ヒライス徒
宣言
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 結論から言えば、そんなもん欲しいのかよ、という言葉に尽きる。
 思い入れの深さなんてのは、所詮自分の欲求のカタチによって決まる結果でしかない。平井和正をただひとり愛好する者も、お気に入りの作家のひとりである者も、読んだことがあるだけの者も、誰がエラくて、誰がエラくない、そんな問題ではなかろうと思うのだ。
 熱愛者とファン、という分け方がある。つまらなくとも許容し、一生を添い遂げる夫婦関係が熱愛者。おもしろい間だけお付き合いする愛人関係がファン。かいつまんで言えばそういうことだろう。作家の立場から言って、前者が可愛いのは当然だ。しかし、読者の立場から、積極的に熱愛者であろうとしたり、逆にそうなれない自分に引け目を感じたりするのは、ちょっと違うんじゃないの、と思うのだ。自分がどれだけ平井和正を愛しているか、それを読書歴や蔵書の数、再読の回数で競うのは、まるでカリスマの寵を争うどこぞの信者さんのようで滑稽だ。そんなヤツ、いやしないだろうけど。ファン歴で言えば、ワタシも16年だ。人生の半分以上、平井ファンとして過ごしたことになる。でも、だからって、どうってことはない。阪神ファン20年続けてきました、ってのと大して変わりはないのだから。
 ワタシにとって、平井和正は「特別な作家」だ。先のことはわからないが、たぶんこれからも一生お付き合いしていくことになるんだろう。この先、彼がどのように転向しようとベクトルをシフトしようと、もはや嫌いにはなれそうもない。そんな気がするのだ。贔屓の引き倒しとか、アバタもエクボというのでなく、共感できなかったり、納得できなかったとしても、拒絶したり絶縁したりすることはあるまいという意味で。それもまた平井和正サーガの一頁として、見守っていくんじゃないかな。でもそれは、自分が良くも悪くも、どうしようもなくそうなってしまっているだけのハナシであって、「平井ファンの鑑ですね」などと、アホな称賛をされても、ちっともうれしくない。ワタシは自分の人生を誰かに捧げたりしない、徹底したエゴイストなのだから。
 もうついていけません。というからには、それまでは「ついて」いってたのだろう。ついていったりするから、ついていけなくなるのだ。作家と読者との間に、ついていくもいかぬもない。読者はただ「読む」それだけだ。ありもしない作家との精神的紐帯など夢見ているから、「裏切った」なんて言葉が飛び出すのだ。思いっきり傾倒していたかと思えば、一転して悪口雑言の雨嵐。なんでもう少し、フツウに付き合えないかなあ? エヴァンゲリオンのラストがいくら気に入らないからって、そこまで怒り狂うこたあないじゃないかって思う。お前ら、ほかに楽しみないんか? と尋きたくなる(笑)。
 実際、たいして楽しみがないんだろう。興味の範囲がおそろしく狭く、保守的なのだ。だから「お気に入り」が自分の嗜好するフィールドを逸れることを嫌うし、そうなったものに対して容赦がない。「幻魔大戦はSFか?」なんてアホな設問も、そうした心性から飛び出してくるのだろう。ワタシに言わせれば、「幻魔大戦」は立派なSFだ。SFとは即ち文学的冒険だと考えるからだ。既成の文学の枠を超えたものは、みんなSFだったはずだ。そういう意味では、ジャンルですらなかったのだ。ホントウは。「かくあるべし」と語るのは権威主義者であって冒険者ではない。「SFかくあるべし」とSFファン自身が語るからには、SFも既成のジャンルと成り下がったということなのだろう。それはいい。しかし、「ボヘミアンガラス・ストリートのどこがSFなんだ」と語るSFファンにとって本当に重要なのは、実のところSFか否かではなく、自分の嗜好するフィールドの内か外かでしかないのではないか。たぶん、そうなんだろう。
 ワタシもまた、狭量で好き嫌いの激しい人間だ。だが、好き嫌いを作品的な是非と重ねるほど愚かではない。わからなければ、わからない。シュミじゃなければ、シュミじゃない。単にそれだけのこと。彼岸に行ってしまった。だからどうした? つまるところ、彼岸ワールドをカバーできない、自分の守備範囲の狭さを露呈しているだけではないか。そういうバカ丸出しだけは、死んでもゴメンだと思う。
 だって、そうでしょう。平井和正とワタシじゃ大人と子どもほど年齢も違えば、経験値にいたっては更に隔たりがある。平井和正の“境地”が、実感として理解できないことがあるのは当たり前である。理解しようというほうがムチャだ。これは昔のワタシがそうだったから、あえて説教たれるが、ケツのアオい若造が他人の言うこといちいち真に受けて影響されんなってことだ。女抱いたこともないドーテー坊やが、性欲が不浄だなんて語ってるんじゃない。ヘビースモーカーだった人間が「煙魔は幻魔である」というから説得力がある。宗教にハマった人間が「宗教は麻薬」というから説得力がある。煙草を吸いもせず、その旨さを知りもしない人間が、読みかじり聞きかじりで煙草の害悪を唱えたところで、滑稽な受け売りでしかない。黙れ小僧! お前に愛煙家の不幸が癒せるのか? ゼロイチニイゼロ、サンサンサンのキュウレイロクぅぅ。宗教だって、自分で体験してみないことには、どんなものかはわかるまい。案外、いいものかもしれないではないか(笑)。
 読書で得られることは「この人はこう考えているのだな」と認識すること、それだけだ。自分で経験して身体で覚える叡知とは、本質的に異なる。だからこそ、理解できなくとも、気に病むことも、否定することもあるまいと思う。平井和正40歳の境地を理解できぬと悩むのは、少なくとも自分が40歳なるまで待ってみてもいいのではないか?(無論、一生理解できないこともあろう) ひとがある“境地”に至るにはプロセスがいる。プロセス抜きに他人の語る“境地”のみ真似したところで、付け焼き刃にもなりはしない。
「バチガミ」のカバーの折り返しで「ハルマゲドンは終わった」と語った平井和正が、アスペクト版「幻魔大戦」の前書きでは「ハルマゲドン真っ最中」と言った。その心境の変化には、何らかのプロセスがあった筈だ。本人がそのいきさつについて語らない以上、それが何だったかは「わからない」。読者は平井和正が以前とは心境を変えているのだ、ということを淡々と認識するだけだ。悩むことも、腹を立てることもあるまい。
 過度の愛着は、その反動として全き離別という形で現れる。よくある話だ。そうした人間的感情を否定はしないが、賢明ではない。フツウに付き合ってりゃいいんだよ。フツウにさ。「僕の愛した平井和正はもういない!」なんてシリアスに考えるからいけない。そんなもの、ハナからいやしなかったのだから。「なんかケッタイなことになってきたなあ」と思いながら読めばいいのだ。所詮、あなたもワタシも平井和正ではないのだから。共感できることもあれば、できないこともある。おもしろい作品もあれば、そうでない作品もある。当たり前ではないか。
「最近の平井和正についていけない私は、もう平井和正の愛読者ではないのだ」 それって、そんなに悲しいことか? 「愛読者」などというクソの役にも立たないレッテルが、そんなにも大事なものなのか? ごく冷静に考えて、ワタシは平井和正の愛読者であろう。しかし、それは単にそれだけのものだ。ワタシの足のサイズは26.5です。というのと変わらない。誇るべきことでも、恥ずべきことでもありはしない。
 ワタシが平井和正に夢中で、その活動に注目しているのは、ワタシがワタシのリビドーに対して忠実であるという、ただそれだけのことだ。将来、平井和正に対する興味が減じてきたら、もう少しノンビリしたヒライストライフを送ることになろう。作家に対して忠実であることはない。平井和正にマイブームな自分とか、近頃あんまり興味が持てない自分とか、そういう自分に対して忠実であるのが一番だ。そう思い至れば、作家が読者ではなく、自分自身に一番忠実でいることにも、寛容になれるのではないだろうか。

