萬文書
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Red-robin's Factory
LAST UPDATE 2003.1.3

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■「ガールズザッピィ」のアッキーにクラクラッ、胸ズッキーンなカナメです。今年もヨロシコ! いまごろになって年頭所見もないもんですが、とりあえず2002年萬文書一発目ということで。
■2001年はFolder5にハマる、メモリアルイヤーとなった。2001年度の萬文書を回顧すると、「微乳は別腹」以降、急速に思い入れの度合いを増していることがわかる。
「だ・か・ら Let's GO AHEAD!!」は当時、新曲のリリースに合わせ、その思い入れのたけを洗いざらい発散させようと目論んだものだ。書けども書けども収まりがつかず、しまいにはA4用紙7枚分、原稿用紙換算28枚分、1万1200文字(単純計算)にわたる昨年度最長のテキストとなった。日本広しといえども、これほど熱くFolder5を語ったヤツも珍しいのではないでしょうか。ワタクシ、今年で四捨五入で四十なんですが、ちょっと先が思いやられます。つーか、もう終わってますか?
■思い残すことなく書き尽くして、すっきりフォルゴネタとはオサラバ、なんて考えていたワタシは甘かった。湧いてくるは湧いてくるはフォルゴを語りたい衝動がッッッ。
■いま読み返すと、誤った記述があるし、ハズした予言もある。オリコンチャートの結果は14位。クリスマス期リリースラッシュの激戦区とは言え、数字的にはFolder5のいつもの位置でしたな。最重要攻略ポイント、ヒッパレ・チャートに限っては成就いたしましたので、まあよしとしましょう。
■「まんまMOVEやんけ!」というごもっともな批判は、どうぞ木村貴志氏にお願いいたします。

■2002年の地上波初登場は、「2002年だよドレミファドン!」だったようだ。キー局では1月3日放映だったが、帰省中の関西では「怪傑!えみちゃんねる」が組まれていた。オドレに用はないんじゃ、上沼ぁ! オドレのお陰で関西が全国放送の放映されない「一部の地域」として除かれてるっちゅんじゃ、ゴルァッ! と憤ったが、幸い5日に放映してくれた。ビデオに録っちゃくれまいかと、変なお願いをした某友人には(外出中で無理だったのだが)、この場を借りてご報告しておきたい。観れました。
■印象深かったのは、彼女たちが解答で「モーニング娘。さんの恋愛レボリューション21」と口にしていたことだ。個人的には好感が持てるが、こういう礼儀正しさが、小者感を漂わせるとも言えるなー。だいたい、Folder(ファイブに非ず)でのデビューから数えれば、君らのほうが先輩ではないか。これがお笑い界なら、(安倍)なっちが「アキナ姉さん」と呼ばねばならないところだ。やはりキャリアではなくポジションが全てか、アイドル界。
■Folder時代のメインボーカル、変声期による休業と発表以来、謎の沈黙を続ける三浦大地くんについても、いずれ語らねばなるまい。
■Folderのセカンドにしてラストアルバム「7 SOUL」を聴いたが、凄いと言うしかない。AKINAの歌唱力を「優等生」と表現するなら、大地くんのそれは「天才」「神童」の領域である。FolderにおけるFolder5が、実質大地くんのバックダンサーに甘んじたのも無理はない。彼と彼女の素質の差は、まさにモーツァルトとサリエリのごとしだったのではないか。
■それほどに実力者である大地くんが、変声期などとうに終えているであろうに、いまだ復帰しないのが解せない。このあたりは芸能界の底知れぬ暗部を想像させずにはおかないが、その話はまた改めて。

■ここで少し寄り道をしたい。友人・らいむ女史の趣味人としてのスタイルには、学ぶところが多い。インディーズで活躍するバンドを応援する彼女は、好きなアーティストの世間的知名度や評価の低さに嘆いたり憤慨したりしない。あてがい扶持のヒットソングしか聴かず、最近の歌がつまらぬと、ありきたりなJ-POP批判をしては、我が身の退屈をこぼしたりもしない。関西で活動するバンドのライヴを観るために、嬉々として現地まで足を運び、己れの趣味道を全うしている。
■ワタシのフォルゴライフも、かくありたいものだと思う。モー娘。王朝の隆盛は相変わらずで、とりあえず全員の名前を言えるぐらいには好きなワタシでさえ、その歪つな人気の一極集中ぶりには、世間の視野の狭さ、あてがい扶持への依存度の高さを感じずにはいられない。
■でも、それを嘆いたって始まらない。「侍魂」なんかよりボクチムのサイトのほうが面白いのに、と愚痴るようなものだ。確かに人気の多寡が、活動および露出度(肌ではないよ)の多寡に直結する以上、人気者であり続けてもらわなければワタシも困る。しかし、それを彼女たちの価値の証明として結びつけ、一喜一憂することはすまい。
■今後、ワタシと想いを同じくする人々は、増えるかもしれないし、現状維持に留まる、あるいは減るかもしれない。が、それは突き詰めれば、どうでもよいことだ。世間がどう思おうが、彼女たちの真価をワタシはよ〜く知っているし、それによってワタシはいまでも十二分にハッピーなのだから。ヒッパレの途中で雛壇から消えている扱いのぞんざいさには、面白くない気分を味わったりするにしても。
■だが、フォルゴに知らずに生きるのは不幸だ! 知った上で、「趣味じゃない」「それよりメロン記念日ですが、何か」というならそれでいい。しかし、フォルゴ好き好きになれる素養を持っているにも関わらず、知らないためにそうならないのは不幸だ。ワタシはこのような人生の不幸から、一人でも二人でも救済すべく、ささやかな助力ではあるが、今後もフォルゴの魅力を語っていきたい。ハイ、口実です。
■Folder5はAKINAだけのワンマンチームじゃない。俺はあいつらを全国のやつらに見せてやりたい。湘北バスケ部・赤木キャプテンのように、そう言ってしまいます。
■そんなわけで、本年中には、フォルゴ・コンテンツを立ち上げるかもしれません。以上、年頭所見を述べさせていただきました。チェケチェケ!

2002.1.14 一部改訂

 この期に及んで「サラリーマン金太郎」にツッコミを入れるのも気が引けるんですが。でも、あのオープニングだけは見ておいたほうがいいです。採石場で爆炎に追われるように疾る高橋克典。まるで変身前の特撮ヒーロー。でも、変身はしません。すでにサラリーマンですし。ああ、しょうもな。
 無論、あれは確信犯でしょう。キミら笑かしにかかってるやろ? 「そんなサラリーマンはおらん」って言わしたがってるやろ? それはわかり切ってるけど、見事、術中にハメてくれた御礼に言って差し上げよう。そんなサラリーマンはおらん。

 エアチェックした1.19ヒッパレ・ライヴを繰り返し鑑賞する倖せにひたるON MONDAY。フォルゴファンとしては、煮え湯を呑まされてきた感もなきしもあらずな、この番組。レギュラーほど出ずっぱりでもなく、ゲストほど丁重な扱いもしてもらえない、埋め草的準レギュラー。ワタシがチェックし始めてからの僅かな期間に、いつの間にか雛壇から消えているのを何度目撃したことか。たまにはこういうコトもないとね。
 ライヴは彼女たちの魅力とスキルを余すところなく発揮した、素ン晴らしいステージでした。やはり、神経の発達過程にある幼少期に叩き込まれ、鍛え抜かれたダンスは、大きくなってから始めた一生懸命なそれとは、素人目にもキレが違う。決めるところはバリッと決め、はしゃぐところは年相応にはしゃいでみせる。突如「越冬つばめ」を歌いだす(ピッパレお得意のパターンですね)アッキーのほころぶ笑顔の愉しそうなこと、嬉しそうなこと。……もう昇天っス。KOっス。
 上手さ自体はアキナも凌ぐ、アリサの歌唱力は前々から証明済みとして、ナツ、ヒカリがしっかりと「歌える」ことを見せてくれたのは、アッキーのみならず、フォルゴファンのワタシとしては嬉しい。ヒカリ−アキナ−ナツによる、ガールズユニット最強のフロントラインができつつある。これを安定した歌唱力のアリサと、最年少にして最も大人っぽいモエが、両サイドから支える。これがFolder5というチームである。
 君たちは強い(可愛い)。湘北高校バスケ部・安西監督のように、そう言ってしまおう。特に、アッキー。君は日本一のアイドルになりなさい。ゴマキを倒したら、なれるかもしれへんでえ。

 それはそうと、今年から柴田アナに替わって、MCが大巨人・米倉涼子ですか。いやはや、西の森脇健児は消えたっつーにお前はいつまで芸能界に棲息してるんだ東の中山ヒデといい、ヒァウィゴゥお前はいったいナニ人だ赤坂といい、なぜこうもワタシの負のツボにはまりまくる嫌いな人材をチョイスするかね、この番組は。
 ガタイもデカいが、態度もデカい。大根のくせして、なに「わたし女優よ」オーラ撒き散らしてやがる。とは言え、ナンシー関理論ではないが、大物ぶることが大物としての「根拠」になることが、テレビ界には往々にしてあるのも事実。控え目なヤツはのし上がれません、芸能界。
 このあたりは確かに、Folder5のみんなも見習うべきなのかもしれない。あんまり見習ってほしくない気もするが。

