ヒライスト番長
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プロレスと平井和正
1995.01.29 初出:NIFTY-Serve
 アントニオ猪木対ラッシャー木村戦を観て、うーむと唸ってしまった。全日本プロレスの前座でジャイアント馬場とともにお笑いプロレスをやっている、あのラッシャー木村が、若き日のアントニオ猪木と死闘を繰り広げているのである。これが感動せずにいられようか。
 何故こんな、それはそれは昔の映像を眼にすることができたかというと、テレビ朝日が深夜に「プロレス アンコールTV」という、新日本プロレスのTV放映の言わば、再放送を行っているからなのだ。ここら辺が、プロレスの奇妙なところで、スポーツニュースや新聞(一部例外を除く(笑))にも取り上げられない、スポーツ界の日陰者である割に、こんな番組があったりする。国民的な人気を有する大相撲やプロ野球にしたところで、昔のTV中継を再放送するなんてことは、まず考えられない。
 そんな訳で、貴重な猪木VS木村戦を観ることとなった。R木村の国際プロレス在籍時代の映像である。国際プロレス。かつて、馬場の全日本、猪木の新日本とともに、そういうプロレス団体があったことをご存知だろうか。無論、プロレスに関心がないのなら、知らなくて当然だ。しかし、あなたが平井ファン、とりわけアダルトウルフガイのファンであるならば、必ずこの名を眼にしている筈である。
 周知のように日本プロレスの開祖、力道山の死語、弟子たちは四分五裂した。お定まりの勢力争いで群雄割拠というわけだ。そのプロセスは省略するとして、現在の大手は国際プロ、全日本プロ、新日本プロの三つに分けられて、力道山の遺産を分けている。

『狼は泣かず』より
 犬神明が、友人・大滝雷太の行方を追うべく、雷太をスカウトしようとした、さるプロレス団体に探りを入れようとするあたりの下りである。雷太は結局、そのプロレス団体と契約を交わしてしまっていたのだが、その団体をジャパン・プロレスという。
 単に下品であるだけでなく、見るからにいかがわしくうさんくさい。だいたいジャパン・プロレスなる代物自体がそうなのだ。

同著
 長州力がみたら怒るぞ(笑)、と思ったあなたはプロレスファンである。長州が一度新日本を離脱し、興した団体がジャパンプロレスだからだ。
 もちろん、『狼は泣かず』はジャパンプロレスの旗揚げ以前に発表された作品であるから、これはしょうがない。

 ところで、平井和正はプロレスに関心があるのだろうか? プロレス観戦をする平井和正の図、というのはいささか想像しにくいが、それっぽい表現があることも事実なのだ。

其の一
 『女神變生』の一度も登場しない主人公(笑)八大日明。「日明」と言えば、第二次UWFを旗揚げし、空前のブームを巻き起こした、かの前田日明を連想せずにはいられない。「日明」と書いて「あきら」と読ませるのが、一般的な人名とは思えない。やはり、前田日明から来ているのか……。

其の二
 白山小雪の科白。
「おい! こら、おまえ! わたしのウルフさまから手を放せっ。延髄切り叩っこまれたいかっ」
「(略)あんたにも、その薄い胸板にエルボー・ドロップ食わしてあげるから、覚悟することね」
 小雪ちゃんがプロレスファンであることは間違いないとしても、「延髄切り」を知っている平井センセーも相当なものだ(笑)。

イラストな話
1995.02.25 初出:NIFTY-Serve
 以前、「ボヘミアン…」は平井和正らしからぬ作品だと言ったことがあるが、最近、それが間違いではないかと思い始めている。女の子いっぱい、お色気いっぱいというのは、むしろ「幻魔」以降の平井さんの作品の顕著な特徴のひとつであるからだ。そういう意味で言えば、平井和正らしくない作品の筆頭は、『黄金の少女』だと言えるだろう。タイトルこそ、女神の時代を色濃く反映させたものではあるが、タイトルロールのキム・アラーヤが登場したのは、最初と最後のちょこっとだけだ。ハリエット・ハントレスこと虎2と、キンケイドの回想にのみ登場する西郡真理子を除けば、あとはむさいオッサンと兄ちゃんばかりである。これほど、色気に乏しい作品も珍しい。まさに男・男・男のオンパレードである。
 だから、という訳でもないが、『黄金の少女』には、生頼範義がマッチしている、と思う。別に泉谷あゆみがアンマッチだと言うつもりはないし、『黄金の少女』がウルフガイシリーズの一部分である以上、そこだけ別のイラストレーターにする訳にもいくまい。しかし、ピートの絵などを観ていると、塗炭のような黒人の肌を描くのは、泉谷さんのタッチには、いささか不向きだなと思わざるを得ない。生頼範義の『黄金の少女』の挿し絵が、SFアドベンチャーに埋もれたままになっているのは惜しいことだ。渋い中年男性とメカと化け物を描かせたら、生頼の右に出る者はいない。アダルトウルフガイだけは、今後も生頼範義で…… そう思っているファンは多い筈だ。
 だが、これが美少女の描写となると、話は変わってくる。『ハルマゲドンの少女』や『ボヘミアンガラス・ストリート』のイラストが生頼範義だと、やはり具合が悪い(^^;。作品に応じて、個性に合ったイラストレーターを起用する、という考え方に私は賛成である。雰囲気的な相性、というのが大事なのだ。「サザエさん」を永井豪が描いてはいけないし、「北斗の拳」をさくらももこが描いてもいけない、ということだ。ちと、極端すぎるか。
 個人的なイメージなど問題ではない。イメージが違うと文句をたれるタワケがよくいるが、アホンダラぁと言うしかない。他人が描いているのだ。自分のイメージとそっくり同じイラストが現れたとしたら奇蹟である。個人的な話をさせていただくなら、私のイメージ通りのイラストなど、誰にも描ける訳がないと思っている。私のイメージには、どんな天才イラストレーターもかなわないからだ。なんたって、自分のオーダーメイドである。恋人と美少女タレントを比べるようなもので、比較にならないのである。こんなことは当たり前のことだろうと思うのだが、ひょっとして私は特別なのだろうか? ともかく、イメージが崩れる、などと言う、脆弱な想像力しか持ち合わせない気の毒な御仁には、さっさと崩してしまえと言っておきましょう。
 たとえマンガだって、絵を額面通りに受け取る必要はないのだ。豊穣な想像力さえあれば、絵だって文字同様、記号にすることができる。私はコミック版『幻魔大戦』を読むとき、眼は石森章太郎のベガを観ているが、脳裏には生頼範義のベガが描かれている。これはちょっと特殊な技能に属するかもしれないが。絵に不満があるマンガに出会った際は、是非、お試しあれ。

 さて、そこで高橋有紀さんである。未曾有のラヴストーリーに相応しい、新鮮で才能豊かなイラスートレーターが必要とされた時に、その贅沢な条件にピッタリの無名の逸材を見い出した、平井和正のフォースには驚くばかりである。泉谷あゆみさんを見い出した時もそうだったが、平井和正という人には、イラストレーターの素質を見抜く、特別な眼力がある。平井和正は、ムック「幻魔宇宙」の泉谷あゆみさんの投稿イラスト観るなり、“天才”と評したのだ。それは、はっきり言って素人の域を出ない作品であって、単に上手下手で言うなら、もっとうまい作品は他にもあった。だが、その後の彼女の才能の開花ぶりについては、周知の通りだ。これはもはや霊感である。やがて上梓される『ハルマゲドンの少女』のために、彼女は現れたのだ。神の恩寵というの確かにあって、それは凡人がどんなに遮二無二奮励努力しても、どうにもならないものなのだ。人は生まれながらにして平等であると唱うヒューマニズムが、神を否定するのは当然のことだが、それはまた別の話だ。
 高橋有紀さんもまた、そのようにして『ボヘミアンガラス・ストリート』のために、現れたイラストレーターである。何故、これほどのひとが今まで無名であったのか、自分の才能を生かして収入を得ようとしなかったのか、タイミング良く知遇を得ることになったのか、などと考えてはいけない。「ボヘミアン…」のために、彼女は“温存”されていたのだから。そのように全ては仕組まれていたのである。
 最後に、平井和正の言葉を記し、この取り留めもない一文を終えることにしよう。

 この世に偶然なるものは存在しない。

平井マンガ打ち切りの歴死
1995.03.11 初出:NIFTY-Serve
 平井和正原作マンガの歴史は、打ち切りの歴史でもある。今回の『BACHI☆GAMI』の打ち切りを機に、これまでの平井マンガの打ち切りの経緯の数々を振り返ってみることにしよう。

『8マン』(絵:桑田次郎)
 TVアニメ化され、大人気を博したが、桑田の拳銃不法所持事件によって、終了となった。ストーリー的には、サチ子に正体を知られた東八郎が探偵事務所を去るという幕切れとなっており、きちんと完結した形になっている。ただし、最終回は別のマンガ家(楠たかはる)が描いたため、平井和正の気に入らず、単行本未収録となっていた。30年(!)の歳月を経て、桑田二郎がこの幻の最終回を描き直し、リム出版から完全復刻版が出たのは周知の通り。平井和正全集『サイボーグ・ブルース』の巻末企画においては、『8マン』のクライマックスは当初からの予定であり、本来ならその後の展開が構想されていたという、衝撃的な作者の談話が発表されている。それによれば、超古代地下文明がその後の物語のコンセプトだったという。8マンの超テクノロジーは、超古代文明の所産だったのである!

『エリート』(絵:桑田次郎)
「少年キング」で桑田が『バットマン』を描くことになったために、打ち切りとなった。主人公竜太郎が魔王ダンガーを倒したことで、ストーリー的な決着はついているが、この作品も、後の展開が用意されていたことが、伏線から察することが出来る。やはり、超古代文明に関わるもののようだ。

『超犬リープ』(絵:桑田次郎)
 詳しい終了の経緯は不明。悪の組織、MMM団を壊滅させた後、一話完結形式となり、それまでの勢いを失っている。原作者のやる気が失せたのか?