 言葉の使い方そのものについて、ワタシはさほどシリアスに考えていない。ちょっとした言葉の行き違いぐらい、気心知れた間柄なら、「ごめんごめん」で済む話だからだ。それがコジれるのは、言葉の使い方以前の問題があるからだろう。
 書き手の気持ちというのは、不思議と判るものである。括弧笑いやフェースマークでデコレーションしても、ムカムカして書いたものは、ちゃんと通じる(笑)というか、見抜かれるし、他人のそういうのも、なんとなく判る。別段、ワタシが人一倍鋭敏であるわけもなく、これは文章の持つ、普遍的な性質なのだろう。どんなに紳士的な論議を装っていても、隙あらば陥れようというのがホンネであれば、それは見えざる悪臭のようにプンプンと鼻につくものだ。「文(ふみ)は口ほどにものを言い」と言ってはなんだか妙だが、実際に書かれていないことまで「読めて」「読まれて」しまうのが、文章の怖ろしいところだ。
 従って、拙きが故の言葉の過ちによって、人間関係がコジれてしまうという認識に、ワタシはあまり実感を持てずにいる。ワタシの考えが正しければ、そうではない。それは、そうなるべくしてそうなった、当然の帰結でしかない。
 何故、論敵である相手の顔も立ててやる配慮がないのか? それはまさしく「相手の顔など立てたくない」からであり、公衆の面前で赤っ恥をかかし、完膚無きまでに叩き潰してやるという、意識的であれ、無意識であれ、そういう思いがあるからであろう。荒んだ心で文章を書けば、荒んだ文章になるし、好戦的な気分で文章を書けば、好戦的な文章になる。文章の書き方が問題なのではなく、書く者の品位や気持ちが、自ずとそうした表現となって顕れるのである。テクニカルな問題ではなく、言わばメンタルな問題として。
 なればこそ、ワタシはネット上に愚劣な争いが絶えないことについて、言葉によるコミュニケートの難しさなどに原因を求めたりはしない。それは単に、愚劣な人間性の発露の結果でしかない。現実世界において愚劣な行為に及べば、はっきり制裁を加えられる。だが、匿名性を保証されたネット上に、そうしたリスクは少ない。己れの素顔を晒す現実世界においては紳士を装い、何処の誰とも判らぬ仮面舞踏会たるネット世界で己れの本性を晒すのだ。
 もともと、平井和正ファンジンの荒廃ぶりから、平井和正が警鐘を鳴らした「ガチャ文」は、インターネットの時代を迎えて、いまや一般的な現象になりつつある。「文は人なり」というが、文(ふみ)の世界は、現実世界よりもより一層、人間の本質を見せてくれる。善き者も、悪しき者も、そこでは己れの正体を晒してしまうことになる。
 こうした現状を憂う人々から、ネチケットが声高に叫ばれる。だが、それを気にかける人々は、もとより心ある人々であって、心ない連中に対する効力のほどは絶望的だ。ネット界からフレーミング(中傷誹謗)をなくすのは、世界から戦争をなくし、社会から犯罪をなくすのに等しいだろう。となれば、どうすればそれがなくなるかを考えるよりも、人間もネット界もそうしたものだと割り切り、そうした状況や人物といかにして渡り合うかを考えるのが、より現実的というものだ。「“ガチャ文”考」もまた、ガチャ文ないしガチャ文ライターとの渡り合い方を教えてくれている。同次元でやり合うなと言っているのだ。
 とかくこうした論旨に対しては、とにかく「穏やかであろう」と反応しがちだ。だが、それはちょっと違うと思う。何を言うにも、平井和正自身が鬼神のごとき気性の持ち主なのである。「“ガチャ文”考」そのものが、“ガチャ文君”に対する辛辣な批判を含んでいることを忘れてはなるまい。それをして、「“ガチャ文”考」自体がガチャ文なのだと、批判する向きもいる。だがそれは、ガチャ文=辛辣な文、という勘違いをしているからだ。
 感情的にならない、とは怒りを捨て去ることでは決してない。修行僧でもあるまいし、そんなことはどだい不可能である。迷惑千万な振る舞いをする輩には怒りを発していいし、またそうすべきである。つまるところ、辛辣な批判であれ、容赦ない揶揄であれ、要はその質や品が問われるのだ。それは嘘偽りない自らの人間性そのものである。