■売春娘を止められるか
 売春をする実の娘をどう言って思い止まらせるか、という議論がある。結論から言えば、それが「道徳的違背」であるという理由から説得を試みても、失敗するであろう。何故なら、売春=悪という根拠は、どこにも存在しないからだ。「迷惑はかけていない」とうそぶく少女に「いや、迷惑なのだ。何故ならば…」と説明できる者はいまい。
 仮にそのC難度の理屈をこねたとしよう。今度は、素人未成年は買わないにせよ、ソープランドやファッションヘルスなどの有料性サービスに金を払った、己れの「罪状」を問われることになる。自分が後ろめたい「悪」をなしているならば、他人の「悪」を咎め立てする資格はない。そもそも自分自身、売春=悪などと、信じてもいないのだ。
 要は自分の娘に、身体を売ってほしくないだけだ。それを下手な理屈で正論仕立てにしようとするから、逆に理屈でねじ伏せられるのである。「いけないことだ」と言えば「迷惑はかけていない」と言われ、「病気に罹ったらどうする」と言えば「コンドームしてもらうもん」と言い返される。
 最初から「愛するお前に売春なんかしてほしくない」と正直な気持を口にすれば、そんな埒もない議論をせずに済む。かつまた、これに勝る強力な言葉もなかろう。

■正直になれば、争いは起こらない
 このような自分の「本当の動機」を隠し、表向きの「正当な理由」にかこつけて、相手を説得ないし論破しようとすることが、ネット上の(実社会にもだが)議論にはよく見られる。たとえば、自分が不愉快を感じた発言に対して「あなたの発言はネチケットに反している」といった抗議がそうである。
 彼にとり本当に問題なのはネチケットの違背行為ではなく、不愉快を被った自分の精神的苦痛にある。にも関わらず、そういう言い方をしてしまうから、「私の発言はネチケットに反していません」「私の発言がネチケットに定められるどの条項に反しているというのでしょうか?」「失礼ですが、ネチケットガイドラインを一度でも読んだことはありますか?」などと切り返されてしまう。
 むしろ、「そんなキツいことを言わないでください。胸が痛みます」とストレートな本音を言ったほうが、効果的である。相手もひとの子であるから、こう出られれば弱い。そう言うならやめようかという程度に心ある人間は、決して少数派ではなかろう。
 ところが、「そのような発言は許されない。いますぐやめなさい」と言われれば、相手は腹も立つし、自分の立場を守る必要もあるから、反撃に出る。かくして掲示板には、今日もバトルの華が咲く。

■エゴをエゴとして語るやさしさ
 ワタシはエゴイスティックな発言をよくする。「オドレに用はないんじゃ、上沼ぁ!」と吼えるとき、それはFolder5ファンとしての極めて個人的かつ手前勝手な心情を語っているのであって、普遍的な上沼恵美子不要論を唱えているわけでは無論ない。上方テレビ界において、Folder5より上沼恵美子のほうが、より多くの人に求められ、率も取れることぐらい承知の上の暴言である。
 エゴイスティックな暴言というと、一見して問題があるかのように思われるかもしれない。ところが、意外とこれが問題視されることはない。何故か。それはエゴイスティックな暴言とは、そもそも「不当」なものであって、反論を加える必要がないからである。上沼恵美子ファンの反感すら買わずに済む。そこには、Folder5ファンとしての「かわい気」だけがある。自分で言うのも気が引けるが。
 エゴをエゴとして自覚し、真正直に語ることは、事の本質が自身の個人的事情に過ぎないことを謙虚に認め、他者の正当性を保証し、立ててあげることでもある。

■「我、正当ナリ」を唱える危険
 個人的な不愉快・不利益と言っては沽券に関わるのか、それとも説得力に欠けると思うのか、自分を正当な立場に置いて、意見したがる人は多い。私の言ってることは正当なのだから、私の意見が通らないのはおかしい、というのだ。
 だがこうなれば、議論は正当性の有無を巡る論戦へとシフトする。問題は、仮に正当性ナシと決着がついたところで、当人に考えを改める気など毛頭ないことである。正当であろうがなかろうが、彼はそれが「好き」であり、そのほうが「好都合」である、ということに変わりはない。とすれば、なんと虚しい議論であろうか。
 はじめからエゴの発露として語っていれば、要らざる論争もせずに済んだであろう。異なる立場や考え方に、理解すら得られたかもしれない。しかし、正当であることを拠り所に意見するとき、少なからぬ反撥を招き、反感を買うことになる。それは必然的に、意見を異にする者を「不当」と断じ、非難することになるからだ。
 それはまさに、喧嘩を売るがごとき行為に等しい。周囲の風当たりを抑え、傷つきやすい自我を守るためにそうするのだとすれば、愚の骨頂と言うほかない。

■「許される範囲」という幻想
 善悪のつけがたいグレーゾーンの事柄にまで、善悪の線引きを行おうとする者は多い。悪ふざけというのは、どこまで許されるのか? といった具合にである。
 俗に「毒舌」と呼ばれる辛辣な批評や悪辣なジョークなどが、よくこの種の議論の種になる。それらは不愉快なものもあるが、なかには愉快痛快なものもあって、カテゴリーだけで一概に否定したくない。だから、その基準をどこに置くかで迷う。また、自分が愉快に思うことが、知り合いの誰かには不愉快だったりすることや、その逆もあったりして、ますます判断に苦しむ。
 これらは本来、自分の快・不快でしかないものを、善・悪(是か非か)に置き換えるようとすることで、生じる混乱である。何故、そのような置き換えをする必要があるのか。それは「是」の範疇としてコンセンサスが得られた発言をする分には、自分がイノセンスでいられるからだ。すなわち、事前に正当性を保証されていれば、事後の責任を負わずに済むのである。たとえ、それに文句をつける者がいたとしても、許された行為にとやかく言うほうが、独りよがりな難癖ということにできる。
 だが、許容範囲とは、個人の裡に各々異なる幅でしか存在しない。広く社会的・世間的に通用する普遍的な許容範囲など、ありはしない。そんなものは幻想である。自分の発言は許容範囲なのだから文句を言われる筋合いではないだの、許容範囲外の発言を楽しむ連中は良識に欠けているだの、そのようなことを平然と口にするとしたら、独善の極みである。

■「責任を持つ」ということ
 そうではない。善悪という軸を持ち込むことが、そもそもの誤りなのだ。自分には好きだったり、快かったりするものが、他人にはそうでないことがある。自分の発言がある者をご機嫌にし、ある者を不機嫌にさせる。そのどうしようもない現実をありのままに認めるしかない。あまねく全ての人々に歓ばれる文章も、誰ひとり傷つけも不快にもしない文章も、ともに有り得ないからだ。
 大事なことは、ルールを知り、それに従うことではない。自分の発言がどのような結果を招くか、そのことをしっかり考え、覚悟することだ。辛辣な批評や悪辣なジョークには、時として強い反作用が生じる。そうした、己れの行為の結果を引き受ける、それが「責任を持つ」ということなのである。
 それができる人間には、グレーゾーンの「当たり障りのある」甘く危険な果実に触れる「資格」があると言える。逆に言えば、それだけの覚悟ができない者には、その資格が与えられない。責任能力のない子どもには罪は問われないが、その代わり自由もまた制限される。引き受け得る結果の幅に従って、可能な発言の幅も左右するのは当然だ。発言とは決して、自由でも平等でもありはしない。

■閑話休題 たとえばこんな喩え話
 自分の部屋に来た女の子には、それをもって「エッチOK」のサインであるという決まりにしよう、などと世迷い言を口にする男がいる。多分に冗談半分ではあろうが、涙が出るほど情けない話である。
 これもまた、事前に正当性を保証されれば、事後の責任を負わずに済むという典型例と言える。ボクに非はない。ボクの部屋に来ながらエッチを拒む、キミこそ非常識。そう言いたいのだ、この男は。こんな心のチンポに皮が被った男に、女を抱く資格はない。女たちも、こんな男にあたら大事な身体を許してはならない。
 たとえ親しくデートをした仲でも、初めてのベッドインを迫るのに、相当のリスクがかかるのは当然である。あるいは、「バカ、ケダモノ、ヘンタイ」と罵られ、ひっぱたかれるかもしれない。その危険や結果ごと引き受けられずにどうするのか。
 どちらが悪いわけじゃない。押し倒す男には男の、ひっぱたく女には女の、それぞれの事情があったに過ぎない。そこに是も非もありはしない。
 毒舌? 下ネタ? バトル? やりたければやればよかろう。許しなど乞うな、同意など求めるな。そして、世間の掟を盾に取るな。そんなものは自分のヘタレっぷりを晒すだけだ。ただし、それに伴ういかなる結果も、自分で引き受けろ。

■幼稚園モラルの拡大解釈
 ひとの嫌がることを言うな(するな)。当たり前のモラルである。しかし、それは嫌がらせを目的として、意図的にそうすることを戒めているのであって、意図せぬ結果にまで敷衍しようすれば、被害者ぶった者勝ちという、とんでもない世の中になる。つまり、事の理非曲直ではなく、現にこうして傷ついている者がいるのだということが問題視される。もうすでに、そんな世の中になっているとも言えるが。
 そうした幼稚園モラルの拡大解釈は、自分自身にも適用される。すなわち、自分を不愉快にさせる発言は「悪」であり、従ってそれを排斥するのはまっとうな行為として正当化される。(1)で述べた、単なる自分の不愉快を「ネチケット違反」として相手を責めるやり口が、まさにそれである。それが私憤に過ぎないなどとは、露ほどにも思わず。

