萬文書
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Red-robin's Factory
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あらためて「BR」を語ろう
2001.1.2
 みなさま、あけましておめでとうございます。21世紀になったからといって、突然なにが変わるものでもないでしょうが、とりあえず、ワタシのサイトについては、平井和正関係を中心にリニューアルしたいと思っております。
 昨年はムック「BRI」(バトル・ロワイアル・インサイダー)に書評が取り上げられまして、太田出版さまより映画のチケットもいただいたのですが、多忙につき未だ鑑賞しておりません。よって、20世紀最後に観た映画は、「恐怖奇形人間」になってしまいましたわ! 「ウルフガイ燃えろ狼男」で止めときゃよかったんですが……なにせ悪趣味なもんで
 勢いに乗って、21世紀最初に観る映画は、「シベリア超特急2」にするか! せいぜい単館上映かと思っていたら、首都圏だけでも4館も上映するというから驚きですわ。どうかしとるよ、この国は!

 それはともかく「バトル・ロワイアル」であります。暗黒書評というのは、その名の通り、どちらかというと日の当たらない書物を取り上げ、その素晴らしさを知っていただこうというのが趣旨なんですが、いや〜「バトル・ロワイアル」、ずいぶんと日が当たりよりましたな〜。ベストセラーだわ、漫画になるわ、まさかと思った映画にまでなってしまうわ。おまけに型どおりのスクエアなオバサンの抗議とそれに乗っかるバカな政治家とが、世間の注視をより煽ってくれちゃうし
 あの書評のなにが恥ずかしいって、この作品を「鬼畜系」などと評する人間は、そもそもいなかったという点に尽きる。そんなのは、体面・世間体を重視せざるを得ない文学賞選考委員と、それこそスクエアなオバサン的ガチガチの良識主義者ぐらいなもので。
 だいたい鬼畜系呼ばわりを非難しておきなんがら、「「中学3年生」を「動物」に換えたとすると担当官は「ヌツゴロウさん」になったりする」だの、「初めて殺した あなたのために 冥土の土産に 贈る言葉」だの、書いてる本人が一番「鬼畜」じゃないか。角川ホラー大賞は、選考委員のひとりH・M女史の顔面に決定! というジョークはやっぱり鬼畜系っスか?

続・あらためて「BR」を語ろう
2001.1.26
「光子、あんた武器はなに使ってんの?」
わたし、使ってません(^^)」
(ポンズ・バトル・ロワイアルッ)

 柴咲コウ演じる相馬光子を観ながら、ワタシの脳裏には、このありもしないシーンが浮かんでは離れなかったのだった。そんなわけで、ようやく観ることのできた映画版『バトル・ロワイアル』の批評も含めながら、ワタシの裡なるバトロワ(以下「BR」)をソーカツしてみようと思う。

「BR」はB級バイオレンス(の傑作)である。「暴力を描くことの文学性」などという、しゃらくさいことはもはや言うまい。そんなものは、タニザキ文学のエロスの礼賛と少しも変わらない。「暗黒書評」では、それに近いことをやってしまったので恥ずかしく思っている。
 小説版の「大東亜共和国」にせよ、映画版の「BR法」にせよ、そのガジェットはあまりにも荒唐無稽だ。だが、荒唐無稽を排除すれば、「BR」という物語もまた、成立の基盤を喪ったであろう。中学生のクラスに殺し合いをさせ、生き残り一名のみを選出する、そのシチュエーションが、リアルな設定によって成立し得ると言うなら、その具体案を是非お伺いしたいものだ。設定の荒唐無稽さに対する批判は数多く眼にしたが、そこまで言及した例をワタシは知らない。
 荒唐無稽それ自体は、一概に否定されるべき性質ではない。現実的に描けるはずの部分を敢えてそうすることによって面白味を殺いでしまう、要らざる荒唐無稽が批判されるだけだ。生徒と教師が銃火器で戦う“教育ウエスタン時代”というムチャクチャな設定の上に、「ガクエン退屈男」は永井豪の名作たり得た。これが角材と火炎瓶で機動隊と争う、リアルな学生運動のフレームに収まっていたら、早乙女門土も身堂竜馬も、あれほどの輝きは放てなかったであろう。
 同じことが、「残酷さ」にも言える。言うまでもなく「BR」は、残酷な物語だ。生理的に受け付けられない者もいよう。しかし、真に問われるべきは、その残酷な状況が、登場人物にいかなる感情を惹起せしめ、いかなる物語を織りなせしめたかにあるはずだ。ワタシに言わせれば、残酷だ、気持ち悪い、といった生理的感覚だけで、この作品を低級だと決めつけるのは、シェイクスピアに向かって、「ハムレット」は悲しすぎる、こんな劇は観たくない、と言っているのに等しい。いや、個人の感覚はひとそれぞれであるから、主観でどう思おうが語ろうが構いはしない。だが、それを客観的な作品の「程度」として語るとき、同時に己れの評者としての「程度」をも、自ら語ってしまうことになるということは、一言しておきたい。

 バトルターミネーター桐山並みとは言わないが、ワタシもある種の情緒を欠落させている自覚はある。残酷描写不感症とでも言おうか、文章・映像を問わず、少々の描写では眉ひとつ動かさずに済んでしまう。だから逆に、そんなことで「ラリホー!」と生理的に興奮することもない。従って、この点についてはかなり客観的になれる。映画を観た印象を言えば、この程度でR指定を受けねばならんのかと疑問に思ったことは確かだ。戦場描写のエグさで言えば、「プライベート・ライアン」のほうが、はるかに上を行っているだろう。
 ここでR指定の基準を云々する気はない。どうせ抗議運動に対する政治的譲歩でしかないのだろうし、だいいちR指定なんてザルなんだから、観たい中学生は普段着で観に行けばいいのだ(学割は使えないが)。大人の押しつけた、くそやくたいもないルールに従うだけが能じゃない。そんな大人どもなど、出し抜いてやれ。そのことを「BR」の読者なら学んだハズだ。

 映画はよくできていたと思う。なによりも脚本が素晴らしい。まともにシナリオにしていたら、ワンクールのドラマになってしまうほどのボリュームある原作を、ひとり、またひとりとクラスメイトが「脱落」していく様を「残り○人」と原作同様に進めながら、一本の映画に収めてのけた手腕は見事だ。
 とりわけ白眉は、国信くんの処刑シーンだろう。原作では、担当教官に銃殺されてしまうだけなのだが、映画では首輪爆弾のリモコンをONにして、爆死させてしまう。厭らしいことに、爆発までには時間的余裕があって、国信くんは泣き叫びながらクラスメイトに助けを求めて縋るのだが、むろん助けるすべがあろうはずもなく、クラスメイトは皆、彼を突き飛ばすのである。これは本当に厭なシーンだ。あなたなら、国信くんを突き飛ばしたクラスメイトを責められるだろうか。可哀想だが、自分だってそうしてしまうだろう。そう思うのではないだろうか。そうして、己れの厭な部分まで直視させてしまう。教育者よ、「BR」は「こころの教育」にも役立つぞ(笑)。真に残酷と言うべきは、こうしたシチュエーションに対してであろう。銃で撃たれて血がしぶくなんていうのは、単なる「ありのまま」な写実主義でしかない。
 主人公・七原秋也(藤原竜也)もまた、この惨劇をなすすべもなく見届けるしかなかった。これによって彼は、原作における「親友を理不尽に殺された被害者(復讐者)」から「親友を見殺しにした原罪を背負う者」へと深化するのである。このことは、原作に増して、物語に大きな深みを与えることになった。

 一方で不満もある。それは前田亜季演じる中川典子が、最後まで手を汚さなかったことだ。
 原作では、七原・典子・川田の善玉トリオは、各1名ずつ手に掛けている。最後まで生き残ったにしては、意外にも少人数だが、これは自衛に徹し、積極的な参戦をしなかったからだ。悪い言い方をすれば、キリングマシーンの両巨頭、桐山と光子が、地獄のトーナメントを勝ち抜いて、せっせと人数減らしをするのを傍観しながら、ライバル光子も倒して優勝まであと一歩の桐山を屠って、勝ちを攫ったわけである。無論、この[ゲーム]には、それもまた「あり」なのだが。
 その最後に桐山を屠ったのが、中川典子だ。川田の放ったショットガンの最後の一発が、桐山のドテっ腹を撃つ。だが、桐山は防弾チョッキを装着しており、不気味に起き上がってくる。残弾ゼロ。万事休す。その絶体絶命の窮地に、典子は誰にも向けなかった拳銃で、桐山の眉間を射抜く――。
 主人公・七原でも、頼れる[ゲーム]指南・川田でもなく、典子だったのはポイントである。映画「ダイハード」で、最後に現れた生き残りの悪党を射殺するのが、ブルース・ウィリスではなく、子供を誤射して以来、銃を抜けなくなったデスクワーク警官、アル・パウエル巡査部長だったように。ありがちなパターンと言えばそうだが、これは黄金パターンである。
 桐山(安藤・キッズリターンたけしと再会・政信)と川田(山本・メロリンQたけしと再会・太郎)をクラスメイトでなくしたのは、映画の時間的制約のもとでは、むしろそうすべきであったし、担当教官キタノが、もとクラス担任であり、典子に想いを寄せていたというアレンジも、もう一方の主役、ビートたけしの使い方としては当然だろう。だが、桐山殺し=典子、という図式は翻案すべきではなかったと思う。
 映画では、川田があっさりと桐山を撃ち殺して、ケリをつけてしまう。どちらが物語として「映える」かは言うまでもあるまい。単にワタシの好みの問題ではないはずだ。たけしに引導を渡すのが、藤原竜也ならなおのことだ。前田亜季は、桐山かキタノか、どちらかを殺っておくべきだった。この点は、映画への最大の不満として、挙げておきたいと思う。

 物語は自由であっていい。創作の定石や作法、そして、異論のある向きはあろうが、人間社会のモラルやルールからさえも。単なるタブー破りなど、くだらないだけだが、そこから生まれてくる物語、そこからしか生まれない物語というものが、ワタシはあると思うのだ。
 規制やモラルを取っ払えと言うのではない。それはそれで、なくてはならぬものだ。だが、真に必要とあらば、全ての創作者は、それらの軛を怖れず描きたいものを描く、勇気と柔軟さを持ち合わせていてほしい。それが世に出る幸運を得、受け手にその志が届くならば、受け手たる大衆自身が味方となろう。
 大人達の作ったルールに逆らい、数々の困難を乗り越え、まんまと出し抜いた七原秋也たちそのままに、「BR」が文学賞という権威に否定されても、ゲリラ的出版がなされ、そして大ヒットし、一部非難も良識主義に基づく妨害もものともせず、漫画や映画にまでなるほどの社会的ムーヴメントを巻き起こしたことが、ワタシには痛快だ。作者の高見広春は、作家としてはまだまだ荒削りだが、彼の今後には期待を抱かずにはいられない。
 走れ!

2001.1.27 一部改稿

恥ずかしい人達
2001.2.12
 なんかついこの間クリスマスだと思っていたら、気付いてみたらバレンタインの季節だそうだ。こんな時期に、こんな話題というのも、ありがち過ぎてどうかと思うのだが、こんな時期ぐらいしか言う機会のない、こんな時期になるといつも思うことについて言っておこうと思う。
 この時期になると必ず現れる人々というのがいる。「今年も独り。シクシク」とか「こんな風習はやめましょう!」とかいう人々だ。クリスマスだと「キリスト教徒でもないくせに…」なんて、いまだにそんなことを言っているのかという紋切り型のセリフも飛び出す。餓鬼の頃は無邪気に喜んでいたクセに。正確には、現れるんじゃなくて、その時期になるとそういうことを言い出すだけなんだが。
 そういった繰り言、泣き言、独り言を聞いて(見て)いると、たまらなく恥ずかしくなる。ワタシに言わせると、積極的にこうした世間的イベントに乗っかり、ハシャいでる連中は、むしろオッケーなのだ。それよりも、肩身の狭い思いをし、バレンタインデー廃絶を願い・主張する人々のほうが気になってしまう。
 なぜなんだろう(彼等は何故そのように思い語るのだろう)、とワタシは不思議に思ったりはしない。その理由はわかっている。前者は恋愛至上主義的世間の合格ラインに未達の我が身を嘆き、はかなんでいるのであり、後者は自分をそのような惨めな気分にさせる、世間の基準に滅びあれと呪っているのだ。
 その自我の脆弱ぶりが恥ずかしい。というか、それを恥ずかしいと思っていないところが、救いようもなく恥ずかしい。つまり、「恥」の感覚の置き所が、ワタシとは全く違う。彼氏彼女がいるのもいないのも、ごく普通のことである。恋人がいるぐらいのことを殊更に鼻にかけるのも馬鹿げた話だが、逆に恋人がいないことをコンプレックスに思うのも過ぎたる自己卑下である。
 彼等は本来恥ずべきではないところを恥じ、それを今度は恥ずかしげもなく口外することで、己れの真の恥を晒している。自分の立場を過度に恥じることは、立場さえ変われば、かつての自分と同じ立場の他人を辱めるということだからだ。バレンタインデーに反対を唱える人々も、いざ自分がチョコレートをいっぱいもらったり、彼女ができたりすれば、クリスマス&バレンタイン礼賛者に早変わりするのではないか。
 世間や人様と自分との相違をそのように汲々と気にする必要はないし、異を唱える必要はさらにない。それを楽しみにする人々がおり、それに生活がかかっている人々もいるのだし。それよりも、そんなことを気に病んでいるようだから、いつまでたってもオンナもできないんじゃないのか

恋愛文化大革命21
2001.2.20
 前回、あんなことを言ったバツだろうか、今年はゼロ個ものチョコレートを戴いてしまったぞ。どうした? オレのオンナども!?(←これもゼロ人ほどいたりしてな)
 もちろんオレは、毎年のチョコの数を大いに気にしておるぞ。だからこそ、あんなことを言うのだ。決まっておろうが

 恋愛の不公平を是正するためには、もはや共産党革命しかあるまい。ゆけ、モータクトー娘。たち! モテ男どもを粛正せよ! これがホントの恋愛文化大レボリューション21だ。タマ金大虐殺だ!!!

#今回のネタは、YさんおよびMさんより、頂戴いたしました。お礼申し上げます。いや、一夜のチャットだけで使い捨てにするには、あまりに勿体ないお話でしたので。

2001.2.23 改題

カトウシメゾウ……?
2001.2.22
 加藤諦三氏については、説明は要るまい。ラジオで「改善できることは改善しましょう。改善できないことは受け容れましょう」と言っている「いい話」をする先生である。
 さて、ワタシはひょんな理由から、この先生のお名前を書く必要に迫られたのだが(あまりにも「ひょん」過ぎる(?)ので、その理由については書かない)、残念ながら加藤○三の○の部分の字がわからない。インターネットというのは、調べものをするには大変便利なツールなのだが、調査対象の肝心の名前が曖昧だと、その糸口さえ掴めないものだ。
 そこで、曖昧な記憶をもとに、それっぽい字を当てて、サーチしてみたら、ヒットしたので、これで間違いなかろうと思ったのだが、どうもおかしい。高名な先生にしては、公式サイトが見当たらないのはともかく、たった20件(執筆時現在)というのは、あまりにも少なすぎる。
 そう。ワタシは加藤諦三を「加藤三」で検索していたのである。……だが、ここで恐るべき事実に気付く。インターネットには、ギャグでもパロディでもなく、加藤諦三を「加藤締三」と真面目に、書き間違えたか、もしくはそう思い込んでいる人々が、20名も存在しているのである!
 そのなかには、「精神的に辛いとき・・・過去にはよく氏の本に救われた」と言ってる人もいた。自分を救ってくれた本の著者の名前を間違えるのはどうよ。ま、ワタシもひとのことを言えた義理ではないが。

マスクを語る
2001.3.14
 といっても、獣神サンダーライガーが着けているような仮面の話ではなく、この季節、花粉症の皆さんがしておられるような、鼻・口を覆うガーゼでできたアレのことなのだが。(花粉除けに、ライガーのマスクを着けるというのも、それはそれで面白いが)
 あのマスク、なぜ判で押したように「白」なのだろうか。医学的・機能的に、それが最適であるというのは解るが、実際にマスクをつけて外出するのであるから、もう少しファッショナブルになっても良さそうなものだ。事実、東南アジアでは、防塵用のカラフルなマスクが多用されていると聞く。
 医療目的ゆえにマスクは白、という思い込みの所産なのだとしたら、これはビジネス・チャンスかもしれんぞ。ファッション・マスクで大儲け。早い者勝ちだ。マスクがオシャレになれば、辛い花粉症の季節も、少しは気分も浮き立とうというものだ。……完全に他人事で言ってますな。
 しかし、マスクに色模様、というと、どうしても「旭日」とか「鉤十字」みたいな、暴走族仕様しか思い浮かばないのはどうしたわけだ。