 読書というのは孤独な行為だ。そこには書と私(シ)の対峙のみがあり、他者の介在を許さない。それはごく個人的な体験であって、他人と同じ書物を読んだからといって、それで体験を共有したとは、必ずしも言い切れない。ワタシが「幻魔大戦」を読むのと、ほかの誰かがそれを読むのとでは、自ずと受け取る意味合いは違っていよう。
 東丈とGENKEN会員達の言動を肯定的に捉えるべきか否か。しばしばなされる議論ではあるが、極論すれば、「幻魔大戦」自体はそれを肯定も否定もしてはいない。物語はただ、理想を追い求める若者達の姿と、彼らのたどるプロセスをクールに描いているだけだ。
 そこに宗教の可能性を見出すか、限界を感じ取るかは、各々の感性よる。やれ読みが浅い、やれ穿ち過ぎだといった、異なる見解の者同志の言い争いもありえようが、そもそも、唯一絶対の「解」など存在しない。読む者の感性、教養、精神的熟度によって、違った顔を見せる。物語とは、そうしたものだからだ。どこまで感性を磨き、教養を身につけ、精神的に成熟すれば、十全に正しく解釈できる。そういうものでは、おそらく、ない。真の芸術が具える「意味」。それは生命のメカニズムにも似た、無限の深淵ではないだろうか。
 故に、読者の身の丈に応じて、物語の真実は与えられる。おそらくは作者自身にも、同じことが言えるのだ。作者の創意さえ超えた意味もまた、物語には在り得るのである。平井和正が「言霊使い」であるゆえに特別なのではない。芸術の神が嘉納する「本物」の物語には、普遍的に生じ得ることだとワタシは思う。
 従って、平井和正自身の見解・解釈もまた、時を経ることで変化するのは、当然のことだ。よく、「昔と言ってることが違うぞ」としばしば非難されるが、作者自身も変化する以上、これはしかたのないことである。大事なことは、作者の言うことだからと、金科玉条として、自分の「実感」まで曲げてしまわないことであろう。
 解説や謎本といった、その筋のオーソリティの解釈も同じことだ。あくまでもそれは、筆者にとっての真実でしかない。よってそれらは自分の認識に対する参考に留め、鵜呑みにしないことが肝要であろう。などとエラソーなゴタクを並べているヤツが一番信用ならないので、気を付けていきたい。
「わからない」というのは不安なものだ。そこで答を他に求めようとする。だが、自分にそれだけの素地がないから「わからない」のであって、他人の解釈を仕入れてわかったような気になるのは、あまり感心したことではない。かくいうワタシも『犬神 明』のラストが、よくわからない。それはたぶん、ワタシ受け入れ態勢が整っていないからそうなるので、こじつけで安心したりせず、「わからない」ものとして、アタマの片隅に留めている。いずれアタマの回路が繋がることもあろう。

 前置きが長くなったが、ところで、平井ファンという人種は、基本的に群れたがらない質(タチ)だとワタシは睨んでいる。平井和正関連ボードが作家の人気(註1)にも関わらず、参加者が限られているのは、こうしたファンの気質によるものだろう。孤高のローンウルフなのだ。
 読むことのデザイヤと語ることのデザイヤとは、全く次元が異なる。ファン活動に従事する者が、熱烈なファンとイコールかと言うとそうではない。平井ファンに限らず、ファン集団が「本当にファン?」と首を傾げたくなる言動に及ぶのは、さして珍しいことではない(註2)。よく語る者が実はよく読んではいないのは、ワタシも含めありがちな事例である(苦笑)。逆に、奥ゆかしく語らない読者の綴るファンレターが作者を唸らせたりする。
 K1やアルティメットといった華やかな格闘技の表舞台をよそに、ひと知れず絶対的な功夫を身につける拳法の達人のごとく、彼は静かにしかし怜悧に物語の本質を射抜く。別に当てずっぽうの憶測を述べているのではない。そういう読者は確かにいるし、ワタシはそういう人物の何人かを実際に知っているのだ。
 憧れるよなー。ワタシにゃぜってえなれやしないんだけどもさ。妬みはすまい。そう、ワタシにはワタシの身の丈というものがある。ワタシなりのお付き合いをしていくだけだし、またそれ以外にない。そして、それを誰かと共有したいとも思わない。ワタシもまた、ヒライスト気質的にはローンウルフなのだ。(ネットワーカーとしては別)

註1)平井和正はマイナーである、という認識をしている読者は少なくない。マイナーカルトな作家だというのだ。著書の部数さえわかれば、白黒をつけるのはカンタンだが、残念ながらワタシはそれを知らない。だが、あの筒井康隆でさえ俳優という副業をせざるを得ない昨今、作家業だけで食えているというのは、十分メジャーに属していると言えるのではないだろうか。平井和正はメジャーカルトな作家なのだ。

註2)「ウルフ会」在籍当時、仲間と現在進行中の作品の話をしていたところ、「『黄金の少女』って何?」と尋ねてきたヤツがいる(爆)。もちろん、ウルフ会の会員だ。これは実話である。なんで入会したんだ?