■閑話休題 良識派の陥る独善
 私憤それ自体は、何ら問題ではない。問題は私憤を公憤にすり替えることだ。公憤という錦の御旗を掲げる者は、得てして恐ろしく傲慢に、かつ冷酷になるものだからである。
 端的な例としては、有害図書弾圧のオバサマ方が挙げられるだろう。子どもから助平な本を取り上げ、叱り、やめさせるのは、本来、家庭内での仕事であろう。それができないのを情けないとは言わないが、我が子の教育という己れの都合のために、出版社・マンガ家、ならびにその読者に対し、少なからぬ犠牲を強いることに、もうちょっと申し訳ないとは思えないものか。
 身勝手なお願いで恐縮ですけれども、ああいった劣情を催すマンガを一般の書店等で販売されると、どうしてもうちの息子が手に取ってしまうのです。私どもが家庭で指導すべき問題ではございますが、街で立ち読みすることまで眼を光らせることもかないません。ああした大人を対象とした読み物には、陳列・販売の在り方に、ご配慮いただければ幸いでございます。……というような低姿勢で「お願い」されれば、言われた側も気持ちよく譲歩できるというものだ。気は心、と言うではないか。
 だが、彼ら(彼女ら)に、そんな慎ましやかさは微塵もない。するのは「要求」であり「命令」である。彼ら(彼女ら)にとり、エロマンガで飯を喰う出版社も、マンガ家も、それを楽しむ読者たちも、どいつもこいつもクソ外道の変態野郎な人間の屑であり、路頭に迷おうが楽しみを奪われようが、知ったこっちゃないからである。
 何故なら、我等は正義であり、彼等は悪であるからだ。悪を滅ぼすのに、何の遠慮が要るものか。――だが、本当にそうか? ワタシは思う。エロマンガで飯を喰う出版社も、マンガ家も、それを楽しむ読者たちも、確かにクソ外道の変態野郎な人間の屑かもしれないが、少なくとも悪ではないし、罪もない、と。

■敵=悪というイデオロギー
 私憤による言動をしてはいけないと思っている者は少なくない。ではそういう人が、本当に私憤による言動をしないかというと、そうでもない。そういう人は、私憤を公憤にすり替えることで、私(シ)の憤懣を晴らそうとする。自己欺瞞ほど簡単なものはない。
 当然の帰結として、こういう人は掲示板で起こる言い争い(いわゆる「バトル」)においても、正義の立場から悪を断罪しようとする。そして、こういう人がやたらと持ち出したがるのが、「ネチケット」(ルール)であり、「良識」である。すなわち、自分の外側に存在するキーワードだ。自らの裡に動機を探れば、それが私憤に過ぎないことが、バレてしまうからである。
 こうした自己欺瞞から脱するには、まず己れのエゴイズムに対する抑圧を解くことだ。私憤による言動を自らに許すのである。何故なら、私憤による言動を封じるストレスに耐え抜くことも、まして私憤そのものを無くすことも、ともに不可能だからだ。
 抑えがたい私憤を抑えようなどとするから、逆にそのストレスを与える存在に怨みを募らせることになるのである。その怨みは噴き出もののように「正義の味方病」として発症する。正義の味方病とは、「敵」を即「悪」と断ずる発想であり、思想である。それは醜いイデオロギーそのものである。

■ワタシのバトる理由
 例えば、ワタシの視界内で、Folder5の悪口を言うヤツは「敵」である。これは宣言しておきたい。大琉球帝國・大覚アキナ様に仇なす、我が国の敵だ。とは言え、敵はあくまでも敵でしかなく、「悪」として断罪する気はない。ワタシの機嫌を損なったとしても、良識を盾にそのことを糾弾することはしないと、それだけはお約束できる。
 彼には彼なりの、それを言わねばならぬ事情なり、心情があったのだろう。ワタシは彼のその立場や考え方を尊重する。彼の発言の自由を認める。でも、ワタシの敵である。成り行き次第では、バトルに発展することも有り得よう。
 ワタシはそれを恥じはしないが、正しいと強弁するつもりもない。それが死後、地獄行きのポイント加算に値する行為だったならば、甘んじてそれを受け容れるまでだ。ワタシは世の正義や、掲示板の安寧秩序のために争う気など更々なく、己れの護るべき何か(※)と、気分のためにそうするのだから。(※アイデンティティであったり、好きなアイドルだったりと様々です)
 ワタシは争いというものを、その相手の性質によって事の正否を区別したりしない。相手が「荒らし」だろうが、ただの「意見の違う人」だろうが、ワタシが戦うとすれば、その理由はひとつ。そこに「気に入らないヤツ」がいるからだ。
 すくなくとも、お前は正直だ。チーフスン(狼のレクイエム)にそう言われるだろうか?

■「発言の自由」の意味
 ワタシはやさしいでしょう?(笑) ワタシは「ワタシの気に障ることを言ってくれるな」とは、決して言わないのだから。言ってくれていい。無論その結果、ワタシは反撃するかもしれないが。
 それは結局「言うな」というのと同じ、あるいはそれ以上の恫喝に当たるのだろうか。そう解釈する向きは、必ずいるだろう。だが、ワタシの真意は違う。
「発言の自由」という言葉は、しばしば誤解されて使用されている。自分の発言が大いに顰蹙を買い、集中砲火を浴びたりすると「発言の自由はないのか」などと言ったりするのがそうだ。そもそも、発言が自由だと言うなら、他人が自分の発言に異を唱えることだって自由なのである。無論、発言は際限なく自由なのではない。自分の責任能力の範囲内において、自由であるに過ぎない。そのことは(2)で既に触れた。
「発言の自由を認める」とは、なにもニコニコしながら「うんうん、そういう考え方もあるんだねえ」と許容することではない。発言という行為そのものを保証することと、発言の中身まで認めることとは違う。
「多様な考え方があっていい」「異なる意見を尊重する」というフレーズも同様である。それらのフレーズと、「アホか」とコメントするのは、なんら矛盾しない。「その考えを認めない」という意見を言論の範囲に留める限り、そこになんら強制力はないからだ。言論に影響力はあっても、強制力はない。相手の頭や心の中まで、無理矢理どうこうできるものではないのだ。

■良識のスターリニズム
 ところが、私は「良識」に基づいている、などと考える人に限って、他人の相手の頭や心の中まで矯正しようとし、またそれを「善導」だなどと思っている「良識のスターリニズム」に陥りがちである。こういう人が、日頃は「やさしさ」「思いやり」が大事だ、などと説いていたりするから噴飯ものである。
 こうした、モラリズムとして「やさしさ」「思いやり」を唱える人間に、ワタシが胡散臭さを覚えるのは、それが「ボクにやさしくしてよ」「ボクを思いやってよ」の裏返しとしか思えないからだ。そういう人間に、「私の気に障ることを言ってくれてもいい」という「やさしさ」はない。根が利己的でありながら、それを認めなくないものだから、気に障ることを「気に障る」とは言わず、「いけない」とか「許されない」などと言っては、他人の発言という行為そのものを阻害しようとする。

■思いやりの限界
 ひとにはそれぞれ、言われたら傷つくことがあり、触れて欲しくないことがある。それを察し、避けるのが「やさしさ」であり「思いやり」と言えよう。そのこと自体は紛れもなく正しいのである。だが、これを実践できるのは、1対1もしくは、顔の見える範囲での1対多の人間関係に留まる。
 受け手を特定できないサイトや掲示板において、同じように「やさしさ」「思いやり」を発揮することはできない。何故ならば、言われたら傷つくことや触れて欲しくないことは、ひとそれぞれに異なり、無数に存在するからである。日常生活感覚での道徳観念をネットに持ち込むことに、そもそもの無理があるのだ。
 その無理に薄々気付き、戸惑う者は、ガイドライン的なマニュアルを欲する。しかし、そうした発想こそ、忌むべき全体主義へと繋がる危険を孕んでいる。

■幼稚園モラルの単純さ
 ワタシの大嫌いなフレーズがある。「幼稚園で習いませんでしたか?」というセリフがそれだ。実際、ワタシは両親が共働きで、保育園にしか行かなかった。だから、幼稚園で習ったことはないのだが、そんなことはどうでもいい。もしそのような質問をされたなら、ワタシならこう答える。習いはしたが、そんな低レベルなモラルはとっくの昔に卒業した、と。
 自分にされて嫌なことは、他人にもするな。たとえば、このような幼稚園モラルは、自分にされて嫌なことは他人も嫌である、という大雑把な前提に基づく、単純極まる規範である。複雑な人情の機微や、価値観の多様性というものを知る大人なら、それほど世の中はシンプルではないということをわきまえてしかるべきであろう。
 幼児に対して、このような非現実的とも言える規範を教えるのは、このぐらい単純でないと、彼らには理解が及ばないからだ。クルマが来なければ、適当に赤信号だって渡っていいんだよ。なんて言おうものなら、大人のような高度な判断力を持たない彼らは、無分別に赤信号を渡り、事故を続出させてしまうのである。生の現実を教えるには、彼らはまだまだ未熟なのだ。
 しかし、いい歳をしていつまでも幼稚園モラルを振り回している大人というのは、見ているこちらが恥ずかしくなる。無邪気にも、そんな稚拙なモラルで事足れりと本気で信じているから、自分が愉しいことで他人がうんざりしていることに想像も及ばないのだ。
 いい加減、自分にとっては平気なことが、他人には我慢ならなかったり、またその逆もあるということ。そうした「異なる人間同士」がせめぎ合い、折り合いをつけていくことが、人の世を生きるということなのだと、理解していただきたいものだ。だからこそ人間関係は難しく、また素敵でもあるということを。