バスルーム・エネミー
2001.3.29
 これをお読みの皆さんのなかで、風呂場でに遭遇した経験をお持ちの方はいるだろうか? これはなかなか珍しい、かつ、スリル満点な出来事ではないかと思う。ワタシはこれを書いている今しがた、それを体験したのである。
 湯を入れるときには、そいつはいなかった――のではなく、たぶん気付かなかったのだろう。湯を張り終わり、衣服を脱ぎ去り、風呂場に入室。さて、湯船に――という矢先に、ブーンという羽音とともに「そいつ」は現れた。――アリに似たスタイル、空中でホバリングする飛行、虎縞の胴……。間違いなく、蜂である(!)。それも、ミツバチのような小ぶりなガタイではない。それより、もっと上のクラス(笑)である。
 うわうわうわうわッ、と感情発声をあげて風呂より避難、ドアを半開きにして、そいつの正体を見極めたワタシは、とりあえず風呂のドアを閉めて、はたと考え込んだ。ネットバトルなど怖れるカナメさんではないが、狭い個室で蜂と戦うのは身に余る度胸が要る。しかし、流しでゴキブリを目撃したのとはわけが違う。「見なかったことにしよう」というわけにはいかない。なにしろ風呂なのだ。風呂に入れないのは困る。だいたいユニットバスなのだから、トイレも一緒なのである。蜂と戦う度胸はないが、さりとて、蜂がブンブン唸っているそばで、頭を洗ったり、クソをたれる度胸は更にない
 覚悟を決めて、ヤツを屠ることにする。とりあえず、脱いだジャージの上下を着用し、身体を防護する。軍手、覆面、ゴーグルも欲しいところだが、急場には間に合わないので仕方がない。幸い、蜂には光に向かう習性があり、照明のそばで、ほぼじっとしている。そこにこちらの分があった。が、もし仕留め損なうと、厄介なことになる。

 勝負は一瞬でついた。タオルを手にして一撃で圧殺――だが、これを失敗。ヤバッ。蜂は洗面台に墜落。ダメージを負ったようだが、まだ動いている。すかさず二撃目。今度はジャストネート。ホッ。
 そいつをくるんだタオルを玉状にし、これ以上ない圧力を加えつつ戸外へ。タオルを拡げて、そいつの亡骸を落とすと、一応念のために再度ツッカケの底でプレスする。
 それにしても、何故、風呂場に蜂が? 上京した沙紗さんとお会いした時にいただいた花が、かれこれ二週間近く元気に咲いているのだが(他に場所がないので、トイレタンクの上に飾っていた)、その花の香りに誘われてきたのだろうか。だとすると、少々気が咎めないでもない。だが、蜂と同居はできん。悪く思うな
 更新が滞っている折りに、おいしいネタがでけたな〜、と思ったのは、もちろん死闘を終えてからのことである。

ネチケットをブッとばせ(2) 〜罵倒のライセンスを持つのは、君だけではない〜
2001.5.12
 インターネットの掲示板は、言わば「言葉の闘技場」としても機能する。とは言え、機能するからといって、それをしていいということにはならない。現実の路上で、ストリートファイトは行えるが、それが社会の法律に適うかどうかは別問題であるのと同じことだ。
 ボクシングのリングでは対戦相手を殴ることが許される。だがそれは、対戦相手もまた自分を殴ってくるという互いの了解のもとに成立するルールである。インターネットはボクシングのリングとは違う。だから、そこにボクシングのルールを持ち込むがごとき俺ルールを楯に、ひと様に殴りかかって来られても迷惑なのだ。
 しかし、そのような手合いに対し、ここはボクシングのリングではないと言って諭すのは、ワタシの性に合わない。あんたがそういう理屈で他人に殴りかかろうというからには、ワタシにもあんたを殴る自由と権利が発生するのだぞ。――それがワタシの火の粉の払い方であるし、それで払えなかった火の粉はない。
 なぜ人を殺してはいけないの? などとヌカしくさるガキがいるらしいが、ワタシならこう答える。お前が人を殺していいんなら、俺もお前を殺してええっちゅう理屈やぞ。その覚悟はできとるんやろうな――。あんたが発言の自由と称して「罵倒許可証」を持つと言うなら、それを持っているのは何もあんただけではない。ワタシも遠慮なくそれを行使させてもらうが、まさか文句は言うまいね?
 ところが、文句は言うのである。自分が他人を虚仮にするのは「発言の自由」。そのくせ、自分が他人に虚仮にされるのは「人格権の侵害」であるらしい。こんな自己本位な甘ったれ野郎を、二度とワタシの視界内でナメた口を叩かせない程度に懲らしめるのに、ワタシは一片の躊躇も後悔もしない。正義で言っているのではない。これは鬼の掟である。ワタシもまた「荒らし」と称される連中に負けず劣らず鬼畜で悪党なのだろう。悪党の最大の敵は悪党なのだ。
 そして、昨日も今日もまた明日も、ワタシは「つまらぬ者」を斬り続けるのかもしれない。(哄笑。そして、飛び立つ蝙蝠の群れ)

間違いだらけの言葉選び(1)「自己満足」
2001.5.29
■芸は読者のためならず

 このホームページは自己満足でやっています、などと案内しているサイトをたまに見掛ける。そういうサイトを覗いてみると、確かに自己満足としか評価の下しようのない内容が展開されている。まさに看板に偽りなしであって、「全く新しい視点で〜」とか、「辛口トークでお送りする〜」といった、誤った自信に基づく不当な自己申告よりは、遙かにマシと言わねばなるまい。
 ただ、この言葉に若干の問題を指摘しておくならば、その用法が謙虚や韜晦ではなく、自分の怖れる評価を牽制するためのエクスキューズでしかないということだ。「これは自己満足だ」と言われた時に、「そうだよ。ちゃんとそう言ってるモン」と言い返す、そのための保険でしかない。
 煎じ詰めれば、個人サイトなんて、みんな自己満足でやっているのである。しかし、それだけでは完結しない。もし本当に自己満足で充足するなら、正負を問わず評価の付けられようのない、自分だけの大学ノートに、想いを綴れば済むのだから。
 だが、そうではない。Webサイト運営には、自己拡大欲が分かち難く結びついている。自分をより多くのひとに知ってほしい、受け容れてほしい。相互リンクをお願いするのも、検索エンジンに登録するのも、カウンターがアップすると嬉しいのも、すべてそのためであろう。自己満足では、決して自己満足していないはずなのだ。
 とすれば、自我防衛のために「自己満足なんだから、ゴチャゴチャ言ってくれるな」などといった見え透いた虚勢を張るよりは、「拙いページですが、お付き合いいただければ嬉しいです」と、素直に言ったほうが、より好感を持たれよう。(自分とは縁もゆかりもない)つまらないサイトをまるで親の敵のごとく罵倒する者もいるが、気にする必要はない。そんな「ちょっとオカシな方」は、ごく少数派であって、ノーマルな反応は単なる通りすがりとして通り過ぎるだけなのだから。
 つまらないページは捨て置かれる。これがシビアな現実である。だから、少しでも眼を留めてもらおう、リピーターになってもらおうと努力する。先の例とは逆に、「自己満足にはしない」と気合いを入れまくった所信表明をしている人もいるが、そこをちょっと勘違いしているのではないか。できるだけ面白い内容にしようというサービス精神は、なにもインターネット上の「倫理」ではない。つまらないサイトを作るのは、別に悪いことではないのだ。さきほど述べた、「つまらないサイト」批判の滑稽がここにある。「子どもの写真なんか載せてんじゃねーよ!」などと言ったところで、だったら読まなきゃいいじゃん、でチョンである。
 より衆目を集め、他人を楽しませるページを創る、その動機の根本は自己拡大欲にある。読者への配慮も思いやりも、最終的にすべては自分のためである。そのことに気付けば、ダメなサイトをこき下ろすのも、開き直りによって自己サイトのダメさを弁護するのも、あるいはダメさの克服を高らかに宣言するのも、ともに莫迦莫迦しい行為であることに思い至るのではないだろうか。

■インターネット動物園説

 ナンシー関は、芸能人の遊興番組の機能を捉えて「動物園的役割」だと評した。けだし名言と言わねばなるまい。ナンシーの洞察力と表現力、流石である。ワタシもこれに倣い、Webサイトを動物の檻に喩えてみたい。
 Webサイトを観て回っている人間の感覚というのは、まさに動物園の動物を鑑賞しているそれに等しいと思う。ことさら、サーカスの動物のように、球に乗ったり、一輪車を漕いだり、火の輪をくぐったりせずとも、ウロウロしたり、吠えたり、エサ喰ったり、昼寝をしたりといった、いつもの生態を見せているだけで、観てくれる人はけっこう観てくれるものだ。ただ一点、自分の意図した見られ方とは違うことを除けば。
 その点、「日記」というコンテンツの在り方は正しい。自分の日常を何も飾らず(無論、要所要所は飾ったり、隠蔽したりしているにせよ)不特定少数に観ていただくというスタイルは、まさに自覚的な動物園の動物状態だと言える。とは言え、ワタシ自身は、「日記」というスタイルを継続的なコンテンツに加える気はない。動物園の動物がイヤなのではなく、自分の日常を語ることに、ワタシ自身が興趣を覚えないからである。
 個性、だとか、ヒネリ、だとかを意識するあまり、妙なことになってしまう人がいるが、それこそ自分の意図とは別の、「よくある動物の生態」として鑑賞されてしまうことになりかねない。「紋切り型の正論を乱暴な言葉遣いで語っているだけの“自称毒舌”」とか。
 そうした動物園の動物にならないためには、逆説的だが動物園の動物になることを怖れないことだと思う。自分の伝えたいことをできるだけ正確に伝える。その結果として、個性なんてものは自然と滲み出てくるものだ。板につかない、自分がそうありたいと望む個性を自己演出すればするほど、逆に隠しておきたい自分の本性を看破されることになる。虎の振りをし、周りにもそう思われていると勘違いしている猫、として面白がられることになるのだ。ま、こういう捕食の対象がいるから、ウチらも猛獣稼業をやっていけるんですがね。ゴロニャン。

2001.6.20 一部訂正

どうするどうなるクラリス大公
2001.6.20
 金曜ロードショーの「ルパン三世 カリオストロの城」を観る。
 巨匠宮崎の名作の誉れ高いこの映画の魅力について、いまさらワタシが語るまでもなかろう。モーリス・ルブランへの憎いオマージュ(「カリオストロ伯爵婦人」。ちなみに本作のヒロイン・クラリスは、アルセーヌの最初の妻となる)。第二期テレビシリーズ「赤ルパン」全盛期における青スーツ復活に伺えるこだわり。「空を飛ぶことだって」「湖の水を飲み干すことだって」できるのに、という大言壮語が見事に成就してしまう巧みなシナリオ。……エトセトラ。
 巨匠宮崎をあんまり好きではない、どちらかと言うと、ストイックな“おじさま”→善玉ルパンの「カリ城」よりも、助平丸出し悪党ルパンが人類史数千年を生き抜いた怪物マモーと不二子の奪い合いを演じる、劇場用第一作のほうが好きなワタシでさえ、本作が絶賛される理由を挙げるのに苦労はしない。

 だが、今回ワタシが語りたいのは、そんなことではない。いったいこの後、カリオストロ公国はどうなってしまうのだろうと思ってしまうのだ、ワタシは。
 偽造紙幣たるゴート札こそは、人口わずか三千五百人というマンモス小学校の生徒数並みの小国の経済を支える(裏)産業であり、国際社会に伍して渡り合う外交上の切り札であっただろうことは想像に難くない。それをルパンと銭形が、地下工房を焼き払ったばかりか、その存在を生中継で世界中に放映することで、息の根を止めてしまった。
 ニセ札は経済に混乱を招く大罪ではあるが、単にカリオストロ公国一国の国益を考えれば、この損失は大であろう。生活が困窮する国民の不満は、摂政カリオストロ伯爵に替わって国家元首になった、クラリス大公へと向けられるのではないか。加えて、独立国家が営む偽札作りという国家犯罪に対する、国際世論の矢面にも立たされることになる。
 クラリスは、見た目通りの単なる純粋可憐な美少女ではない。謀略と暗殺に彩られた大公家の歴史も、無論、熟知していよう。伯爵が「血は争えんな」「我が妻に相応しい」と言うのは、それだけの背景があるのだ。しかし、そうは言っても、この苦境は、修道院帰りの少女の身には、いささか荷が重いのではないか。
 一陣の風のように、暴れて去ったルパンと銭形。確かに、彼等は命懸けで逃亡をはかりさえした、伯爵の花嫁という厭わしい運命から彼女を解放した。だがそれは、伯爵さえ始末すれば済む話であって、公国のゴート札の真実まで公にしてしまうのは、クラリスを更なる窮地へと追いやることになりはしないかと、物語の質とは全く違う次元でワタシは危惧してしまう。無論、ルパンはともかく、銭形のとっつぁんがあれを知って見過ごしにできるはずもないのだが。
 物語はゴート札を伯爵家のみを利するものであるかのように描いている。従って物語上に破綻はない。ワタシが言っているのは要するに穿った見方、考えすぎでしかない。ただ、ワタシは大公家の影として、政敵抹殺の汚れ仕事を一手に引き受けてきた伯爵家の滅亡を単純に慶事として素直に喜べない。悪の担い手たる「影」を喪失した公国の行く手には、様々な困難が待ち受けるであろう。群雄割拠の思惑渦巻くヨーロッパで、小国が生き延びるのはキレイ事ではないからだ。あるいは、クラリスのような可憐な美少女への糾弾を憚る人情の傾きが、国際的な力学にも働くことになるのだろうか。いっそ、生き残った伯爵の一の子分、ジョドーに全ての責任をおっかぶせるか。
 こんなことを考えてしまうワタシって、すごく性格悪いですか?

 否。むしろワタシは、こう進言したい。クラリスよ、ジョドーを使え(笑)。「不始末だな、ジョドー」(声 島本須美)。そう言って、ジョドー以下影のコマンドどもをこき使え。そうやって、清も濁も合わせ飲んでこそ、優れた為政者として、国民の仕合わせを担えるというものだ。ファンは嘆き悲しむだろうが、知ったことか。世の中そんなもんよ。(アニメだったっけ?)

2001.6.21 加筆

イチオシ・夏期限定バカドラマ「早乙女タイフーン」
2001.7.7
「夏期限定バカドラマ」とは、らいむ女史の友人、草薙歩美の提唱する(1)海が舞台、(2)若手俳優のラヴストーリー、(3)バカっぽい、という特徴によって定義される、夏場に見受けられるドラマを言う。その典型的な例としては、反町隆史・竹野内豊がW主演した、「ビーチクボーイズ」が挙げられる。反町がビーチクを見せまくる、97年のフジ月9である。なお、セルフツッコミは入れないのでヨロシク。
 さて、今期の「夏期限定バカドラマ」であるが、その筆頭はダントツでテレ朝の「早乙女タイフーン」に決まりだ。番宣を見てウケまくり。第1話のあらましは、事故多発のため閉鎖寸前の海水浴場で、厳しい規則によって安全を図ろうとするライフセーバーと、そこにやって来た「楽しくなければ海じゃない」という考えの加藤晴彦がぶつかり合うというものだ。ここまでは別に、どうということもないのだが、あろうことかこの二人、意見の対立の決着をなんとビーチフラッグスでつけようというのである。……マジメにやれ、などというツッコミさえ虚しい、これぞバカドラマの真骨頂ではないだろうか。
 一体全体なにがどうして、そんな大事な問題をビーチフラッグスで決める成り行きに発展するのか、ちょっと気になってしまう。「恋のから騒ぎ」は1回休んで、観てみることにするか。「新しい教科書」問題の是非も、ビーチフラッグスで決めてみてはどうだろう、西尾先生?