 プロとしての到達点はアマチュアリズムではないかと思っている。やりたい仕事だけをし、好きなだけ時間をかけ、必要なだけ予算を費やし、それでいてプロとして通用し、評価されるとすれば、それはプロの職人として、究極の姿であろうと思うのだ。
 様々な制約の中で、ベストな仕事をなすのがプロである。プロアマの比較論で、そのような言い方がよくなされる。確かにそれは、一面の事実ではある。だがしかし、その道のプロがそうした制約を受け容れるのは、それがプロの使命だからでも、誇りだからでもなく、要するに、そうしなければ「食っていけない」という、シビアな現実が横たわっているからに過ぎない。
 故に、アマチュアリズムを体現できるプロフェッショナルは、その中でもグレイテストな存在に限られよう。それはキャメロンや庵野秀明のような、メーカーのマーケティングに干渉されることなく、彼の作品がもたらす結果が逆にメーカーのマーケティングさえ覆すことを彼の実績もしくは名前が保証している存在である。

「言霊」とは、言ってみればアマチュアリズムの最たるものである。プロの作家がそれを口にするのは、彼の地位と実力を裏書きするものだ。言霊に「使われ」るとも、出版社に使われることはない。という信念はしかし、人気を含む実績なくして、貫けるものではないからである。
 逆に、アマチュアの奉ずるアマチュアリズムは、単なる素人の戯れ言でしかない。自分は短編には向かない、などと言わず、腕を磨くためにも、敢えて制約下での作品創りに挑むべきであろう。
 本来、アマチュアがアマチュアリズムを語るのは十年早いのである。アマチュアのままで終わるつもりなら、それも結構だが。いや、プロになる気などなかったとしても、グレイテストなプロにのみ許される「言い訳」をそのままに口にすべきではない。それは己れの未熟さをアマチュアの名のもとに自ら許容する行為だからである。「言霊が来ない」という平井ファンの常套句(多分にジョーク混じりではあるが)に、それは代表される。
 言霊が来ない。本当にそうか? おそらく、言霊は来ている筈である。腹の裡のモヤモヤとした、表現の衝動自体は存在する。ただ、それを言語化できないだけだ。漠然としたイメージを言葉にする。文章を書く困難はこの一事に尽きると言っても過言ではあるまい。このモヤモヤを言語化する作業に、誰しも呻吟しているに違いないのだ。
 それができないのは、筆者の未熟以外の何者でもない。ワタシもまたアマチュアだが、ワタシは自分の未熟さを自ら許したりしない。言語化できない裡なるモヤモヤは、不退転の決意をもって言語化するだけだ。

 平井和正(の作品)との出逢いがなければ、いまの自分はない。そう仰るひとは結構いますね。出逢いがなければ、どこぞのカルト教団に入信したであろう、とも。ご本人がそう言うのであれば、否定する謂われはありませんが。
 腐敗と汚穢の充満する世の中に、割り切って「こんなもんだ」と言えぬロマンティストとしての自覚が、カルト教信者に相通じる傾きを見出すのだろう。しかし、平井和正がこの世にいないという仮定ならともかく、出逢いそのものが幸運な偶然だったとする認識には、納得しかねるものがある。
 平井和正という人気作家に、心の底から切実にそれを欲している潜在的読者が、長い人生一度も遭遇することがないなどということが、果たして有り得るだろうか? どっちかというと、むしろそちらのほうが奇蹟的であるような気がする。心の欲するものを持つ者は、無意識的にそれを探し求めているものだ。最初にブチ当たったという、出会い頭的ラックでしかないのなら、長くて3年で読者をやめているであろう。3年以上読者を続けているとすれば、きっかけはどうあれ、遅かれ早かれ平井和正という最高にフェイバリットな作家に巡り逢っている筈だ。それは必然というものである。
 数ある選択肢の中から、平井和正を選んだ者は、その本能的健全さに自信を持っていいと思う。平井和正に当たった私はただのラッキー。ショーコーに当たった彼らはただのアンラッキー。そうした考え方に、ワタシは首を傾げる。「幻魔大戦」の読者ならば、もし木村市枝が最初に出逢ったのが東丈ではなく、高鳥慶輔だった場合を想定してみればよい。本物の超常能力に心動かされることがあったとしても、最終的に市枝は高鳥を退けるのではないだろうか。それが本能的健全さというものだ。ショーコーとの不幸な遭遇が、彼らを狂わせたのではない。ショーコーを自らの意志で選び、その教義のいかがわしさに気づくどころか更に心酔する彼らは、ハナから狂っていたのだ。
 それが証拠に、平井ファンのなかにも、オカシな人間は少なからず存在する(本当です)。オカシな人間が平井作品を読めば、自ずとオカシな解釈をし、オカシな行動に走るものだ。具合の悪いことに、平井和正の作品はオカシな人間を惹きつけるところがある。そして当然ながら、他の文学作品と同じく、オカシな人間を更正させる効能は持たない。あなたがマトモなのは、それはあなたが平井作品を読んだからではなく、本質的にあなたがマトモだからだ。自信を持っていいと思う。
 ワタシが少年の頃、尊敬すべき先達はこう言った。「小説読んだぐらいで、人間変わらないよ」 その通りだと、ワタシも思う。第一、ワタシがこんなに性悪なのは、平井センセのお陰です。などと言っては、大恩ある作家とその作品に申し訳がない。

 みんな、ウルフガイで青春してたんですね〜。
 熱く、ヘヴィで、哀切なウルフ時代の平井和正作品が、いまなお、切ない郷愁をもって語られるのは、感動的ですらあります。ウルフガイ・テイストのアクション娯楽ストーリィが、どれだけ書き継がれようと、何物にも替え難い名作なんですね。