■悪口否定論者の本当の本音
 自分が好きなものを悪く言われるのは嫌だ。だから、他人の好きなものを悪く言うこともしない。それは確かに、ひとつの筋の通し方ではある。だがその一方で、自分が嫌いものに悪態をつくのが大好きでやめられない。だから、他人が私の好きなものを悪く言うことも許可する。そういう筋の通し方だってある。
 言うまでもなく、ワタシは典型的な後者である。そして、前者の立場を表明する人々に対しては、本当にそのように筋を通しているのか、かなり怪しんでもいる。というのも、自分が好きなものを貶されたときには、上記のような正論を振りかざす人物が、自分が嫌いなものへの悪口には、いっしょになって笑っている例を何度も目撃しているからである。ひどいのになると、自らも平然と悪口を言っていたりする。まあ、本人に言わせれば「正当な批判である」とでも、お思いなのだろうが……。
 だが、たとえ正当な批判であろうと、それに傷つく者はい、胸を痛める者はいるのだ。その罪を背負おうともせず、自分は正しいのだから、とやかく言われる筋合いはないとでも言いたげな、そういう無神経さが嫌いだ。ワタシは悪党かもしれないが、少なくともデリカシーの持ち合わせはある。

 私見を言えば、前者の筋の通し方は立派だとは思うが、極めて困難だと言わざるを得ない。ひとは好きなものを好きと言いたいのと同じくらいの切実さで、嫌いなものを嫌いと言いたい生き物だからだ。
 建前道徳でそれを否定したりするから、「嫌い」「気に入らない」と言うべきところを「いけない」「許されない」などと建前道徳を盾に取った「偽善」に堕するのだ。前者の立場を取る者の本当の本音はこうだろう。私の嫌いなものへの悪口は許すが、私の好きなものへの悪口は許さん。そうではないのか。

■なにかを嫌いになれる者が、なにかを好きになれる
 それがいけないと言うのではない。そのことを自覚し、正直にそう明言せよ、と言っているのだ。自分の感情、自分の都合、それをわきまえるからこそ、他人には他人の感情や都合があることを理解する「紳士」であれるのだ。
 ワタシは批判と悪口をことさら区別はしない。それは読み手に判断していただくことだと思っている。そして、いずれにせよ、(自分で言うのは憚りながら)共感できる者には愉しんでもらえるとも思っている。
 共感できる悪口は愉しい。建前道徳がいかに否定しようと、それは事実だ。正の感情がある以上、そこには必ず負の感情が同じ強さで存在し、それに基づく共感、表現への渇望も生まれるものだからだ。
 なにかを嫌いになれる者が、なにかを好きにもなれるのだ。美味なる料理を美味と感じる味覚が、マズい料理をマズいと感じ、音楽の微妙な調べに感応する聴覚の鋭敏さが、粗雑な音楽を耐え難く感じさせるのである。中山秀征イヤイヤ、米倉涼子イヤイヤと感じるワタシの感性が、Folder5好き好きにさせているとも言えるのだ。

■負の感情にやさしくなれれば、他人のそれにもやさしくなれる
 負の感情を否定してはならない。怒りも悲しみも憎しみも、喜び楽しみ、愛に等しく、人間が人間らしくあるための、当たり前の感情であるからだ。
 自分のそれを否定し、抑圧する者は、当然他者のそれをも否定し、抑圧しようとするだろう。ワタシは真面目に世に問いたい。それは本当に「やさしさ」と言えるのか、と。
 怒り悲しみ憎しみを「よくない感情」として排除しようとしたりするから、それを惹起させる物事をも「よくないもの」として、この世から排除しようとしたりするのではないだろうか。
 ひとは仲良くしなければならない。そんな不可能な前提に立とうとするから、「あなたの考えは間違っている。あなたがその間違った考えを改めてくれたら、ボクたちは仲良くなれる」、そんな押しつけがましい独善を平然と口にしたりするのではないだろうか。
 ワタシは己れの心に棲むデビルと仲良しである。だからこそ、他人がそうであることにも寛容でありたい。それが時として、避けられぬ対立や衝突を招いたとしてもだ。そんな人生、そんな世の中のほうが、厳格な良識のくびきに繋がれ、ケンカもできない不自由な安全を保証されるよりも、ワタシには愉しいし、素敵に思えるからだ。

 すっかり創作仙人状態で、行きつけの掲示板も、コラム関係もご無沙汰しております。フラワー5(笑)の面々が脳を占拠していて、書き上げるまでは解放してくれそうにありません。
「君は日本一のアイドルになりなさい」とか「ゴマキを倒したら、なれるかもしれへんでえ」とか冗談で言ってたら、本当にフォルゴをキャスティングしたバスケ小説の創作衝動に取り憑かれてしまったのですから、人生どうなるかわかったものではありません。
 で、こうしてたまに非創作テキストを書いてみれば、例によってフォルゴネタだったりするわけですが、どうもこれだけは大目に見てもらえるようです。
 新曲「Magical Eyes」については、フォルゴファンサイトの掲示板でも、ちょっとした物議を醸しているようです。スローな曲調、アリサとのツインボーカル等々、「いままでと違うこと」をやるとファンどもが騒ぎ出すのはお約束ですが、なんといっても物議の焦点は、あの“みのむし”ルックでしょう。
 ここで実際にご紹介できる画像がないのが残念です。機会があったら、ぜひご覧ください。ワタシはあの衣装に、「みのむし」が連想されてなりません。冬になると、細い糸にぶら下がり、まるで東宝特撮のように、宙に浮いているかに見える、あの蓑虫です。
 あの“みのむし”ルック。「かわいい」を志向して外してしまった滑稽感とともに、妙な既視感も覚えてなりませんでした。そのデジャビュの正体が、ようやくわかったのです。
 夜もヒッパレでは「往年のキャンディーズ」と言っていましたが、違うでしょう。あれは「往年の大屋政子」です。もちろん、衣装に限ったハナシですけど。
 賭けてもいい。あのステージ衣装でHEY×3のダウンタウンとのトークに出たら、きっと松ちゃんに「くるよ姉さん」とツッコまれることでしょう。100カノッサ。

くるよ姉さん×5 追記.
ちょっとわかりにくいですが、ジャケット写真をご紹介します。今くるよルック揃い踏みです。

2002.3.5 加筆

■HEY!×3の2時間SPにフォルゴが出演するも、松ちゃん浜ちゃんが例の衣装に触れることはなかった。予言が外れてしまったが、ゲスト全員揃いで、しかも後ろの席に座らされたのでは無理もない。
■お陰で出ずっぱりといえば出ずっぱりではあったが、前回もモー娘。との運動会SPで歌だけの出演と、この番組とは相性が悪い。ダウンタウンとフォルゴが、まともに絡み合うのを観てみたいのだ、ワタシは。
■常は借りてきた猫のようにおとなしいが、Folder5の、ことにAKINAが司会とスイングし、弾けた時の面白さは尋常ではない。それについては、近いうちに述べてみたい。

■最近、コラムを書いていない。たまに書くことと言えば、フォルゴネタである。ぶっちゃけ、飽きてしまったのだ。
■平井和正について語るのも飽きた。といって、平井和正に飽きたわけではない。語るのに飽きただけだ。読む、そして愉しむ。それでいい。いまではすっかり普通の読者である。ファン同士の付き合いにも、もはや興趣を感じない。
■同じ平井和正好きに向けて、平井和正のリスペクトをする。それで共感を得る。……当たり前である。だから、つまらない。
■フォルゴネタに興趣が乗るのは、単にワタシがフォルゴLOVEだからではない。ワタシのサイトの読者層に、もともとのFolder5ファンがいないからである。
■Folder5など好きでないどころか知りもしない。そんな方々にFolder5の魅力を伝え、関心を持たせる。『グインサーガ』のヤンダル・ゾッグのように、Folder5という“魔の胞子”を我がサイトを訪れた者に植え付けるのだ。それが面白い。
■お陰様で、ワタシの半径5m(比喩的表現)では、ファンの間でしか通じない、世間一般には全く認知されていない「フォルゴ」の愛称が、「モー娘。」並みにすっかり定着してしまった。痛快である。

■創作を始めたのもそうだ。創作にハマっているのでコラムを書く暇がないと思っていたが、実は逆のような気がいまはしている。コラムに飽きたが故に、創作を始めたのである。
■自分を愉しませるには、常に新しい自己投機を図らねばならない。そうでなければすぐに飽きる。インターネットに飽きたと言い、ホームページ作りに飽きたと言う。必ずそうなるのだ。
■あるいはそれは、旧来のご贔屓筋の期待を裏切ることになるのかもしれない。ご期待に沿うことは可能だ。いまもまとまったテキストにし得る「ネタ」は、ワタシのアタマに頻々と想起している。

■一例を挙げる。リアル社会とネット社会とでは、人付き合いの性質が異なる。異なるが故に、リアル社会ではそうは起こらないトラブルが、ネット社会では容易に起こる。
■このことを問題視し、いかにネット社会をリアル社会に近付けるか。そのことに腐心する向きがいる。しかし、ネット社会をプチ・リアル社会にして、果たして面白いのか?
■ネット社会の面白さは、リアル社会とは異なる部分にこそ、あるのではないか? 少なくとも、ワタシはそう思う。
■ネット社会を愉しく渡り歩くには、個々人がネット社会の性質を理解し、そこに適応することである。ネット社会をリアル社会と同じに「改造」するのは、ジャングルを都会人向けにリゾート開発するが如き、野蛮な行為とは言えはしまいか?

