシてます。イカシ過ぎです。ガウンも羽織らず、バンツも履かず、フルチンで署からの緊急電話を取りにいく姿は、まさに日清「ラ王」のCMそのもの。たぶん、全国でそう言われてるんでしょうねえ。なるほど、ワタシは間違っていた。このシーンはやはり、椎名桔平でなくては!
「ほら見ろよ。よく見ろ、どうだよ?」
 愛人に己れの男性を誇示するこのシーン、ちょっと気になったのは、カメラに映るケツの向こう側は、いったいどうしていたんでしょうねえ? 前貼りを装着していたか、あるいはケツ自体が替え玉か。しかし、ラ王にそんなケチな真似はしてほしくない。生まれたままの自慢の道具を、石田ゆり子の眼前につきつけてやれ! キッペーッッッ

初出 World's end Patio 改稿

また、つまらぬものを斬ったか
2000.6.3
 また…といっても、ここまで罵倒る猛奴に入ったのは久しぶりだ。
 通常、ワタシはバカを相手にはしない。バカにレスをつけると、考えを改めるどころか、そのレスに喰いついて、ますますバカをほざき、かえって掲示板を汚すことになってしまうからだ。すでに脳みそが死んでいるヤツを葬り去るのは至難の業だ。管理人が頼りになるなら、汚れ仕事は管理人に任せるにしくはない。
 この度は特別に「隔離病棟」ができたので、不特定多数で括られ愚弄された「礼」も兼ねて、遊んでやることにした。頼りになりすぎる管理人に、獲物をさらわれてしまったので(笑)、言い足りないことは機会を改めて述べることにしよう。
 それにしても、平井和正読者を揶揄する輩ってのは、どうしていつもいつも、どいつもこいつも、言うことが定(き)まっているんだ? 冷静な客観性を維持していることが、そんなに自慢かね? 程度が「学生さんレベル」なのだよ。大人のつもりで実はガキ、クールぶりっこ批評家気取りヤローどもについては、近いうちに血祭りに……取り上げることにしよう。

勝手邦題に投稿する。
2000.6.24
勝手邦題」に投稿するのは、このサイトを知って以来、ワタシの秘かな夢だったのである。とは言え、映画は決してワタシの得意分野ではなく、またここの投稿レベルもすこぶる高いので、いままで投稿はできなかった。
 アル・パチーノ主演『エニイ・ギブン・サンデー』の文字列から、「聖戦士ダンバイン」の脇役、ニー=ギブンの名を抽出した者は少なかろう。80年代のアニメだからなー。ワタシにそれができたのは、たまたま地元ケーブルで、現在「ダンバイン」を放映しているからにほかならない。

 ところで、再放送をこの歳になって観てみれば、ヒロイン、マーベル・フローズンが実に魅力的な造形をしていたことに、いまさらながら気付く。湖川キャラの神髄は、マーベル、ジェリル、ルーザ(笑)に尽きる。これが本放送の十代の頃は、「シーラ様〜」だったのだから、歳はとってみるものだ。それはともかく。

 あッ、「ダンパイン」になってやがる。こういう部分でのミスは恥ずかしいよなー。オーナーのコメントのほうがおもしろいし。「ミンキーモモみたいな頭のお兄ちゃん」……的確すぎ(笑)。このセンスは尊敬しちゃうよね。

ザ・日常雑記
2000.7.11
 近頃、ミョーに自宅付近でTVのロケに出くわすと思ったら、ご近所のマンションがドラマ「リミット」のロケ地になっているらしい。どうやら、被害者宅のようである。佐藤浩市はいいから、安田成美サマにお目にかかれないかな〜。

売れない作家ではない作家占い
2000.7.30
 作家占いというのを御存知だろうか。要するに動物占いの変形版で、あなたの今日の運勢を文豪の生き方に照らして占ってしんぜようというわけだ。
 動物占いを自ら行う動物はいないが、作家占いをやってみる作家はいるかもしれない。その結果如何によっては、気分を害することもあるのではないか。菊池秀幸が『今日のあなたは、「夢枕獏」です』などと言われたら、