 かつての名作への思い入れが強ければ強いほど、平井和正の現在に戸惑いや失望を感じる、その心中のほどは、察するに余りあるものがあります。
 ただ、これはファンとしての贔屓目かもしれませんが、ワタシはいまの平井和正(作品)も名作だと思っています。生頼載義のイラストがピッタリハマる、ダークにしてハードな作風とは、およそ位相を異にしてはいますが、『地球樹の女神』に、『犬神 明』に、『ボヘミアンガラス・ストリート』に、『月光魔術團』に、ウルフガイや幻魔大戦とはまた違った形で、そして同じように、エキサイティングな興奮を味わい、ハートを突き刺すソウルフルな衝撃を感じています。
 平井和正はパワーが衰えたのか? ワタシはそうは思いません。パワーという点で言えば、平井和正はますます元気いっぱいで、衰えるところを知りません。そう感じられるのはたぶん、貴方の「理解を絶している」だけではないでしょうか。つまり、読者としての趣味・好みの問題です。こればかりは個人の嗜好であって、かつてのウルフガイフリークが、その続編にガッカリしたとしても無理からぬことです。ですから、これは批判でもなんでもありません。
 小説のセオリーからの逸脱。これも今に始まったことではなく、「幻魔大戦」の頃からそうだったわけですよね。その冒険的もしくは冒涜的な(笑)小説スタイルに、昔から多くの批判があったことは確かです。しかし、それでも読者は数多く存在します。かつて、ウルフガイフリークに、幻魔フリークが取って代わったように、愛想を尽かす読者がいれば、新たに夢中になる読者もいます。
 昔からそうだったではありませんか? 同じ作品、同じシリーズであっても、作風・テイストが変化するのは、『幻魔大戦』の漫画版を下敷きにした1〜3巻とGENKEN興亡史を描いた4巻以降がそうだし、アダルトウルフガイの『人狼白書』以降がそうですよね。第一期ウルフガイと『黄金の少女』、『犬神 明』が大きく雰囲気を変えているのは、言ってみれば、平井和正の「いつものこと」ですでしょ(笑)。
 その昔、平井和正がウルフガイを書き始めて、荒巻義男は「平井和正よ、何処へ行く」と嘆息したといいます。常に新境地を目指し、古い読者を裏切り続けるのは、平井和正の平井和正たる所以ではないでしょうか。読者に迎合し、人気に安住するのは簡単なことです。確立した様式を踏襲し、ウルフガイ・テイストの作品を量産すればいいのですから。むしろ、そのほうが良かったという向きも少なくはないでしょう。しかし、それをこそ金儲け主義に走ったと言うべきではありませんか? 多くの既存の読者を失うリスクを伴う冒険行為が、なにゆえ金儲けで有り得るでしょうか。ウルフガイの昔も、月光魔術團の今も、平井和正は己れの作家的信念に基づき、入魂の執筆をしているのは間違いありません。その結果を気に入るか気に入らないかは、単に個人の好き嫌いでしかありませんでしょう。

『人狼白書』以降の“神憑り”が喧伝される平井和正ですが、平井和正の「いま」は、その“神憑り”フリークスをも裏切るものです。その境地の何たるかは、実際に作品を読んでお確かめください。お金を払うのがリスキーだと仰る方には、LUNATECHデジタルブックストア(現e文庫)に行けば、ダウンロード無料の「立ち読み版」が用意されています。やっぱり好みじゃない、という人もいるでしょうし、「幻魔」はカンベンだけどコレは面白いじゃん、という人もいることでしょう。
 澱まぬ冒険者。ワタシは平井和正をそのように認識しています。平井和正がいま、いまの様に在る。それはパワーが衰えたからでも、堕落したからでもなく、今も昔も変わることなく、平井和正が平井和正であり続けている証左だと、ワタシは思うのです。

 さるSF系掲示板のトピックに対して書いたもの。しかし、結局投稿はしなかった。いかにもファン意識丸出しで、みっともないからである。

『月光魔術團』に西城が登場した。ウルフガイとのリンケージは、これで決定的と言っていいだろう。そんななか、アダルトウルフガイがハルキ文庫からリリースされることになった。イラストはウルフガイ全作と『月光魔術團』の挿画を飾った泉谷あゆみ。これはもしかして、ウルフガイと「月光」に、アダルトがリンクする布石っすか、師匠ッ???

 先走りし過ぎた邪推はさておき、今回は読者のあまりに強い思い入れと、そして、それを見事に裏切る、あまりに大胆な質的シフトで、ウルフガイフリークスを大いなる困惑と戸惑い、失望、落胆の淵に叩き込んだ、ウルフガイ(+月光魔術團)に対する、その正しい認識について講釈してみたい。
 一連のウルフガイに対する違和感。これはかつてのウルフガイ(『狼の紋章』『狼の怨歌』『狼のレクイエム第一部/第二部』)と『黄金の少女』(全5巻)、そして『犬神 明』(全10巻)を一箇の物語として、ひと括りに考えるところに起因している。ここに『月光魔術團』も加わることになるのだが、これらは同一の歴史に連なる別々の物語と捉えることによって、こうした違和感は解消されよう。
 観念的に説明するより、ひとつ具体例をあげたほうがわかりやすいだろう。要するに、これはガンダムワールドなのだ!!!
『黄金の少女』に犬神明は登場しない。ここに悪評紛々だったわけだが、しかし、「続編」だからといって、主人公が同じだと考えるのは、古い固定観念でしかない。「機動戦士ガンダム」の続編「Zガンダム」にアムロは出てこない。いや、正確には出るには出てくるのだが、ハッキリ言ってゲストキャラ扱い。物語の主人公はカミーユであった。同様に、『黄金の少女』の主人公は、キンケイドなのである。主役不在の物語なのではなく、主役の異なる物語なのだ。
 ここを勘違いすると、この作品の凄味は見えてこない。『黄金の少女』のリスペクトについては、また稿を改めることにして、「ウルフガイと言えば犬神明」という概念に囚われるあまり、その真価に気付かないのだとすれば、こんな不幸なハナシはない。