■…というようなことを具体例も交えて書いていけば、A4用紙1〜2枚分ぐらいのテキストにはできそうである。いままで散々発表してきたものと、同じような性質と、分量と、面白さを持ったテキストが。
■それを書くことに、ワタシ自身が愉悦を感じなくなったということだ。だから、どうした。てなもんで。そういうわけで、ワタシはワタシ自身を愉しませる企画に邁進したい。
■せっかくインターネットという舞台で「公表」しておいて、愉しめているのが「自分だけ」だとしたら、それはちょっぴり空しい。可能な限り、他人も愉しんでいただけるよう、努力を払うのは当然だ。
■だがそれは、自分が愉しい、という大前提に立った上での話である。己れのつまらなさに耐えてまで、ご期待に応えるサービス精神は、生憎と持ち合わせがない。

2003.1.3 一部訂正

 バスケ試合の小説表現の参考にと、いろいろ渡り歩いているうちに、こんな小説にお目にかかりました。モーニング娘。を中心に、つんく♂ファミリーを登場人物にしたバスケ小説です。似たようなことをする人は、やはりいるものですね。
http://www5.airnet.ne.jp/yuko_chu/morning_bunko/kiseki/kiseki_page1.html
 リンクフリーではなかったので、URLだけ書いておきますが、別にお読みいただく必要はありません。ワタシの言葉だけでは、お前の言ってることが正しいのか判断がつかん。一次情報も見せい。という方のみ、ご覧ください。
 悪口を言うのは本意ではないので、歯に衣着せてものを言いますが、映画『ピンチランナー』並に面白い小説です。なにが面白いかというと、メンバーはみんな仲良しで、諍いひとつなく、試合をすれば、多少のピンチはあるものの、ひたすら勝ちまくる。
 とりわけ白眉は、宿敵・平家みちよのチームと、既にお互いインターハイ出場の切符を手に入れた者同士(出場枠は2校)の、勝っても負けても全国に行ける決勝リーグ最終戦ですね。まったく、なんという安心感でしょう! 読者は何の不安も怖れも感じることなく、目を細めて大好きな“娘。”たちが頑張る姿を応援できるのです。もちろん、期待に違うことなく、この試合も勝利を収めます。……って、おもろあるか、ドアホ!!

 言葉が過ぎましたでしょうか? モー娘。のことが大好きなんでしょうねえ。気持はわかりますよ、ええ。好きだから、辛い想いは味わせたくないか? そんなシーンは見たくないか? しかし、ドン底の谷間に突き落とされるからこそ、不屈の闘志で這い上がるヤマ場の、燃え上がるような歓喜もあるのではないのか。ヤマの頂上ばかり与えていたのでは、結局それは起伏もなく退屈な、真っ平らな平地の連続でしかないのではないか。
 プロットメイキングの定石から言えば、まず決勝リーグ第1戦で平家のチームと当たり、そして負けるべきである。そうすれば、残り二戦を全勝しなければ全国はない、という緊張感が生まれる。また、現実に「モーニング娘。」は、オーディション番組で、平家みちよに敗れた子たちで結成されたグループなのだから、「モー娘。小説」というジャンルの性質から言っても何ら問題はないし、むしろそうすべきなのだ。負けたっていいではないか。「全国」という、雪辱の舞台があるのだから。

 もしワタシが、このような「モー娘。小説」を書くとしたら、まずメンバー間に確執を与える。元エースの安倍なつみが、後輩の後藤真希にエースの座を奪われて、鬱屈を感じているとか、吉澤ひとみと後藤がちょっとしたライバル関係にあるとか。純真なファンからすると、モー娘。は本当に仲がいいんだいッ、ということなのかもしれないが、それこそ創作なのだから、現実に沿っていようがいまいが、別にいいのである。
 これはなにも、ワタシがモー娘。にはさしたる思い入れがないから、そのような「汚れ」に描くというのではない。念のためお断りしておくと、ワタシはモー娘。はけっこう好きである。好きだからこそ、そうやって「キャラを立てる」のである。桜木と流川、立花と柊の例をあらためて出すまでもなかろう。

 ワタシなら、こういうプロットを考える。
 新年度を迎えたモー娘学園(仮名)バスケ部に、辻、加護、石川ら新入生が入部する。そんな矢先、二年の後藤のクラスに、吉澤ひとみが転入する。後藤はその名前に、覚えがあるような気がしていた。
 ある日の体育の授業、後藤は吉澤の卓越したバスケ能力を知る、と同時に思い出す。去年の新人戦、彼女が目覚ましい活躍をしたエースプレーヤーであったことを。後藤はすぐさま、吉澤をバスケ部に誘うが、その気はないという。どうやら、転校もそのことに関わりがあるらしい。それがもとで、寄ると触るとケンカをする後藤と吉澤。
 そんななか、昨年の県大会で惜敗したエース平家みちよ率いる、平家学院(仮名)との練習試合が行われる。観衆のなかには、吉澤の姿も見える。
 競った試合をするが、次第にジリジリと点差をつけられるモー娘学園。10点差をつけられ、残り5分。敗色ムードが漂うなか、「見ちゃいられねーな!」の声が。そこには、モー娘バスケ部のユニフォームを着た、吉澤の姿があった。
 吉澤が入り、怒濤の追撃を始めるモー娘学園。試合終了間際、後藤・吉澤の息の合ったコンビプレーが、遂に逆転勝利のゴールを決める。
 モー娘学園をあとにする、平家の表情はしかし、意外にもサバサバしていた。「まさか、モー娘にあんな伏兵がいたとはね」
「でも、伏兵はこっちにもいるからね。このコを投入すれば、あのチームにだって負けやしないよ」
 そう言って、“伏兵”の肩を叩く。ニッコリと自信ありげに微笑む彼女こそ、平家学院の秘蔵っ子、松浦亜弥であった……。

 ぬおッ。なんか面白そう! このプロット、差し上げるので誰か書いちゃくれまいか。
 思い入れのあるアイドルをイメージしているいないに関わらず、自分が生み育んだキャラクターが、我が子同然に愛おしいのは当然だ。しかし、愛おしいからと言って、本当に我が子のように、波風のない、平穏な人生を物語のキャラクターに与えてどうするのか。
 そんな退屈な物語を提供するのは、創作者たる物語師の名折れ、罪悪だ。作者は愛するキャラクターに、敢えて過酷な運命を歩ませる、その痛みに耐えねばならない。ワタシだって、可愛いアカネが、胸をキュンとさせるカッコイイ男の子から「ロリコン趣味はない」などと言われ、傷つくのは辛いのである。……なんだ、その疑わしそうな眼は?

 お断りしておくと、『ダブルスコア』はフォルゴ小説ではない。フラワー5はフォルダー5ではなく、アカネはアキナではなく、リサはアリサではない。アキナもアリサも、あんな性格破綻者ではない(と信じたい)。彼女たちに似合いそうな「役柄」を演じさせているに過ぎない。それは浄善女学院や天島女子大附属の面々についても同じである。
 ワタシはフォルダー5を主演させ、脇にモーニング娘。を配した映画の、脚本と監督を務め、それを小説という形で具象化している。なんと贅沢でドリーミンな企画! 妄想を形にする。これほどオタクちックな悦びはあるまい。
 だからこそ、観客をナメ腐った『ピンチランナー』のような顔見せアイドルムービーはクソ喰らえなのだ。あのようなヘッポコ映画にモー娘。を起用することは、彼女たちの輝かしい経歴にも泥を塗ることになるのである。俺に脚本を書かせろ! 少なくとも、もう少しマシなもんを書いてやる。と、思い上がりと承知で言いたくなる。

 信条として抱くのはいいが、それを口にしてはならない性質の言葉ががある。
 そのひとつが「アホというやつがアホじゃ」というセリフである。
 この理屈からいくと、アホと口にする相手を「アホというやつがアホ」なのだとアホ呼ばわりすることによって、己れもまたアホであると自ら言ってしまうことになるからだ。さらに救いのないことに、そのことに気付いていないところが、マジにアフォであることを証明してしまっている。

 そもそもこのセリフは、口汚い言葉を濫用する主に子供に対して、主に長上者が戒めとして口にすべき言葉である。「アホというやつ」に「アホといわれてるやつ」は、自分自身ではない。そういうシチュエーションに於いては、有効な言葉と言える。
 しかし、「アホ」と言われたことに腹を立て、その報復としてこの言葉を口にするとき、深刻な自己矛盾が生じる。「ひとをアホ呼ばわりするな。それは許されないことだ」と他人を断罪しておきながら、そういう自分もまた、それによってひとを「アホ呼ばわり」することになるからである。

 アホというやつがアホ。この言葉を本当に信じ、実践するつもりならば、「アホ」と言われたことに対して、報復してはならない。「アホ」を口にするそのアホぶりを、優しい憐れみをもって許してあげよう。
 また、本当に腹に据えかねたならば、敢えて報復も辞さないという、ワタシのような標準的な人間は、この言葉を報復の道具として用いてはなるまい。「あなたよりはマシ」。そういったフレーズを使うようにしたい。

 無論、この言葉を取り上げたのは、象徴的隠喩である(と言ってしまっては、隠喩でなくなるが)。よく見かけないだろうか。「ひとを批判するな!」と言って、ひとを批判しているひとを批判しているひとを。「悪口を言うな、バカヤロー」。「罵倒すんじゃねーよ、死ねタコ」。こう書くと、いかにもパラドキシカルで嗤えるが、ふと気が付くと自分でもついやってしまいかねない、ありふれた光景である。