『幻魔大戦』(絵:石森章太郎)
 一部熱烈なファンを得たものの、人気に乏しく、打ち切りの運びとなる。髑髏の陰影を宿した月が異常接近するというクライマックスを迎えた。幻魔の圧倒的な力の前に人類が敗北するという、勧善懲悪が金科玉条であった当時の漫画界にあって、衝撃的なラストであったと思われる。

『デスハンター』(絵:桑田次郎)
『死霊狩り』の後の展開が描かれているのは、特筆に値する。だが、田村やリュシール(『死霊狩り』ライラに当たる)のシャドウ(ミスターS)との暗闘をジャーナリストの視点で描くという展開は、アクション性に欠け、それまでの人気を喪うことになる。

『スパイダーマン』(絵:池上遼一)
 この作品も、詳しい終了の経緯は知らない。もともと、本国版の設定に合わせ日本版に焼き直すという、やとわれライター的仕事に、平井和正は嫌気が差していたようである。最終話では開き直ったのか、一度もスパイダーマンに変身することなく終わった。

『ウルフガイ』(絵:坂口尚)
「ぼくらマガジン」の廃刊に伴い、終了する。最終話は、林石隆との出会いから、『狼の怨歌』のラストまでを駆け足で描き切っている。なお、この作品の『狼の怨歌』に相当する部分は、手塚(石塚)医師を手塚治虫そのものに描いてしまったという理由から、いまだ単行本化されずにいる。

『新幻魔大戦』(絵:石森章太郎)
『幻魔大戦』の続編かと思いきや、それよりも400年も前の物語である。ストーリーは小説版と変わらないが、「SFマガジン」の最終回で「以下次号」となっている点に注目したい。当時、まだ“言霊使い”たる自覚はなかった筈だが、おそらく煮詰まってしまったのだろう。この後、『狼のレクイエム』を3回だけ連載することになる。

『BACHI☆GAMI』(絵:余湖ゆうき)
『クリスタル・チャイルド』を別にすれば、久々のマンガ原作である。打ち切りになったのは、おそらく、掲載誌の編集方針の変更によるものだろう。私は最終回と聞いて、バチガミ化したレノが地球を壊滅でもさせるのかと思っていたが、本当に途中でブツ切りにしてしまった。人気と作者の情熱さえあれば、続きを発表する機会はやってくる。無理に終わらせる必要はない、ということだろうか。これほどあけすけに開き直った最終回も珍しい。

 ここに記した作品は、平井和正原作マンガの全てではない。『宇宙人ピピ』や『キャプテン・スカーレット』などの単行本未収録の作品は除外している(そもそも、眼にしたことすらない)。また、『クリスタル・チャイルド』や、ケン月影の「アダルトウルフガイ」のような、既に発表された小説をコミックライズした作品についても、同様に除外してある。
 なお、この一文を書くに当たり、おかもとさんの「平井和正マンガリスト」を参考にさせていただきました。

故にボヘミアンは…
1995.03.19 初出:NIFTY-Serve
 ところで、HP(LXの生みの親、ヒューレットパッカード社のこと。ホームパーティーにあらず)のフォーラムと言えば、私が「ボヘミアン…」について触れたところ、面白いという人や、読んでみようという人が結構いて、嬉しかったものです。
 私が知る限り、NIFにおける一般の「ボヘミアン…」に対する好感度は大で、今後の人気の爆発を予感させてくれます。
 逆に反応がイマイチなのは、SF関係の方で、話題にもなっていません。私はアクセスしておりませんが、某ネットの方では、「あの作品のどこがSFなのだ。ただのラヴストーリーではないか」という批判があったそうな。興味深いお話です。

 SFファンからの平井和正批判は今に始まった事ではない。十数年も前から、マル幻だの、宗教だのと、悪口雑言叩かれ続けてきた。SFではないと言われれば、そんなチンケな代物と一緒にするなと言うだろう。もっとも、それは売り言葉に買い言葉というヤツであって、SFに対しては、偏見も、恨み辛みもない。そもそも、平井作品はSFである。いったい「幻魔」のどこがSFでないというのか。サイボーグが登場するのだぞ! 「ボヘミアン…」にしても、その点は同じで、「ボヘミアン…」の冒頭を読んでこの作品がSFだと見抜けなったSFファンは自らの素養のなさを嘆くべきだろう。
 しかし、SFだの、そうでないだのということが、そんなに大事なのことなのかと、私は奇異に感じている。平井和正の小説がSFか否かというのは、いわば、美人の女性がOLか否かというのに等しい。つまり、どうだっていいことなのだ。女子大生であろうが、家事手伝いであろうが、魅力的な女性は魅力的なのである。
『スラムダンク』や『ガラスの仮面』はSFではないが、私は大好きである。『動物のお医者さん』は少女漫画で『おたんこナース』は少年漫画。そんなカテゴリーは、そもそも不毛である。私にとって一番大事なことは、私の関心を惹くかどうかだ。誰にとっても、それは同じだと思うのだが。
 平井和正がSFファンの反感を買う理由は解っている。彼の作品がSFの衣を着た、なにか別のものだからだ。それは正統派文学から、SFが差別された構図と全く変わらない。既成の文学の殻を破ったSFが、SFの殻を破った平井和正を批判するのは皮肉である。既成の枠をブチ壊す驚きこそ、SFの持つ魅力のひとつであった筈だからだ。 “神”という絶対主義的概念を作品に持ち込むことで、平井和正はSFという相対主義の世界から、つまはじきにされた。だが、相対主義とは本来、それ自体をも相対化するものだ。平井和正を否定するSFは、相対主義を絶対視するという誤りを犯している、と言えるだろう。
 故に、「ボヘミアン…」は、SFラヴストーリーではなく、マジカルラヴストーリーと銘打たれている。

書を捨てよ、街へ出でよ
1995.04.13 初出:NIFTY-Serve
 随分昔の話になりますが、「小説読んだくらいで、人間変わらないよ」という言葉を目にしたことがあって、痛烈な印象を持ったことを今でも憶えています。
 小説を読んだくらいで、人間は変わらない。これは全くその通りでありまして、例えば『幻魔大戦』を読んで、なにやら自分が偉くなったように感じるのは錯覚に過ぎません。東映ヤクザ映画を観て、肩で風切って歩いている兄チャンといっしょです。
 『幻魔大戦』が、どれほど素晴らしい小説であっても、それを読んだだけでは立派な人間になれません。『空手バカ一代』を読んだだけで、空手の達人になれないのと同じです。空手の達人になるのと同様、立派な人間になるには、努力が必要です。
 ただ、『空手バカ一代』を読んで、空手の道を志した人が少なからず存在するように、平井和正の作品に触れることで、自らを変えようとする、そのきっかけにはなるようです。
 ところが、悲しいかな、人間とはものぐさな生き物でありまして、平井作品の登場人物のような立派な人間になりたいと思いつつ、なんの努力も払うことなく、ずるずると日々を過ごしてしまうのであります。そして、ときたま、「ああ、いままで自分は何をやってきたんだろう?」などと悔やみつつ、それでもやっぱりなにもしない(笑)。人間て、そんなもんです。素晴らしい小説の読み手が、必ずしも素晴らしくないのは、このためです。そして、素晴らしい作家のファンサークルが、無惨な末路を遂げてしまうのも。

 私は敢えて言う。平井和正の小説に触れ、感動に眼を潤ませている、若い人々に向けて。
 書を捨てよ、街へ出でよ。バイトしろ。ナンパせよ。書斎の住人には何も出来ない。何も解らない。生(ナマ)の人間との関わり合いの中にこそ、真の成長の糧はある――と。

よかったね、円くん
1995.04.25 初出:NIFTY-Serve
 狼研究で著名なバリー・ロペス氏は言う。
 ――獲物は殺されるのではない。己れを狩る者の徳の高さを認め、その身を捧げるのである。

 素晴らしい言葉ですよね。でも、この言葉を男と女の間に当てはめてしまうアタシって、ひょっとしてドすけべ?(笑)。でも、ホントその通りだと思うんよ。アレのことを“契り”とも言うけど、やっぱりアレって、厳粛な「契約」だと思うんだな。狩る者と狩られる者との間に“死の契約”があるのと同じように。
「ねるとんパーティ」なるものが盛んに行われているようなんだけども、はっきり言ってワシは好かんのよ。ワシが女だったら、ああいう所へ行く男は願い下げやね。男はケモノだからなー。獲物はてめーでとっつかまえるもんです。あてがい扶持にありついてどーする。家畜に成り下がった男なんて魅力ないと思いません?

 で、円くんとホタルの話題になる訳ですが、いやあ、遂にいくとこまでいきよりましたなあ。まあ、そこはそれラヴコメの定石というか黄金パターンで、不首尾に終わってしまう訳でありますが、んなこたぁさしたる問題じゃございません。チャンスはいくらでもあるんだ。
 祝福すべきは、ホタルに遂にその気にさせたということに尽きます。愛してやまない女性が、自分にその身を捧げてくれる……。これに勝る歓びがあるでしょうか。セックスの快楽もなるほどヨダレが出るほど魅惑的なものではありますが、この無上の歓びに比べればさしたることはありません。充実したセックスライフなど、薬にしたくとも無い私が言うのだから間違いない。もっとも、精力絶倫の17歳、円くんには理解していただけないかもしれないが……。
 いや、ひょっとしたら世の男性諸氏の大部分にもご理解いただけないかもしれない。なんたってワシは人格者だからなー(※)。俺も人格者だ、という方は手を上げてください。
 なにはともあれ、よかったね、円くん。つーことで。

(※)人格者は普通そういうコトは言いません。

幻魔とボヘミアン
1995.08.08 初出:NIFTY-Serve

 君子、平井作品を予想せず。…ちゅうことで、「幻魔」の続編が執筆される可能性を云々するのは避けますが、たとえ書かれたとしても、完結はしないんじゃないかと思っています。何故かというと、この世から悪が滅び、全人類が愛と友情と信頼で結ばれ、地上ユートピアが実現されるなんてことは、どだい不可能だからです。
 また逆に、人類全体が無間地獄に堕ちる、というのも考えられない。人間、泣いたり、笑ったり、怒ったり、喧嘩したり、助け合ったりしながら、小市民的に結構しぶとく生き抜いていくのではないか。結局、善も悪も不滅であってみれば、“幻魔大戦”は果てしなく続いていくのではないか。そんな風に思っているんです。

 ニヒリズムだと誤解しないで欲しいのですが、私は人間なんてその程度のもんだと思っているし、それで充分だと思ってるんです。精神修養をして心を磨きたいとも思わない。私は不真面目で不謹慎な、すれっからしの面白がり屋で(ついでに助平)、そんな自分がそこそこ気に入ってるんです。
 だから、もし現実にGENKENが存在しても、私は入りません。出版物ぐらいは読むでしょうけど。そもそも、信頼や友愛なんてのは、限られた人間関係でしか成立し得ないものなんで、それを人類全体でやってのけようとしたところに、GENKENの無理があった訳です。

 ボヘミアンファミリー大上一家は、壊れゆく世界から避難しこそすれ、世界を滅びから救おうとはしませんでした。人類の総意たるベクトルは、神様にも動かしようのないものなのかもしれません。しかし、円くんは、愛するホタル達のために、家族と別れ、壊れゆくであろう世界に留まります。
 もしも世界が終わるなら、それまで君と一緒にいたい。う〜ん、やっぱり私は、人類の救済よりも、こっちの方がしっくりくるなあ。もちろん「幻魔」は大好きなんですけどね。

B.G.M この世が終わる時 谷村新司

信と狂信
1995.08.18 初出:NIFTY-Serve
「実際に見なくてもいいんです。東さんを見て、言葉を聞いているだけで、あたしにはなにもかもわかるんです。ここでわかるんです」
 陽子は右手で白いブラウスの胸の中央を抑えて見せた。
『幻魔大戦4』より