『黄金の少女』をZ(ゼータ)に見立てるなら、さしずめ『犬神 明』は「逆襲のシャア」、『月光魔術團』は「∀ガンダム」ということになろう。妙にマッチしているのが可笑しい。『女神變生』は……「SDガンダム」だッッッ(爆)。
 一連のウルフガイ作品群をこのように独立した別々の物語だと認識すれば、『黄金の少女』や『犬神 明』にも、旧作ウルフガイの強烈なイメージを離れ、平井和正新境地としての、また違った見方、評価ができよう。これでスッキリできましたね? ダメ?

 以前、このコラムでも触れたが、熱心な平井ファンに限って、平井和正をマイナーな作家だと思い込んでいるフシがある。別にそれを失礼だというわけではないが、誤った認識であろうとワタシは思う。
『月光魔術團』『幻魔大戦』のアスキーでの刊行が頓挫するも、間髪入れず他の出版社からリリースされるのが、そのいい証拠だろう。“売り”にシビアな出版社が、「銭になる」とソロバンを弾くからこそ、こんなことができる。本当にマイナーな作家・作品なら、こうはいくまい。
 特殊な思い入れをもって、作家とその作品に接する者は、もっとあっさりとしたフツウの読者が存在することに、実感が持てないのかもしれない。そこに“ボクたちの作家”幻想の生まれる土壌がある。
 だが、そんなディープな読者にしたところで、別に平井和正だけを読んでいるわけもなく、筒井康隆も読めば、小松左京だって読んでいるはずである。同じように、筒井康隆や小松左京を好きな作家の筆頭・別格にあげる読者が、平井和正を読んでいるかもしれないことぐらい、ちょっと考えればわかるはずなのだ。「我々が小松・筒井を読めても、その逆はない」と考えているとするなら、少々思い上がりが過ぎる。それとも、自分をよほど変わり者だと思っているのか。
 その大胆かつ型破りな小説スタイルや、神秘主義的世界観が、一見カルトちックな印象を与えるだけで、平井和正作品の骨格が、今も昔も骨太なエンターテインメント精神に貫かれていることを見逃してはなるまい。ワタシは活字中毒罹患者ではなく、ありていに言って、読書が苦手な人間である。だからこそ、断言できるが、平井和正の書く作品は難解でもなければ、異端でもない。それは「通俗」と称せられる、大衆性に裏打ちされている。熱烈な信者的読者を少なからず抱えていることは事実にしても、それは平井和正の作家性を物語るものではない。むしろ、そんな読者はごく一部なのであって、コアな平井ファンが想像するより遙かに、平井作品は広く親しまれているはずである。
 人気、というものは実は、そうした大多数の「周辺の読者」が支えている。コアな読者の数など、たかが知れている。移り気でクールな大衆を相手に、その構成員を流動させながら、三十年以上も「流行作家」であり続けた、“ペーパーバックの帝王”ぶりにこそ、平井和正の尋常ならざる「生ける伝説」としての本質がある。
 ヒライストと称する、一途で思い入れたっぷりなファンにはもう飽きた。ワタシはそれ以外のフツウの読者が、平井和正をどう読み、どう評価しているかに興味がある。

実は私はデジタルブックはさみしい。平井作品を手に入れた喜びが半減してしまう感じがする。
何故か?デジタルブックはパソコンの中だけのデータにすぎないからだ。

パソコンのハードディスクの中に記録されたデータは風前の灯火だ。
クラッシュすればあっという間に消えてしまう。
それを恐れてバックアップを取りまくる。そんなことがイヤなのだ。

ちょっとした時間に本を読む。でもデジタルブックはどうだ。
パソコンにスイッチを入れる。のろくさと機械が立ち上がるのを待たなければいけない。
それが興ざめだ。
 やまりんさんのサイト(第20回 PDFとT-Time)からの引用。デジタルノベル・エヴァンジェリストとしては、この挑戦を受けて立たないわけにはいかない。って、勝手にそう思ってるだけですが
 デジタルノベルをリリースする上で、こうした「愛書家」の不満は、ついてまわるだろう。そしてまた、デジタルノベルのインターフェースが、ハード/ソフト両面でいかに改善されようと、それが覆ることはあるまい。
 インターフェースとは、つまるところ、「慣れ」であり、「愛着」だからだ。いかにマッキントッシュの操作性が洗練され、完成されていると口を酸っぱくして主張しようと、ウインドウズユーザーからすれば、「でもこっちのほうが使いやすいじゃん」で片付けられてしまうようなものである。いったん、落ち着き処を決めてしまった人間の頑強さ、頑迷さを侮るのは間違いだ。ひとは基本的に保守的な生き物なのだと思う。
 確かに、パソコンの起動時間だけは、あれはなんとかならんものかと思う。ワタシが幼少のころ実家にあった白黒テレビに勝る立ち上がりのノロマさだ。おかげで、ワタシがパソコンの灯を消すのは、ハングアップ時を除けば、出掛ける時と寝る時だけだ。天井の蛍光灯よりも稼働時間が長い、わが家の家電製品である。デスクトップにもレジューム機能が欲しいと思うぞ。それはさておき。
 デジタルノベルをペーパー本と引き合いにして論じるのは、間違いのもとだろう。それは映画に向かって「本は読みたいときにいつでも読める。いちいち劇場に足を運ぶなんて面倒臭い」などと批判するナンセンスに通ずる。
 言うまでもなく、ペーパー本とデジタルノベルは全く別物である。その意義も、楽しみ方も自ずと異なるものだ。国外転勤になった読者が、日本の作家の新刊本を取り寄せるのは、大変な困難が存在する。デジタルノベルの登場は、こうした様々な不遇な環境におかれた読者に光明をもたらすものだ。ペーパーを読むか、デジタルにするか。それは各々の好みや事情によって、選択すればいいことだと思う。
『クリスタル・チャイルド』のように、現状ではデジタル版しかリリースされていない作品もある。だがこれも、腹を立てるのは筋違いであって、ペーパー本しか選択肢がない時代なら、ひょっとしてお目にかかれなかったかもしれない作品に、デジタルという手段を用いた購読の機会が訪れたことをこそ歓迎すべきなのだ。