「獏とは違うのだよ。獏とは!」

と、ランバ・ラルさんな激昂を発されるかもしれません。
『今日のあなたは、「いさき玲衣」です』なんて卦が出た日には、作家どころか一般庶民だって気が悪いでしょう。いや、「誰それ?」と思うだけか(笑)。まあ、登録された作家の数はそう多くはない(「30名以上」と書かれている)らしいし、そんな懸念はないのだが。
 しかし、だからこそ、そんな歴史的・一般常識的有名作家を、自分が知らないことに対して、もう少し危機感を持ったほうがいいのではないか。「誰それ?」と掲示板で言っちゃってるヤツ、総理大臣の名前を知らない女の子的なネタにされっぞ。ワタシのようなヤツにな。
 それにしても、寺山修司を知らんかよ? 恥ずかしいというより、ショックやな。天国の寺山先生もさすがに「街に出てばかりいずに、少しは書を読もう」とこぼしているのではないか。

玄関先の蟲たち(1)
2000.8.8
 仕事から帰ってきたら、我が家の扉そばのアパートの壁で、蝉が羽化している。
 すぐそばに立入禁止の保護林もあるというのに、よりによってこんな所を選ばずとも、と思わなくもないが、まあ彼には彼(彼女?)なりの事情があるのだろう。
 幼虫の抜け殻の傍らで、成虫のカタチをしながら、カラダはまだ半透明のその姿は、可愛くも奇怪でなおかつ美しい。翌朝、眼にするのは、蝉の死骸か抜け殻か。できれば、後者であってほしい。ワタシも人並みの情緒は、持ち合わせているのである。
 次回は蜘蛛の話をしよう。

2000.8.9 ちょっぴり加筆

玄関先の蟲たち(2)
2000.8.9
 わが家のアパートは蜘蛛天国である。
 ちょっと油断していると、ところかまわず糸を張ってくれる。
 この間も、玄関先で見事な巣をせっせとこしらえているのを目撃した。

 ところで、ふと思ったのだが、日常アレを「蜘蛛の巣」と言っているが、あれは本当に「巣」なのだろうか?
 生物学上の「巣」の概念は知らないが、それを「一定の寝床」と決め打ちした場合、いわゆる「蜘蛛の巣」で蜘蛛が寝ているところを見たことは一度もない。蜘蛛の巣と言うが、あれはむしろ「蜘蛛の定置網」とか「蜘蛛の食卓」とでも呼ぶのが相応しいように思う。生物学的にも、おそらくそうなのだろう。

 ちなみに出がけに見た「巣」は、帰宅したときには「撤去」されておりました。
 なお、(1)の蝉ですが、残されていたのは、抜け殻だけでした。

闘病にドクターストップ?
2000.8.29
 アンディ・フグ選手への個人的哀悼をここで述べることはしない。
 己れの想起したことどもについて、表に出すものと、裡にしまっておくものとを明確に区別するのは、ワタシの妙な、かつ頑ななポリシーだからだ。だが、そんなことはどうでもいい。今回、ひとの死をネタにするという、後ろめたさを圧して言いたいのは、石井館長の言葉についてだ。
「ドクターストップ」って、やっぱりおかしいよなあ。もちろん、館長の真意はわかる。闘う意志はあったにも拘わらず、残念な結果に終わったことを、武道家らしい言い方で表現したに過ぎない。しかし、それでも「ドクターストップ」という言い回しには語弊がある。この件には、リアルな医師が絡んでいるからである。
 まさか、そんな受け取り方をする者はいまいが、それでも「まるで、医師がアンディの治療行為を積極的に放棄したかのような」ニュアンスは残る。死者にはともかく、医者にとっては、気が悪い言葉には違いあるまい。ドクターストップは格闘者の、身体的危険を慮って行われる。故に、医師とともに身体的危険と相対する「闘病」に、ドクターストップはない。死と闘い、結果、死したならば、それは「死という敵に敗れた」という、残酷な事実でしかない。
 無論、そんなことを厳粛な死者への手向けに言えるはずもない。だからといって、的外れな比喩を見過ごしにできないのも、ワタシの困った性分なのだ。「アンディは病という敵と、最後まで立派に闘った」――それでいいではないかと思わずにはいられないのだ。