 平井さんの弁によると、ハルマゲドンはもう終わっているらしい(^^;。そう言われても、現実に人類社会は破滅に向けて驀進中であるし、ホッとひと安心、という訳にもいかないのだけれど。
 でも、そんな予感があったのは確かなんだ。疫病、飢餓、天変地異、戦争、魔族の襲来(笑)……。そんな誰にでもハッキリ判る形で、それは訪れはしないだろうと。途轍もなく劇的なことが、誰も知らずに始まり、そして、誰も知らずに終わる。そんな予感が。
 平井和正は、いつも時代を先取りしすぎるオッサンである。もう5年ほどして、今を振り返ったら、やっぱり平井センセーの言ってた事は正しかったと、思えるのかもしれない。いつだって、そうなんだ。なんだったら、賭けたっていい。オレは平井和正の目に張ってるんだ。
 これは理にかなっているの、かなっていないのといった問題じゃない。ひとを見る目の問題だ。私は「バーカジャナカロカ」(※)を読み解けず、一生モンの恥をかいた馬ー鹿だが(←こいつぁ、マジで恥ずいゼ(*^^;*)、ひとを見る目だけはあるつもりだ。平井さんてえ人は、そりゃあ間違えることだってあるが、しかし、いい加減なデタラメを軽々しく吹聴する人物じゃないのは確かだ。だから、T山が閉ざされたと、あのひとが言うなら、私は真剣に受け止めるつもりだ。それなりの根拠があってのことなんだから。
 そもそも、T山に関する発言は、そんなにブッ飛んだ話じゃない。人間が神を知覚するのは不可能だが、目に見える物事から、人や物や場所の神性の多寡・有無を判断することは、決して不可能ではないからだ。競売にかけられた天川弁財天に、もはやかつての神聖さが喪われてしまったことは、私にだって想像がつく。
 この程度の話など、別段、驚くにはあたらない。リアル犬神明事件に比べれば、かわいいもんである。リアル犬神明事件を御存知か? 犬神明を名乗り、不死身の肉体を持ち、国際的謀略機関と闘っているという、そんな人物が実在したのだ。彼はある日、『人狼白書』(角川版だから『不死の血脈』か)を読んで、自分のことが書いてある! とビックリ仰天し、超常現象研究家・南山宏氏の仲介で平井和正との鼎談が実現したのである。マジかよ、おい(笑)。狼男が本当にいるっていうんだぜ。でも、僕はあっさり信じちゃう(笑)。語られる内容以前に、語る人物を信用しているんだ。
 証拠もないのに信じるなんて、どうかしてる。そんな言葉をよく聞くが、信じるとは、そもそもそういうことだ。確かめられることを認めるのは「信じる」とは言わない。それは単に「知っている」という。神の存在を確認できないからこそ、ひとはそれを「信じる」のである。
 それ故に、「信じる」という行為には、絶えずリスクが伴う。「騙される」という危険と常に背中合わせなのだ。よく、私は騙された、といって騙した相手を非難する人間がいるが、騙された方にも責任はある。信じるという行為は、己れの責任においてなされるべきことだからだ。
 積極的に騙すつもりはなくとも、間違ったことを言ってしまうこともあろう。だから私は、自分の「信」に、他人は巻き込むまいと思っている。もし、私の目に狂いがあったとしても、誰にも迷惑を掛けずに済む。
 信じることも、疑うことも、人間にはいずれも要求される。それがバランス感覚というものだ。大事な時に姿をくらました東丈は、常識的見地からすれば、無責任極まりないだろう。しかし、そんな東丈を信じているからといって、田崎や圭子を狂信者というにはあたらない。何故か。彼らは本質的に邪悪なことを見抜くだけの見識を具えているからだ。木村市枝は夢の中で、市枝を持ち上げつつ、ほかの仲間を口汚く罵る東丈を偽物だと見抜く。これが、信じる者と、狂信者の最大の違いである。

※「バー カジャナカロカ」というのは、漫画『デスハンター』のひとコマに描かれたバーの看板。馬ー鹿じゃなかろか、である。

最強の主人公
1995.08.27 初出:NIFTY-Serve
 円くんってヤツぁ、つくづく史上最強の主人公だなあと思うのであって。
 なんたって、神様だもんな。
「テメー、何様のつもりだ」
「神様だ」
 これは二の句が継げない(笑)。

 この最強のキャラクターがかつてのアクション・ヒーロー小説に現れず、ラブストーリーにして初めて登場したのは、もっともな気がする。こんなヤツが「ウルフガイ」や「幻魔大戦」に登場したら、たちどころに物語は終わってしまう。

「羽黒 獰、お前は存在しなかったことにする!」

 これでは物語は成立しない。江田四朗だって消されてしまうだろう。話は逸れるが、「真幻魔」に江田と高鳥は登場しない。神様に消されてしまったのか? アクションものは、敵とパワーの拮抗したヒーローを主人公に据えなければならない。虎の穴のプロレスラーと闘うのがスーパーマンであってはならないし、ショッカーの怪人を倒すのにウルトラマンが現れてもしょうがない。神様は強すぎるのである。なにしろ、サタンですら歯が立たないのだ。だから、幻魔との闘いに、神様は関与しない。つまらなくなるからだ(^^;。
 犬神明や東丈が、一生懸命ジョイスティックを操り、ステージをクリアしようとしているのに対し、円くんは、プログラムそのものを書き換えてしまう。はっきり言って禁じ手だし、はなから勝負は見えている。アクションには向かないのだ。
 だから。ラブストーリーでなければならなかったのだ。神の力をもってしてもどうにもならない、というより、それを使うことに強い禁忌を伴う。それが、好きなひとのハートを射止めることだからだ。

1+1=
1995.08.27 初出:NIFTY-Serve
 艶福家・円くんが《五角関係》をマジカルに解決してしまった点については、「お見事」と言うしかない。想像もできない結末だったが、あれを見てしまうと、あのラスト以外には考えられない。
 1+1は3にはならない。まして、それ以上には。必然的に、誰かが涙を流すことになる。「オレンジ☆ロード」では、ひかるちゃんが泣いた。
 ある意味「ボヘミアン」のラストは、超能力者でありながら、三角関係の解決に関しては、きわめて現実的(かつ成り行き的)に、ひかるちゃんとの関係を清算せざるを得なかった「オレンジ☆ロード」の主人公、春日恭介に対するアンチテーゼと言えなくもない。平井和正は、ひかるちゃんの涙に、胸を痛めたのかもしれない。
「恭介は超能力者じゃないか。俺だったらこうするぞ!」
 そんな動機から「ボヘミアン」が書かれたとしても、不思議ではないからだ。

 早い話、円くんは自らを4人にすることで、《五角関係》を解決したのだ。神の位を捨て、人間に降格することで、自らの複数存在を可能にした。1+1の答を5にしてしまったのである。同時に、ホタルの複数存在を統合することで、円くんと結ばれない平行世界のホタルをも救済してしまう。
 こんなパーフェクトなハッピーエンドを見て、ケチをつける奴がいたら、これ以外にどんなより良い結末があるのか訊いてみたい。ありはしない。主人公に想いを寄せるサブキャラの涙のうえに成立するハッピーエンドも、都合良くサブキャラにお似合いの相手が登場するのも、ともにパーフェクトではありえない。それは、言葉は悪いが、ありがちなラブストーリーの類型である。
 SEXから逃げず、それでいてロマンちックで、みんなが幸せになる。こんなラブストーリーは、おそらく前代未聞で、前人未到のはずである。
 円くんがフツウの男の子ではなかったことを、むしろ不服とする読者はいるだろうが、そんな人は従来の純文学なり、ラブコメディを読めばいいのである。私などは、人間の恋は人間たる自分自身が演じればよいと思う。平井和正が描いたのは、神の恋だ。『ボヘミアンガラス・ストリート』は神話なのである。

肉体か魂か
1995.11.04 初出:NIFTY-Serve
「あの裏切り者は当然の運命を辿ったわ。最初から、彼には何の意味もなかった」

 マー――変わり果てた明の母の言葉を眼にして、かつて自分が大好きだった場所と人々のことを思い出した。
 自分は以前と変わっていないのに、いつの間にか周囲から敵視されていて(笑)。
 これは相対的な問題だ。変わってしまった人間にとっては、変わらない人間こそ、「変わってしまった」存在――裏切り者なのだ。

 無論、ロイスの愛した夫、犬神明の父親が、裏切り者であるなど、あろうはずがない。マーにとっての、都合のいい解釈でしかない。本当の意味で裏切ったのは、マーの方である。彼女は、愛した夫や息子が背を向けることに、決して自分に非があるとは考えない。意に添わぬ者は敵であり、愛した家族と言えども、抹殺の対象となる。それこそが、夫や息子から訣別される、最大の理由なのだが。
 それよりも、本当にマーはロイス・イヌカミなのだろうか。確かに、そうなのだろう。BEEが虎4であったのと同じように。だが、BEEと虎4は全くの別人である。同じ器に異なる魂が入っただけだ。マーも、きっとそうなのだろう。ロイスの身体が無惨にも切り刻まれた時、明の愛した母、ロイスは死んだのだ。蘇ったバイオニクス、マーは、その意味で全く別存在である。ロイスとして生きた時代を記憶として留めているだけの。
 人間とは肉体か魂か。これは“ドードー”の言葉だが、巨大白ウサギなどという、ふざけた“器”に衣替えした彼の存在そのものが、バイオニクスの有りようを見事に皮肉っている。

怪説
1995.11.04 初出:NIFTY-Serve
『犬神 明』の前半部分と後半部分では、全くと言っていい程、テンポ、雰囲気が異なる。
 まあ、平井作品の「いつものこと」と言ってしまえばそれまでだが、その理由については分かっている。前半部分は「地球樹」の雰囲気を引きずっているのだ。即ち、神霊世界の導入である。ペンデュラムが出てくるのがそうだし、ポペイの存在はその最たるものだ。おそらく、『地球樹の女神』を読まずに『犬神 明』を読んだウルフガイ・フリークなどにすれば、少々がっかりさせられたのではないだろうか。
「幻魔」「地球樹」を楽しく読めた私には、別段、神霊世界に対するアレルギーは無い。狼男の存在といっしょで、それが現実にあろうとなかろうと、物語に登場すれば、それは物語の中での真実だからだ。
 しかし。ウルフガイと神霊世界とは、お寿司に砂糖をまぶすようなもので、はっきり言って相性が悪い。エリーが振り子を用いたときの奇妙な違和感は、そこにあるのではないか。重ねて言うが、ペンデュラムの神秘が事実であるか、迷信であるかは問題ではない。だが、「地球樹」ならしっくりくることも、「ウルフガイ」ではミスマッチなのだ。
『犬神 明』がウルフガイらしくなるのは、中盤から後半にかけてである。物語が徐々にウルフガイらしさを取り戻すにつれ、ポペイを初め、多くのキャラクターが姿を消し、入れ替わりに、神明や虎2、キンケイド、そして“ドードー”ことジム・パットンが登場する。
 できることなら、この辺りの正確な執筆時期、平井和正の身に起きた周辺事項を知りたいところだ。作者の上に、著しい心境的変化があったことは間違いないと思われるからだ。
 ポペイが何者であったのかは、はっきりしないが、要は犬神明を立ち直らせるための指導者であった。この役どころが後半、“ドードー”にバトンタッチされる。事実、この両者の指導法はよく似ている。まずAを説き、明がその通りだと言うと、今度はなぜAなのだ、非Aではないのかと引っかき回す。鵜呑みにさせず、徹底的に自分の頭で考えさせ、自分で決断させる。明には、こんな師匠が必要だったのかもしれない。それが、地球樹的雰囲気にあってはポペイであり、ウルフガイ的雰囲気にあっては“ドードー”となるのである。ポペイは神霊存在であり、“ドードー”は物質存在であった。