矛と盾。ワタシの戦争モノ論
2001.7.16
『A.I.』にも興味はあるが、劇場スクリーンで観たいのは『パール・ハーバー』だ。えひめ丸の一件といい、沖縄少女暴行事件といい、反省の色もなく尊大な、ニッポンをナメているアメリカン・アーミーどもに、時を遡って我らが帝國海軍さまがお仕置きしてくださる痛快無比なコンバット活劇ムービーだ。……ワタクシ、なにか大きな思い違いをしてますでしょうか?
 物語の鑑賞法など自由なのだから、なにも制作者の意図通りに受け取る必要はない。好きなように観ればいいのだ。それにしても、『パール・ハーバー』への強張った空気は興味深い。なにも極悪非道な日本の過去を美化することのみがダメというわけではないらしい。まあこれは、人類の愚行の極致とも言うべき「戦争」を題材とする作品には、大なり小なり付きまとう宿命のようなものではあるのだが。それはもう、ロボットアニメにだって、難色を示す者はいるのだ。
 いやむしろ、ロボットアニメも不可、という人は、論理的に筋が通っていて解りやすい。面白いのは、『ガンダム』や『スターウォーズ』は可だが、リアルな史実を元にした戦争物は不可、という向きだ。戦争は忌まわしい事だから、それを痛快に描くなんてとんでもないと言う人々は、アムロやルークが敵を殺しまくっている架空の物語を愉しむ「もう一方の自分」と、どう折り合いをつけているのだろう。
 無論、ワタシも現実の戦争を肯定するものではない。自分自身が戦争に駆り出されるなどという恐ろしいことは真っ平だし、ひとを殺すのも、ひとに殺されるのもイヤだ。それでもなお、傍目で観ている戦争は面白いのである。その矛盾に苦しみはしない。ワタシはワタシの正直な気持をありのままに認めるだけだ。
 物語って、そういうものではないだろうか。現実においては赦されない物事、人物にさえも、ワクワク興奮させてしまう。それが物語の魔術だ。ろくでなしの男と日常に倦いた女が銀行強盗を繰り返す『俺達に明日はない』など、その最たるものだ。ポール・ニューマンの要請のままにパーティをやめ、誰もいない超高層ビルで火災が起こる『タワーリング・インフェルノ』など誰が観る? 誰が観たい? 現実はそれでいい。そうでなければならない。だが、物語はそれではダメなのだ。
『ダイハード』だって、当事者の身になれば、マクレーン刑事になりたがる者はいまい。ガラス片散らばる床を裸足で駆け回って、テロリストと銃撃戦をしたいなどというヤツは。だが、そんな誰もが尻込みする状況に、己れの職責と離婚寸前のそれでも愛する女房のため、敢えて飛び込むスクリーンのブルース・ウィリスの姿に、観る者は眼を奪われているはずなのだ。ヒーロー(ヒロイン)の過酷な運命に興じる。考えてみれば、ヒドイ話だ。ひとは誰も、自分の心に、矛と盾を抱えている。

 このように、現実の理想・倫理と、物語の面白さとは必ずしも合致しない。戦争は罪悪なのだから、それを娯楽的に描くのは赦せないと言うのは、生理的感覚としては理解できるが、その発言者にとって本当に筋が通っているかどうかは疑問だ。ならば職業犯罪者を主人公とする『ルパン三世』も『ゴルゴ13』も赦せないということになるが、そこまで言い切れるかどうかは疑わしい。ワタシが『トラ・トラ・トラ!』や『パットン大戦車軍団』を賞賛するのも、それが物語であったればこそだ。
 史実とは異なる「美化」がなされることもある。それもまたワタシは容認する。ストーリーの主体が醜悪であっては、物語も成立しにくかろう。新撰組だって、織田信長だって美化されている。美化された物語によって歴史上の有名人になった宮本武蔵など特にそうだ。旧日本軍だけが、美化の対象としてはならない理屈は通るまい。もちろん、旧日本軍が史実以上に醜悪に描かれることも、また然りだ。
 物語には確かに、影響力がある。創り手の力量次第では、洗脳並みのパワーを発揮する。国威の発揚に悪用されることもあろう。それでもなお、ワタシは物語に罪はないと訴えたい。罪があるとすれば、史実(現実)と物語は違うということをわきまえない、受け手の愚かしさにこそあると考える。
 良からぬ影響をもたらす(と考えられる)物語を取り締まるのではなく、物語を物語として愉しむ(あるいは一笑に付す)個々人の精神的成熟を促すことが、ワタシは社会の急務だと思うし、狭い了見で創作・言論が規制封殺されることのない社会をワタシは理想とする。平和主義を脅かすというので、戦争の肯定的表現を規制するというなら、それは平和への希求を込めた芸術や思想を弾圧したあの時代と、パラダイムのポジとネガを真逆に裏返しただけで、なにひとつ変わりはしない。人間が本当に成熟するということは、己れの好むものを是とし、好まざるものを非とする、その野蛮さを超克することにほかならない。
 物語にタブーはない。受け手を気持ち良くさせれば、物語の価値(勝ち)だ。

個人サイト三種の神器
2001.8.16
 プロフィール、リンクページ、掲示板。この三つをワタシは勝手に、《個人サイト三種の神器》と呼んでいる。あたかもビルの「定礎」のプレートよろしく、守るべきしきたりのように、これらのコンテンツを構えるサイトは多い。一方、ワタシはと言えば、ヒネクレ者らしく、当サイトにはこの三つとも存在しない。
 今回は、自分の直観の命ずるまま、本能的にやってきたことを改めて整理、明文化するとともに、日頃、インターネットを見聞していて思っていることを述べてみようと思う。

(1)プロフィールを書かないわけ

 まず始めに、「自分がどんな人間か」ということは、アップトゥデートに変わるから、という理由を挙げる。例えば、「好きな作家:平井和正」と書いたとして、一年後には嫌いになっているかもしれない。その時に、逐一手を入れるほどに、ワタシはマメではないことを自分で判っているからである。
 無論その時には、コンテンツの中身も大きく変わっていよう。結局、頻繁に更新されるコンテンツこそが、嗜好や興味、考え方も含めて、現在の自分というものを最もよく物語っているのだ。そもそも「ヒライストの狼」などというコンテンツを構えておいて、わざわざ「好きな作家:平井和正」もなかろう。逆に、常設メニューはおろか、日々の雑文にさえ登場しない事項は、自分にとって関心の比重が低いか、機が熟していないか、敢えて扱わないことにしている物件なので、それを明記する気は更にない。
 プロフィールの(不)必要性を一概に論じる気はないし、それはサイトの性質にもよりけりではあろう。ただ、ウチのようなテキスト系・日曜ライターのサイトには、その必要性は薄いと思える。サイトそのものが、厖大な自己紹介とも言えるからだ。そこに意味があるとすれば、その厖大な自己紹介をコンパクトにまとめるという役割だろう。
 しかし、それをキチンと機能させるには、自分の日々の変化とともに、こまめにそれを反映しなければならない。でなければ、結局それは「それを書いた当時の自分」でしかなくなってしまう。コンパの自己紹介なら、その場限りだ。だが、サイトのプロフィールは、自分が手を加えるまで継続しつづける。そうして、初めての訪問者に「私はこういう人間です」と、今とは違うかもしれない昔の自分を紹介し続けることになる。後述するリンクページにも同じことが言えるのだが、このことは、よくよく考えてみなければなるまい。

■飽きたとき対策

 更新が止まったまま、久しく放置されたサイトは、Web上に溢れ返っている。「7月3日更新」とか書かれていて、それを見ているのが6月だったりすると、いったい何年の7月なんだと思ってしまう。年度など書くまでもない、矢継ぎ早に更新する意気込みで始めたのだろうが、「ホームページ作り」にかける情熱は、男女の愛にもまして移ろいやすいものだ。
 これは老婆心よりの忠告だが、絶えずメンテナンスすることを前提に、サイトを作るべきではない。その程度のこととタカを括り、いまの情熱と時間的余裕をこれから先も維持できると思ったら大間違いである。気合いが入り、気分が乗っているときには、そんなことは考えないものだろうが、そこを敢えて、ある日突然、ホームページどころではなくなってしまったらを想定し、極力メンテせずに済む、サイト制作をするにしくはない。
 例えば、プロフィールに××歳と、年齢を書いてしまうひとがいる。これでは、誕生日を迎える度に更新しなければならない。これを生まれ年で表記していれば、この先更新の必要はなくなる。こうした工夫ひとつで、放置による実際とのギャップはかなり避けることができる。
 最終更新日を付記しておくのも、有効な手だ。「高校生です」という記述が、前年度に書かれたものなら、もう高校生ではないかもしれないということが、読み手の側に推察できる。
 ただそれは基本的に「恥ずかしい」ことなので、変化が有り得る自分の身分なども、避けたほうが無難だ。就職したのに学生さんだったり、結婚したのに独身だったり……。もっとも、そこまで言い出すと、プロフィールにはそれこそ、性別や生年月日、血液型ぐらいしか書くことがなくなる。
 結局、そういうことになってしまうので、ワタシはプロフィールを書くのをためらってしまうわけなのだ。誰か、ワタシの性別や年齢、知りたいですか? 初めてご訪問いただいた方ならいざ知らず、中身読んでりゃ判るでしょう。それとも、85年生まれ、女、と書いたら、額面通り信用していただけるんでしょうか? 「そして粛正の扉を」「トラ・トラ・トラ!」を絶賛する平井和正マニアの女子高生! あんまりお付き合いしたくないですな。

■データを欲する心理(読み手の事情)

 テキスト系サイトの場合、その作り手の人となりは、中身を読めばプロフィール以上に伝わってくるものだ。それでもなお、その人の「素姓」を知りたいという心理は、ワタシにも理解できる。
 それは眼前の女性のバストのサイズを知りたがる心理と似ているかもしれない。深夜番組で新人巨乳タレントに、木っ端レポーターがこんなことを言ったりする。すごいオッパイだねえ、サイズいくつ? ――しかし考えてみればおかしな話で、電話で聞いて想像を脹らませるならともかく、現にその眼で見事なバストを見ているのであるから、寸法を訊くのに本来意味はないはずなのだ。
 にも拘わらず、88センチでーす、などと答えられたりすると、あらためて驚き、ありがたがるのだから不思議だ。まさに1粒で2度おいしいである。どうかしてる、と言うのではない。ワタシのなかにもある、こうした感覚を、自分でも不思議に思うのだ。
 どこかで視覚情報だけでは不安があって、数値化されたデータを知って、安心する性質があるのだろう。なるほど文章を読めば、性別も年代も、おおよその見当はつく。ただそれは、読み手の「見立て」によるもので、正しいとは言い切れない。算数の問題をいかに自信をもって解いたとしても、やはり答は知りたいものだ。ワタシのことを十代の女の子だと思う人はまさかいないだろうが、それでも三十代・男という自己申告(=正解)を聞くことで、なるほどと納得・安心できる、そんなものなのかもしれない。

■返答なき自己紹介の空しさ(書き手の事情)

 その意味で、プロフィールの設置は、訪問者に対する「親切」ではあろう。時の風化に晒さず、賞味期限の切れた自己紹介の化石を他人様に見せないという大前提においてではあるが。だがワタシは、一見さんにそこまで親切にする義理はない、とも思う。
 コンパであれ、お見合いであれ、オフ会であれ、自己紹介とは双方向である。他人のそれを聞くからこそ、自分もまた自分が何者であるかを口にする。
 当たり前の話だが、個人サイトでそれは期待できない。サイトの主(あるじ)が自分についていかに多くを語ろうと、読み手は己れの素姓をサイトの主に告げることはまずない。ワタシはこれが胸糞悪い。己れの素姓を明かさぬ見知らぬ他人に、なぜワタシが一方的に己れの素姓を開陳せねばならないのか。繰り返すが、そんな義理はないのだ。
 プロフィールのないサイトは気持悪い、という人はいる。その心理は前項で触れた。自分がサイトを持ち、(差し障りのない範囲であれ)個人情報を公開している人にすれば、そう思うのはもっともだ。だが、Web閲覧者のすべてが個人サイト保有者ならいざ知らず、大部分が書き手を兼ねない読み手のプロパーである以上、黙してただ受け取るだけの人に、こちらへ一方的に自己紹介を迫られるのは不公平だ。読み手には読み手の事情があろうが、書き手には書き手の事情がある。そうした尊大な姿勢は、あるいはリピーターを少し減らしてしまうかもしれないが、サイトの作り手にだって、読み手を選ぶ権利はあるのだ。
 女子供ではないので、個人情報を公開することに対するリスクには、さほど頓着しない。だいたいエッセイという自分語りにおいて、自分の歳、出身地、家族構成、学歴等々、個人情報に一切触れずにものを言うほうが困難である。
 だから、サイトの中身を読み込んでくださる方には、自ずとそうしたことも知るところとなる。サイトそのものが厖大な自己紹介と言うのはそこだ。読み手としては、まず書き手の基礎データを知ったうえで、中身を読むかどうかを決めたいのだろうが、書き手としては、中身をしっかり読んでくださる方にのみ、それを打ち明けたいのである。

(2)リンクページを作らないわけ

 ワタシは「テキスト書きっぱなしの人」である。テキストは、それを書いた当時の自己の置かれた状況、感情、筆力をひっくるめた「時」「機」とともにあると思っている。
 過去に書いたテキストで、いま読むと違和感を覚えるものは珍しくない。だが、そういったテキストをいまの価値観に合わせて修正するのは困難だ。価値観は主張の根本であって、サイト全体をいま現在の価値観で統一しようとすれば、それは削除する以外にない。
 敢えて書き直そうとすれば、全く新しいテキストになる。だったら、それは新しいテキストとして発表し、過去のものは残しておけばいい。両者のギャップを、ワタシは気にしない。何故なら、それを書いた当時は、そう思い、そう考え、そのような拙い表現力しかなかったという「歴史」でもあるからだ。それに手を入れるのは、いわば歴史の改竄である。
 アップした日付は明記してあるし、まさか一年以上昔のテキストを掴まえて、いま言ってることと違うじゃないかと文句をつける者もいまい。人は変わるものであるし、古いテキストと最新のそれをいっぺんに読んでいる人にも、そうした「カナメ史」は伝わるだろう。それに、自分の考え方が変わる度に、サイト全体に手を入れていたらキリがない。だいたい、ワタシは過去に書いたテキストを読み返すことさえ、あまりしない。想いはいつも、いま自分が書きたいテキストに向いている。
 故にワタシは、プロフィールを書かない。折に触れて読み返しては、自分の現状と異なる部分を改訂する。そんな面倒臭いことは御免なのだ。それと同じことが、リンクページにも言える。

■変転するWebサイト

 自分の変化に伴って、サイトの中身も変わることは、前段のプロフィールの項で触れた。それと同じことが、他のサイトにも言える。リンクページにリンクを1件追加するということは、管理すべき他人のプロフィールを一つ加えるに等しい。
 リンクサイトの変化によって、リンクページの紹介文に変更の必要が生じるかどうかは、紹介の仕方にもよる。極端な話、内容には一切触れず、リンクだけ(バナーだけとか)にしておけば、中身の変化に対応する必要はない。だがそれでも、URLの変更や閉鎖という事態がある。書いたら書きっぱなし、では済まされない。こうしたメンテの繁雑さは、リンクが充実すれば充実するほど、増大することになる。
 思うに、そのメンテに要する手間を考慮せず、あまりにも気軽に「お気に入り」を加えているように、ワタシには思える。Webサイトとは、内容であれ、URLであれ、固定的では決してない。むしろ変化・流動するものだという前提に立ち、それに対応する覚悟でリンクページは作るべきだと思う。同じページに新たなサイトが追加される一方で、以前に掲載されたサイトのリンクが切れていたりするのは、プログラムで言えばバグのごとき、みっともないものだ。
 それとも、URLも紹介文も、追加した時点のものに過ぎないと、作り手自身、割り切っているのだろうか。だが、新たな訪問者は、それを斟酌してはくれまい。イチオシで推薦するサイトが「Not Found」だったりすれば、生きたリンクさえクリックする気を殺ぐであろう。リンクページの信用を自ら落とすことになる。
 リンクページとは、一種のサイト評論でもある。コイツが面白いと薦めるサイトは、本当に面白い。そう思われるだけの質が、リンクページの信用を高める。

■メンテ無用の文中リンク

 ワタシは完璧主義者なのだと、自分でも思う。だったら、プロフィールもリンクページも、マメに手入れして完璧なものにすれば良さそうなものだが、ワタシは自分がモノグサであることを自覚している完璧主義者なのである。そんなワタシは、不完璧なリンクページであっても、ないよりはあったほうがいいじゃん(それもまた真理である)、とは考えない。ならばいっそ、ないほうがマシ、と考える。All or Nothing.である。
 紹介したいサイトを紹介するのに、なにもリンクページを設ける必要はない。そのサイトそのものをひとつの話題として、テキストに取り上げれば良い。即ち、文中リンクである。
 気になるサイト、ハマっているサイト、友人知己のサイト、敵のサイト(笑)、等々をトピックとして、またはそれに絡めてリンクする。こうすれば、リンクサイトの内容がトピックとずれたとしても、それは話題にした当時はそうであったということで許容される。移動や閉鎖によって、リンクが切れている場合も同様。リンクが主ではなく、トピックが主だからだ。
 増え続けるテキストに、埋もれてしまう可能性はあるが、Webサイトとは一過性の催しのごときもの、と考える立場に立てば、むしろ永続を前提とするリンクページよりは、そちらのほうが適しているとも言える。それに、自分にとって関わり・思い入れが深ければ、度々登場することにもなろう。URLやサイトの主旨の変化も、それによって反映すればいいのだ。
 こうすることで、自ずとリンクサイトの差別化がなされる。自分にとり重みのあるサイトはリフレッシュされ、そうでないサイトは「当時の記録」として化石と化す。リンクページのように、横並びに紹介されながら、自分自身がリピーターとして巡回するが故にURL等の変更にも機敏に対応できるサイトと、関心が乏しいために閉鎖されたことにも気付かない(更新が滞った所にありがち)サイトが共存する不釣り合いは生じない。

 また更に、ここが大きなポイントなのだが、実際、リンクページよりも、文中リンクのほうが、閲覧者がジャンプする可能性は高いと思えるのである。

■人情リンクの宣伝効果

 テキストの内容に関心があれば、そこに張られたリンクはまず辿るであろう。一方で、リンクページはどの程度、訪問者が真面目に見、実際にリンクを辿るのだろうか。自分のような人間ばかりではないことを承知で言えば、ワタシは好きなサイトであっても、そのリンクページには関心が薄い。面白いサイトは、リンクしたサイトも面白い、とよく言われるが、ワタシの経験では、さほどヒット率は高くなかったからでもある。
 確かに、サイトの主が純粋に感性でセレクトしていれば、その理屈も成り立つだろう。だが、リンクページは往々にして、義理と人情(笑)で成り立っている場合が多い。要するに、オンラインの交友関係の紹介でしかなかったりする。それはそれで、意義がないとは言わないが、それは裏を返せば「質に関する保証はしません」と言ってるようなものではないだろうか。
 故にワタシは思うのだ。リンクページに友人のサイトを紹介するのは、少しでもそのサイトの宣伝になればという、情の発露だろう。しかし、情によって張られたリンクは、質的評価ではないことを閲覧者もまた察するが故に、宣伝としての効果は薄いのではないか、と。

 友人のサイトは、それだけで楽しいものだ。彼・彼女の近況や思うことを知るのは、届いた手紙を読むようなものだからだ。子どもの写真だって、そういう間柄においては意味もあれば価値もある。ワタシは友人・家族・親類に向けたサイトを認める。そういうサイトを揶揄し、罵倒する心ない手合いは心底軽蔑する。誰がそのサイトを見ろとアンタに強要した? 見なければ済む話ではないか。(もっとも、内容がそれで「アクセスが少ない」とこぼしていれば、どうかしているが……)
 しかし、赤の他人にとっては、事情は全く異なることは言うまでもない。言葉巧みに紹介すれば、1回はクリックしてくれるかもしれない。だが、中身の質は一読すれば明らかなのだから、赤の他人にとって面白くなければ、一回きりで終わってしまう。下手をすれば、自分のセンスが疑われる
 人情リンクは、どの道、効果を上げることはなさそうだ。身も蓋もなく言えば、宣伝とは「知られざる名所」にこそ有用なのであって、つまらないサイトをどれだけ売り込もうが無駄である。自分だけが楽しい友達のサイトは、自分だけが巡回すればいい。日記やトピックに、その当人が登場するとき、文中リンクを張れば充分だ。親しみを込めてその友のキャラクターを語るならば、そのほうがよほどリンクをクリックしてくれる確率は上がるだろう。