スケール大きおす
2000.9.9
 金曜ロードショー「ガメラ3 邪神(イリス)覚醒」を鑑賞。
 フラストレーションの残るラストは、怪獣映画版「野性の証明」だと思えばわかる。決着を直接描写しなかったのは、銃声を響かせるだけのガンの決斗の手法だと思えばわかる。好きではない。スカッとせえへんやんけえ、という不満はある。だが、そういうやり方があり、それを好みとする人間がいるのはわかる。
 わからないのは、ガメラとイリスの決戦の舞台を京都駅構内にしたことだ。そういう例を今まで見た覚えがないので意識したこともなかったが、つくづく怪獣はアウトドアが似合う(笑)と思う。インドアの怪獣はスケール感を矮小化させる。ショボく見えてしまうのだ。こんなことは、劇場公開時に惨々言われただろうが。
 高い建物を建てるのにも色々と面倒がある古都京都を舞台にしながら、よりによって、なぜあの巨大建造物を決戦の場所に選ばなければならなかったのだろう。五重塔でも踏み潰してりゃ、雄壮感もあったろうに。
 観賞後、むしろ印象に残ったのは、京都駅のスケールのデカさだ。お恥ずかしい話だが、ワタシは周囲の景観を圧倒する京都駅の偉容をG3で初めて知った。ガメラが余裕で入ります、というPRだったのか。JR京都駅の。

2000.9.10 ちょっぴり加筆・改稿

キンキンの歌番組?
2000.9.16
 フジ「愛をください」の評判には、ドラマ悪食家であるワタシの血を騒がせるものがあり、先々週から鑑賞し始めた。
 テメーの曲を主題歌にするのみならず、劇中で主人公に歌わせ、あまつさえはプロデューサーとおぼしきTVスタッフ役の登場人物に「素晴らしい歌だ!」と脚本で言わせてしまう、ヒクソンより強い辻仁成の自意識はさておき。
 劇中の歌番組の司会者が、愛川欽也ってのは、いかがなものか。しかも、スタジオ生放送。どうも、歌番組の概念が二十年ばかり古い気がするぞ。エコーズだって、そんな昔のグループじゃないでしょうに。
 鈴木杏樹なら、まんま「ミュージックフェア」だったんだが、あれ生じゃないしなー。もちろん、ダウンタウンってわけにもいかないだろうし。

 しかし、その蓮井朱夏(菅野美穂のドラマにおける芸名)が、HEY!HEY!HEY!に出演するという。まさに、リアル・もしもシリーズ状態。李理香(菅野美穂のドラマにおける本名)、浜ちゃんにドツかれる覚悟はいいか?

初出 World's end Patio 改稿

盲愛が作家を育てるのか?
2000.9.28
ジョン・ウーという監督のファンである。(中略)思うに、ファンとはある意味崇拝者であり、よき理解者である。それはある意味、危険かもしれないが、そういうファンがいなければ、世の中の大半であるファンではない一般人には勝てないのだ。最近、「ミッション・インポッシブル2がつまらない」という話をよく聞く。私は、観ていないが、絶対に面白いと信じている。観ていないうちからいわせてもらうが、絶対に傑作である。なぜなら、私はジョン・ウーのファンだからだ。
「飯島健男の駄文日記」2000年8月29日(註1)

 一途な崇拝というものを一概に否定はしないし、ワタシの裡にもそうした感情は間違いなく存在する。だが、傑作である根拠を「だってファンだから」と結論してのける、そんなバカ出し丸な称賛をされても、当の作家はちっとも嬉しくあるまいに、とワタシは思っていた。ところが、驚いたことに、いるんだねえ。創り手サイドでそういうこと言うひとが。観ていないうちからいわせてもらうが、コイツの作品はクソつまらねーに違いない。
「駄作であっても赦す」という境地は、愛してやまぬ作家の作品であろうと「駄作」であれば、そうと認識できる冷徹な審美眼を大前提とする。駄作も失敗作もひっくるめて創り手たる彼の仕事を愛することと、一度愛してしまったが最後、明白な欠陥さえも美点であるかのように無意識かつ強引に自らを納得させる贔屓の引き倒しとは全く話が違う。
 作家とはセンシティヴな生き物である。そうでなければ作家は務まるまい。ならばこそ、ワタシは負の感想を抱いたとしても「敢えて厳しいことを言わせていただきます」などと作家本人に向かって(註2)言ったりはしない。それは好きな作家の仕事の支障にこそなれ、作品の質の向上に結びつくことはないと考えるからだ。
 だからといって、贔屓の引き倒しに基づくお追従もまた、作家を毒する役にしか立つまい。作家を育てるのは何よりも己れ自身であって、正であれ負であれ、受け手のリアクションではなかろう。まあ、ちょっとばかり辛辣な批判に傷ついてみたり、盲目的な称賛に舞い上がった挙げ句、身を持ち崩してしまうのは、所詮その程度の作家でしかないということなのかもしれないが。