 ともかく、『犬神 明』の前半部分は、犬神明の虚ろな精神面をも手伝ってか、平井和正の作品としては珍しく、多少読み辛かった事は認めなければならない。執筆順としては後になる「ボヘミアンガラス・st」を先に読んでいて、良かったと思う。もし、『犬神 明』をリアルタイムに読んでいたら、平井和正もとうとうパワーが落ちたかと本気で考えたかもしれないからだ。
 キム・アラーヤにしても、作品世界を引っ張るに足る魅力を持ったキャクターとは言い難い。清純無垢な乙女、というのは面白味に欠けるものだ。「地球樹」の後藤由紀子にしてもそうだが、このタイプの少女は、平井和正が描く上で、最も苦手とするキャラクターではないかと思う。
 ややもすると退屈になりかけた前半部分を含め、全編に渡ってこの作品を支えたのは、西城とBEEである。この二人がいなければ、初期のうちに大量の読者を失ったことだろう。とりわけ、BEEの存在は大きい。こういう紅蓮の炎を身に纏ったような存在こそ、まさしく平井和正の十八番である。赤ん坊が急速に大人へと変わるようなBEEの成長ぶりは、見ていて楽しみだった。西城への屈折した愛情ぶりは、おかしくも微笑ましいものがあった。瀕死の西城に己が身を喰えと言うラストシーンでは感動させられた。
『犬神 明』の本当の主人公は、実はBEEだったのかもしれない。

全ては道楽
1996.01.03 初出:NIFTY-Serve
 激動の95年が終わった。もっとも、ここ十年というもの、激動でなかった年はなかったのだけれど。
 個人的には、大変起伏に富んだ一年でありました。リストラで職は変わるは引っ越しするは、生まれて初めて事故とやらをやらかすは。まあ、しかし、とりわけ大きかったのは、3年にわたってお付き合いした、さるフォーラムの方々と袂を分かったことでしょうか。
 全部が全部とは申しませんが、平井作品に学ぶ、などと言う連中に限って、独善的で居丈高で、通常の人よりも中身の乏しい(当社比)、どうにも交際意欲を損ねる人間なのは、一体どうしたことなのでしょう(笑)。
 こうした実例にお目にかかったのは初めてではありませんが、つくづく「平井作品に学ぶ」などと口にはすまいと心に誓ったものです。『空手バカ一代』を読んだからって、空手の達人になれるわけはない。『幻魔大戦』を読んだだけで立派な人間になれないのも同じことだ。笑ってしまうのは、彼らはなにをするでもなく、仲間内で平井作品について語り、心の問題について論じているだけで、自分はさも偉い人間だとごく自然に思い込んでいることだ。自分もそうだったので、よくわかるのです(爆笑)。
 人間を成長させるものは何か。それは人生経験です。当たり前の話ですが。多くの人々とふれ合い、多くの事を体験する。それこそ、真の心の糧と言えるものです。ファイルの読み書きとチャットに興じるばかりの日々を過ごしたところで、精神性を高めることなどできやしない。これは全ての宗教、及びそれに類する活動に携わる人間にも言えることです。世俗を低劣と蔑み、限られた場所に生き、限られた人々としか関わり合わない人間が、偏狭で高慢な、いけすかない人間になるのは、むしろ、当然ではありませんか。ま、それが当人の幸せなら、止め立てはいたしませぬが。でも、お願いだから、これ以上ひと様に迷惑は掛けないでね(^^;。

 平井和正の作品には、確かに人間の求道的な側面に訴えるものがあります。すれっからしで面倒臭がりの私には縁遠いものだとしても、そこに何かを学び、自己の生き方に反映することそれ自体を私は否定しません。しかし、それは各々が、日々の生活の中で行うべき性質のものであって、群れ集い、議論を重ねる必要はありません。では何故そういうことをするのかというと、ズバリ、そういうことが好きだからです。はっきり言って趣味の世界ですが、当人は決してそう思っておらず、そこがまた始末の悪いところです(笑)。
 パソ通も読書も、所詮は道楽です。道楽と言っては語弊があるかもしれない。それを生き甲斐と言ってもいいし、ウェイオブライフと言ってもいい。言葉は何でもいい。どうあれ、そうしたいからそうするのだという、実に単純な、熱情に赴くままの行動でしかない訳です。そこにご立派な意味付けを自ら行った時、とんでもない陥穽が待ちかまえている。そんな気がします。

こころの外反母趾
1996.01.06 初出:NIFTY-Serve
「だから、僕の心は大半の欲望から離れてしまっている。食欲も睡眠欲も、性欲も含めて、希薄になってしまっているんだろうな。心のエネルギー集中が猛烈になされているからそうなるので、特別に欲望を抑圧しているわけじゃない。そんなことは気にならないし、構っている余裕がなくなってしまうんだ。禁欲じゃない、無欲になるんだ」

 私にとって、冬は「幻魔」の季節だ。別段理由はない。初めて読んだのが、冬だったからかもしれない。ともかく、おこたとみかんと「幻魔大戦」は、私の“冬の定番”となっている(笑)。
 当時、高校生だった私に、「幻魔大戦」が与えた影響は、ことのほか大きい。冒頭に引用した科白は、箱根セミナーの折り、井沢郁江からの「東君にも性的欲望はあるんでしょ?」という問いに対する東君の答だ。
 東丈本人は否定しているが、とりようによっては、欲望に振り回されるのは弛んでいる証拠だ、という受け取り方もできる。こうして東丈は、オナニーひとつするにも罪悪感を覚えさせるほど、読者にプレッシャーをかけていた(笑)。ひどい奴だ(笑)。
 いまの自分とは異なり、根が素直だった私は、東丈の忠実な仲間たるべく、無理して「いい子」になろうとしていたような気がする。反省なんてかったりー真似、やってられっかい。というのが本音だったにしろ、それを認め、肯定するだけの勇気がなかった。自分の本心に必死に眼を背け、理想という名の枠の中に、自身を押し込めようとしていた。
 しかし、東丈の真似をするなど、どだい無理な話。畢竟、愛とは何か、信とは……などとご大層な議論をぶつばかりで、何をするでもなく、のんべんだらりと怠惰な日常を過ごすばかり。大体、小説「幻魔大戦」などを読み耽っていること自体、「何もかもかなぐり捨てて、死物狂いにならなきゃいけない時なんだ」という東丈の言葉に反している。だが、自己欺瞞の力を遺憾なく発揮している時には、こんな明白な矛盾にも気付かない。
 もし私に怨みをお持ちの方がいれば、いいことを教えてあげましょう。あの当時の私の書いた文章を手に入れ、公衆の面前で朗読するのです。あまりの恥ずかしさに悶死すること受け合いです(笑)。

 とは言うものの、私はいまでも「幻魔大戦」を読みますし、その内容について、特に批判的になっている訳でもありません。宗教団体の誕生から、発展、腐敗・分裂に至る過程を見事に描いているあたり、実にスリリングで面白い。ただ、人生のお手本とするには、私にはあまりに高尚すぎる。自分には真似ができないというか、自分の生き方は全く異なるという認識があります。東丈には東丈の道があり、私には私の道がある。まあ、当たり前の話であって、改まって口にするのも小っ恥ずかしいのですが。
「生きる目的をしっかり持てば、おのずと心がすっきりしてくる。心が薄く軽くなって、物質的な欲望から解放されて行くようになる」
 この言葉を聞いて(読んで)、う〜ん凄いやっちゃ、とは思う。でも、こうなりたいとも、こうならなければとも思わない訳です。
「おっ、あのネェチャン、ええケツしてるやん」
 私はこっちの方ですね(ワッハッハ)。これで結構。改めようとも思わない。
 ひとにはそれぞれ、自分に合った生き方がある。が、それは自分自身で築き上げなきゃならない。それをせず、既製品であるところの宗教的指導者や書物の「教え」に自らを合わせてしまうのは、当人にとって、場合によっては周囲の人間にとっても、不幸なことです。

私の選んだ名科白
1996.03.14 初出:NIFTY-Serve
「おれの法律ではな、小銭をおれからかすめた奴も死刑だ。減刑も執行猶予もねえ。虫の好かねえ野郎は、どいつもこいつも死刑にしてやるんだ。厳しくて、鮮烈な法律だろうが」
『狼のレクイエム第一部』より

 幻魔漬けであった私にとり、ウルフガイから受けた衝撃は凄まじいものでした。それはカルチャーショックにも似て、「幻魔」の影響による心の傾斜を、見事にひっくり返していただきました(笑)。西城、虎4らの善悪を超越した魅力にシビレまくりましたね。

エスパーお蘭
1996.03.18 初出:NIFTY-Serve
 念爆者(サイコブラスター)はスロット・マシンの前に立ち、お蘭に背を向けていた。この年十歳になったばかりの少年――やせた肘が動き、レバーを引いた。ジャック・ポットが出た。受け皿にあふれたコインが床に滝となって降り注ぎ、少年は背中をかがめて拾いにかかった。
 お蘭の憑かれたような眼と、少年のななめに切れ上がった細い眼が合った。なんの変哲もない、東洋系の容貌を持った少年――それが念爆者だった。
『エスパーお蘭』より
 それまで嫌いだった食べ物が、突然好きになる瞬間がある。私にとって、『エスパーお蘭』は、そんな小説だった。
 告白するが、私は昔、平井和正の初期短編が好きになれなかった。幻魔にウルフ、『死霊狩り』『悪霊の女王』など、主要な作品に耽溺し、平井ファンを自認していた私だが、初期短編だけは、どうにも馴染めなかった。陰気でつまらない小説、それが当時の率直な感想だった。
 まるで、ポジとネガが逆転するように、短編の魅力を教えてくれたのは、某ファンクラブのオークションで手に入れた、早川書房の「エスパーお蘭」(いわゆる“銀背”。角川文庫の「悪徳学園」に相当する)を何気なく眺めていたとき、たまたま目にした表題小説である。
 気が付いたら、夢中になっていた。なんで初読の時には、この面白さに気付かなかったのか、不思議に思えた。

 超能力者が危険視され、隔離される社会。そこでは、超能力者を人類の癌細胞として蛇蠍のごとく忌み嫌う正常人と、彼らを猿と呼び侮蔑する超能力者達との根深い対立がある。その両者の稚拙な諍いを嘲笑うかのように、政府施設を破壊する超絶サイキック――念爆者。狙った場所に核爆発を起こす。その恐るべき能力故に、彼はそう呼ばれる。
 主人公、ショウ・ボールドウィンは、念爆者を抹殺するべく、さる機関から送られたアンドロイドである。彼が念爆者を捉えるために選んだのが、収容所に監禁されたテレパス、タイトルロールのお蘭――オラン・アズマだ。
 物語は更に、狡猾・兇悪な非行少年、タイガー・コウを加え、畳み掛けるように展開していく。薬で操り人形にしたお蘭を伴い念爆者を探すコウ。彼らを追うショウ。お蘭の精神制御を解くべく思念で接触する超能力者達。その緊張感溢れる疾走感は、短編ならではだ。そして、それは、精神の呪縛を解かれたお蘭が、姿なき怪物――念爆者の、遂にその姿を見い出した時、ピークに達する。
 このゾクゾクとするスリルをなんと表現すればいいのか。お手元に「悪徳学園」をお持ちの方は、ぜひ一度(もう一度)お読み下さいとしか言えない自分が歯痒い。