 立派な理念を持ちながら、いまいちそれを実践しきれない者が、こうした過ちを犯す。若いうちはそれでも良い。ある程度、それも赦される。しかし、いい加減、世間からもいい歳をした大人として見做される年齢になったならば、そろそろ自分自身の人格ならびに生き方に対して、結論を出したほうがいいのではないだろうか。
 褒められたことではないと解っちゃいるが、我慢ならぬ揶揄・中傷に容赦はしない。それに対して黙っているほど、お人好しにはなれないし、なるつもりもない。まずそこをキッチリしっかり自覚しなければ、批判を批判することも、罵倒を罵倒することも、アホというやつにアホと言い返すこともできないではないか。
 ご立派な理想と己れの本質的な性(さが)とのギャップに気付きもせず、それが平気でできてしまうのは、つまるところアフォだからである。

 ワタシは結論を出した。自分は立派な人間になどなれないし、また、なる気もないと。だから言える。次のような科白を。
 そんなひどいことを言うあなたの人格を疑います。――そう言うあなた言葉は、ひどくはないのですか? そう言うあなたの人格をワタシは疑ったりしませんが、そう言うあなたのオツムの程度は、疑うどころか確信をもって断言いたします。あなたは、アフォです。

 ワタシの書いている小説をお読みいただいている皆さん、ありがとうございます。そして、オノレの書く小説なんぞに用はない、根拠不明の自信に溢れた素の文を書け、という皆さん、ごめんなさい。いや、別に謝る義理でもないと思うのですが、まあ気は心ということで。お詫びがてら、小説のほうも一段落といいますか、概算で原稿用紙二百枚を超え、試合に向けた前フリもようやく終わったいま、改めて自分にとっての「小説を書く」という行為について、自己分析を試みてみたいと思います。
 そもそものきっかけは、この方のコラムに「小説だけは知り合いに読ませるのに抵抗がある」というのがあって、考えてみれば「恥ずかしい」ことやってるよな〜、と思ったことでした。
 読んでいない人もいると思うので、あえて自分の小説をこの場で引用してみます。
 私、どうすればいい? こんなとき、一番の相談相手はアカネなのに、こんなにもあのコの明快でストレートな答を訊きたいことはないのに、よりによって彼女にだけは私の気持を明かせない。このことを知ったら、優しいあのコは、自分の気持とは関係なく、私と博君をくっつけようとするだろう。
 こんな16歳の女の子の独白(正確には日記)を書いてる、齢35のオッサン。気持ち悪いですね。これが観念的にどのくらい恥ずかしいかと言うと、カラオケでFolder5の「Magical Eyes」を例の同じ衣装を着用の上、人前で歌う。これと同レベルで恥ずかしいことであると思っております。
 いや、カナメにとっては、それも大して恥ずかしくはないのだろう。などと思われては困ります。恥ずかしいです。あなたと同じくらいに。
 では、ワタシは赤面しながら、照れまくりながら、上記の一節を書いているかというと、そうでもありません。執筆のさなかはトランス状態みたいなもので、自分の姿を客観視などしませんから。そして、書き上がればあがったで、まるで他人事のような気がしています。自分にとって魅力たっぷりなこの小説が、他人にとってもそうだとすれば、それは登場人物である彼女達のお手柄であって、ワタシの実力ではない。そんな気分が。
 ワタシの背後に彼女達がいて、ワタシは口述筆記をしている。そうした、お筆先的比喩は正確ではありません。それほど楽はしていない。言うなれば、アイドルのガールズユニットをプロデュースしている。そんな気分です。楽曲を作るのは自分。詞を書くのも自分。振付を考えるのも自分。そして、ステージで歌って踊るのは、彼女達。そんな感じ。
 コラム・エッセイというのは、青年の主張です。ステージに立つのは自分自身です。プロデューサーに対比する比喩を用いるなら、シンガーソングライターです。そこには、自ずと制約が加わります。自分のイメージ、自分のキャラ、自分のポリシーといった手枷足枷が。
 ワタシの場合、色恋も含めて、自己体験としてのエロトークは、絶対にできません。現役の彼女が見るかもしれず、立場的にマズイとか、そういうことではなく、感性・感覚といった生理面で、とてもじゃないができないということです。
 ところが、これが小説になると平気でできる。自由度が、より高いのです。ひとつには、作り事であることもありますが、それ以上に、自分ではなく、他人にやらせている、という感覚が、要因として考えられます。
 結論が出たようです。小説を書く、という自分の行為が、観念的には『「Magical Eyes」をFolder5の格好で歌う』のと同じであるのに、なぜ実感としては恥ずかしさを覚えないのか。それはワタシことカナメが、フリフリのコスチュームでブリブリのアイドル歌謡を歌ってるのでなく、まさに可愛い女の子に可愛い衣装を着せ、可愛い歌をうたわせているからです。ワタシのインナースペースの認識においては。
 このことは、男であるワタシが「少女スポ根」を書くという、これまた観念的には非常に気色の悪い事実と、密接な関わりがありそうなので、別項に改めて書きたいと思います。とりあえず、拙作『ダブルスコア』については、作者の素性、ルックス、性的リビドー、等々については、あまり気にされずに、お読みいただければ幸いでございます。

■異性を主役に物語を描く、ということ。

(続く?)

 習作『“E”』と『ダブルスコア』を対比し、何故ワタシがヒーローに比して、ヒロインのほうに、よりストレートな自己投影が可能になるのかを書いてはみたのだが、やはり発表するのは控えることにする。自作を評論し、得々と語ることほどみっともないことはない。
 言うなれば、これは“秘儀”である。それを明かしたが最後、魔法は解かれる。その呪術的信仰が真実であるかどうかは問題ではない。大切なのは、ワタシがその呪術的信仰の徒である、という事実だ。ワタシのどうってことないノウハウを公開するのはいいが、ワタシはワタシに懸かった登場人物たちに見離されたくない。

2002.5.11 追記

 MAI、YU、KANA。MIYU、MAIKO、MIZUHO、TAKAYO。これを見て、「ああ、dreamとZONEのメンバーね」と思ったひとは、ワタシと同等以上にガールズユニットの知識のある方です。
 アルファベットのユニット名に、本名の下の名前をローマ字表記したメンバー名。カッコ良さを狙っていながら、救いがたく没個性的なこのセンス。そしてそれは哀しいかな、ワタクシご執心のAKINAHIKARINATSUARISAMOEで構成された、Folder5にしても同じなわけです。
 SPEEDなきあと、その後がまを狙うかのように、揃って2000年前後にデビューしたこれらグループが、これまた揃ってパッとせず(ZONEが二馬身抜けたにせよ)、モー娘。に独り勝ちを赦しているのも、むべなるかなという気もしないではありません。
 モーニング娘。←これは「体言止め」です。このネーミングセンスの妙。プロデューサーつんく♂には、いろいろと世間の批判もありますが、このセンスは認めないわけにはいきません。特筆すべきは、単に和字を使えばいいというものではないということ。SPEEDよりも、琉球ガールズ(※マジにユニット名の候補だったそうです)のほうが良かったかというと、決してそうではない。MAXにしても、スーパーモンキーズのままでは当たらなかった気がするし。
 さて、そんなことを言うからには、ワタシもFolder5に替わる、もっと素敵な名前を出さねばなりません。で、こんなのを考えてみました。

フォルダーV

「V」は「ファイブ」とお読みください。なんか、冠に「超電磁少女」とか付けたくなりますね。V!V!V! ヴィククトリー。大地を追い出す超電磁〜、ってシャレになってませんね。というか、ボルテスV(ファイブ)と、コンバトラーV(ブイ)を混同してるし。

 さて、急に話は変わって、愛しのアッキーことAKINAの本名を宮里明那といいます。ワタシはかねてより、彼女の生まれ年(85年)から考えて、当時のスター中森明菜にあやかったのだろうと考えてはいました。が、少なくとも、ワタシが彼女に関心を持ってから今にちまでの間、それについて触れたことはなかったわけです。
 その憶測に解答が与えられる瞬間は、ふいに訪れました。ヒッパレライヴ「聖子・明菜メドレー」のCM明け、まるでワタシの「訊け。この機会に訊かねば、いつ訊くのだ」という念が届いたかのように、三宅さんが尋ねてくれたわけです。

「十五六年前ってことは、AKINAって名前は中森明菜からとったのかな?」
「たぶんそうじゃないですかッ」

 彼女の返答のビミョーなニュアンスを字面だけでお伝えできないのが残念です。もちろん、あからさまではなかったわけですが、その声色、表情から、ワタシは彼女がそのことをあまり喜んでないなと察知しました。
 無理もない、とは思います。光り輝くスター時代を知る我々直撃世代はともかく、若い人達にとって、現在の中森明菜というタレントは、名前にあやかられて、それほど嬉しい存在ではないでしょうから。麻薬中毒患者役がピッタリはまりそうなその風貌(※)。ちょっと人生の暗部を味わい過ぎましたね。
 そして、ここがポイントなのですが、それでもなお、いまだに何の前置きもなく「アキナ」と言えば、それは中森明菜のことなのです。世間一般では。その認知度・知名度の格差は、山口百恵と中西百重(全日本女子プロレス)ほどにも懸隔があるでしょう。岩崎ひろみが「若いほうのイワサキヒロミ」で通用するほどには、「若いほうのアキナ」は知られていません。ワタシの口からそんなことを言うのも癪に障る話ですが、これが現状です。
 まあ、そういうところにも、忸怩たる思いはあるのだろーなー。といったところで、邪推に基づく考察を置きたいと思います。別にオチはありません。
 そういうわけで、世間はどうあれ、ワタクシに関しましては、何の前置きもなく「アキナ」と言えば、それは「若いほうのアキナ」(もしくは「小っちゃいほうのアキナ」)と自動的に解釈されてしまいますので、ワタクシと付き合いのある方は、ご留意くださいますよう、お願い申し上げます。これで、締まりましたでしょうか?