註1)負のサイト批評においてリンクを張るのは、ある意味、残酷なことである。こんなバカ言ってるサイトを観て、大いに笑ってやってください、というニュアンスを嫌でも孕んでしまうからだ。だが、正負の別に関わりなく、いや、負であればなおのこと、サイト批評におけるリンクは、最低限の礼儀である。そうでなければ、一部の引用文が、その主張の核心を象徴的に顕わしたものか、単なる言葉尻を捉えた揚げ足取りに過ぎないのか、読み手に判断がつかないからだ。サイト批評におけるリンクは、批評者の正否を問う、この上ない一次資料である。
 その後の日記によると、案の定、物議を醸したらしい。もともと手違いで公表されてしまったということだが、削除したりしないあたりは天晴れと言わねばなるまい。

註2)本人に向かって言わないことは、必ずしも「公言」しないことにはならない。ワタシが本サイトで言ったことを、たまたま「本人」が観て気を悪くしたとしても、それは致し方ない

2000.9.29 一部改稿

テメーで言ってりゃ世話はない「ひとこと」傑作選(1)
2000.11.21
 なぜ花柄!? なぜひまわり!? 「ひまわりプーチ」と言うが、どう見たってこれは「ひふ病プーチ」だろう。

ネチケットをブッとばせ(1) 〜目には目を 論には論を〜
2000.11.24
「そんな言い方ってないと思う」――ロジックで勝てない人間が、最後に縋る砦がココ、態度・表現の是非だ。それを間違っているとは言わない。ただ、ワタシからすると、それを言っちゃった時点で、論理で、頭脳で、弁舌で「負けてる」ってことを自ら認めるようなもので、格好悪いと思う。
 ワタシは自我の肥大した人間なので、そんな恥辱には耐えられない。作家・平井和正の掲示板に、わざわざ平井和正の悪口を書きに来るようなヤツは、逆立ちしたって友達にはしたくないイヤな人間に決まっているが、だからといって「だったら読むな」「あんたが書けば」「よそで言ってくれ」「マナーを守ってください」……そんな相手の主張に何ら反駁を加えない、クラス会的良識論でお引き取りいただいても、こっちの腹の虎はおさまりはしない。理屈には理屈で論破しなければ。「オメーの主張など屁だ」ということを論理的に、それも圧倒的なそれをもって証明してこそ、こちらの溜飲も下がろうというものだ。
 己が未熟によりそれがかなわない時は、ワタシなら何も言わない。心の中にある「いつかお前を超えたる帳」に彼の名を刻み、弁舌の牙を研ぐ精進に励むまでだ。喧嘩に負けることは恥ではないが、負け犬の遠吠えをすることははっきり恥ずべきことだ。

 負け犬の遠吠え、と言っては言葉が過ぎるかもしれない。だが、悪意に基づく発言であるにしろないにしろ、「理」をもって斬りかかる相手に対し、「斬りかかる」行為そのものの道義的違背を指摘するのは、アンフェアというのとは違うが、コドモ同士のケンカで、負けたほうが親や教師に言いつけるかのような、カッコ悪感を覚えるのだ。
 殴りかかってくる相手に示すべきは、「殴ってはいけません」という社会の道徳ではない。「お前の拳より、俺の拳のほうがハードでタフだ」と思い知らせることだ。相手のたのむ理論という武器を、理論をもってへし折ることだ。
 もちろん、事は口で言うほど簡単ではない。言論腕自慢たるネット喧嘩師に、知的腕力で凌駕しなければならないのだから。普通なら、心ない人間に言語スキルで劣ることなど気にすることなく、ただ不愉快な人間が視界から消え去ってくれさえすれば、それで満足だろう。それでは気が済まないのは、ワタシが冥府魔道を逝くディベート武者修行、言論バガボンドの旅の途中ということなのかもしれない。