狼は生きろ
1996.03.30 初出:NIFTY-Serve
 人権擁護団体。私は彼らのことを“善魔”と呼び、警戒している。彼らの為すことは一見正しいことであって、その正しさを武器に、一部害を被る人間には一片の配慮も思いやりもなく、冷酷無比に自らの理想郷を築き上げようとする……。特に差別用語規制は、作家とその作品を愛する人間にとっては、やっかいな悩みの種になりそうだ。
『狼男だよ』が改訂された当時、「ウルフ会」(第二次)という会員1000名を擁する、オフィシャルなファンクラブがあったが、この件については全く取り上げられず、知っている人間もほとんどいなかった。あまり、触れたくない話題だったのかもしれない。
 差別用語規制というヤツには、胸糞悪いものを感じてはいるが、『狼男だよ』の件については、別段思うところはない。作者に直接抗議し、平井和正自身が納得の上で、自ら筆を入れたからだ。一番問題なのは、作者を通さず出版社に文句を言い、出版社側も作者に無断で改訂・絶版にしてしまうことだ。
 差別問題は大きな社会問題だが、それと差別用語をなくすこととは何の関わりもない。ナイフを取り上げられればバットで、バットが禁じられればまた別の手で。ひとを傷つける方法なんて、無限にあるのだ。メクラを目の不自由な人と言おうが、女中をお手伝いさんと呼ぼうが、言われなき侮蔑の念があれば同じことだ。
 結論から言えば、この世から差別がなくなることはないだろう。世の中から、犯罪や戦争がなくならないのと同じことだ。だから、個人が降りかかる火の粉を払うしかない。差別なんかに負けない自分を育てあげるのだ。それ以外に方法はない。もし、社会の方を変えようとするのなら、それは非常にはた迷惑な側面を帯びてくる。包丁で人が殺された。そこで今後は包丁を使うことを禁じます。そんなことをされたら、料理人は困ってしまうのである。
 私自身、子どもの頃、デブだ、ノロマだと、さんざん周りから馬鹿にされ、傷ついてきた。あの時、私はどうすべきだっただろうか。クラス会を開いて、学級委員にそういうイケナイことはやめましょうと言ってもらうのか。それとも、馬鹿にした奴の胸ぐらを掴んで、もういっぺん言ってみやがれこの糞野郎と言ってやるのか。どちらがより正しいかと言えば、おそらく前者なのだろう。でも、私は後者の方が好きだし、そんな人間になりたいと思う。
 ヒツジ社会にあっては、狼は排斥されるのだ。でも、負けはしない。電脳ネットワークスという荒野が、俺達を待っている(笑)。

神秘主義者へ捧ぐ(笑)
1996.04.03 初出:NIFTY-Serve
 自分が作ったキャラクター犬神明とSFアドベンチャーで対談して「この人は本物だ!」と口走った平井○正

 さすがは「と学会」。ちゃんと“リアル犬神明”事件を押さえていらっしゃる。取り上げなかったのは、面白味に欠けるからだろうか。
 私は『トンデモ本の世界』『トンデモ本の逆襲』ともに目を通したが、確かにオモシロイ。腹を抱えて、何度となく笑い転げた。もっとも、取り上げられた本の紹介に、誤解や曲解がないかまでは、私は遡上にあげられた本を読んでないので、なんとも言えない。確かに「と学会」の面々は、「トンデモ本」が大好きなのだろう。そうでなければ、ああした偏った本をあそこまで読めたもんじゃない。私は御免である。どっちかというと私は神秘主義的傾向を持っている方なんだけど。と、前振りはここまでね。
 神秘主義者と現実主義者の衝突は、しばしば起こることだ。「UFOはいるんだ!」「超能力は実在する!」 ムキになって食って掛かる人もいるが、無益な争いはおやめなさいとアドバイスしてあげたくなる。アカデミズムの虜囚であることを望む人は、そっとしておけばよろしい。神秘とは、まさに秘め事であって、大衆に知られてはならないのだから。
 その意味で、リアル犬神明事件が東スポ的ヨタ話として黙殺されたのは、歓迎すべき事であると思っている。下手にS氏(リアル犬神明氏のこと)が100メートルを5秒で走ったりした証拠が残っていて、彼の超人性を世間が知るところとなったら、それこそ憂慮すべき事態と言える。
 わかりましたね? 柔らか頭の皆さん。神秘主義が否定されるのは、いいことなのです。例えば、私がこんな重大な告白をしても、みんな笑って済ましてくれます。

 実を言うと、私はニャントロ星人なのだ。

模作の限界
1996.06.13 初出:NIFTY-Serve
 それはそうと『狼のエンブレム』、つまんない作品でしたねー(笑)。ゴメンね、好きだったひと。あくまでも個人的感想ですので。電線に感電したり、肉体的には普通の人間に過ぎない西城のせがれ風情にいいようにあしらわれ「満月に出直しな」なんて言われる犬神明に、さっぱり魅力が感じられませんでした。結局、旧作「紋章〜レクイエム」のリフレインでしかなかったというか。
 この辺が模作の限界なのかなあ、と思ってしまう。「らしさ」の制約というか。無理もないんですけどね。平井和正以外の人間が『黄金の少女』を書いたら、誰もそれをウルフガイとは認めないでしょうから(笑)。もし私が、8マンの登場しない『8マン』を書いたとしたら、それは模作ではなくオリジナルということになるでしょう。(でも、江川達也の「デビルマン」は観たかったぞ)
 あっさり旧作の殻を捨て去ったオリジナルと、旧作の“様式”に囚われた模作。もう、ハナから勝負は見えている訳で。新作が書かれる前に発表していれば良かったんだけどね。平井和正相手では、いかにも分が悪すぎる。まあ、でも「エンブレム」の方が面白い、という読者が決して少数ではなかったのも確かなのでありまして。
「予定調和」を好む読者というのは、意外と多いのであります。来るぞお、来るぞお、来るぞお、そら来たああ、というヤツ。そして、そうした読者には不幸なことに、平井和正ほど、それが嫌いな作家はいないのでありまして。これを期待した日には、間違いなく悲しい目に遭います。
「予定調和」「パターン」「お約束」「様式美」、こうした時代劇的な、先の読める物語に否を唱える平井和正の美学をこそ私は評価するのですが、平井和正にもっと普通の筋立てをして欲しいと望む読者の声は絶えないようです。しょうがないか。平井和正を除けば、いまの小説界って総崩れだから。もっと、ほかの普通の作家が頑張って魅力ある作品を書いてくれればいいんだけど。

 しかし。『月光魔術團』のあとがきによれば、あの平井和正が『きまぐれオレンジ☆ロード』の小説を発表するかもしれないと言う。実現したら、オモシレーよなあ。あの平井和正が、他人の作品を小説化するっていうんだぜ。果たしてどんな作品に仕上がるのか。きまオレファンが感激するものとなるのか、それとも……。
 版権の問題を気にしておられたが、どうなんだろう。例のジャンプノベルで出せばいいんでないのかい? これをやったら快挙だよな(笑)。平井和正最高のベストセラーとなること間違いなし。これに気をよくした「少年ジャンプ」が捲土重来を期して、『BACHI☆GAMI』掲載に踏み切る……って、そりゃねーか。

真幻魔の思ひ出
1996.07.22 初出:NIFTY-Serve
 残念ながら、初読の感想をしたためた記録はない。もっとも、あったところで、私の十代の時分の文章たるや、到底、ひと様に見せられた代物ではないのだが。
 さて、そんな訳で、初読の時に何を思ったかは、いまとなってはほとんど思い出せないのだが、ひとつだけ『真幻魔大戦』に関して、強烈な思い出がある。
 私が「真幻魔」を読み始めた頃、ちょうど「幻魔宇宙II」が出た。その時点で、たぶん、CRAが登場する前後ぐらいまで読み進んでいたと思う。
 いや、奥さん。「幻魔宇宙II」の中身を見て驚いたね。

真幻魔大戦第三部 犬の帝国(!!!)

 ド迫力・生頼画伯による犬や鹿やトカゲの面した亜人類のイラストの数々! 現代編までしか読んでいなかった人間が、これを見た驚きというのは、ちょっと言葉では言い表せません。
「これからどういう展開をたどったら、こうなるのだ???」(爆笑)
 いや、続きを読むのがホント、楽しみになったもんですよ。

バチガミと月光魔術團
1996.08.27 初出:NIFTY-Serve
『月光魔術團』Vol.3を一気に読み切った。文庫本と同じ一段組みとは言え、このドライブ感は、平井和正ならではだ。しかし、この作品。読者が二分するかもしれない。ま、「いつものこと」だけどね。
 なんといっても、この物語が特異なのは、主人公・犬神メイを初めとして、その登場人物達があまりにも奇矯で、感情移入というものを赦さないからである。奇矯なキャラクターが揃った物語は数多くあるが、その中にひとりはマトモな人間がいるものだ。物語はその人物の存在によって均衡が保たれ、読者はその人物に感情移入することによって、いわば正常人の眼で、非日常的世界と関わることが可能になる。
『BACHI☆GAMI』の堅磐レノがその好例だろう。変人揃いの『BACHI☆GAMI』世界にあって、彼女だけが唯一正常人だった。レノは物語にあって、欠かすべからざる存在である。アタリに感情移入するなど、ゼッッッッタイに不可能だからだ。
 横道に逸れるが、だから、レノが罰神化した途端に、連載の打ち切りのという形で物語が終焉を迎えたのは、妙に納得してしまうものがあるのだ。物語自身の意志が、自らを終わらすべく掲載誌の打ち切りに導いたと言ったら、筆者の正気を疑われるだろうか。

『月光魔術團』はしかし、いわばレノのいない『BACHI☆GAMI』である。既に四千枚もの執筆に及んでいることを知らなければ、早晩この物語は破綻を来すのではないかと心配するところだ。
 読者の眼となるべき、正常人(真黒か人美あたりが有力候補と言えるだろう)の台頭がなるのか。それとも、感情移入をさせないまま読者を引きずり込むという常識破りがなるのか。現段階では、なんとも判断のしようがない。

ポストハルマゲドン
1996.10.06 初出:NIFTY-Serve
 なにもかもがきりがなく、どんどん悪くなって行く。数年前には世界の終焉が騒がれたが、それも所詮一過性のものでしかなく、終焉どころか世界は更に加速度を増して、悪くなって行くばかりだ。
『月光魔術團』Vol.4
 遂にこーなっちまったかよ。
 実を言うと、そんな予感はないではなかった。世界全体が廃虚と化すような、誰にでもそうと判る、はっきりとしたカタストロフィー。そんなものはなくて、本当に重大なことは、誰も知らないうちに始まり、誰も知らないうちに終わっているのではないか。そんな予感が。