 人情リンクに敢えて意味を求めるなら、自分用のオンライン・ブックマークとして利用するか(データ消失に備えるには有用な手段である)、円滑な人間関係上の儀礼と割り切るかだろう。君はいいやつだが、君のサイトはつまらないのだよ。と口にできるほど、ワタシも鬼ではありません(笑)。
 リンクページがなければ、リンク依頼を穏便に断ることはできる。「宗教上の理由」「おじいちゃんの遺言」に比肩する、この効用については、一応触れておきましょう。それがワタシのリンクページを作らない理由でないことは、お断りしておかなければなりませんが。いや、決して決して(笑)。
 そして、人情リンク以上に、効果を疑問視してしまうのが、「義理」の最たる、言わずと知れた「相互リンク」だ。

■相互リンクの功罪

 インターネットを見回していると、見も知らぬ他人に相互リンクしてと頼む人がいるらしい。これはワタシの感覚からすると、相当におかしなことだ。
 あるサイトを気に入った。それでリンクをする。それはいい。リンクしましたと当人に伝える。それもいい。だが、「リンクしたのだから、アナタもボクにリンクして」と言える神経は、ドあつかましいにも程がある。ワタシがそんなメールを貰った立場なら、サイトを気に入ってもらえたのはありがたいが、だからってワタシが何故あんたの糞つまらないサイト(←そんな感覚の持ち主なら推して知るべし)をリンクしなきゃならんのかね? と思うことだろう。幸いにして、そんなメールをいただいたことはない。まあ、リンクページの無い我がサイトにそんなメールが来たら、大喜びでRed-robin's Factoryに取り上げさせていただきますが。もちろん、文中リンク付きで。
 相互リンクを募集しているサイトもある。果たして、効果のほどは、いかばかりなのだろうか。ワタシなら、「相互リンク」と紹介されたサイトには、「友人のサイト」以上に関心は払わない。リンクしてくれたお礼のためだけに張られたリンクに、一体どんな訴求力があるだろうか。結局、相互リンクを得たとしても、お互い大したメリットはないのではないか?
 リンクしたんだから、リンクしてくれたっていいじゃん。ボクはリンクしてくれたらリンクするよ。などと当たり前のように考えている向きには、ハッキリ言っておきたい。リンクをナメてはいけない。リンクするサイトの選び方にも、その人のセンスが問われるのだ。少なくとも、そのように考える人間は、少なからずいるのだということを。
 もっとも、「相互リンク」と殊更に断り書きを入れているのは、「自分のセンスで選んだんちゃいますよ。リンクしてくれたんで仕方なく。義理でっせ、義理」と暗に言っているのかもしれない。そう考えるのは、邪推が過ぎるだろうか。

■自動リンク装置としての掲示板

 アクセスも多い、お気に入りのサイトから、リンクを頂戴するにはどうすれば良いか。悪知恵を伝授しよう。そのサイトの掲示板に書き込むことだ。個人サイトの多くは掲示板を持ち、そして、掲示板の多くは自サイトのリンク機能を有する。掲示板に書くことが、即、そのサイトからリンクを得ることになるのである。無論、参加者が多ければ、それだけ発言の滞空時間も短く、繰り返し書き込みを行う必要はあるが。勿体つけて言うことでもないか
 そのような不純な動機で掲示板に参加するのは感心しないが、それでも、リンクしたからリンクしてくれなどという失礼千万なメールを送るよりは、よほどスマートだ。発言に光るものがあれば、多くの閲覧者が自分のサイトを見てくれようし、結果、管理者の眼に留まって、リンクページへの掲載を得るかもしれない。無論そのためには、中身が伴っていなければダメだ。繰り返しになるが、だから中身が伴わずして、いくら宣伝・営業活動に血道を上げようと徒労でしかない。
 逆に、掲示板を持っていれば、「そちらに書き込んでください」と、相互リンク依頼をかわす役にも立てられるのではないだろうか。CGIを用いたリンク専用のボードが持てるなら、更に理想的だ。これなら、掲示板参加者が自発的に行ったことであるから、管理者のセンスが問われない。それでいて義理も果たせて一石二鳥である。

■(2´)化石のリンク集にしないために

 さて、ここまで、「リンクページって結構大変」「義理人情でリンクしたって、どうせ大した効果はないよ」を考察し、ワタシがリンクページを作らないわけを述べてきわけだが、最後に、いま一歩建設的に、では望ましいリンクページを維持・運営するために、どういった具体策を講じるべきか、私見を述べて本項を終えることにしたい。

イ.定期巡回は欠かさずに
 リンクページに留める限りは、せめて週に一回以上は、巡回したいものだ。更新が止まり、その必要がないサイトについても。ソフトを使って自動化すれば、限りなく手間は減らせるだろう。気が付いたら閉鎖していた、という事態を避けるためには、小マメにチェックするほかない。

ロ.リンクの報告
 リンクしたサイトの管理者には、そのことを報せるのが望ましい。これは別にエチケットとして言うのではない。そうして連絡しておけば、親切な管理者なら、URL変更等の際に、そのことを報せてくれるかもしれないからである。情報チャネルは、ひとつでも多いに越したことはない。

ハ−a.追加・更新サイトは最上段に
 上記イ.ロ.によって、リンクサイトの情報を知っても、手が回らないこともある。以下はその次善策だが、新たに追加したサイトは、ページの最上段に記載するのが良い。これはWebページが性質上、上から表示されるからである。真っ先に新しいサイトが表示されれば、閲覧者にも判りやすい。追加は最下段に記載してしまいがちだが、件数が増せば画面の下に隠れてしまい、閲覧者には判りにくく、かつ面倒である。同様に、URL等を更新したサイトも、最上段に持っていこう。つまり、こうすることで、上のサイトほど新鮮で、従って精度が高いということが、閲覧者にも判別がつくのである。

ハ−b.ジャンルは色分け
 リンクをジャンル毎に分けているページも多いが、上記の考え方でいくと、かえって判りにくくなる。ジャンル毎にページを分ける方法もあるが、例えば、色やマークで識別することも可能だ。

ニ.追加・更新日を付記
 上記ハ.とともに追加・更新日も付記しておきたい。これはリンク毎にである。「NEW」の印を付ける人もいるが、このNEWマークもクセモノで、「一体いつの“NEW”やねん!?」とツッコミたくなることもままある。日付には、こうした「形骸化」がない。それが現在と近ければ「NEW」の意を表し、遠くなれば「OLD」となる。それによって、閲覧者にとっては精度の、管理者にとってはチェックのバロメータにもなるのである。
 要は、リンクページのサイトを横並びにしないことだ。「現役バリバリで更新が続いてるヨ」というサイトと、「更新は止まったけど、面白いから見てないひとは見てネ」というサイト(例:天声珍固)を分け隔てするのが肝要である。そうすることで、閲覧者の利便性につながり、ひいては、リンクページの信頼性にもつながるのではないだろうか。

 リンクページを持たざる者が、あまりにも大所高所に立って、ご高説をブッたかもしれない。フォローするまでもないだろうが、ワタシは何もリンクページ不要論を唱えるつもりはない。面倒臭がりのワタシにはできないと言っているだけで、リンクページは花壇や金魚のように細やかな注意を払い面倒を見れば、閲覧者にとっても極めて有用であることは間違いない。
 リンク集とは、自分の好みや関心、交友関係、センスをも示す、「第二のプロフィール」なのだから。

(未完)

2002.12.4 (続く)を(未完)に変更

これも相互リンク?
2001.8.22
 アクセス解析を始めてみて面白いのは、訪問者が何処のリンクを辿って来たかが判ることだ。意外なところでは、いまだにこんなところから跳んでいる方がいたり、どうも「レッドロビン」でサーチしたと思しい検索結果があったり。
 後者など、なんか申し訳ない気もしますね。すみませんねえ、ご覧のように当サイトは、バラ科の植木(ベニカナメモチ)の風流な育て方・鑑賞法を解説したサイトではございません。看板に偽りアリですか? まあ、ワタシの友人がやっているこのサイトも、別に古代エジプトの王をテーマにしてるわけじゃないしな(笑)。

 うちのようにカウンターの回り方がショボいサイトが、アクセス解析などしてしまうと、尚更アクセスの実態のショボさが浮き彫りになってしまうのだが、アクセス解析開始記念に、ひとつこれを皆さんにご覧いただきましょう。リミテッドモードですので、IPアドレス等は伏せられております。
 これのお陰で、チロルさんの日記から文中リンクいただいたことが、巡回する前に判ってしまいました。チロルさん、ありがとうございます。流石にアクセスの多い人気サイトだけあって、その影響力はあなどれない。カウンターも、いつもより多く回っております

 チロリストはワタシが最近知ったサイトの中でも特に注目しているところで、ネットグルメなあなたに、シェフのオススメです。彼女の随想や主張にはシンパシー感じまくりなのですが、特にWebサイト運営に関する考察の数々は、ワタシが「個人サイト三種の神器」を書く上でも、大いにインスパイアされました。
 ところで、「個人サイト三種の神器」ですが、最終項であるBBS論を残したまま、手つかずとなっております。なにぶん超遅筆ですので、気力のチャージにも今しばらく時間がかかりそうです。加えて、自分のなかで、BBSに関するパラダイムシフトが起こったせいもあります。要するに、頑なに持つまいと思っていたBBSですが、持ってみるのもいいかな、と。
 どんな持ち方になるかは、一計がありますので、「〜三種の神器」完結編ともども、今後のお楽しみにしていただければと思います。

日常という枷
2001.8.24
 ワタシがパソコン通信を始めた頃、そこはまだアマチュア無線に等しい、特殊な趣味人の世界だった。職場にも、親類にも、パソコンを所持した人間は殆どおらず、そういう環境では、仮に上司の悪口を言おうが、それが当人に露見する気遣いはなかった。
 いまは違う。主婦がホームページで姑の悪口を書こうものなら、ご近所の奥さんに当人へご注進に及ばれかねない御時世である。

 こういう環境では、書き手は思いきり「素の自分」を晒せない。日常と同等の抑制を必要とするからだ。例えば、オタクであることに引け目や後ろめたさが無くとも、現実に有形無形の風当たりがあるゆえに、日常ではそれを大っぴらにしない人々は大勢いる。そうした趣味嗜好、アイデンティティを持つ者にとって、それを公にするサイトを日常の知人に知られ、自分と直結されることは、これは大袈裟でも何でもなく、本人にとっては死活問題である。
 ワタシがAV女優だとすると、自分の仕事に職業意識もブライドも持っていたとしても、それでも自分のビデオを近所のオッチャンに見られるのは、バツが悪いようなものだ。AV女優は裸を晒すが、日曜エッセイストは己れの精神を晒しているのだから。
 日常での接点がない人々だからこそ晒せる、素の自分というのは確かにある。「年賀状にガキの写真載っけるの、勘弁してほしいよな」という本音は、日常での接点がない人々に向けられたもので、そういう年賀状を送ってきた知人やご親戚には見せたくなかろう。いや、これはあくまで例であって、ワタシがそう思ってるわけではありませんよ。などと、日常での接点がある知人に向けてフォローしたりして。
 日常の知人の視線ほど、サイト運営の邪魔になるものはない。それは山田太郎を金縛りにした南海権佐の呪いのごとく、己れの四肢を縛る頸城である。自由でいたければ、知られてはならない。知らせるものか、知られてなるものぞ。非日常たるWebサイトに築きし聖域を日常の侵食から護れ! ワタクシことT田要は、決してホぉムペぇジなど作っておりません。

 ひとは弱いものだ。世間の風潮、周囲の空気、無言の圧力、奇異の目等々どこ吹く風と、ブルドーザーのごとく自分流を貫ける勇ましい人間ばかりではない。また、それが必ずしも格好いい/男らしいとも思わない。赤ちゃん写真入り年賀状を送ってくれた人に、面と向かって「ああいうの不愉快なんだよね」と口にできる神経は、デリカシーに欠けるとワタシは思う。ひとの喜びや幸福はそれぞれに違い、ゆえに対立・衝突することもある。だからこそ、なるべくそれを避け、少しばかりの不愉快には眼をつぶることも、また必要な社会性なのだ。
 だからって、テメーのサイトまで「いい子ちゃん」ではいられねーよなー。日常ではまっとうに自分を抑えてるんだから、せめてテメーのサイトぐらい、ちょっぴり邪口のヴァルブを捻ったって、罰は当たるまい。こちとら、自分の芸を面白がってくれる方だけに、そっとネットの片隅で見せ物小屋を開いているだけなんだから。
 見たくもない子どもの学芸会ビデオを見せる、押しつけがましい親バカご親戚に比べれば、なんと慎ましやかなことか! 頼むからワタシの愛想笑いがひきつっていることを察してくれい。いや、これはあくまで例であって、ワタシがそう思ってるわけでは……

2001.8.25 改題および推敲の末あちこち改訂

日曜雑文劇場
2001.8.27
 日曜エッセイストには、悪い癖がある。たぶんワタシだけではないと思うのだが、映画等で「ぜってぇつまんねー」と確信を抱いているものでも、その卓越した「つまらなさ」にこそ「おいしいネタ」が潜んでいるのではないかと、マゾヒスティックな冒険心を抱き、つい観てしまうのである。
 そんな、まさに「悪趣味」の語義そのままに鑑賞した、テレビ放映された映画2本。『映画版 未来日記』と『ジャッカル』。
 バラエティ番組の企画「未来日記」については、風聞にのみ耳にしただけだが、ワタシの感覚からして、つまらないことは判っていた。果たして映画を観たが、やっぱりつまらなかった。以上。
 ブルース・ウィリス×リチャード・ギアの『ジャッカル』は、それなりに愉しめた。もちろん、悪趣味的に。変装の名人、殺し屋《ジャッカル》の変装というのが、誰がどう見てもブルース・ウィリス、というのが風評通り笑えた。あれでは渋谷を歩いていても、「あ、変なヅラと付け髭とメガネをしたブルース・ウィリスだ!」と思われるだろう。
 遠隔操作の長距離ガトリング砲が、標的の大統領夫人はおろか、誰ひとり殺せなかったというのも凄い。いったいどこが超一流の殺し屋なんだ?

 ナビゲーターの坂上みき(金曜ロードショー)にも「でも、この変装はないんじゃないの」と言われていた。ワタシとしては、是非とも木曜洋画劇場の木村奈保子さんに、クールに解説してほしい。こんなカンジで。
 今夜の木曜洋画劇場は『ジャッカル』。1997年、マイケル・ケイトン・ジョーンズ監督作品。73年の名作『ジャッカルの日』をリメイク。原作者、フレデリック・フォーサイスが、あまりの脚本のヒドさに、原作タイトル「THE DAY OF JACKAL」の使用を断ったという曰く付きの作品。ブルース・ウィリスのバレバレの変装も見所のひとつです。ハリウッド二大スター競演の『ジャッカル』。今夜の映画、みなさんのハートには、何が残るでしょうか。

巷の音楽を考える
2001.9.1
■いまどきのJ-POPにお嘆きの貴兄に
 いい機会なので、ありがちなJ-POP批判について、語ってみることにしよう。
 結論から言う。悪いことは言わん。つんく−浜崎ライン(ひと昔前なら小室−安室)への、ありきたりな批判はやめたほうがいい。
 というのは、あまりにも多くの人に語られていて、ハワイ土産のマカダミアナッツぐらい、うんざりさせてしまいかねないからだ。要するにネタとして、ベタ「同意見」だからといって、必ずしも「共感」されるとは限らない。さらに大事なことは、そんなにイヤなら聴かなきゃいいじゃん、とツッコまれて(思われて)しまうことである。
 先鋭化した感覚の持ち主にとって、最大公約数をもって宗とする大衆文化が物足りなかったり、不快だったりするのは当然の話だ。他人よりも恵まれた感覚を持っていることは、誇りに思っていい。ただ、せっかくの優れた感性も、ホンモノを探す努力をしないでは、宝の持ち腐れである。「HEY×3」や「POPJAM」しか観ず、いまどきの音楽に不平をこぼしたって無駄だ。そういう番組は、決してあなた好みにはならない。大衆娯楽装置であるテレビで、あなたの好みに合わせていたりしたら、商売が成り立たないからだ。
 一歩ヒットチャートの外側に眼を向ければ、世の中には無数の楽曲が溢れている。非・売れ線に、世界に、過去に眼を向ければ、いい音楽はいくらでも眠っている。そこに自分の好きになれるものを求めようともせず、あてがい扶持の流行歌に文句をつけたところで、「もっと面白いどこかへ連れてって」とゴネる、コドモや莫迦女といっしょで、共感は得られない。
 ホンモノに浴し、満喫する者は、意に染まぬ軽チャー産業にやたらと噛みついたりしない。“モー娘。”や“あゆ”などに、いちいち目くじらを立てずとも、自分の好きな音楽を聴き、リスペクトすれば、それで幸せだからだ。また、そういう「ゆとり」のある者が、たまにネタとして負の批評をするほうが、皮肉なことに共感を呼んだりする。
 大衆文化に毒づくことで、憂さ晴らしをするのも、自分の高尚さを誇示するのも、ともに見苦しい