 だが、ワタシはそれほどに特殊な、闘争的ネットライターなのだろうか。ワタシはある種の疑念を抱かずにはいられない。それは心なき闖入者に、クラス会的良識論で非難する、一見平和的であるかに見える人達についてだ。なぜ、そんな無駄なことをする? 心ない人間に、良識が通じるはずがないことは判りきっているのに。彼の良心に、一縷の望みを託しているとでもいうのか? そうではあるまい。
 相手をする必要さえ、そもそもないのだ。心ない人間は、その心無さによって、すでに墓穴を掘っているのだから。にも関わらず、あえて注意のひとつもしてみたくなるのは、結局のところ、散々なことを好き放題言ってくれた相手に対し、一矢なりとも報いたいという、荒ぶる闘争の血が騒いでいるからではないのか?
 そのことを忌み嫌う必要はない。闘争本能が旺盛なのは、健康な証拠だからだ。こと性欲に関しては、健康的として是認される一方で、闘争本能が野蛮なる心の病であるかのような風潮には困ったものだ。そのように闘争本能を変に抑圧したりするから、かえっておかしな具合に噴き出してしまうのだ。そうではない。闘争本能を正しくコントロールするための、「義」を忘れない心掛けこそが大事なのだ。ちと大きく出過ぎたか
 とまれ、荒ぶる闘争の血が、クラス会的良識論を言わせるのだとすれば、なおのこと感心はしない。そんなことで言論腕自慢君は痛手を被ったりはしないのだから。何より、「不快」「失礼」「暴言」……こういった判断基準には個人差があって、「ひど過ぎると思います!」という人がいたかと思えば、「僕はそうは思わない」という人もいて、埒もない水掛け論になりかねない。もちろん、みんなから嫌われ、満場一致で「荒らし」と認定される手合いもいるわけだが、こんなのは荒らしとしても程度の低い奴である。
 だいたいヒドいことを言う奴は、そのことに無自覚であるか確信犯なので、そうした感情論は通用しない。さらに言葉遣いレベルで「許容の範疇」と判断する既存のメンバーがい、コンセンサスが得られなければ、今度は自分の立場を危うくすることになる(特に管理者)。
 これを避けるためには、主張の正しさで勝つしかない。即ち、相手の主張の成立基盤である根拠を覆すことだ。これには聴衆の感性・許容度といった個人差がなく、はっきりと白黒をつけてもらえる。無論、実際にはその正しさがわからない「バカ」もいるわけだが、所詮バカはバカなので、放っておいて差し支えはない。論戦の勝敗は当人に「参った」を言わせることではなく(そんなヤツはいない)、聴衆のジャッジで決まるからだ。

 口の上手さと人品骨柄の程度は比例しない。弁の達者なイヤな奴を屠るにも、それなりのパワーとテクニックが要る。「心正しい」だけでは、何事もままならないのはシビアな現実というものだ。だからこそ、どんなに心がザラつこうと、破れない主張には沈黙を守る賢明さは、持ち合わせていて損はない。繰り返すが、心ない人間は、その心無さで既に墓穴を掘っているのだ。
「なんだか知らないけど、無性に腹が立って来ます」などというコドモのケンカのごとき発言は、ほかならぬ発言者自身の不名誉なのだということを、どんな心穏やかならざる時にも忘れたくはないものだ。

またまた、つまらぬ者を斬ったか
2000.12.13
 また、荒らし君(?)を一匹、屠りました
 こうなってみると、そもそもお薦めの作品を訊いてきた、最初の登場からして疑わしく思える。「まったく平井作品読んでません」などと言っている割に、最新作のあとがきのことまで知ってたりするあたり特に。aragiとはまた、よく出来たハンドルネームだ。arasiのメタファーなのか。
 無論、荒らしが目的かそうでないかなど、さしたる問題ではない。自分から議論を吹っかけておきながら、その反論にまともに応じることもできず、挙げ句に平井和正を贔屓目で見るからそんな考え方をするのだと言わんばかりの(姑息にもテメーで削除しやがったが)詭弁を弄する手合いには、それなりの対応をするまでだ。

 無遠慮な口の利き方をする人間というのはいる。人並みの気遣いはないが、そのかわり悪意もない。そういうタイプは、逆に無遠慮な口の利き方をされても、腹を立てたりしないものだ。彼にとっては、それがフツウのコミュニケーションの在り方でしかないからだ。
 aragiなる人物は、それとは違う。こ奴は、自分は平気で他人を否定するくせに、自分は他人から否定されるのが大嫌いという、単なる自己本位のお子ちゃまに過ぎない。
 お子ちゃまにはお子ちゃまなりの、あやし方というのもあろうが、ワタシはこの手の輩の高慢の鼻をへし折るのに、一片の躊躇もしない。