「真のハルマゲドンの恐ろしさは、真実に誰ひとり気づかないことだ。ハルマゲドン、これから起こるんじゃない。もう終わってしまっているのだぞ。驚いたか?」

 という『BACHI☆GAMI』2巻での平井和正の言葉は、まさにそのことを告げているのだろう。ハルマゲドン、終わってしまったってよ。どうするよ、おい?(笑)
 誤解しないでほしい。現実のことなど、どーでもよいのだ(爆笑)。私にとっては、平井作品の変化の方が、重大時なのだ。事実はどうあれ(21世紀を迎えれば判るが)、平井和正自身は「ハルマゲドンは終わった」と認識しており、それが作品に変化をもたらしているのは明白だからだ。
 ラストハルマゲドン・ストーリーと銘打たれたのは『地球樹の女神』だが、『犬神 明』も、そして『ボヘミアンガラス・ストリート』も、厳密にはハルマゲドン・ストーリーであったと思う。『月光魔術團』こそ、真の“ポスト”ハルマゲドン・ストーリーだ。
「幻魔」で宗教の無力を説き、
「地球樹」でユダヤ財閥の崩壊を描き、
「ウルフガイ」でWASP結社を自滅させ、
「ボヘミアン」でサタンを道化にした。
 破滅をいざなう“魔”を駆逐し尽くしたあとに残るものはなんだ? それは人間。魔が滅んでもちっともよくならない人間。際限なき退廃と混乱――ハルマゲドンの到来ののち、理想世界が訪れるという幻想を抱いていた者にとり、それは辛い現実だ。だが、それが現実だ。ライオン・ヘアをなびかせ、腐臭を放つ街を颯爽とゆく、悪漢少女・犬神メイ。彼女の生き方にこそ、これからの社会を渡り歩くヒントがあるのかもしれない。
 世界を救うなんてできないが、救われない世界に気高く優しく逞しく生きることは、決してできないことではないからだ。

平井和正オタクの独り言
1996.10.09 初出:NIFTY-Serve
 カスタネダの本は、たぶん買っても読まんのだろーなー(^^;。本当に忘却してしまうものかどうか、試してみたいと思わないでもないのだが。
 ニフティのとあるフォーラムに在籍していた頃、そこのメンバーの一人からカスタネダの書物の内容と平井作品の共通点があることを教えられたが、当時は全くの無関心だった。まさかいまになって、平井和正自ら言及するとは思いもよらなんだ。

 私は骨の髄まで平井和正オタクであって、平井作品に関連する参考文献は、それ以上の比重を持つことはなかった。私にとっては、高橋佳子も宇野正美も広瀬隆も聖書も般若心経も、あくまで平井和正をよりディープに味わうためのツールでしかなかった。だから、正直言って、気が入らなかった。シャリー・マクレーンなど、とうとう読まず終いである。
 だからこそ、というべきであろう。私は平井和正の変化に対し、何の戸惑いもなく対応することができた。これが仮に、高橋佳子に心酔し、GLAに入会までしてしまったとしたら、そういう訳にはいかないだろう。
 例えば、地球樹山(仮名。地球を「たま」と読もう(笑))から手を引いたこともそうだ。私にとっては、地球樹山が本当にエホヴァのおわす霊山であるかどうかは、さしたる問題ではない。平井和正がそう認識している、ということが全てなのだ。何故なら、平井和正の関心事項は作品世界に反映されるからだ。だから、平井和正が手を引けば、私も関心を失う。平井作品との接点が失われたからだ。
 下手をすれば、狂信・盲従の徒輩であるかのごとき誤解を与えかねないし、実際そうした中傷も受けたのだが、私にすれば、現実などよりも、平井作品の方が重大事なのである(笑)。現実の中に平井作品があるのではなく、現実さえも平井作品の従属物に過ぎないのだ。私にとっては。
 喜国雅彦のマンガで、テレビで「ナウシカ」を観ている若者が、緊急テロップで流れる「米ソ間で核戦争勃発」の報に「なにーっ!」「そんなーっ!」と驚愕の叫びをあげるのだが、TV局ではアニメファンから「抗議の電話が殺到している」というオチがつくのがあって、これなんか私はヒジョーに共感してしまうものがある(笑)。そう、核戦争なんかより、「ナウシカ」の方が大事なんだよな。わかるぞっ、その気持ち。

堕天使と狼男
1996.10.11 初出:NIFTY-Serve
 リアル犬神明事件をご存じか。
 いまを去ること十年前、犬神明を名乗る人間が現れたのである。その男、本名をSというのだが、平井和正の小説の主人公とは知らずに犬神明を名乗ったことがあり、驚いたことに小説のアダルト犬神明そのままの経験の持ち主だというのだ。ある日、S氏は友達から「あなたのことが書いてある」と角川文庫の『不死の血脈』を紹介され、平井和正と知遇を得ることになる。
 この衝撃の事実は、「SFアドベンチャー」誌上に公開され、平井和正VS犬神明の対談として発表されることになる。だが、一部ファンにはショックを与えたこの事件も、一般のSFA読者には(おそらく)東スポ的ヨタ話として黙殺されることになる。

「ブッシュ大統領、宇宙人と会談!」

に対するリアクションと似たようなものかもしれない(笑)。
 稀代のペテン師、パラノイアか、はたまたモノホンの狼男か? この目でメタモルフォーゼを見た訳ではないので事実は定かでないが、少なくとも平井和正はマジだった。笑ってしまうのだが、私はこのS氏に、お目にかかったことがある。ウルフ会の全国大会に、あろうことかゲストとして参加したからだ。サインまでしてもらった。仮面ライダーショーじゃねーっての(笑)。
 狼男が実在する。そんなことを本気にする奴はどうかしているが、どだいスクエアな常識観にヘドが出るからこそ、平井和正の読者なんぞやっておるのだ。既知外と言わば言え。こんな面白すぎる事態(笑)をデタラメで片付けてたまるものか。震え上がった平井ファンも甘い。狼男ぐらいで驚いていて、平井ファンがつとまるかいってなもんだ。『あとがき小説「ビューティフル・ドリーマー」』を見よ。平井和正のもとにルシフェルが現れているのだぞ! あのエピソードは、フィクションではないと断言する。堕天使が実在するなら、狼男や不死鳥計画が実在したって、不思議はあるまい。真っ青になるなら、「ビューティフル・ドリーマー」を読んだ時点でそうなるべきだ。
 しかし、悪魔の実在は受け入れられても、有色人種絶滅計画の実在には拒否反応を示す読者の心理は、わからないわけじゃない。魔族とヤクザ、どちらが怖いかを考えれば解り易い(笑)。そういえば、『幻魔大戦』で東丈が塚田組に直接交渉に臨む際、杉村由紀の心配を

「幻魔と戦う人間が、暴力団を恐れていてどうします?」

と言って一蹴するのだが、これには「ごもっとも」と頷いてしまった(笑)。話は逸れるが、知り合いの拳法をやってる人から、修行のためにヤクザにちょっかい出して喧嘩してまわったという話を聞いたことがある。自称戦士のみなさんも、これぐらいの気概を持って欲しいものだ。ヤクザに勝てないようで、魔族を倒すなど1兆年早いぞ。

耳をすませば
1996.10.31 初出:NIFTY-Serve
 君は『耳をすませば』を観たか?
 いや、実は少し前にTV放映されたやつをビデオで観て、ぐっと「きて」しまったものですから。
 ジブリが制作したアニメーションとしては、例外的に好きになれた作品であります。宮崎駿が監督じゃないからかも(笑)。人非人扱いされそうなので、言いたくないんだが、私、宮崎駿ってヒト、あんまり好きじゃないのよねー(笑)。天才、大御所には違いないし、作品もつまらなくはないんだけど、個人的・主観的にはどーもねえ、というか。
 で、『耳をすませば』だ。これがいいんだ、ホント。誰か観たひといません? いや、ゼッタイに誰もいないということはない筈だ。なんたって、ジブリの映画だからなー。私が不思議でならないのは、「ボヘミアン」が発表された当時、なぜこの作品が平井ファンの間で話題にならなかったかってことなんですわ。
 そのことに触れる前に、『耳をすませば』の魅力について説明しておく。ま、言葉にすると嘘になるので、実際のところ、観ていただくしかないのだが(←文才のない人間の逃げ口上)。私はこの作品を予告からの先入観でもって、ありきたりなメルヘンだろうと踏んでいた。ところが、そうではなかった。礼装のネコがしゃべり、空を飛ぶのは主人公の空想世界での話であって、作品の舞台は、日常世界そのものである。家族、学校、友人、進学、恋……。生々しいまでのリアルな生活感。にも関わらず、この作品はメルヘンちっクで、幻想的でさえあるのだ。
 柊あおいの原作も読んでみたが、こちらの方は特に感じるところはなかった。大筋に於いては一致しているが、ディテールがかなり異なる。このディテールの差異が、個人的には決定的だった。原作との違いを云々するのが主旨ではないので、ここではアニメ版のみを取り上げることにする。
 東京西部・多摩地区と思われる舞台であるそこは、大都市を一望する小高い丘陵である。風変わりな店「地球屋」のある丘を降りる急な階段、そして、物語の狂言回しともいうべき、あやしくもふてぶてしいネコ。まるで「ボヘミアン」じゃねーか。なによりも、作品に漂う雰囲気がそっくりなのだ。そう思うのは私だけか?
 『耳をすませば』が上映されたのが95年。「ボヘミアン」の発表時期と重なる。これは偶然だろうか。偶然かもしれない。ただ、メルヘンを内包しながら最後まで日常を逸脱することのなかったこの作品に、最後の最後で日常を超えてしまった『ボヘミアンガラス・ストリート』の見果てぬ理想像があるような気がしてならない。神霊世界をストレートに導入することで、「ボヘミアン」は平成の『人狼戦線』なりそこねた。私のような、平井作品に慣れ親しんだ者からすれば、あれはごく自然な流れには違いないのだが、そうではない一般的感性の持ち主には、耐え難いものであったようだ。それはかつて、ここで物議を醸した通りである。近年の平井作品にはない大衆人気を勝ち得た作品だけに、それだけが少し残念ではある。
 ともあれ、この『耳をすませば』。「ボヘミアン」が好きな皆さんには、ぜひ、ご覧いただきたいアニメーションなのであります。

「女神變生」考
1996.11.18 初出:NIFTY-Serve
 リアル犬神明事件のことは既に述べた。人狼の実在自体、さして驚くべきことでもないが、犬神という歴史の裏側に封印された存在が、少部数とは言えSF雑誌という表舞台に登場したのは、注目に値する。
『女神變生』は、リアル犬神明事件のパロディという性格をそなえている。作者自ら、自身の体験を茶化しているのだ。それは作中の平井和正先生のこんな科白からも窺え、涙を催す(笑)。
「確かに、奇矯すぎますからね。小説の登場人物が現実に生きているとなると。犬神明が本当にこの現実世界に存在したりすれば、僕は作家として物笑いのタネになるか、白い眼で見られる。精神異常か売名行為か、いずれにしろ疎外されることを覚悟しなければならないわけです」
 平井和正は、転換期に毛色の変わった作品を書くことが多い。「虎」から「狼」への変化の時期に書かれた『超革命的中学生集団』がそうだし、「天使の時代」の幕開けと同時に書かれた「ウルフランド」もそうだ。また、『「めぞん一刻」考』は「女神の時代」の先触れを告げるものだった。『女神變生』もそんな作品のひとつだ。『女神變生』のあと、確かに平井和正は、ひとつ大きな変化を見せた。それは未完の帝王の名を返上したことだ。このあと平井和正は、『地球樹の女神』を完結させ、『犬神 明』でウルフガイに終止符を打ち、『ボヘミアンガラス・St』を一気に書き切った。
『女神變生』の役割は、おそらく無惨な最期を遂げた青鹿晶子の救済にある。故坂口尚のちょっとあんまりな容姿のせいで悲運に見舞われた青鹿先生は、高橋留美子の可憐なイラストで甦ったのだ。ほかには、大した意味はない(笑)。横道に逸れるが、大した意味はない、という割り切りは結構大事だ。例えば、なぜ登場人物が山の名前を冠しているのか、考えてみたところで、混乱を招くばかりだろうからだ。全国のヲタクを悩ます「エヴァンゲリオン」にも同じことが言える。作り手が深く考えずにやったことをあれこれ分析したって答は出ない。それにさえも答を与えるのがヲタクの本道、というのなら止めはしないが(笑)。
 なんといっても、平井作品オールスター勢揃いのお祭り作品である。作者とそのキャラクターが共存する、ハチャハチャワールドなのだ。SDガンダムみたいなもんだ。まともに考えたら莫迦を見る。こういう世界だって存在し得るのだ。なんたって、作品世界にあって、作者は神。どのような世界をも創造できるのだから。