■ヒットソングの被害者
 ワタシがこのことを書こうと思ったのは、あめんほてっぷさんのコラム「ボーカルつきで有線放送をのべつまくなし聴いていると。」(2001/8/26)を読んだことによる。これは読む者を共感させずにはおかない、稀有なJ-POP批判の好例と言えよう。店内BGMに四六時中曝される、過酷な労働環境に従事する小売業者の悲哀を見よ(笑)。J-POP受難を訴えるなら、これくらいの切実さがなければダメだ。商店街のアーケードで耳にする“モー娘。”がウザい? その程度ではとてもとても。
 有線の流すヒットチャートの中身がどんなものかは、ワタシも街でよく耳にするので見当がつく。あれを延々と聴かされるのは、好きな者でも堪らんだろう。“モー娘。”は三日にいっぺん聴くからいいのだ。日がな一日、毎日ひにち聴かされるのは、ひょっとすると、つんくにとっても拷問かもしれん。
 これを「公害」とまで言っては、さすがに“娘。”どもが可哀想だが、「J-POPハラスメント」ぐらいに呼んでもいいのではないだろうか。セクシーポスターや裸婦像ばかり問題視せず、こういったことも人権派の皆さんは、社会問題として検討されてみてはいかがだろう。

■店内BGMは顧客サービス?
 ところで、商店街などで流れているヒット曲。あれはそもそも必要なのだろうか? ワタシは好きな歌が、街の雑音混じりに良からぬ音質で流れていたところで、別にありがたくもない。そのくせ嫌いな歌なら、しっかり不愉快な気分になる。そして、まず大抵は、街の雑音のひとつして、意識に上らせることもない。
 そうなると、顧客サービスとしては、疑問に思わざるを得ない。にぎやかな街中、店内なら、音楽でもないと寂しい、ということもなかろう。これがバックマージンの入るプロモーションというなら話はわかるが、無論そうではなく、わざわざ業者に金を払っているのだ。
 歌ばかりではない。ビートルズの曲なんかが、妙なアレンジを施されてインストルメンタルになってしまった曲というのも、店内BGMとしては定番である。あれも意識して聴いていると、実にマヌケだ。
 そうした場所を職場ではなく、客として小一時間しか滞在しないワタシにとっては、殊更意識することもない、どうでもいい事柄ではある。大部分の人にとっても、たぶんそうなのだろう。ただそれは、どうでもいいからこそ、捨て置かれる形で踏襲・現状維持されてきただけで、多数決を取れば、BGMなくていい派が大勢を占めるのではないか? 少なくとも、切実にBGMを欲する人々よりは、切実にあれをやめてほしいと思う人々のほうが、数で圧倒するように、ワタシには思える。

微乳は別腹
2001.9.8
Yong Magazine 9/17 最近、AKINAが妙に気になっている。
 さすがに、彼女についてはフォローが必要であろう。安室、SPEED等を輩出した沖縄アクターズ出身の少女ユニット、Folder5のメインボーカルだと、何の注釈もいらず御存知であった方は、本サイトの制作者同様、ダメな大人である。
 初水着のソロ写真集のパブリシティで表紙と巻頭グラビアを飾ったヤンマガを、電波神さまのお告げに従って買ってしまった。写真参照。電波神さまは、写真集も買えと告げているのだが、さてどうしたものだろう。
 プロフィールによると、身長・152センチ。スリーサイズの記述はない。ちっちゃいAKINAクン(男性誌的敬称)が、ペッタンコなバストをビキニで晒す健気な姿は、谷間あらざる者、水着になるべからず、と言わんばかりの昨今のグラビア界にあって、新鮮なエロ風情を覚えずにはいられない。
 巨乳を決して嫌いとは言わないが、近頃の巨乳全体主義には、いささか食傷の感を禁じ得ない。小池栄子なんて、朝から特上カルビって感じで、見るだけで胃もたれしてしまう。AKINA嬢(風俗誌的敬称)の水着は、巨乳フルコースでもうお腹いっぱいのところ出された、デザートの冷たいシャーベットのような清涼感をワタシにもたらすのである。
 ……こんなコト言ってるから、日常の知人に見せられないんだよなあ。ダメな大人街道まっしぐらっス

立場を超えて普遍的な正論を語ろうとする愚
2001.9.22
 インターネットを見回してみれば、誰も彼もが「米国同時多発テロ事件」を語っている。およそ、更新が継続しているサイトで、このことに触れていない所を探すほうが難しいぐらいだ。
 一応、私見を述べておくならば、テロを赦すつもりはないが、アメリカの軍事行動にも嫌悪を覚える。中東の過激派の非道さも、アメリカの尊大な世界番長ぶりも、別段いまに始まったことではない。寄ると触ると咬み合っている、彼らの民族性をいまさら云々するのも虚しいが、問題はそのアメリカ様に尻尾を振ることしかしない、情けなくも恥ずかしい日本政府の態度である。
 だが、事件そのものについて、このうえ論評を加えるつもりはない。今回、気に掛かったのは、この事件に対する一部の意見に対してである。

 それはアメリカの武力行使に違和感を表明しつつ、「アメリカ人の身になれば、その気持ちも解る」というものだ。別に、こんなことで言い争ってもしょうがないので、直接ご本人に指摘する気は毛頭ないが、これはちょっとおかしな考え方である。
 アメリカ人の気持を察し、同情するのは、優しい心根ではあろうが、だからといって「報復攻撃」まで支持するのは、正常なパランス感覚を失っていると言わざるを得ない。何故なら、報復攻撃が行われれば、アフガンの無辜の民もまた、犠牲になるからだ。その犠牲者に向かって、「ざまあみろ」とでも言うつもりだろうか? 「情緒的」にこの問題を考えるのは結構だが、それならばもう一方への情緒を欠いては、単にアメリカ寄りの感情論でしかない。
 なにより、我々は日本に住む、日本人である。「他人事」と言っては語弊があるが、被害の当事者であるアメリカ人の痛みも、怒りも、遠く隔たっている。身内に犠牲者がいるならともかく、そうでない大方の日本人にとって、これは歴史的大事件ではあっても、感情としては「気の毒な」「痛ましい」という程度の想いしか湧きようがない。これは立場の違いというもので、なにもビビッドな共感をしないからといって、自責の念に駆られる筋合いはないのだ。
 むしろ、アメリカ人の知人も、アメリカ在住の身内もいないにも関わらず、妙な共感を寄せることのほうが、ワタシには空々しく思える。それは、この事件に対し、正しいものの感じ方は、ひとつしかない――我が同胞なら、これに怒れ。そして、仇討ちに協力せよ。さもなくば敵だ――というアメリカ的グローバル正義感への、意識的歩み寄りにワタシには思える。
 歩み寄る必要は、ない。第三者には、第三者としての立場もあれば、また役割もあるからだ。友邦の被害に同情を寄せつつ、ヒステリカルな報復論に対しては、「まあ、待ちなさい。気持はわかるが、そんなことをしてはテロと同罪ではないか」と諌める。それは直接の被害を免れ、よって冷静に事の次第を受け止め得る立場にあるからこその、果たすべき役割ではないだろうか。

 逆に、日本が被害に遭ったのなら、言うことは違って当然だ。ひとは己れの立場でものを考え、主張し、行動するものだからだ。立場に根差す切実さこそ「言葉力」(ことばぢから)の根源だとワタシは考える。立場から遊離した言葉は空虚だ。また、己れの行動原理が己れの立場に根差す理をわきまえるからこそ、異なる立場に基づく他者性を尊重する、大らかさも生まれる。
 立場でものを考えることは、一見エゴイスティックに思われがちだが、逆である。普遍的にものを考えようとしたり、また普遍的な正論だと思い込むことのほうが、実は残酷に何者かを圧殺する全体主義に繋がるものである。

余剰芸能人再処理番組
2001.9.23
 前回のコラムを書く傍ら、久ッさしぶりに、「THE夜もヒッパレ」(NTV)を観る。AKINAクン目当てで。自爆。
 七年目だそうだが、やってることは相変わらずである。ヒットチャートの歌を別の人に歌わせるコンセプト自体は面白いのだが、困りものなのは、歌手業以外のタレントが少なくない点だ。坂本ちゃんの歌を見せられてもなー。音楽番組ではなく、音楽バラエティというべきなのだろう。
 さらに困惑するのは、あの紅白歌合戦ばりの、お寒いギャグである。紅白の年に一度なら我慢もできようが、毎週というのはワタシには耐え難い。いや、観る権利も、観ない権利もワタシにあるのであって、「もういい加減、そういうのやめたら?」などと、無粋なことを言うつもりはない。三宅裕司もSETの資金稼ぎと、割り切っているのだろう。
 驚きを禁じ得ないのは、世の中には「こういうベタベタの笑い」を求めている人々が、まだまだ存在するのだなー、ということだ。なにしろ、六年間も変わらず続いているのだから。
 もっとも、この番組の長寿の秘密は、大衆の支持よりも、芸能界の事情によるところが大きいのではないか。仕事にあぶれたタレントをあてがうのに、この番組は都合がいいのだ。サーカス(悪い子が売られる所ではなく、「Mr.サマータイム」の)にお目にかかれるのは、この番組ぐらいだろう。貴重な番組かもしれない。別にありがたくもないが。

マリリン・モンロー・ノー・タリーン 〜もしくは、フェイスマークと括弧笑いについて〜
2001.9.29
 ありきたりであるという自覚があるのかないのか、相変わらずフェイスマークおよび括弧笑いへの批判は少なくない。その批判内容の骨子は大まかに言って、(1)幼稚っぽい (2)表現力向上の妨げとなる の2点だろう。
 少しばかりの文章力に自負をお持ちの方に見受けられがちだが、青臭い反抗期のような可愛らしさと言えば、そう思えなくもない。これが「通過儀礼」に類するのかどうか、ワタシ自身がフェイスマークに嫌悪・反感・問題意識を抱くことなく「卒業」してしまったので、判断しがたい。
 卒業、とは言っても、(^_^;)(T_T)を使う機会が見当たらないだけで、宇多田ヒカルがよく用いる(≧▽≦)のようなイカしたものがあれば、シチュエーションに応じて使わないでもない。今では滅多に使わなくなってしまったが、パソ通時代には、その独自の文化が新鮮に映ったことや、またそれを使用することで得られる、ある種の「仲間入り」の意識もあって、多用したこともある。

 フェイスマーク批判の批判もまた月並みであるということを承知で言えば、幼稚っぽく見えたとしても、それはご本人の勝手であるし、仮に表現力の向上にマイナスだとしても、誰もが貴方のような気合いの入ったド根性テキスト職人ではないのだ、と言うしかない。HTMLを直打ちできず、ホームページ作成ソフトなんかに頼ってるヤツに、サイトを持つ資格はない、などと言うようなものだ。フェイスマークがホームページ作成ソフトのように、表現力の未熟な書き手に、手軽に「表現」を付与するのだとすれば、それはむしろ、偉大な発明と言うべきであろう。
 自分がフェイスマークという「道具」に頼らず、地力で微妙なニュアンスを表そうとするのは、ご立派な心掛けかもしれないが、それを他人にまで押しつけるのは余計なお世話であるし、《フェイスマークを使わないオレ様》自慢と受け取られても仕方がない。せめて、「フェイスマークを毛嫌いする人もいるから、気をつけたほうがいいヨ」というアドバイスぐらいにとどめておくのが無難だろう。

 さて、フェイスマークは卒業したワタシだが、(笑)に関しては、まだ当分の間、手放せそうにない。「てれ隠し」とか、「ココ笑うとこですよ」的使用は、なるべく避けるようにしているが、それでも使わざるを得ない局面が存在する。
 それは冗談であるにも拘わらず、読み手によっては真面目に受け取られかねないケースだ。そういう時、冗談であることを明示するのに、(笑)は便利なのだ。
 具体的ケースを想定してみよう。例えば、「胸の大きい女性は頭が悪いか?」という話題があったとしよう。そこで「野坂昭如も、マリリン・モンロー・ノー・タリーンって言ってますしね(笑)」と発言するとき、この(笑)は外せないのである。
 何故なら、(笑)なくしては、野坂昭如の名曲「マリリン・モンロー・ノー・リターン」という元ネタを知らない読者に、野坂はモンローを「脳足りん」と言っているのか、などと勘違いされかねないからである。逆に、元ネタを知る読者にも、筆者がマジに勘違いしているのかと疑われる可能性もなくはない。
 この「冗談を笑い混じりに言ってますヨ」というニュアンスを、(笑)を抜きにして表現する術をワタシは知らない。というより、(笑)という記号ひとつでそのニュアンスを伝えられるならば、他にどんな迂遠な手法があろうと、(笑)を選択するのがベストだと、ワタシは考える。
 よって、ワタシはフェイスマークも括弧笑いも否定しない。それは表現者に与えられた選択肢のひとつであるからだ。それがベストな選択であるにも拘わらず、妙なプライドによってその使用を忌避するならば、自分が表現者としてまだまだオトナに成り切れない、青臭い若僧であることを自覚すべきなのではないだろうか。

ギジツテキな話題?
2001.10.10
 ネスケとIEの仕様の違い(?)を見比べていると、いろいろと面白いことが判ってくる。たとえば、フォームの入力文字数を制限するmaxlength。=100とすれば、ネスケでは半角で100字、従って全角では50字がリミットとなる。これに対しIEでは、全角半角を問わず、100字まで入力可能となる。
 フォームのsizeも両者では、ずいぶんと差がある。これに気付いたのは、秋の掲示板祭りの自作フレームを双方のブラウザで見比べたからだ。
 そのくせ、CGIBOYのレンタル掲示板の入力欄に、見た目の差がないのはどうしたことかと調べてみたら、なんとSIZEの数をブラウザによって変えていなさったのである。両ブラウザをお持ちの方は、興味がありましたらソースを見比べてみてください。
 なるほど、CGIならこういう芸当も可能だ。だったら、ネスケではコメント欄のmaxlengthを200にしてくれい、そうすりゃ自作フレームなんて要らなかったのにぃ。という不服はさておき、そういう芸当が不可能なソース固定の個人サイトでは、なかなか困った問題ではありそうだ。
 こうなると、国内のシェアで劣るネスケは、ますますサイトの作り手から「どう見えようが知らんよ」と捨て置かれ、ますますシェアを失うだろう。ネスケとIEとの見た目の一致や折衷の苦労を「知的遊戯」として愉しむにも、自ずと限度があるのだから。
 なお、自作フレームのコメント欄は、IE閲覧時のレンタル掲示板のそれに合わせました。

有料は優良に非ず
2001.10.12
ダメ道邁進中  秋の掲示板祭りに、「AKINAメンバー萌え萌えッ」なんて書いたら、こんなメールが届いた。
Date: Thu, 11 Oct 2001 20:35:13 +0900 (JST)
From: "○○"<******@****-****.com>
To: t_kaname@moon.co.jp
Subject: おっす、昨夜サイトを見ていたら気づいたんだけど

あのアイドルの写真集をおいてあるところをみつけ
ちゃったよ。さらに高画質だったしさ。たしか、おま
え好きだったよね?このアイドル(名前忘れた・笑)。
んじゃ、また明日とかにでも携帯に連絡してねー。
おつかれー。

http://www.grapefruit-jp.com/index.cgi?1001
 行ってみたら、ワタシの好きな「あのアイドル」の画像はなく、おまけに画像のリンク先は全て実行ファイルだった。どうやら、サイトの中身とはなんの因果関係もない、ただのDMだったらしい。ちょっぴりガッカリ。
 こちとら、石川リカッチメンバーや、よっすぃー吉澤ひとみメンバーのソロ写真集の中身だって、無料サイトでタダ見しちゃってるんだから、Q2サイトなんて興味ないざーんす。書店では立ち読みできない写真集はおろか、見逃した雑誌のグラビアさえも、どこかで誰かが無料でアップしてくれているんだから、インターネットって有り難い。バナー広告収入があるとは言え、日夜お色気画像のスキャニング&アップロードをボランタルに務めているサイトマスターの方々には頭が下がる。
 もちろんそれで、「買い」衝動がモリモリ強まったら、キッチリ身銭は切らせてもらいまっせえ。

改めてスタイルシート始めました。
2001.10.18
 先日、スタイルシートを使って本ページの行間を空けてみたわけですが、全ての文書に<SPAN>タグを用いるという、いかにも突貫工事的シロモノでしたので、多少はそれっぽく、class指定する方法に替えてみました。(なんのことやらサッパリ、という方はCSS(カスケーティングスタイルシート)について、ネットで調べてみてネ) CSSファイルの定義ひとつ変えるだけで、ページ全体のフォント、行間を変えられるというのは、やはりいいものですな。
 IEやNC6、Mozilla等でご覧になっている方には、フォントがこれまでより少し大きくなっているのが、お判りいただけると思います。いままでの10pt(size=2)から10.5ptに替えてみたのです。
 ワタシの現在の標準ブラウザであり、アクセス解析を見る限り、いまなおネスケの主流でもあるNC4では、残念ながら10ptで表示されてしまいます。まあこれまでもこのサイズでしたし、変わらぬ大きさで表示されるなら、それはよしということにしました。
 悩みの種は、部分的に文字のサイズを変えた際の、行間の問題です。IEならあっさりクリヤなんですが、これはNC4が自分も含めて誰も使わなくなるドマイナーブラウザになるまで、折衷案を講じていくしかしょうがないようです。

 更にこれを期に、ホームページ作成ソフトまかせで、無駄・無意味なタグ・プロパティだらけだった愚茶愚茶のソースを手入力でスッキリ整形してみました。FrontPage98では、どのみち直接ソースに手を入れざるを得ないうえに、使えば余計かつ美観もヘッタクレもないソースの整形を施してくれちゃうので、スタイルシートを用いるからには、もはやメリットはほとんどないわけです。
 いままでも気にはなっていたのですが、なにしろルーズな質なもので、見てくれ良ければそれでよし、とソースは放置していたという次第。そのくせ、やるとなったら偏執的A型完璧主義者で、W3Cが勧告するHTML4.0の仕様にパーフェクトに準拠したくなってしまったり(ちょっと無理なのですが)するのであります。
 エディタでシコシコHTMLを叩くなんて、何年ぶりでしょうか。CSSについてもまだサル真似で、未知な部分も多く、久々にギジツテキな興味を持ってページ作成に取り組んでおります。

「スタイルシート始めました。」を改題および全面改稿

小ネタ集
2001.10.29
■『バビル2世』がリバイバルされたので
AKINAが好きである。
どのくらい好きかというと、下僕にロデムがいたら、四六時中彼女に変身させていたいぐらい好きである。
…という、特定のアイドルに対して、自分がいかに好きであるかの表現方法。
(実際に口説いている、身近な女性には使わないのが吉)

■夜も○ッ○○
見たい、ヤリたい、触りたいッ!