 デジタルノベルの先行リリースは、本になる前に雑誌掲載されるようなものだと思えばよかろう。平井和正に限らず、インターネットという発表の舞台を得た作家は、初出の場を雑誌からデジタルへと移行させるだろうと、ワタシは踏んでいる。作家によりけりだが、雑誌の僅かな原稿料よりは、一件毎に課金を得るほうが、実入りが多いのは明らかだからだ。
 その昔、平井和正は「GORO」「問題小説」に、最新作を連載していたこともある。その表紙から『月光魔術團』をレジに持っていくのが恥ずかしいという告白を見掛けるが、女性や年少読者にとって、これらの雑誌の買いにくさは、その比ではなかろう。それも、四百枚一挙掲載なんて気前のいいものではない。ちょっとずつ、毎号載っていくのである。パソコンは確かに敷居が高い。ただの読書家が手を出すには、それなりの難儀がある。が、旧来の雑誌を媒介とした作品の供給システムにも、また別次元の難儀が存在する。
 そもそも、月刊誌の書店における滞空時間は、長くて1カ月だ。運悪く取り逃がしてしえば、まず永久に入手の機会はない。掲載作品が読み切り短編だったりした場合、単行本収録までに何年も待たされるケースはザラにある。原稿にして数十枚の作品をそれだけで本にして流通させるようには、出版業界はできていないからだ。そんな“幻の作品”が、小説界(漫画界もだが)にどれだけあるか知れない。《大長編のスペシャリスト》平井和正には、さすがにそういった短編小説はほとんどないが(わずかにあるのは本人の意志で封印したと思われる)、それでも『黄金の少女』のクライマックスなどは、トクマノベルズの「黄金の少女」5巻が刊行されるまで、「SFアドベンチャー」掲載から8年も待たねばならなかった。稀にこうしたことはあるのだ。そうして、やっとの思いで出た本に、今度は在庫切れ/絶版という死の顎(あぎと)が、容赦なく待ち構えている……。
 紙の本は確かに素晴らしい。電子ネットワークによるデジタルノベルの供給がどれだけ充実しようと、お気に入りの作品は、ぜひとも書物を所有したいとワタシも思う。だが、紙の本を取り巻く流通の現状を見れば、このままでよいと安閑していられないこともまた事実だ。デジタルノベルとは、決して奇をてらった、単に新しモノ好きのためのメディアではない。それはパソコン文化の発達・浸透に伴い、現れるべくして現れた、従来の出版界の欠陥を補う、作家・読者双方にとっての必然的選択なのだ。

「木の芽時の来訪者」と平井和正は語っていたが、春先になるとオカシな人が大量発生するのは、インターネット界においても事実であるらしい。掲示板をお持ちの方は、どうかお気を付けあれ。

 掲示板には、あまり参加しなくなった。いまの常連にさほどシンパシーを覚えないというのもあるし、もともと狷介で孤独好きなワタシには、個人サイトが性に合っていたのだろう。商用ネットの全盛期、ワタシは電子会議室をホームページ代わりにしていたところがある。ちなみに、「ヒライスト番長」はその当時の記録だ。無論、掲示板には、そこでしか通用しない話題、前後のアーティクルなしには意味をなさない発言も多々あり、あそこに再掲したのはほんの一部でしかないのだが。
 そして、かつての(平井和正)掲示板には「論争」があった。

 ワタシは思うのだが、個人的なおしゃべり掲示板は別として、作家とかジャンルとか、あるテーマを掲げた公的な掲示板において、論争のひとつも起きないようではダメなのではないか。
「荒らし」というのとはもちろん違うが、昔は認識・見解の違いをめぐって、よく議論を戦わせたものだ。『ボヘミアンガラス・ストリート』のクライマックス論争など、いまでは懐かしく思い起こしてしまう。もちろん、論争の渦中にあるときは、相手のわからず屋ぶりに(自分のわからず屋ぶりは棚に上げ)腹を立てたり、癇癪を起こしたりしたものだが、時間が経てば気付いてくる。「あれは、けっこう楽しかった」ということにだ。
 かつてワタシの発言に、いつも辛辣かつ的確な揶揄をしてのけたS氏。彼がいまワタシのサイトをご覧になっていたとして、果たしてどんなコメントを寄こすだろうか。見てみたい気がする。もっとも、ホントウに寄こされたりしたら、旧交を温めるなんてことはなくて、またぞろムカっ腹を立て、クヌヤロウおととい来やがれッ、ということになること受け合いだろうが。
 紳士的な人々は、自分の本音を吐露することで読みびとの気分を害し、掲示板の雰囲気を壊すことを忌避する。その心尽くしは、決して責めるべき筋合いではない。だが、ワタシはこうも思う。仮にも、作家・作品を論じる掲示板で、否定的意見も言えない風通しの悪さは、かえってその場所をつまらなくするだけではないかと。
 楽園には「蛇」が必要なのだ。それは鬼ごっこの鬼であり、ラヴストーリィの恋敵であり、ウルトラマンの怪獣である。苦労なき人生は幸福の砂漠だ。掲示板だって同じことだ。蛇なき楽園は、倦怠と退屈の牢獄である
 平井和正のいまに、何もかも満足ということはあるまい。不満、不服のひとつやふたつ、どんなフェイバリット読者にだってあるはずなのだ。ならば、それは率直に言ったほうがいい。それが掲示板に息吹と活気を与える。悪意に根差した、相手の人格を貶めるための中傷誹謗は不快なだけだが、譲れない想いをめぐって真剣に言い争うのは、決して無駄でも、無益でも、無意味でもない。その逆である。馴れ合いは思い出になどならないが、偽りないぶつかり合いは良き思い出となろう。馴れ合いの相手を尊敬などできないが、しのぎを削り合った相手には尊敬さえ覚えよう。馴れ合いはなんのスキルももたらさないが、論争は当人の言葉力(ことばぢから)をとことん鍛え抜いてくれよう。傷つくことを怖れてはなるまい。そして、傷つけることを怖れてはなるまい。自分の言葉に責任を持つとは、その正しさに責任を負うということであって、読み手の気分にまで責任を負えるものではないからだ。