※追記
 これはうちの読者には割と通じると思いますが、アダルトウルフガイ『虎よ! 虎よ!』(無論、ベスターではなく平井和正の)の、緒方ミキなんかピッタリのハマり役なんじゃないでしょうか。煤けた安アパートの一室で、屍のようにベッドに横たわる中森。その壁には、若く瑞々しいアイドル時代の自らのポスターが貼られている。「セカンド・ラブ」あたりの頃のがよろしいかと。……ピッタリ過ぎて、引いてしまうかもしれませんが。

2002.5.24 加筆

 少し前まで、首都圏では朝に『探偵物語』を再放送していました。
 その最終回、「ダウンタウン・ブルース」で不覚にも泪してしまったのです。

 工藤探偵の仲間、骨董屋で映画マニアの拳銃密売人・飯塚と、とんまな舎弟・イレズミ者(二代目)が、事件に巻き込まれ、殺されてしまう。
 葬儀にも姿を見せなかった、工藤のことを話しながら、仲間達は彼らの遺骨を抱いて、根城である渋谷に帰ってくる。
 「こらっ、イレズミ者ッ」
 「飯塚ッ」
 「俺たちの街に着いたぞ」
 「うれしいだろッ」


 このシーンですよ。鼻にツーンと来るような生理現象、喩えるならプールで鼻から水を吸い込んだときのようなそれが来て、気付いたらボロボロ泪がこぼれてるんですよ。
 実はこれを書きながら、泣きそうになってしまう。どう考えても、泣き所を間違えてるだろう、と思うのですが、そうなってしまうのだから仕方ありません。自分でも説明がつかないのです。
 その前の工藤が泣きながら「なんでみんな殺しちゃうんだよ?」のシーンでそうなっても良さそうなものですが、不思議なことに、こちらはヘーキなのです。優作って、鼻は高いけど、顔は平べったいなあ、などと、あらぬことを考えてしまいます。これは、観る度にそう思うのですけど。
『探偵物語』は、殊に「ダウンタウン・ブルース」に関しては、何度も何度も何度も何度も繰り返し観てきましたが、こんなことは初めてです。「歳を取ると涙もろくなる」とよく言われますが、ワタシ自身については確かにそれは言えそうです。
 それはそうと、工藤探偵は刺されて死んだんでしょうか。それとも、生き延びたんでしょうか? そして、最後の最後、傘の色が変わっていたのは、手違いなのでしょうか。あるいは、何かの演出なのでしょうか?

2002.5.28 一部訂正

 立ち寄ったCDショップで、ちょっと前のシングルと、かなり前のシングルを買う。その感想などを。

亜矢 ■ちょっと前のシングル 〜亜矢「選択の朝」(BMGファンハウス)
 たまたまテレビで見た、ビデオクリップで気になっていた曲。すでに英語バージョン収録のアルバムがリリースされているが、日本語の歌詞で聴いてみたかった。聴いた。グレイト! これはぜひ皆さんにも聴いていただきたい。つーか聴け。
傷で傷を かき消すような 愛だったの...baby
あとどれ程 苦しめれば 気がすむのよ...? baby

My mama and daddy
They want me to be strong
I think I finally feel the same way
赤い糸は引きちぎられた
You know, I'm just so scared
 血を吐く叫びのような歌声と、鋭利な刃物のような詞の前に、己れのハートを晒せ。そして貫かれろ。彼女のアルバムも聴いてみたいと思う。

そこまで「カバー」せんでも ■かなり前のシングル 〜Folder「I WANT YOU BACK」(avex tune)
 あ〜あ。とうとう、大地くんにまで手を出したかよ。マニアというか、物好きにも程があります。アルバム「7 SOUL」は入手済みであって、同曲の英語バージョンはすでに聴いていたのですが、こちらは日本語バージョン。
 これがジャクソン5のカバー曲であることは言うまでもないと思いますが、英語バージョンを聴いたときの感想は、「マイケル(ジャクソン)よりサマになってるという評も、あながち贔屓の引き倒しとは言えないな」と思ったものでした。
 97年、わずか9歳でデビューした三浦大地が、いまのFolder5ともうひとりの男の子を従えて、Folderとして活動していた当時の、ワタシのリアルタイムの記憶は、4thシングル「ジャンジャカジャケンポン」で途切れている。おそらく、これは世間一般に共通する認識でしょう。その後、アキナとのツインボーカルによる5th「Glory Glory」、ラストにして事実上のソロ(Folder featuring Daichi)、名曲「Everlasting Love」をリリースするわけですが、その間の6thシングルがこの「I WANT YOU BACK」です。
 それまでのお子様路線(?)を離れ、アーティスト志向が感じられるこれらのシングルが、そのクォリティの高さに関わらず、さほど奮わなかったのは、「ポンキッキーズ」降板による露出度の低下と、無関係ではないでしょう。
 この辺のFolder時代の考察は、いずれじっくりやる予定ですので、周辺事項はこのぐらいにしておきますが、この日本語バージョンの感想を言えば、正直あまり感心しませんでした。外国曲の日本語カバーにありがちな違和感、滑稽感に満ちみちていて、失笑なしには聴けません。
Oh baby 最後のチャンス(To show you that I love you)
言わなくちゃ 君へと
Oh daring 非常事態だよ(let you go,baby)
想い伝えよう(I want you back)
 これは売れんよなあ(苦笑)。こちらをカップリングにして、英語バージョンで勝負すべきだったと思うなあ。英語バージョンを聴いたときは、驚嘆したんですから、ワタシは。ヒアリングしやすい中学生英語ではあっても。英語バージョンに関しては、一聴の価値があります。前にも言いましたが、アキナの歌唱力を優等生だとするなら、大地のそれは天才・神童の領域ですから。
 宇多田ヒカルが弱冠15歳にして「Automatic」を引っ提げ、その脅威の実力で社会を震撼する以前、三浦大地という、もっと年下の天才坊やがいたという事実を、知っておいて損はないでしょう。ついでに、この歌をステージで歌うとき、Folderのメンバーが全員アフロのヅラをつけていたことも。

 こちらに越してきた友人Hと、久しぶりに会う。いまは直接の付き合いはない、関西にいる古い友人の近況を聞く。詳しくは書けないが、職を変わったり、誰もみな人生いろいろのようである。
 ネットの話題では、「いかにして己れの死を《オンの知人》に伝えるか」について、その手段から、ビジネスへの展開まで語り合った。結局、システム上のトラブルが怖いのでやめよう、という結論に落ち着いたのだが。
 勤務中、食事休憩といって抜けてきたというHと別れ(長いランチタイムだ)、突然の夕立に見舞われ、帰りの電車で、それまでの豪雨が嘘のような晴れ間とともに、それを見た。前の母娘連れがしきりに窓の外を眺めているので、何かと思ったら、見事な虹が、地平から大空に向けて、アーチを描いていたのである。

……とまあ、こんな話題を「日常雑記」って言うんだよなあ。テレビ観た、CD買った。それも日常雑記には違いなかろうが、それを起点に自説を滔々と語り出しちゃったら、それはちょっと違うよな。というセルフツッコミもカマしつつ、(1)(2)では収まらなかった事項を更に追加。

■『リンダリンダラバーソール』への共感とシット
 おもしろおかしく、ちょっぴり切ない、オーケンこと大槻ケンヂの自伝的ストーリー。身も蓋もない感想を言うと、「成功した人の苦労話っていいよね」ということになる。どんなに惨めで、トホホな青春を過ごそうと、現にオーケンは「文化的活動で禄を得る」という、少なからぬ若者が夢見、そしてそのほとんどが挫折する、夢をかなえた勝利者じゃん。という想いが、心の片隅にわだかまる。
 といって、夢破れて田舎に帰った元バンドマンの自伝なんて、別に読みたくもないし、故に出版されることもないのだが。

「FACTORY」(CX)のアッキーにウットリ
 ライヴハウスからゲストのステージを見せるタイプのディープな深夜音楽番組。エレカシの宮本が、Mステあたりでは決して見せないノリでシャウトする。今回の進行役を務める、ナンバーガールとかいうバンドが観客を暴れさせる。
 そのあとに、なぜAKINAのソロ??? なんの説明もエスクキューズもないまま、RCサクセションの「いいことばかりはありゃしない」を歌うアッキーを映す画面下方には、エンディングテロップが……。リサーチしたところ、安倍なつみも出たというから、らしくないアイドルを出すのが、この番組の通例なのだろう。
 番組への疑問はともかく、こういう唄を歌わせても、アッキーは本当にサマになる。タンクトップにジーパンというラフなスタイルが、世界名作劇場に出てくる《靴磨きの少年》的風貌を持つ彼女には、よく似合う。Folder5は紛れもないアイドルであるし、それでいいのだが、いずれアイドルであることを全うしたら、こんなステージをこなすシンガーになってほしいと思う。
 RCの名曲をお世辞程度にしか「歌いこなせてる」とは言えないステージではあったが、この歌詞を唄うアッキーに、確かにワタシは魅了されたのである。金がァ 欲しくてェ 働いてェ 眠ゥるゥだけェ

■とかなんとか言っていたら
 その翌日の「マシュー Best Hit TV」を見逃した。不覚! 番組表を見たら「暴走フォルダ5(秘)トーク」だと。観たかったなあ。
 出る番組に隈無くチェックを入れるワタシも、たいがいな濃ゆいファンだと我ながら呆れもするが、「ヒッパレ」の準レギュラーとラジオしかレギュラーを持たない彼女たちの、ゲスト出演というのは大変貴重なのである。レギュラーだけで、テレビ・ラジオ・衛星あわせて、日曜から土曜まで、およそ電波に乗らない日はない、アイドル界の大英帝国・モーニング娘。とは、1番組出演あたりの重みが違うのです。