■金科玉条
小泉首相の高過ぎる支持率に「民主主義の危機」だと言っている人がいる。民主主義を何の疑いもなく正しいものだと信じ込んでいるからこんなセリフが出てくるのであって、過ぎたる小泉人気への正しい危機感の表明は「民主主義ってヤベえ」であろう。

それで目的が果たせるのか?
2001.10.30
 昨日のロデムネタですが、あれって、ありがちな「こんなバビル2世はイヤだ」なんてテーマに、必ず含まれてそうですね。
 ワタシがバビル2世をやると、そんな私的な事しか下僕に命令しないことになるわけですが、では本物のバビル2世はどうなのか、というのが今回のテーマです。

 三十代以上の方なら覚えているでしょう。水木一郎のかつての主題歌を思い出してください。
「♪地球の平和を守るため 三つの下僕に命令だ(ヤーッ)」
 カッコイイ歌なんですけど、よくよく考えてみると、鳥に「空を飛べ」水中用ロボットに「海泳げ」豹に「地面走れ」 という、(下僕の形態からすると)ごくごく当たり前のことしか命じていません。こんなことで、「悪魔の基地を壊」せるのでしょうか。

 ワタシは地球の平和を守るなどという、大それた真似はできませんが、少なくとも自分のアタマの平和は守れます。
 ♪主人の気分を変えるためぇ たまにはゴマキに変身だぁ(ヤーッ)

小ネタ追記
2001.11.3
【こんなバビル2世はイヤだ】
→できないことを命ずる。

♪〜ポセイドンもぉ 空を飛べぇ
 ロデムぅ変身 空を飛べぇぇ


バビル2世「…あ、それと、鳥に変身するの禁止な」
ロデム「………」

だ・か・ら Let's GO AHEAD!!
2001.11.09
■Addicted to Folder5
 暇さえあればFolder5のファーストアルバム(「HYPER GROOVE 1」)に聴き入っている。暇でなくとも、聴覚を使用しない作業(テキスト書きとか)のイージーリスニングにはコレを流している。湯船につかりがら気がついたら「す〜ぱ〜が〜る す〜ぱ〜が〜る」と口ずさんでいる自分が怖い。
 正直、これほどハマるとは思わなかった。こんなことなら、初回ボーナストラック入りの盤を正規の代金を払って買っておくのだった。とは言え、もう初回盤は流通してはいまいが。申し訳ない事ながら、量販古書店で中古CDとして買わせていただいた。所詮AKINAのルックス目当ての不純な大人である。CD購入の動機は実のところ「参考程度」でしかなかった。
 それがあろうことか、このハマりっぷりである。思春期のオナペット女神様、河合奈保子さまだって、エアチェックはしてもレコードは買わなかった、このワタシがだ。それはとりもなおさず、彼女たちの音楽性がホンモノであることを意味する。といったら、贔屓目が過ぎるだろうか。
 Folder5としてデビューして1年半、シングル5曲を含む、ようやく出た1stアルバムである。このあたり、昨今の音楽業界のキビしさを伺わせるわけだが、溜めに溜めたリリースによるランキングは、オリコン・アルバムチャートで堂々の5位。かくしてベストCD的趣を醸す本アルバムの圧巻はしかし、シングル曲ではなく、他の収録曲にある。参考例として、「Liar」のサビの歌詞をジャスラックにはナイショでご覧いただこう。
ギリギリまだ 越えられない You are my best friend
ずっと胸の奥で あふれるこの想い My love
少しくらい 気がついてよ You are my best friend
そっと紛れ込んだ ヒミツのこの想い My love
 曲調は単純でシングルでのヒットは望むべくもないが、この胸キュン歌詞が角質化した装甲で覆われたワタシのハートにも「来る」んだよな〜。もちろん、AKINAが歌ってるからだけどね。アイドル歌謡ってなあ、こうでなくちゃあよう。
 個別のレビューは別項に譲るが、ほかにも、加速度的な恋をそのままの詞と曲で歌いあげた「Ready!」、永遠の愛の決意を激しくもノスタルジックな旋律に乗せた「BE MY LOVE」など、聴きどころは多い。だが、読み手の知らぬ歌の魅力について、言葉だけでお伝えするのはワタシにはちと荷が重い。アルバムでしか聴けない曲など、ファンにあらざる一般人にはその機会もないわけだが、ぜひお聴かせしたいところではある。つーか聴け。
 皮肉なことに、シングルのほうがむしろ、ワタシでさえアホダラソングとしか言いようがないのが多い(苦笑)。特に、「SUPERGIRL」と「Final Fun-Boy」はなあ……。だから、シングルだけで判断しないで欲しいんス。と、お願いさせていただきます。もっとも大部分の人は、その5曲のシングルすら、どんな歌かも御存知ないんでしょうが……。トホホ。

■少女三日会わざれば
 そもそも、ワタシはなぜAKINAの魅力に、今頃になって気付いたのだろうか。
 アイドルには決して疎くはないし、存在自体は大地くんがメインボーカルを張っていた「Folder」時代から知っている。大地くんを含む男子二名が声変わりとかで独立・脱退し、少女ユニット「Folder5」として再スタートしたこともリアルタイムに認知している。折しも、SPEEDが解散し、その空いた座席を目指して、様々なアイドルグループが登場していた頃だ。Folder5はそんなアイドル少女ユニット群像のひとつだった。
 そのときには、なんとまあパッとしない娘たちだなー、という印象を受けたものだ。正直、誰が誰だか区別もつかず、君らは近親婚を繰り返した閉鎖村の出身か、という想像上のツッコミを思い浮かべたぐらいだ。
 当時のワタシは、彼女を見損なっていたのだろうか? そう思って、過去の画像をインターネットで調べたところ――ああなるほど。これは気にも留めんわ。――と、再確認したのだった。
 ちょっと画像が小さいですか? このあたりを見回ってもらえれば、大きくて鮮明なものもあるでしょう。しかし、どうでもいいけど、「リンクは自由ですが、必ずメールをください」っていうのは、リンクフリーって言うのか?
 ちゃんと連絡を取って、正規にリンクしてもいいんだが、真面目なファンは怖いからのぉ(苦笑)。ワタシのノリは「ういやつじゃ、苦しゅうない、近う寄れ。…じぃ、布団を敷け」だからなー。って、これだって相当に上品な表現ですが。
 ワタシの場合、ピュアで敬虔な恋慕と、濁ったエロ・リビドーは両立する。この二面性を理解できない御仁はとことん理解できないわけだが、どうでもよい。どの道、惚れたオンナのために群れるのは嫌いだ。ブラウン管のタレントであれ、身近な異性であれ、好みのオンナは、みなワタシだけが所有すべき対象である。閑話休題。

 とまれ、ワタシの好みの女センサーは、誤っていなかった。AKINAのほうが変貌を遂げていたわけである。いつの間にか、こんなにキレイになっちゃって、ムギュ。この年頃の女の子は怖い。彼女のいまを見越して、Folderメンバーに抜擢したとするなら、大した目利きと言わねばなるまい。

■芸能界勢力地図におけるFolder5
 ごく客観的に言って、Folder5はアイドル少女グループというジャンルにおいて、モーニング娘。に次ぐ、2位集団のひとつではあろう。「次ぐ」と言っても、モー娘。はブッチギリのトップなので、その間は大きく隔たっている。
 その2位集団に、先ほど述べた“ポストSPEED”を狙ったユニットが犇めいているわけだが、この中での位置づけを例えば、DreamとかEARTHとかと比較するなどという、そんなミニモニの背比べをしたところで仕方がない。言えることは、このままでは商売的にも厳しかろうということだ。
 Folder5は解散したSPEEDと同じ、ライジング(現・フリーゲートプロモーション。所得隠しでも有名?)所属のアーティスト志向の強いグループである。このところ急に色っぽくなったからといって、ここへ来てメインボーカルが水着になることの意味。穢れた大人としては、ネガティヴな邪推をせずにはいられない。
 干される少し前、人気にやや翳りを見せていた鈴木あみが、唐突に水着になったことを覚えている人もいるだろう。それまでには決してしなかった売り方をする。その意味するところはやはり重い。ポストSPEEDとして引き続き注力してもらえるか、D&Dの二の舞として捨て置かれるか、キワキワのところに来てるんだろうなーと思う。

 ところで、SPEEDの抜けた椅子には、いま誰が座っているのか。結局、モー娘。が獲ってしまったのである。正確には、「モー娘。ファミリー」というか。つんくの偉大な(?)発明によって、御存知のように、分離したり、よそのグループと合体、あるいは出向させたりして、モー娘。というひとつのグループから、色んなグループを発生させたのである。これがまた、半端でなく売れる。
 プロデューサーつんくは、決して手掛けた歌手が全て成功したわけではない。むしろ、失敗例のほうが多い。ところが、失敗した歌手・ユニットに、モー娘。を混ぜると売れる売れる。
 この一党独裁状況にあって、一般大衆のアイドル用記憶領域は、モー娘。ファミリーで満杯になってしまう。その他のアイドルユニットの入り込む隙間もない。
 一方で、ソロ・シンガーでは、宇多田、倉木、小柳、浜崎といった、ルックスも良い上にハンパでない実力派がいるわけで、モー娘。にちょっとばかり歌唱力でまさっているからといって、大したセールスポイントにはならない。
 この極めて分の悪い状況で、モー娘。の占領した陣地に斬り込んで、生き残りを図らなければならない。市場は限られているからだ。仮に、モー娘。に並ぶ、怪物アイドルグループが登場したとしよう。市場は二倍になるか? ――ならない。その時には、モー娘。のセールスは半減している。顧客の数にも、顧客のサイフの中身にも限りがある。Kiroroのシェアを喰って、花*花が台頭したように、決まった大きさのパイを取りっこして、己れのポジションは獲得しなければならない。
 モー娘。とFolder5のCDが並んで売られているとする。どちらも欲しいが、どちらか一枚しか買えない。そういう状況で、「やっぱりAKINAチャンでしょ」という、ワタシのような客を増やしていくしかないわけだ。それが芸能界の厳しい掟というか、まあこれは商売全般にわたって言えることではありますが。
 その意味では、ワタシのような人間がいるのであるから、水着プロモーションも見事図に当たったわけですな。それは無論、シンガーとしての実力の裏付けがあったればこそだ。でなければ、魅惑の微乳ヴィジュアルアイドルとして、ダメ大人のデザート(“オカズ”の類義語)で終わっていただろう。
 さすがにライジング(どうもこの呼び名のほうがシックリする)の養成機関にして、安室、SPEED、MAXらを輩出した、J-POPアイドル虎の穴・沖縄アクターズスクールの出身者だけのことはある。歌に踊りは申し分ない。アルバムは中古で買っちゃって悪かった。次のシングルは、ちゃんとセールスに還元するよう、お付き合いさせていただくことにしよう。

■そして、GO AHEAD!!
 そんなわけで、正規に買わせていただくことになるニューシングルが、「GO AHEAD!!」(11.14 オンセール)である。PVのサワリを観た印象では、これは相当によい。いわゆる「イケてる」ってゆーやつですか。詞よし、曲よし、ダンスよし。現在アイドルポップの最高峰と、ベタ褒めしておきましょう。感情発声的バカ表現をするならば、くぅぅ〜ッ、かぁッけぇぇ〜ッ、である。
 つんくファミリーが奇抜な変化球を放ってくるなか、清々しいほどのド直球が小気味好い。弾けまくった楽曲に乗せた、適度な難易度をもった振り付けは、真似をする女子小中学生で巷を溢れさせるだろう。
 これは聴いてくれとは言わない。普通にヒットソングに浴する人なら、イヤでも耳に入ってくるだろう。ワタシの贔屓目が客観性を曇らせていなければ、また、ワタシの感覚が世間様のそれと遊離していなければ、いままでで最も好成績を残す曲となるはずだ。これまでは惜しくもトップテン入りを逃してきたが(Believe:16位,STAY…:12位,Final Fun-Boy:14位 オリコンサイト調べ)、今回はランクインを果たすだろう。例によって、タイアップがファンファンファンファミリーマートだけ、というのがちと弱い気はするが(苦笑)。

■「人気」に対する個人的スタンス
 別にカッコをつけるわけではないが、ワタシはワタシが好きな女の子(に限ったことではないが)を同じように好きな人間がほかにも大勢いる、ということに、あまり喜びを感じないタチだ。ありていに言えば、どうでもいい。
「人気」は人気商売と言われる通り、タレントにとっては切実な問題だし、より多くの人気を得ることはタレント当人にとっての喜びではあろうが、ワタシには関わりのないことだ。ワタシにとっての喜びとは、ブラウン管なり、紙面、CD等を通して、彼女の姿を観、声を聴くことであって、同好の志の数とは関わりはないし、関わりたいとも思わない。本当のところ、究極の望みを言うならば、ワタシだけの愛人になってくれるのが一番なわけである。
 無論、それは望むべくもないし、実際問題として、あまりに人気がなく、活動停止なんてことになると、マスメディアを通した鑑賞もかなわなくなるわけで、やはり商業的に成功してもらわねば困るというだけだ。それでも、贔屓者の情の発露として、彼女たちが望んでいることは、かなえてあげたい、というか、かなったらいいねとは思う。歌手を生業にする者にとり、トップテン入りは、やはり大きな夢であり、目標のひとつであろうからだ。

 なによりも、ワタシは「夜もヒッパレ」で彼女たちに《歌われる側》になってほしいのである(笑)。退役シンガーや歌のうまい空手家はともかく、仮にもCDシングルを定期的にリリースしている現役アイドル歌手が、他人のランキング曲を歌わなければならないのは、屈辱であろう。これを屈辱に感じない芸能人はいまい。
 AKINAのお姿を観るためとあらば、中山ヒデの糞忌々しい面も、耳にするだに恥ずかしい赤坂の「ひぁうぃごぅッ」も我慢するが、彼女たちの胸中に想いを馳せると、キツいシチュエーションだよなーと思わずにはいられない。

■「夜もヒッパレ」とFolder5
 ことにAKINAは負けん気の強い娘である。なにしろ彼女ときたら、スタッフと弁当を食べていても、食べ終わる速さで負けるのがイヤな娘なのである。これはレギュラーを務める文化放送の帯番組(もちろん聴いています)で、本人が自ら口にしたことだ。周りのメンバーは「弁当食べてるときに独りで勝負してんの?」(笑)とあきれていたが、ワタシはこれを聴いて、ますますAKINAのことが好きになった。気に入った(笑)。その意気やよし! 芸能人はそうこなくちゃいかん。ライバルどもみんな喰っちまえ! キミならできる!
 そんな気性であればなおのこと、自らが果たせぬトップテン入りした他人の歌を歌わされることに、悔しく思わぬはずはなかろう。よりによって、モー娘。の歌を歌いたくはあるまい。
 この項を書くに当たって、過去一年半、Folder5が「夜もヒッパレ」で誰の何を歌ってきたのか、リサーチしてみた。(このあたりが偏執的) さすがにいくらなんでも、そんなご無体な真似は、番組スタッフもさせないのではないかと思われたからである。幸い、公式サイトにそのデータは残されており、簡単に調べはついた。
 やはり、倉木麻衣や浜崎あゆみなど、アーティスト系ソロ・シンガーの曲が多い。なるほどなー、そりゃそうだろう、と思っていたら。あったんである、一度だけ。2000年9月16日、「I WISH」を歌っていたのである。それも、初登場1位。キッツイことさしよるな〜。まあ誰の曲を歌おうが同じっちゃ同じだが、少女ユニットにとり、モー娘。こそは同じリーグに属し君臨する最大最強のライバル。それを1位のときに、歌わせますか。……見たかったな〜、その屈辱プレイを。
 こうなったら、一度も二度も変わりはない。この際、Folder5にミニモニを歌わせたれ!(もちろん初登場1位) 悔しくて悔しくて、日テレのトイレのコンパートメントで、ひとり涙ぐんでいるAKINAを想像したら、ゴハン三杯はイケる!(このあたりが穢れた大人)