 だが、待てよ。現実に犬神明が現れたってことはだな。確固たる現実と信じて疑わなかったこの世界も、ひょっとすると平井和正の作品世界なのかもしれん。この世界の平井先生も実は「キャラクター」だったりしてな。そういや、どうも性格の変化が激しいような……。

それぞれの道 〜天使から女神へ〜
1996.11.25 初出:NIFTY-Serve
>>旧ウルフガイシリーズや幻魔シリーズこそ最高傑作であり、その後の作品には魅力を感じない読者というのは例の戦士症候群に罹患したまま、どこか現実から乖離した精神世界をさまよっている人のようにも思えます。<<

 それは単に個人の好みの問題かと思いますが(^^;。確かに、そのような例もあることでしょう。ただ、精神修養道場平井和正塾中退(笑)の私としては、精神修養そのものを一概に否定するものではありません。そもそも、精神世界それ自体は現実に根ざしたものである筈ですから。立派なことだと思いますし、応援したいぐらいです。そうした活動に携わる奴に限って、普通の人間以下としか思えないことが往々にしてあるのは事実だとしても。
 真面目にフィロソフィーを追求するタイプの読者が、昨今の平井作品に馴染めないのはザマーみろ……もとい、お気の毒に思います。しかし――唯一絶対の正しい答なんてものは、ない。東丈には東丈の、四騎忍には四騎忍の、犬神メイには犬神メイの、それぞれの生きる道がある。要は、彼らの生き方、彼らの織りなす物語に、どれだけ熱くなれるかです。
 あくまで自分の好み・価値観に拘り、そこから作品が逸脱するのを赦さないか。こんな世界もありかぁ、と多様な世界観を貪欲に吸収するか。それは人それぞれ好き好きとしか言いようがありません。

 ルシフェル伝を書き切って死ぬ。そう頑なに思い定めて「幻魔」の執筆を続けていた平井和正が、どうした風の吹き回しか、高橋留美子の『めぞん一刻』を手に取ったのは、果たして偶然でしょうか。ひたすら禁欲的に、張り詰めた弦のように心の浄化に邁進する人間達の姿を描いてきた平井和正にとり、『めぞん一刻』が与えた衝撃はどのようなものだったのでしょうか。
 ややもすれば魔の陥穽に陥りがちな、危うい「真面目な人々」に対し、悪辣な面白がり屋でありながら、陰湿さの微塵もない、陽気で愉快な一刻館の住人達の姿は、「幻魔大戦」で体現し得なかった、人類の理想そのものだったのかもしれません。

名が意味するもの
1996.12.21 初出:NIFTY-Serve
 クロ、いいねえ。普段はカッチョイイくせに、こと恋に関しては、からきし不器用で一途な男って好きだ。つい肩入れしてしまう。だからオレは、桜小路のアホより速水真澄の方が好きなんだ(何の話や)。
 クロがやけに自分の想いに素直になったのは、ジョーこと城門の存在が大きい。人美とジョーの急接近が、さしものクロの倨傲をも突き崩したのだ。物語的には、そういう解釈になる。設定的に言えば、やはりクロの役割が変わったってことなんだろう。
『月光魔術團』はもともと、平井和正が泉谷あゆみのために、『狼の紋章』のコミック用のシナリオを起こすべく書かれたものだ。おそらく、平井和正は現代版『狼の紋章』を書こうとしたのだ。『狼の紋章』の舞台は1970年代(文中の「アポロ宇宙船」の記述から、このように推測されている)。学園を舞台にするには、確かに古過ぎる。「自己批判させろっ」なんて言ってる場合じゃないもんな(笑)。小沼竜子の超ミニスカなんて、いまじゃ常識だ。
 ストーリー、人物配置をそのままに、文化・風俗の描写を現代的にシフトする。…はずだったのだが、《あの》平井和正にそれはかなわなかったようだ。そりゃそうだ。漫画『幻魔大戦』をノベライズしたら、あの小説になってしまうお方である。かくして、『狼の紋章』と同様に配置された登場人物達は、しかし、その役どころを変容させることになる。
 その典型がクロこと真黒獰だろう。彼が羽黒獰の役を与えられていたであろうことは、あまりにも明白だ。アキラがメイに変わったとき、ハグロ・ドウは幼なじみに恋する高校生マフィア、マナグロ・タケシ(愛称クロ)へと変わったのだ。

 果たして『月光魔術團』は「ウルフガイ」と関連があるのか? 本当に「ウルフガイ」と地続きの未来なのか。だとすれば、「ウルフガイ」の面々と妙に似通った名前のキャラクター達には、血統(子孫)ないし霊統(生まれ変わり)といった繋がりが存在するのか?
 実を言うと、あまり関心がない(笑)。名前が似てんなあ、そりゃあ「紋章」のリメイクだからトーゼンだしょお――と平気で言ってしまう。むしろ私は、クロと人美の恋の行方が気になる。クロの幸せには、無惨に散った羽黒獰の救済がかかっている。似た名前、というのは、おそらく、そうした意味を背負っているのだ。
 頑張れクロ、ジョーなんかに負けんじゃねーぞ!

不死身キャリアー(改題)
1997.03.16 初出:NIFTY-Serve
 まあ、クローン技術の人間への応用を禁ずるというのは、「表向き」そういうことにしておく必要はあるでしょうねえ。しかし、生命は神が造ったなどと思いもしない現代人が、遺伝子関連の技術になると、「神への冒涜」という言葉を使うのはなぜなんだろう。
 進化の礎たる「突然変異」には、ウィルスが介在していたことが解っているという。ウィルスは感染した生物の遺伝子の一部を自らに取り込み、そして別の生物にその遺伝子を組み込む。ウィルスは遺伝子の運び屋なのだ。ベロ毒素を出すという赤痢菌の性質を大腸菌O−157にもたらしたのもウィルスだ。
 遺伝子組み替えが「神への冒涜」なら、ウィルスは神を冒涜しているのか?(笑)。そう問えば、神を信じる者はこう言うはずだ。これはウィルスを介在させた神の意志の顕現である、と。ならば――。人間が己が知的好奇心から遺伝子を弄び、新種の生命を造り上げたとしても、それは人間を介在させた神の意志の顕現とはいえないか。人間だけが、神を冒涜し得る。その発想自体が傲慢ではないのか。
 アブナイなあ。人間、アタマでっかちになると、ロクなことがない。だが、このウィルスの性質は、『月光魔術團』について考える上で、大変参考になる。一次的接触で自らの不死性(?)を伝染させる神話人種、犬神メイ。これが不死身遺伝子の通常人への供給と考えれば、合点がいく。ウィルスによってもたらされた不死性は、子孫への垂直移動のみならず、無差別に他者へと水平移動する。なるほど、メイの破天荒に神話人種のお歴々が色めき立つわけだ(笑)。

オンライン出版の可能性
1997.04.02 未発表
 アクロバット・リーダーなるツールを使用すると聞いて戸惑ったものの、ひとめ見て、なぜこれを使わなければならなかったのか、その理由が解ったような気がした。生テキストの取得が困難なのは、LXerとしては残念なものの、無気質な横書き文字の羅列とは比べものにならない美麗なレイアウトは、紙の上の活字に迫るものだ。
「パソコンで小説が読めるか」という声は根強いものがあるが、いずれ「小説を読むのはパソコンに限る」という声に取って替わられるのは、そう遠い未来ではあるまい。『クリスタル・チャイルド』に触れてそう思った。

 おそらく、平井ファンの中には、「パソコンがなければ読めないなんて読者無視だ」なんて声をあげる者もいるに違いない。しかしそれは、平井和正の本を入手可能な、恵まれた地域に住んでいる者のセリフだ。書店の少ない地方にあっては、平井和正の本が手に入らぬ以前に、平井和正という作家がいること自体を知らぬ人々が大勢いる。こんな超絶オモシロイ作家を知らずに一生を終えるなんて、そんな不幸なことがあろうか。だが、それが書物の流通の現実である。このような“機会損失”が、どれだけ多くの未来の読者、熱烈なファンを失っているだろうか。
 オンライン出版は、そうした状況に革命をもたらすものだ。なにしろ、パソコンと回線さえあれば、たとえ山奥だろうが、離島だろうが、大都市と変わらず、小説を読むことが可能なのだ。平井和正を知る機会が増えれば、それだけ読者は増え、単行本の売りも伸びる。自閉と衰弱の一途をたどる出版界にあって、読者は固定化し、それが書店における書物の滞在期間を短くさせ、それがますます読者の固定化を招く。この悪循環を断ち切れるとすれば、オンライン出版をおいて他にあるまい。
 文学はあらゆる芸術の原点であり、礎である。文学が廃れた世に、他の文化が栄えることはない。マルチメディアがどれだけハード的に発達しようと、作品としての中身が伴わなければ虚しいだけだ。オンライン出版を文学復興の起爆剤である、と言ったら言い過ぎだろうか。

オンライン出版のダイナミズム
1997.04.04 初出:NIFTY-Serve
 どうも最近、オンライン出版について、あちこちで書きまくっている(^^;。俺自身が数年来、出版界の構造に憤りを感じるとともに、こうなればいいなという夢みた空想が現実のものになりかけていることで、興奮しているらしい。
 出版界最大の問題は、俺が考えるに、この一点に尽きる。