2002.5.28 一部訂正

 用語の定義から、まずハッキリさせておこう。「荒らし」とは何か。
 それは掲示板を「荒らす」ことを「目的」とする。即ち、参加者を愚弄・侮辱することで、掲示板の安寧秩序を乱し、最終的には掲示板そのものを壊滅、閉鎖に追い込むことを悦びとする。そういう手合い。と、とりあえず本論では、そういう意味合いで用いることにする。

「荒らし」が現れた場合の対処法は、ワタシの考えでは二通りしかない。
(1).事務的・システム的な対処
(2).喧嘩を受けて立ち、葬り去る
 前者は「荒らし」に対し、出入り禁止を言い渡し、従わない場合は徹頭徹尾、その発言を削除する。可能ならば、システム的な手段を用いて、書き込みを不可能にしてしまう。管理者ないし同等の権限を持つ人間にしかできないことで、一般参加者にはできない。
 後者は、言葉を刃にした争いに応じ、逆に「荒らし」のほうに「こんなヤツと関わり合っていたら、ボクの自我が傷つき、破壊される」と思わせ(自覚的にそう思う者はいないが)、去らしめることである。誰にでもできることではなく、従って、お奨めはできない。筆者自身は、その術に長けていると豪語する気はないが、いままで幾人もの「荒らし」と思しき人物を、そうして排除してきた実績を持つ。

 それ以外のリアクションは、効力を持たない。
 たとえば、「『荒らし』はやめてください」などと言うことである。
 この場合、問題が二つある。まず、冒頭の定義に従えば、相手が「荒らし」であるかどうか、証明するのは困難であること。それは突き詰めれば、相手の心の中を覗かぬ限り判らないことで、ひょっとしたら、その人は真実、真面目に抗議をしただけかもしれず、その場合、そうした決め付けは、大変失礼である。自分の確信はさておくとして、第三者にそう思われる可能性はある。
 次に、本当に「荒らし」だったとしたら、これほど無意味なセリフはない。相手はまさに掲示板を「荒らす」べく、行為に及んでいる。歌詞の引用が著作権侵害に当たることに、うっかり気付かなかったのとは訳が違う。悪気があるのである。
 倫理を持ち合わせない人間に、倫理を説くことほど無駄な行為はない。それは通り魔殺人鬼に向かって、「人殺しは犯罪だ。やめなさい」と諭すのに等しい。そんなことを言ったって無駄だ。自分が刃物で斬りつけられるのがオチである。
 不運にして、通り魔殺人鬼に遭遇したらどうするか。それは通り魔から逃げて警察に通報するか、腕に覚えがあるなら、逆に通り魔をふん掴まえてブチのめすか、どちらかだ。

 ワタシが言いたい結論は二つ。まず、軽々しく「荒らし」などと口にすべきではない。「荒らし呼ばわりは心外」などといった、反撃の「付け入るスキ」を与えることになる。警戒を要する相手であればこそ、己れの心の内を見せるのは拙策である。
 次に、「荒らし」と断定するような相手に、腕に覚えもないのに手を出してはならない。被害者を増やすだけだ。悪いことは言わない。そんな汚れ仕事は、その道のプロにまかせておけ。ワタシのような、な。とは言わないが。

 どうしたら、その道のプロになれるのか? と、血気盛んなネット若者は言うかもしれない。簡単なことさ。ネットバトルの実戦を積み重ねることだよ。結論の二つ目でワタシが戒めた、かつてワタシがやって来たことをやることだ。なーに、命までは取られやせん。少なくとも、ネットバトルに留まってるうちは。
 だが、精神的には傷を負う。スキルを身につける過程で、他人を傷つけ、自分も傷つき、掲示板にも多大な迷惑を及ぼすことになる。それでも来るか、冥府魔道の道を?
 そして、ココが最も肝心な点だが、大して自慢にもならんぞ。しょせんは「口げんかの達者なヤツ」でしかないのだからな。限られた人生には、もっとほかに懸けるべき何かがあるはずだ。
 そんな呪われた人間は、掲示板にひとりいれば充分だ。ワタシはそう思う。

 掲示板では、かねてより整理券の購入をお伝えしていた(証拠物件1)、HIKARIソロ写真集発売の握手会に福家書店新宿サブナード店に行って参りました。
 中高生ばっかで、オレだけオッサンだったらヤだなー、なんて思っていましたが、そんな心配は杞憂でした。むっさいニイチャンばっかり。オレ、ちっとも違和感なし! それはそれでイヤなもんですな。汚ねえ手ェでヒカリちゃんに触ってんじゃねーよ。このロリコンどもがあッ。ま、言えた義理ではないんですが
 にしても、見るからに十代って、見当たらなかったな〜。女性が5%以下(目測)ってのは解るんだけど。アイドル市場って、こんなもんすか? いやはや、ワタシもまだまだ世間知らずですわ。それとも、Folder5の特異的なファン層ということなのか。そうは思いたくないもんですが。まあ、情報・経済力の両面で弱者である小僧が、写真集の発売握手会にいないからといって、これが世間のファン層の縮図と考えるわけにはいきませんが。
 にしても、なんかこう、日本の未来を憂いてしまいますな。それでいいのか、キミタチ。言えた義理ではないんですが。ニッポンの未来は世界が羨む濃いをしようじゃないか。宅間し〜ん。

 手元には、サイン入りの写真集があります(証拠物件2)。にしても、ホントにキレイになりましたよ、このコは(証拠物件3)。ベスト・ホットパンツ賞があったら、間違いなくノミネートされるであろう、スラリと伸びた長い脚と、太股からヒップにかけての生唾ゴックンもののステージ衣装のお姿を、ご用とお急ぎでない方は、是非ご覧くださいとワタシは言いたい。
 モスラ2では、日本の名前で出ています、でもホントはフィリピン人、さーくる社のロリコン写真集的な、真っ黒けの女の子だった(証拠物件4)ヒカリちゃんが、ティーンエイジも後半に入って(ティーンエイジとは、正確には十代ではない。13〜19歳を言う)、大輪の花を咲かせた。Folder5のお色気担当。実際、ステージ衣装はそうなんですよ。
 Folder5における歌唱力のツートップがアキナとアリサであるのに対して、ルックスのツートップはアキナとヒカリだ。贔屓はもちろんアッキーなんだけど、ヒカリも好きなんだよねー。ベタな言い方でなんですが、恋人にするならアッキー、お嫁さんにするならヒカリたん、ということになりますな。ほんまにベタな表現やな。
 生ヒカリたんは、もちろんか〜いくて、お手手はヤワヤワでしたよ。エヘ。

2002.7.2 一部改訂

「Earth Harmony」にガッデムなカナメです。こちらでは、ひと月ぶりのご無沙汰です。なにをそんなにガッデムなのかは、チャリティーCD「World needs love」を、まあ機会があったら聴いてみてください。
「USA for AFRICA」(We Are the World)を初め、国内外でチャリティ目的の混成ユニットは数多く作られたが、こんな扱いをされたアーティストが、かつていたか? ラジオをエアチェックしたが、何度聴いても、いくら耳をすませても、男の声しか聞こえないんですけど?
 くら、w-indsにFLAMEのガキども。お前らはレディに対するギャラントリーとか、先輩への遠慮とかゆーものはないのか? まあ、こいつらにゃ罪はないんだろーけどさ。どうしても、ポニーキャニオンのスタッフなんぞという名も知らんヤツより、顔の見える相手に当たりたくなるのよ。悪く思うな。
 あーもーこんなCD、正規の金額払って買いたくねー。ブックオフあたりで入手してえ。avexのコピーコントロールCDにも増してガッデムだ。こんな唄なら、ハナからFolder 5要らねーじゃん。なにか? 男の子にも買ってほしいってか。オレに金だけ払えってか。あーケタクソ悪ッ。……でも、発売日にレコード屋で買っちゃうんだろーなー。とほほ〜。

 食べ物の話をされると、無性にそれが食べたくなることは、誰しも経験があることでしょう。ワタシの場合、創作という行為においても、それは起こるようです。
 拙作『ダブルスコア』の最新パート、ケーキ職人・長沢祐子さんの回顧シーン(41〜42)を書いて、無性にショートケーキが食べたくなっていたのですね。
 そんなある日、地元のスーパーに行ったら、運悪く苺のショートケーキが1コ百円で売っておりまして。この誘惑に抗し切れるはずがないわけでありまして。
「2コください」
「3つで二百円ですので、3つのほうがお得ですよ?」
「じゃあ、3コで」
「1つオマケしますので、4つ入れておきますね」
「………ハイ」
 2コ買うつもりが4コに。サービスがいいというか、なんというか。
 三日かけて、4コのショートケーキをひとりで食べました。1コ百円(五十円?)にふさわしい、パサパサのケーキでした。
 ワタシの背中越しに、ヒカルが「太るよ」と作者に向かって言って寄越す。かまやしない。とっくに太っている。

「まるでガキだね」と貶されたときの、オトナとコドモの対応の違い。

■オトナ
 これはまた、ずいぶんな言われようですね。いったい私のどこが「まるでガキ」だというのでしょう? あなたに言わせれば「まるでガキ」な私にも解るように、ご説明いただけませんか。

■コドモ
 どうせガキだよッ。ガキで悪かったなあッ。

※注 コドモに向かって、「コドモ」と言ってはいけません。

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