■Respect to Folder5
 …ワタシの妄想はともかくとして、しかし、そんなことでクジけてはいけない。芸能界には、もっと悲惨で、もっとキッツイ事例があるのだ。
 metamoというグループがある。元チェキッ娘の三人組だ。彼女らはフジの「ものまね紅白歌合戦」で、なんとプッチモニのものまねをやらされたのである。これだけでも充分すぎるほど悲惨だが、例によってプッチモニ御本人が登場と相成り、いっしょに「青春時代123」を歌ったのだそうな。
 …目を覆うばかりです。なんという解りやすい芸能界勝ち組・負け組の構図! ついでに、彼女らがどんな歌を出したのかとオリコンのサイトで検索してみたら、3曲のシングルはいずれもノーポイント(100位未達)。ちなみに2曲目のタイトルが「アイドルの憂鬱」だと。そら憂鬱にもなりますわ。

 そんなアイドルの極北、タレントの底辺を垣間見るならば、「夜もヒッパレ」の準レギュラーたるB級アイドルの現状でさえ、充分きらびやかであるとは言えよう。無論、それで満足はしていまい。
 だからこそ、1stアルバム5位の勢いを駆って、「GO AHEAD!!」という名曲を得たことは、広く世間に認知されたアイドルスターとなる、絶好のチャンスとなろう。
 決して、順風満帆なアイドルロードではなかった。Folder時代には、大地くんの影で不遇を過ごしもした。それでも持ち前の負けん気で、歌を鍛え、ダンスを磨き、新ユニットのメーンを取った。
 ストライクゾーンの下限はけっこう低いワタシでさえ、守備範囲外の子供ユニットのお子チャマだった少女がいま、すでに中年の域であるワタシに思春期の熱情をもって夢中にさせるほどのイイ女に成長し、更なる高みのステージに向かって飛翔しようとしている。
 爆発前に発する閃光にも似た、この瞬間に間に合ったワタシは倖せだ。ワタシが望むと望むまいと、A4用紙7枚に及ぶ(笑)リスペクトをしようとすまいと、彼女たちはスターダムにのし上がり、おそらくは先輩であるSPEEDさえ凌ぐユニットに成長するだろう。
 熱く語るまでもなく、そして、幾ばくかの読者を巻き込むまでもなく、ワタシの望みは叶う――。それでもなお、ワタシは裡なる衝動のままに、こう説かずにはいられない。
 思い出たちを巻き戻して、ときめきリピートせよ! 皆者、大覚AKINA様にひれ伏すのだッッッ
(ここで「GO AHEAD!!」挿入)

□おまけコラム1.女性誌とFolder5
 Folder5にハマったことで、ちょっと困ったのは、彼女たちが女性誌でも取り上げられるということだ。といっても、別にゴシップではなく、単に新曲のインタヴュー記事なのだが。
 それ自体は、ターゲットに女性層も含まれているということで、実に結構なことなのだが、問題なのはワタシが手に取る場合ですな(自爆)。この辺の情報は、avexの公式サイトで報せてくれるので、実にありがたいのだが、なまじ知ってしまうがために、記事掲載誌の「SAY!」やら「エルティーン」やらを探しては、立ち読みのひとつもせずには気が済まんわけです。
 しかし、仮にも女性誌ですから、周りのご婦人方の奇異の目線を気にしつつ、記事を探すのは、少女マンガ程度なら平気でレジに持っていくワタシにしても、イヤな汗をかいてしまいます。
 こんな感覚を味わったのは、思春期に河合奈保子さまのグラビアを観るのに、「プレイボーイ」や「GORO」を手に取ったとき以来ですな。正確には、それともまた性質が異なるのがアレなんですが。なに、『月光魔術團』(平井和正)の泉谷あゆみ画伯の表紙が恥ずかしい? アメーんだよ、オメーらは!!

 女の子にも人気があるのは当然として、やはり主たるファンは男の子でしょう。いったいどうしてるのかなー? それとも、そこまでするのはワタシぐらい? 結局、ワタシの骨の髄まで流れているマニアの血のなせる業でしかないのでしょうか。
 こんなときに、いっしょに暮らしていて何でも頼める妹とかいたらいいのになー、と思う。お願い、お釣りあげるから「ピチレモン」買うてきて!
 これからもっともっと人気が出てくれば、AKINAがたとえば「non-no」とかの表紙を飾ることもあり得ないことではないわけだ。そのときには腹を据えて、イヤな汗をかきながら、レジに持っていくことを約束しよう。

□おまけコラム2.楽曲ミニレビュー
―― M-05.「Ready!」
Ready to, steady go 走り出した
想いはフルスピードで
強く速く高鳴る鼓動
せつなさ ああ 止まらない
Lovin'you, lovin'me 加速ついて
コントロールできないよ
 アイドル歌手のレゾン・テートルとは、まさにこういう詞を歌っていいところにある。若く幼いからこそ、赦されることはある。迸る情熱のままに突っ走って突っ走って――。そして、いつかはスッ転んで泣きじゃくることになる。そんな結末まで詞は語ってはいないが、十代のうちは、それもまた必要な大人へのプロセスである。
 アダルトな女性シンガーが、こんな詞を歌うことはできない。たとえば、今井美樹が歌おうものなら、「いい加減コントロールしてください(ホテイさんと)」と言われてしまう。
 16歳のAKINAがこの詞を歌うとき、無軌道で向こう見ずな少女の想いは、生き生きとした精彩を帯びる。それはある程度年輪を加えた中年男にも、甘酸っぱくもほろ苦い、感傷を甦らせるのである。こんなときもあったなー、と。

―― M-11.「BE MY LOVE」
まぶしくて手をかざした 指のすき間こぼれてく
あたたかな光のなか 君の笑顔見つめてた
ずっと描いた 夢がいつしか
こんなにすぐ傍に あるなんて
 ショートカットが魅力のボーイッシュなAKINAには、こういう男目線(?)の歌詞もよく似合う。音楽の専門的な言い回しは知らないが、昭和歌謡的テイストな楽曲がその詞も相まって、アルバム中でも異色のナンバーとなっている。ホットな連れ合いがいる方には特に、胸に熱いものがこみ上げる一曲。

□おまけコラム3.南国×××
 彼女たちが親元を離れ、沖縄から上京したのは小学生のときだったという。SPEEDもそうだったんだろうが、エライ話である。
 自発的意志であればこそ問題にもならないが、これが「口減らし」なら南の国のおしんである。……明那、今日もサトウキビご飯だよ。っていい加減、沖縄=サトウキビという安直なイメージはやめなさい。

2001.11.13 加筆

ある意味勝手な「まつろわぬ民」論
2001.11.18
 ズル休み、すわわち「ただ休みたいから学校を休む」ということを是とすべしという論調がある。児童生徒にも「有給休暇」(?)があっていいということらしい。
 バカバカしい。休みたきゃあ、休めばいいのである。現状でも、そんなことはいともカンタンではないか。無論、「ズル休み」「不良」「普段日のこの時間に何故こんな所に?」という奇異の目線、世間的抑圧、おまわりさんの職務質問等々は覚悟してもらわねばならないが。
 それがイヤなら学校へ行け、とワタシなら言う。学校へは行きたくない、けれど肩身の狭い想いもしたくはない。だから、社会のルール・常識を変えて欲しい。――この手の主張に対して、ワタシは酷なようだが、甘ったれるなと言いたくなる。
 教育問題について語るつもりはない。学校に憤りをぶつけるなど莫迦げている。テキトーに要領よく過ごせば良い機関であり、期間でしかない。だが、子どもは学校へ行って、勉強するものだという、正統な価値観・常識は守らねばならぬとも思っている。魅力ある《不良の論理》はしかし、世のスタンダードに取って替わってはならないと思うからだ。前置きが長くなったが、それが今回のテーマである。

 ワタシは時として、自嘲的に“ダメ大人”を自称する。三十を過ぎたいい大人が、倍も歳の違うアイドルの小娘に熱をあげるなど、まっとうな大人のやることではないと自覚するからである。もっとも、こんなことではイケナイ、ワタシは変わらなければ、とも思わないわけだが。
 ワタシはダメ大人を自認し、それを恥じてもいないが、それでいて、世間のみんながダメ大人になることについては、やはりこの国の将来を憂いずにはいられない。俺はダメ大人だが、君達はちゃんとしていてくれたまえ。と、身勝手で恐縮ではあるが(笑)、そう思ってしまう。
 ならば、お前もちゃんとしろと言われてしまうのだろうが、悪いが俺は好きにさせてもらう、と言うしかない。ダメ大人、変態、ヤクザ、遊民……これらの不名誉な呼称は、そのことに対するささやかな代価のようなものだ。世間様の冷たい目線、後ろ指に耐える覚悟のある人間だけが、こちらの世界に来ていい。ワタシがダメ大人でありながら、同時にダメ大人を容認する「やさしい社会」の到来に異を唱える理由はそこにある。

 同性愛もまっとうな愛なのだと、当事者たちは言う。しかし、人類全員が同性愛者になれば、人類は滅ぶ。その厳然たる真理に、彼らはどう向き合うのだろうか。知ったことではない、と言うのか?
 自分の性的嗜好を「異常性愛」と呼ばれるのは気が悪かろう。気の毒に思う。だが、それはある意味、種全体の防衛本能だという捉え方も、またできるのだ。人類という種ならびに社会は、同性愛者に過度に増えてもらっては困るが故に、それを抑圧するよう働くのだ。ロリコンだろうが、独身主義だろうが同じことだ。
 理解されずに苦しいか? だが、理解は望めない。理解されなくて、むしろ当然なのだ。それが、まっとうな正道から望んで逸脱したハミダシ者の、支払うべき代価である。周囲の無理解にめげず、逞しく生きてゆくことだ。ワタシにはそれしか言えない。ワタシもそうするからと。
 たとえ自分には受け入れ難くとも、あえて自分を「常ならざる者」と認識することで、守らねばならない価値観のスタンダードはある。外れ者、傾き者として生きるのはいい。だが、己れの都合だけで、正統な価値観を破壊しようとする者をワタシは嫌悪する。マイノリティに留まっているからこそ生存を許されているということを、「まつろわぬ民」は忘れてはならない。

評価と思い入れ
2001.11.22
 最近では、HIKARIも、NATSUも、ARISAも、MOEも、メンバーみーんな可愛く見えてしょうがないんである。なんのことって、Folder5の話ですがね。センターAKINAのワンマングループなんて思っていたワタシを赦してほしい。やっぱりキミタチ、5人でひとつだよ。って、ちょっと前まではAKINAも含めて、パッとしないユニットだな〜と思っていたわけなんですが。
 これが贔屓目の所産だとすれば、贔屓目とはなんて倖せな状態なんでしょう、というのが今回のテーマ。Folder5ネタもいい加減、ほどほどにしておきたいところだが、これから述べる主題を語るに当たって、カナメにとってのFolder5を避けて通るわけにはいかないのだ。というより、Folder5という触媒を得たことによって、ワタシの裡で一年以上温め続けたテーマに、ようやく日を当てる機が訪れたわけなのである。

 まず、以下に引用する一文をお読みいただきたい。残念ながら、執筆者のサイトから該当の文書は削除されてしまったので、どこの誰の手によるものかは敢えて伏せる。前後の文脈も併せてご覧になりたい方のために、その全文もテキストファイルでご用意した。(全文
作家の作品を評価するためにはあくまでその作品について評価しなくてはならない。そこに私情が挟まると正当な評価など出来ないのは当たり前だ。それは好きな漫画を読むだけの読者にとっても同じ事で、本当に作品を楽しむためには、あくまで作品のみを見なくてはイカンわけだ。だから本来、読者というのは基本的にその作品のみに接していれば良い。わざわざWeb等で作家との相互な接点を持とうという行為自体、おろかなことなのだ。たとえ作家が気前良く返事をしてくれても、だ。仮に作家と何らかのつながりが出来たとして、そうなったらそれ以降の作家の作品について一読者としてまっとうな評価が出来るだろうか? 否。そこには必ず私情が挟まる。よほど出来た人(本職で評論するような人)でないと私情を捨てることなど出来ない。
 これを初めて読んだのは一年以上も昔。印象に残る文章だったので、ローカルに保存しておいた。それで引用もできたというわけだ。
 ワタシ自身、この主張に対して論破を試みるつもりはない。一漫画読者として、非常にストイックで、真摯な姿勢だと思う。ただ、ミーハーに走るのはファンの常、それは人情のしからしむところであってみれば、世間一般の人々には、そこまでスクエアにはなれんよなあ、と思いはするが。
 なによりも、好きな作家を引き合いに出すならば、ワタシはなにも学校の先生として、平井和正君の小説の成績をつけるつもりは毛頭ないわけである。我が子をハンディカムで追うバカ親の視線、恋人をうっとりと見つめる彼氏彼女の視線、それは大前提である。私情なんて挟まりまくり、いやさ、私情こそが核である。
 すべてはそこを起点にする。まず思い入れありき、だ。でなければ、誰がいまいちブレイクし切れないアイドルユニットについて、A4用紙7枚分も語ったりするか。
 ただそこで、AKINAたん好き好き〜萌え萌え〜メロメロ〜だの、好きであることに理屈なんかいらないだの、そんなバカ出し丸のセリフを吐くのは、ワタシの肥大しまくった自我が赦さない。だから、感化はできぬまでも、せめてワタシが「〜を好きな理由」ぐらいは「ああナルホドね」と思ってもらえるよう、脳を絞り、筆を軋らせてキーボードを叩いている。
 ワタシの書くテキストは、みんなそうだ。エラソーに「…書評」だなんてコンテンツも構えちゃいるが、厳密には批評でも評論でもありはしない。好きだったり、あるいは別の感情によって、己れの心に重く濃く存在する何物かにこと寄せた、自分語りでしかない。それが批評として少しは正当性を持っているのか、それとも惚れた眼で見りゃアバタもエクボの譬えの通りでしかないのかは、読者の皆さんにご判断いただければよいことだ。

 そもそも、正しい評価とは、いったい何をもってそう言えば良いのだろう。これは正しい評価だ、不当な評価だとワタシ自身思ったり、口にしたりするが、そうした自分の「評価に対して下す評価」もまた、己れの判断基準に基づく、個人的なものでしかありはしない。
 受け手の感性にゆだねられる、作品・芸能に関して言えば、その評価の正しさを証明するのは、極めて困難であろう。共感する者の多さにせよ、そのジャンルに精通する識者の審判にせよ、多少の拠り所にはなろうが、決定的根拠にはなるまい。そして、最も信頼のおける「歴史に残る」ということさえも。それは突き詰めれば、個々人の「心の王国」が決めることだからだ。
 そう、だからこそ本論を書くに当たっては、平井和正ではなく、Folder5を引き合いに出す必要があった。何故なら、平井和正は歴史に名を残す作家だからである。仮にいま筆を折ったって、既にしてそれだけの作品と実績を残している。ウソだと思うなら、これから100年生きて、確かめてみればよい。
 Folder5は違う。彼女たちは、もし現状のまま消え去ったとすれば、それはそれだけの現れては消えたアイドル群のひとつでしかない。モー娘。なら記録されるであろう、芸能史・アイドル史にも、その名を刻むことなく。そうなれば、ワタシのFolder5に対する評価は誤りになるかといえば、無論そうではない。少なくとも、ワタシの人生のメモリーには、彼女たちの記憶は保存される。それは思い出という名の、マイ伝説である。
 世間的文化的歴史的には、取るに足らぬ存在であろうと、自分にとっては大きな比重と価値を持つ。そうした何かを愛し、耽溺することは、愚かで、不幸な、誤りなのだろうか? そうではない、とワタシは断言する。
 だから言おう。自分の内的評価と、外的評価を照らし合わせて、一喜一憂するのはやめようよと。「なぜこの作品の評価が、こんなに低いんだ!」とか、あるいは逆に「これが好きな私は、ちょっとおかしいのだろうか?」などと、憤ったり悩んだりするのは、感情の無駄遣いである。もっと自分の裡なる想いを素直に信じよう。そうすれば、自分の正しさを他人の評価で保証してもらう必要も、また保証してもらえなかったことで憤慨することもなくなる。
 自分の知る素晴らしいもの、その素晴らしさを、それを知らぬ人々に訴えたいなら、あったけの想いを込めて、そうすればよい。そのほうが、よっぽど創造的である。いまはそれが(比較的簡単に)できる、素晴らしい時代なのだから。

 人気、セールス、賞。そうした「世間的評価」が、ファンとして嬉しくないと言えば嘘になる。だが、やはり二義的なものでしかない。ワタシは別に、AKINAを芸能界最高の美少女とも、歌謡界最高の歌姫とも思ってはいない。そこまで盲目にはなれない。
 ルックスでは先輩の上原多香子に及ぶところではなく、歌唱力ではヒロコ&エリコに及ばない。(余談ですが、SPEEDって、つくづくスーパーユニットだったよなあ) ではなにが最高なのかと言えば、このワタシが最高に好きなのだ、という一点に尽きる。あまたいるアイドル・タレント・芸能人のなかから、ワタシが彼女を選び、脳内ハーレム(笑)の最上段の玉座に据わらせた、そのことが全てなのである。

 個々の要素では劣る部分がありながら、それでもワタシが彼女にNo.1の座を与えるのは、「ルックス」はもちろんのこと、「仕事」「キャラクター」まで含めた、トータルなAKINA像が、この上なくワタシの感性のツボにハマりまくるからにほかならない。すなわち、相性がよい。単にルックスが好みであるだけではそうはならないし、いい歌を歌っているだけでもダメだ。
 一例をあげる。ラジオ番組でのメンバーの会話。アキナ「(映画館で)前に大人の人に座られると、見えないじゃない」 他のメンバー「うん」 アキナ「うんって言うなあッ!!!」 ……こんな掛け合いがたまらなく可笑しく、かあいい。あいや、だらしなく自分の萌えっぷりを開陳するのが目的ではありません。具体的サンプルということで、何卒ご容赦のほどを。(どうも疑わしい)