 まったく何が望みでこんな愚行に及ぶのやら。己れのちょっとばかりの文章力を鼻にかけ(あの程度でか!?)、インターネットにもはや敵なしとでも思うたか(あの程度でか!?)。平井和正掲示板に集う参加者を愚弄し、引っかき回し、議論に勝てば、肥大した自我が充足するとでも思ったか知らんが、それによって自分こそ公衆の面前で赤っ恥を晒し、自我に痛手を被るとは考えなかったのか。
 納得できない相手の主張に、せめて「そういう考え方もできるのですね」と相手を立てる鷹揚さなど、もとより持ち合わせがないのだろうが、納得できない相手の主張を否定するのに、論理的に言い返せなければ、それは「論破された」ということなのだ。

 2000.6.3付「また、つまらぬものを斬ったか」でも触れたが、平井和正読者にちょっかいをかけて来る野郎っていうのは、どうしてこうどいつもこいつも同じパターンなんだ? ひょっとして同一人物か?(まさかなー。レベル落ちてるし) 管理者削除にもなる前から尻尾を巻いて自己削除するぐらいなら、はじめから強気に出るなというのだ。喧嘩を売るなら買ってやらないでもないが、こうも歯ごたえが無いと、退屈しのぎにもならねー。
 原末を入手して以来、ビタミンCの摂取量は、飛躍的に増大しているのだが、こういう気性は相変わらずであるなー。まあ、ワタシの場合、荒らし一匹、始末するのに、ことさら「キレる」必要もないわけだが。この程度なら鼻歌混じり、ってとこですか。(※)


※平井和正掲示板用に書いたものなので、一般の方にはわかりにくい点があります。ご容赦ください。平井和正の弁によると、ビタミンCの大量摂取により、キレやすい精神が穏やかになるそうです。――でも、これは掲示板には上げられんよなあ。“ジェントル”カナメっちのイメージが崩れる。そんなイメージはハナからない?

走る花嫁の謎を追え
2000.12.18
 師も走ると書いて師走と言いますが、この忙しい時期、皆さまいかがお過ごしでしょうか。などと、ベタベタの時候の挨拶などしてみたのは、ドラマってつくづく、ウェディングドレス姿の花嫁が街中を走るよなぁ、と嘆息したからでございます。
 なんだかんだ言いながら、けっこう観てきてしまったCXドラマ「やまとなでしこ」。走りましたで、走りましたで、松嶋菜々子。内閣総理大臣まで招いた東幹久との挙式、堤真一の容態急変の報せを小耳に挟んで、飛び出していきよりましたわ。
 ドレスの裾を掴んで駆けていく松嶋、何事かと振り向く通行人(そりゃそうだ)、いままでの名場面のフラッシュバック、もちろん、大ヒット中のMisiaのテーマソングの挿入も忘れはしません。――ここまでフォーマット通りだと、かえってお見事と言うしかありませんな。完成されたフォーマットというのは、あらゆるアレンジが「より劣る」結果しか出せないからこそ、それは完成されてるということなんでしょうが。。。
 分別ある常識人にはできないことを、代わりにやってくれるところが、虚構たるドラマの存在意義でもあるわけですから、その「現実にはない」ことに、紋切り型の文句を垂れてもしょうがないんですけれども。しかし、現実にはないことが、ドラマにおいては頻発するとなると、これはある種の滑稽感を見出さずにはいられないわけです。
 だいたい、挙式の最中の花嫁を奪いにいく、あるいは、挙式を飛び出して好きな男のもとに走る――こんな大それた決断力と行動力があれば、もっと以前になんとかしているハズなのです。ですから、ドラマのこの定番シーンにおいて、心ない視聴者(誰のこと〜)のツッコミを入れさせないためには、いかにそこに至るプロセスに、文句の差し挟みようのない必然性を盛り込むかにかかっています。その点「やまとなでしこ」は、まあまあ考えたほうかもしれませんが。
 でも、一度でいいから目撃してみたいよな〜。ウェディングドレス姿で街を駆けてゆく花嫁を。UFOを見た、なんてのより、ぜったい自慢できると思う。

初出 World's end Patio 改稿

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