本屋のスペースには限界がある

 書店の経営者も商売でやってる以上、捌けない本はさっさと版元へ返してしまう。それが商業主義下の競争原理と言えばそれまでだが、あまりにも多い出版点数と、対する狭すぎる書店面積は、短期間にワッと売れる流行型の本(「脳内革命」とか「猿岩石日記」とか)ばかりが店頭に並ぶという結果をもたらす。
 そんななかで、どちらかと言えば「じわじわと浸透し、長年にわたって親しまれる」という平井和正のようなタイプの作家は、切り捨てられてゆく。それは、平井和正の商業主義的敗北を意味するのか。
 断じて違う。平井和正や筒井康隆や小松左京のような偉大な作家の作品は、出版社にとっても商業的財産の筈である。「脳内革命」が十年後も「商品」となるか。なりはしない。結局、新しい流行本を次々と作り出せねばならなくなる。その場限りの「使い捨て」ばかりが巷に溢れ、歴史に残る「名作」は駆逐される。
 その結果、小説そのものが大衆から見捨てられる。書店にまだ「名作」が溢れていた頃、優れた作家に出逢った固定ファンだけが、彼らの「新作」を買い求め、それもまた時間の経過とともに姿を消していく。それは文学そのものの先細り、衰退を意味する。
 オンライン出版は、そうしたお先真っ暗な小説界に差し込んだ、一条の希望の光だ。なんといっても、電脳ネットワークスの空間にあっては、物理的制約というものがない。よほどマニアックな店(書泉みたいな)でない限り、平井和正の全作品が店頭に並ぶことはないが、オンラインでなら、いとも簡単に実現できてしまう。
 小説の中身をデジタルで提供するだけがオンラインの活用法ではない。ペーパー本をオンラインで売買することだって可能だ。単行本を全国書店に流通させるのは大変なことだが、ホームページなら、そこを知り関心を寄せる読者に、全ての情報を余すことなく提供できる。「そんな本出てたの? 知らなかった」という機会損失が一掃される。これは大きい。問題は、平井和正のページの存在が知られていなければ意味を為さないことだが、これはアスキーさんに頑張ってもらうしかない。
 オンライン出版が、ありし日の書店を蘇らせるということは、残念ながら難しいだろう。書店とは雑誌と新刊書を売るところ。そういう割り切りは必要なのかもしれない。そうした御時世にあって、書店という本を買う唯一の窓口に、オンラインという「もうひとつの窓口」が加わったのは、我々読者にとって、この上ない福音である筈だ。

パソコン社会の明日はどっちだ
1997.04.06 初出:NIFTY-Serve
>>だけど、くどいようですけどパソコンの価格にこだわると、せめてテレビ程度に手に入れやすくならないと「大衆文化」の域には達しない気がします。 それと動作の安定性ですね(単に私がオバカなだけかも知れないけど、3ヶ月でシステム再インストールが5回(^^;;)。<<
 パソコンって、高倉健が言うほど「簡単」じゃないですからねー。これは万事に通ずる原則でしょうが、「簡単」と連呼するモノは、ゼッタイに「簡単」じゃありません。炊飯器のCMで「簡単じゃねえか」とは言いませんもんね。
 パソコン雑誌があれだけ出ているのも、いかにパソコンを使いこなすのに、知識とノウハウを要求されるかという証でしょう。他の家電製品では有り得ないことです。「炊飯器@ASCII」とか「ASCII 洗濯機 ISSUE」とかあったらオモシロいですけどね。
「NEW愛妻号はココが変わった」
「97 春の炊飯器ニューモデル総チェック」
「猛暑を吹き飛ばせ エアコンパワーアップ虎の巻」

 う〜ん、読んでみたい!

 私のような「パソコン者」にとっては、パソコンがもたらす「試練」(笑)を克服すること自体が一種の「ゲーム」である訳ですが、一般大衆にとってそれは単なる「苦痛」でしかない。なんらかの必要に迫られて、あるいは、ある種の強迫観念によって購入した堅気の方には大変お気の毒ですが、パソコンはまだまだ当分の間「パソコン者のオモチャ」であり続けるでしょう。もしかしたら、未来永劫「大衆の道具」とはなり得ないのかもしれない。それでも、私個人は楽観的そのものです。
 車を持てない人、運転できない人のために、電車やバス、タクシーがあるように、パソコンにもそうした代行業が現れるのは世の必然だからです。インターネットカフェがカラオケボックスのように全国に普及する可能性は未知数にしても、公民館にパソコンを設置、なんてのは充分あり得る話じゃないですか。ワープロや電話、テレビ、ゲーム機など、従来家電製品のインターネットへのクロスだって考えられる。オンライン出版に限って言えば、書店側がパソコンを導入したっていいわけです。
 問題点は山のようにあるが、解決の道もまた無数に存在する。だからこそ、オンライン出版という、澱んだ出版界に風穴をあける偉大な一歩に、私は祝福をあげたいのです。

平井和正の理由(ワケ)
1997.04.17 初出:HIRAIST-ML
 基本は「感情」なのだ。と、唐突にも言い切ってしまう。
「感情」という土台があってこそ、「アクション」や「謎」や「お色気」、その他「設定の妙」は生きてくるのではないか。
『マッドマックス』は妻子を殺された男が、殺した暴走族を皆殺しにするアクション映画である。ありがちな復讐憚の類型だが、だからこそ、ストレートに感情に訴える力を持つ。愛する妻子も、憎むべき敵も失ったメル・ギブソンが、「北斗の拳」的未来世界で、前作を上回るアクションを演じたとしても、つまらないのは、だから当然である。
 80年代、SFが急激に力を失ったのは、「感情」という基本を忘れたからではないか。忘れたというよりは、物語の魅力というものについて、根本から勘違いしたのだ。『マッドマックス』のアクション部分をよりパワーアップした続編を作れば、もっと面白いものになるのではないか。そのような基本的、かつ決定的な勘違いをである。
 SFの作り手が、そのSF的要素にのみ心血を注ぎだしたとき、SFの凋落は始まったと俺は見ている。SFが描くべき対象もまた、「人間」をおいてほかにないと考えるからだ。そう言えば、SFマニアは異論があるだろう。人間ドラマなど、他のジャンルでやればいいと。どっこい、そうではないのである。
 何故か。現実という枠は、爆発的感情の発露を惹起せしめる状況設定の制限を否応なくされるからだ。愛する者の死、友の裏切り、恋の怨み…。そのシチュエーションには、自ずと限りがある。野島伸司のドラマで、日本が沈没したり、宇宙人が攻めてくる訳にはいくまい(笑)。SFだけが、描くことができる。明日世界が滅びることを知った人々の絶望と悲哀と穏やかな諦念を、生きるためにロボットに乗り敵と戦う少年の葛藤と苦悩を。SFとは、人間の感情を極限まで引き出す、舞台装置なのである。
 情念の魔術師・平井和正がSFを選んだ理由がここにある。そして、平井和正の描くSFが、決まってSFらしくない理由も。

真SF/超文学
1997.04.18 初出:NIFTY-Serve
>>「『SF』であることのみを自己目的化したSF小説はつまらない」と言ったところ、あっさり無視されてしまいました(笑)。<<
 いまどき、SFファンを自認する連中は、まず間違いなくSFオタクですからね。SFのSFによるSFのためのSFを有り難がる人達です。こういう人達に、「感情」こそ基本、と言っても通用しません。彼等は、全く違うものを求めている。
 引き裂かれる恋の悲劇を描くのが文学なら、ゴキブリに変身した悲劇を描くのがSFです。ともに、人間の感情を描く。「現実」と「非現実」の違いがあるだけです。
 ゴキブリに変身した「理由」について、科学的論考を交えながら「説明」することでご満悦に耽る作家や、それをみて歓ぶSFオタ達が、SFという市場をかくも没落させたのだと、断言してしまいます。
 それこそが、SFの正統派、本格派と言うなら、確かに平井和正はSFじゃないよな。そんなチンケな看板、こっちで願い下げでいっ、と言ってしまう。
 では、何と呼ぶか。「非現実的文学」とでも言おうか(笑)。でも、進むべき方向を誤っただけで、本来“超・文学”と成り得るダイナミズムをSFは具えていた筈です。
 人類の命運という重責を背負った少年の苦悩。そんなイエスや釈迦に匹敵する苦しみを「文学」は描き得るか。できはしない。だから、私に言わせれば、純文学などより、SFの方がよっぽど分野的に肥沃です。しかし、残念ながら、SFは大衆の情操に訴えることを放棄し、SFファンと呼ばれる一部“通”に的を絞るという、自閉の道を選んだ。
 よって、現在SFと呼ばれるそれが「ヒルコ」であり(笑)、平井和正こそ正統なSFの担い手とするなら、「真SF作家」と言えますし、現在のSFこそ正統だとするなら、そう、「超文学作家」とでも言うしかありますまい。

 先日、こんなメールが送られてきた。要するに古臭いネズミ講なんですが、《体験談》がインターナショナルっつーか、ワールドワイドになってるあたり、新鮮さを感じてしまいました(笑)。「私の名は、クリストファー・エリクソン。……」 このたまらない胡散臭さが、なかなかいい味を醸し出しています。
 東京に一人暮らしをしている頃は「やはりあった! 芸能人裏ビデオ」なんて、アヤしくも愉快なチラシがしょっちゅう舞い込んだものですが、実家に帰るとさすがにお目にかかれなくなり、ちょっぴり寂しい思いをしておりました。
 これが度重なったり、手口がありきたりだったりすると、即ゴミ箱行きなのですが、ひとひねり、ひと工夫があれば、「2000通もメール送んのやったら、マジメに働くわい」とか、「誰が感謝すんねん、友達なくすわ」とか、ツッコミながら楽しもうという気も、起きようというものです。
 まあ、しかし、ナメてもらっちゃ困るというか、いいオトナ相手に「楽して儲かる」だの「芸能人裏ビデオ」では、騙されてやろうという気にもならんよなー。大衆に向かって、最大公約数的リビドーに訴えたってダメよ。元手がかかるし、リスクも高い。やっぱりこれからは、ターゲットを絞って、熱く濃いネタで勝負しないと。仮にこれが「平井和正マル秘情報」だったら、信憑性はどうあれ、果たしてどんなシロモノを送って寄こすのか、座興に金払おうかって気にもなるじゃない。例えばこんなヤツ。

★★★リアル犬神明インタビューを全文お渡しします!★★★

 こんにちは。あなたが書き込みをされている会議室をROMしている×××という者です。ヒライストであるあなたに、耳寄りな情報をお知らせしたく、メールさせていただきました。ご迷惑でしたら、削除下さい。
 実は>私の友人はかつてウルフガイ・プロジェクト・オフィスでアルバイトをしていたことがあるのですが、なんとその折り、いまインターネットで話題の「リアル犬神明インタビュー」のテープ起こしの内容を秘かにコピーしていたというのです! 当時、私は彼からそのコピーを見せてもらいましたが、その驚くべき内容と迫真性に、震え上がるような戦慄と興奮を覚えずにはいられませんでした。まさに、ムーンライトから「クェーサー極秘文書」を手渡された青年東丈の心境とでも言いましょうか。
 その友人は、いまは音信不通となりましたが、その時見せてもらった、A4用紙にして78枚にも及ぶ膨大なコピーの中身は、私の手でパソコン上に入力され、いまハードディスクの中に眠っています。
 このデータを下記の価格にて、お譲りいたします。これは決して詐欺でも、イタズラでもありません。事情があり、どうしてもまとまったお金が必要となり、やむにやまれず、このような行為をする仕儀となりました。危険を避け、さほど発言をされていない方に限って選出させていただきましたが、いつなんどきこのことが当局に漏れ、しかるべき対策を講じられるやもしれません。ハッキリ言って、チャンスは今だけです! 伏せ字一切ナシ、危険度200%のマニア垂涎の極秘文書入手の機会をぜひともお見逃しなく。

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 なお、支払いは銀行振り込み(前払い)のみとさせて頂きます。希望の品(AまたはB)と氏名、EMAIL先を明記の上、<SEX06969@nifty.ne.jp>までお送り下さい。折り返し、口座番号をお知らせいたします。


 ……やっぱりオレって、犯罪者の気質があるのかしら(笑)。もちろん、これは冗談だから、「B希望」なんて送ってきても、ブツはないよ(笑)。いや、これは冗談に見せかけた巧妙なマジものに違いない! などと考えるひとのために、いちおう口座番号だけは教えて差し上げますか(笑)。

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