 好きだから、そんな風に思える。というのは確かにそうだ。無関心な人間にとっては、どうってことない会話の一断片に過ぎない。
 しかし、感性に合うから好き、ということと、好きだから感性に響く、というのは背中合わせである。それが相互に作用し合うことで、ひとは「ファン」と呼ばれる存在になってゆく。
 好きである、ということは、それ自体バイアスである。それはホームタウンデシジョンのごとく、それだけでポイントが加味される傾向を持つ。アイドルとしては、明らかにブ○イクの部類である「ARISA姉ちゃん」(こういうメンバー間の呼び名まで知っているあたりが重症)まで、ぽっちゃりしてて可愛いね、ンフフ、と思えてしまうのは贔屓目の成せるわざである。
 書家でもないのに、作家やタレントの直筆「サイン」にありがた味を感じてしまう精神的作用機序は、その顕著な例と言える。それを愚かと断じ、自らは決してその轍を踏まぬよう、透徹した客観性と冷静さを保持しようとする人がたまにいる。
 ある意味ご立派なそのスタイルをワタシは理解はするが、しかし共感はできない。たとえ贔屓目の所産であったとしても、ワタシが心底、歓びと倖せを感じていることに、ウソ偽りはないからである。信者、ビリーバーのそしりがなんだというのだ。そういう対象を何ひとつ持たない人間を、ワタシはむしろ気の毒に思う。繰り返すが、ワタシは学校の先生として、成績表をつけているわけではないのだ。

 いっそのこと、世の中の何もかも、そうやって贔屓目で見れたら、どんなに倖せなことだろうと思う。眼に見えるもの、耳に聴くもの、手で触れるもの、すべてが素晴らしく、愛おしく思えたとしたら。ビバ・バラ色の人生! エンジョイ・ハッピーライフ!
 だが、悲しいかな、それはかなわない。ここまでハマれる何かに出逢うということは、一生を通じても、そうそうあることではあるまい。それは、のべつまくなし見境なく、誰かれなしに恋愛はできないのに似ている。
 CDを購入して以来、寝覚めの音楽は決まって「GO AHEAD!!」である。これを聴くとドーパミンがドパーッと湧いて出て、眠気などフッ飛んでしまう。これがプッチモニの「ぴったりしたいX'mas!」ではダメだし、ZONEの「世界のほんの片隅から」でもダメだ。彼女たちのことも嫌いではないが、そこまでの思い入れ魔法にはかからなかった。
 お断りしておかねばならないが、ワタシはFolder5がやりさえすれば「九九の暗唱」だって夢中になって聴き入るとまで言うつもりはない。いかにバイアスありとは言えど、キチンといい仕事はしてもらわねば、ワタシの思い入れ魔法も解けてしまおう。
 学校教師が生徒に対して求められるがごとく、自己に客観性を律する御仁にも共感はしないが、贔屓の引き倒し的全肯定の徒輩はハッキリ軽蔑する。好き嫌いと良し悪しの区別のつけられない人間はバカモノである。
Final Fun-Boy」は、クラクラッと立ち眩みを起こしそうなアホダラソングである。その評価はいまも変わらない。可愛いから赦すが。

 そもそものきっかけは、控えめなバストを健気に晒したAKINAの水着グラビアであった。そのとき眼に見えぬ矢が、ワタシの胸を射抜いた。そのうち、着衣の姿にも、うっとりと見蕩れるようになった。(自分で書いててサムイボ立ちそう) アルバムを中古で買った。意外にもこれにハマる。そして、メンバー全員に魅力を感じるようになった。
 倖せは、仕合わせとも書く。つまり、巡り合わせである。まず遺伝子レベルの先天的資質というものがあり、さらに人生のなかで後天的に培われた好み、趣味嗜好が出来上がる。その土台の上に、日々の生活で様々な人・物・事と接するなかから、我々は真に愛すべき何かを見出す。
 見知らぬタレントのなかには、もっと可愛いコがいるかもしれず、未聴のCDには、もっと夢中になれる曲が潜んでいるかもしれない。作家や本だってそうだ。だから、アンテナはいつも広くひろげておこうとは思う。とは言え、闇雲にありとあらゆることどもにチェックを入れていられるほど、暇でもなければ財力もない。やはり、これは機縁というものだろう。
 気になるから注目する。注目するから更なる魅力に気付く。それで、ますます好きになる。そんな恋にも似たプロセスを経て、ハマれる何かと出逢った者は倖せだ。かなわぬ恋は不幸かもしれないが、望めば得られる音楽や文学なら、そんな懸念さえない。心おきなくハマればいい。
 作品にハマれば、今度はその創り手自身にも興味は向こう。大いに注目すればよい。そして、その創り手の人間性や、何なら私生活まで含めて、大いに好きになればよい。そうした思い入れという私情によって、ますます夢中になることに、いったい何の不都合があろう?
 純粋な作品の質、というのは、ありそうでいて実は捕らえどころのない概念でしかない。ひとが何かを好きになるのは、それぞれの感性なり、抱える事情がそうさせるのだ。創り手を知ることで、作品をより好きになるのは、それによって受け手の事情もまた変化するからにほかならない。

2001.11.23 一部修正

ハーフ・パブリック 〜雑談風サイト論〜
2001.12.07
■またひとつ、お気に入りのサイトが閉鎖した。お気に入りのサイトに限って閉鎖する、などとマーフィーの法則(古ッ)のごとき印象を持ってしまうのは、たぶんお気に入りのサイトは日参しているが故であろう。お気に入りでないサイトが閉鎖したって気付きもしないだけで。

■実生活における立場と、道楽に過ぎないサイト運営と、どちらが大事で重いかと言えば、それは前者に決まっている。有形無形のしがらみのなかで、半ば公的(?)な空間と言えるインターネットにおける、自己主張の愉しみを放棄せざるを得なくなったとしても、残念かつ気の毒ではあるが、致し方ないことだろうとは思う。

■たとえば、モー娘。ファンを掴まえて、露出度の高いタレントに飛びつく東北の巨人ファンのような連中、などと言おうとすれば、気を悪くしそうな知人を二〜三人は思い浮かべることができる。いやあくまでこれは一例なので、該当者はどうかお気を悪くなさらないように。だいたいワタクシ、モー娘。好きだし、関西出身の阪神びいきですし。

■ところで、野村解任ですってね。わーいわーい。……ハッ、阪神びいきを廃業する絶好の機会を逸してしまったのか!?
(追記.正しくは辞任でした)

■阪神、平井和正、そして、Folder5……。非・主流好みは、ワタシの業か性癖か。といっても、いずれもせいぜい日本共産党レベルの非・主流であって、維新政党・新風ほどの非・主流じゃないところが中途半端と言いますか。それはともかく。

■他人との関わりが増すということは、それだけ「しがらみ」もまた増大することを意味する。東北在住巨人ファンの知り合いがいなければ、それを腐すのはいとも容易い。だが、それが傷つけたくない人を傷つけ、己れの人間関係をも危うくすることを知るとき、筆は無制限であることをやめる。それを日和ったの舌鋒が鈍ったのと言うの酷だ。徒手空拳のチンピラなら、いくらでも過激なもの言いはできよう。

■自サイトの職場バレ。これについては、ワタシ自身は、さほど切実な問題ではない。せいぜいが、AKINAたん萌えが発覚して、バツの悪い思いをする程度でしかない。だいたい、周りの連中からして、パソコン画面をアニメ絵美少女の壁紙にしてるような会社なのだし。

■より切実なケースを想定してみよう。ここを視たワタシのオンナが、私という者がありながらあんなチンチクリンの貧乳の幼児体型の中途半端なアイドルに夢中になるなんてキーッ、とか言われたりしたらどうだろう。

■そんなつまらないことを言うオンナではないので、これもまたネタ的想定でしかないが、万一そのように言われたとしたら、とりあえず、その通りだけどあんまりな言い方だと思う、とでも申し上げることにしよう。いずれにせよ、じゃあ別れよう、って選択だけは有り得ないので、最悪、AKINAたんネタ、ならびにFolder5ネタ封印、という苦渋の選択は有り得る。

■いや、別に苦渋でもありはしない。思っても書かないことは沢山ある。特に、こちらをご覧になっている方々に、関わりのある事項については。それでも敢えて書くこともあるが、それは相手の人格に信頼を置いているか、もしくは敵対辞さずの覚悟の上だ。

■これは何もサイトだけに限った、特別な話ではない。時と場所と場合と相手によって、話題や口調を使い分けるのは、ごく日常的に行っていることだ。ただ、サイトの難しいところは、サイトの読み手は、必ずしもこちらの想定した読み手に限らないということだ。

■それは職場の上司かもしれず、ご近所の住人、別れた前の彼氏彼女、あるいは過去にバトルを繰り広げたネット上の敵かもしれない。壁に耳あり、サイトに眼あり。口は災いの元の俚諺は、そのままサイトにも当てはまる。

■アクセス100件(/日)未満の個人サイトを「公的メディア」と認識するのは、いささか気負い過ぎの感がある。といって、メールや電話、居酒屋話のような、完全な私的空間でもないビミョーなところが、面白くも厄介なところだ。公的な可能性と危険性を孕んだ私的な空間、それが大方の個人サイトの実態ではないだろうか。

■よく「本人の前で言えない話は、本人がいない場所でもするな」という、正論じみた暴論を吐く方がいる。その聖人君子のごとき高潔な理念をまこと実践しておられるのだとすれば尊敬に値するが、ワタシには無理だ。「控えめなバスト」などと、AKINAさまご本人の御前で言えるわけはなかろう。もしそういうシチュエーションに置かれれば、ワタシだって言葉は選ぶ。それを「偽善」と呼ぶ者はいまい? これはデリカシーってもんだ。

■それに、本人の眼に触れても差し支えのない、あるいはダイレクトに本人に向けたストレートな礼賛賞賛は、ワタシの性に合わないのだ。SHAKE IT TONIGHT眩暈おこしそうな麗しのAKINAサマ、貴女の笑顔を見、歌声を聴いているだけで、辛いことも忘れてしまいます……自分で書いてて背中がムズムズするが、こんな気持ちの悪い、こっ恥ずかしいこと言ってられっか。これはアイデンティティに関わる問題だ。

■批評という名のレイプを加えることでしか、その対象への愛を表現できない呪われた人間はいる。それがある種の人々に嫌われ、疎まれ、憎まれることは承知している。赦してほしいと言うつもりはない。「愛」を免罪符にするつもりもない。ワタシは業の深い人間で、またそれを反省する気も矯正する気もない、そんなヤツなのだ。自分が吐いた言葉による、あらゆる舌禍は覚悟している。

■正当であるか否かなど問題ではない。他人様の気分を害する発言をするからには、それなりの覚悟を要するのだということを解さない人間は小児的である。そういう人間は、決まって「好きだからこそ厳しいことを言わせてもらいます」などと「好きである」ことを錦の御旗にして、容認を迫る。そして、容認されなければ、「ここでは異なる意見は受け容れてもらえないのですね」などとヘタレな泣き言をいう。

■支配的な空気に抗う者には、それなりの抑圧がかけられる。ネットであろうが世間であろうが同じことだ。○○好きの集まる場所へやって来て、批判的言辞を弄し、仮にそれが正当な意見だったとして、何故それを温かく受け容れてもらえるなどと思うのだ? そんなはずがなかろう。誰が受け容れるか。甘ったれるな。

■不幸にして、相手が話の通じぬバカなビリーバーであろうと、それなりの渡り合い方というものがある。容認され、賛同を得られなければ、言いたいことも言えず、主義主張も貫けない。その程度の気力も気概も持ち合わせないというなら、悪いことは言わん。人前で批判などするな。毒を吐くな。無用の恥を晒し、惨めな思いをするだけだ。正当な言行なら、必ず受け容れてもらえるほど世間は甘くなく、人間は上等な生き物ではない。それ以前に、「自分は正しい」と思っている、そのオツムをこそ、本当は謙虚に見つめ直すべきなのだが……。

■AKINAさま本人がご覧になって、嫌われてしまったらどうしよう……。そんな限りなく無に等しい、取り越し苦労を通り越して、妄想の域に達する心配をしたってしょうがない。可能性はゼロとは言い切れないにせよ、そのときはそのときと、ニヒルに割り切るしかなかろう。崖崩れを怖がって、山登りはできないようなものだ。

■誰が見ているかわからないから、誰に見られても憚ることのないことしか言わない。そういう選択は、ワタシにはできないし、する気もない。そんなNHKの全国放送のような、朝礼の訓示のような、そんな個人サイトに魅力があるだろうか。なによりも、創り手であるワタシ自身がちっとも愉しくない。

■ワタシとしては、百名程度でフルハウスの小屋におけるトークライヴレベルの、ラディカルさと良識をもって本サイトを運営していけたらと思う。そのあたりが、自分のやりたい事と自己拡大欲とが交差する、ちょうど良い限界ラインであろう。

■多くのサイト運営者が見落としがちなのは、自己の器量を超えるアクセスは、かえって災いにしかならないということだ。自分のやりたいことの性質を見極めず、闇雲にアクセスアップを図り、「大手サイト」を目指す危険に気付かない運営者は少なくない。もちろん、目指したからといって、そうそう簡単になれるものでもないのだが。

■だが幸か不幸か、野望が実現してしまった者には、それまで考えもしなかった重圧に悩まされることになる。それはもう、地上波レベルの注視のなかで、トークライヴレベルの話をすれば、支障は出てきて当然なのである。内容を穏当にするか、パッシングに抗し撥ね除けるか、いずれかを選んでやっていければよいが、大抵は嫌気がさしたり、疲れ果てたりして、サイトそのものから手を引いてしまう。

■有名になるのは難しい。しかし、有名になってしまった者が、匿名性を取り戻すのは、もっと難しい。

2001.12.8 訂正コメント追記

ゴースト シューアースの幻
2001.12.19
 週アス(註1)の「WAMコンピュータ使用レポート」(註2)に、raycaとかいうバーチャルキャラが連載を始めた。(註3)
 この記事を職場の隣席の女性に見せたところ、このようなコメントをしてくれた。

こういうのがあると、みんなゴーストじゃないかって思いますよね。

 ……ごもっとも。ご用とお急ぎでない方は、バーチャルキャラの書く(嘘)パソコンレビューをお読みになってみてください。
 ちょっとフォント弄り系っぽい日記にしてみました。

(註1)「週刊アスキー」の略称
(註2)各界の著名人がパソコンのレビューを連載するコーナー
(註3)2002年1月1日号より

勝手に性夜
2001.12.23
「クリスチャンでもないのに、なぜクリスマスを祝うのか?」
「神聖なクリスマスに、なぜふしだらな行為に耽るのか?」

 この疑問にそれぞれお答えしよう。まず、日本人はクリスマスを祝ってなどいない。そして、クリスチャンにあらざる多くの日本人にとり、クリスマスは神聖でもなんでもない。従って、日本人にとり、日本的クリスマスの在り方は、なんら矛盾も不都合もない。
 日本人にとってのクリスマスは、真に厳かな「お正月」の前のカーニバル(乱痴気騒ぎ)に過ぎない。キリスト教圏西洋社会の反感は買うかもしれないが、日本の神様はお怒りにはなるまい。
 村の鎮守のお祭りで、好き合った男女が結ばれるのは、日本の古来からの伝統である。古事記を紐解くまでもなく、日本の神々は性に対して、たいへん大らかである。

 キリスト教徒にとっての神聖なるその日を性の饗宴で辱めるのは、世界を支配する欧米主導型グローバリズムに対する、異教徒のささやかなレジスタンスである。ヤマトオノコよ、クリスマスにはセックスをしよう!
 そんなことを言ってるワタシも、その前にお相手をみつけないとなー。恵まれない性生活を送るワタシに、どうかやらせてくれるオンナをプレゼントしてください。サンタさぁぁぁん。(吉澤ひとみ風に) できれば、アキナたんタイプをキボンヌ。

チャイルド・ラップ
2001.12.25
歌は世につれ 世は歌につれ、などと言われる。
時代とともに子ども歌う歌も変わる。
そのことは、知識としてわかっているつもりではいたのだが。
しかし、あらためてその実例にお目にかかると、少々愕然とさせられてしまう。

量販古書店のCDコーナーをうろついていたら、年の頃なら小学校1〜2年生ぐらいの坊やだろうか。その子があるヒットソングを口ずさんでいる。

  それぞれひとつのlife
  それぞれが選んだstyle
  それぞれひとつのlife ひとつの愛をyeah yeah


RIP SLYMEの「ONE」である。その歳でラップかい!
近頃のガキときたらまあ、マセたもんである。

こうなったら、オジサンも若いモンには負けてられん。
「SUPERGIRL」でも口ずさんでやるか!

  レツトカバウッ(Let's talk about) 恋のォ ジョーケーンッ 二重人格なれること
  冷たい顔優しい顔ーッ いつも同じじゃあきちゃうから(以下略)


……いったいここの読者の何%に通じるのかな〜?
フォル五サイトに鞍替えするかな。

愛(国)のうた
2001.12.27
唄:ストロベリー・ウヨッカー

ぼくたち国民 陛下だけについてゆく
今日も空飛ぶ 戦う やられる そしてカミカゼる

いろんな命が生きている大東亜で
今日も空飛ぶ 戦う やられる そしてカミカゼる

徴兵されて たたかって 殺されて
でも 靖国に 奉ってくれとは言わないよ
徴兵されて たたかって 殺されて
でも 私達 陛下に従い つくします



……こんなゲームは絶対に発売されないですが、昔の人々はピクミンのように健気だったのだと、それが歌が大ヒット中のゲームに込められたメタファーに思えてなりません。違います。

2001.12.28 一部修正

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