 もっとも、個人で簡単に掲示板が開設できるいま、わざわざ反感を買ってまで、既成の掲示板に毛色の違う発言をする必然性は、ほとんどない。ワタシの考えなど、結局、パソ通世代の郷愁でしかないのかもしれない。
 あ〜あ、「怪獣」来ねえかなあ。歓迎してあげるからさあ、舌先のスペシウム光線で。

 平井ファンには相当オカシな方がいることは経験上心得ているが、やっぱり現れたか。
 この人物、登場当初より、ミョーに癇に障るもの言いをするので警戒していたのだが、遂にその本性を炸裂あそばされました。最近、公式サイトにできた「近況」コーナーが、お気に召さないのだと。いや、気に入らないと言うなら、それはそれで構わないのだが、「インターネットという公の場には相応しからざる良識を疑う行為」(文脈より要約)と言われては、こちらの眼も点になろうというものだ。

「自分には柔軟な遊び心があるとアピールしたいのかな。 そして、このコメントを「荒し」だと解釈するのかな……」(#372)
「わたしをガチガチ頭の洒落のわからない人間などと決め付け、例のコメントを退けますか」(#392)

 誰もなにも言わない先から、そのような反応を想定すること自体、読み手を見くびった無礼な言い種であるわけだが、こうした言い回しからは、傷つくことを怖れるあまり不必要に攻撃的になる自己愛ヤローの典型を見て取ることができる。荒らしだの、洒落のわからない人間だのとは誰も思わんよ。もっとそれ以前の問題なのだから。
 しかしまー、幾人かのコメントにどう応えるのかと思っていたら、「近況」コーナーを否定する根拠が、平井和正の昔のエッセイとはね〜。溜息が出るのはこっちだよ。それって要するに「ああ、平井和正は変わってしまわれた」という、カビの生えた古株読者の繰り言そのものじゃありませんか。
 17年(#383)も読者をやってて、「幻魔」の昔から「月光」の今日まで付き合っていて、なんで気が付かないかね? 平井和正の心境(ステージ)は、確かに変わったのだということに。ワタシは公式サイトに掲示板ができたことに、本当にビックリした。平井和正本人がお出ましになって二度ビックリだ。それは「近況」コーナー否定の根拠としてあげたエッセイ「“ガチャ文”考」を書いた頃とは、明らかに心境を異にしている証左であろう。
 その心境の変化の顕れとして、「近況」コーナーもまたあるのだ。彼の発言が、おおらかな容認に与っていることもまた、それゆえである。鬼神のごとき気性で“ガチャ文ライター”を斬りまくっていたGENKEN時代なら、平井和正自身の手で血祭りにあげられただろうし、ウルフ会(第二次)時代なら、没にされるか「“ガチャ文”考」のサンプルとして俎上にあげられたことだろう。
 それがいまでは、平井和正をして「皆さん、喧嘩せずに、和をもって尊しとなす、日本の誇る聖徳太子の精神でいきましょう」(ビギナー平井和正掲示板 #124)ときたものだ。我が眼を疑ったのは、むしろこちらであってね(笑)。この境地に至ったからこそ、掲示板もできたのだなと、得心したものだ。
 彼が幻魔やウルフガイは好きだが、近頃の作品はどうも好かんと仰る方なら、すごくわかりやすいのだが、『月光魔術團』はどうやらお好きらしい。やっぱり、いろんな人がいらっしゃるんですね。たやすく類型化はできないということですな。
 さて、ご本人がご覧になっているかもしれませんので、あらかじめお断りしておきます。当拙文の件を掲示板で触れられても、ワタシは(掲示板では)一切お応えしませんので念のため。この一文を当の掲示板ではなく、ココで発表した真意をお察し下さい。反論があれば、メールでお受けします。しかし、「インターネットは公のもの」と仰った貴方のこと。よもや、ご自分の発言がこのような形で取り上げられることに、文句はございますまいな? きはきりんのきさんとやら。

糞労戦線
2000.05.05
 なんでい。問題にしてたのは、《謎の物体UNCO》画像だけかよ。だったら、初めからそう言ってりゃあ、リアクションも違ったものになってただろうに。メジロ画像も、8マン画像もいっしょくたにして、あたかも「近況」コーナー全体を否定するかのような言辞を弄し、あまつさえは参加者をも愚弄した挙げ句、良識に反するなどと言われては、こちらも首を傾げようというものだ。
 表現が未熟というのではない。コヤツ、他の参加者を試しやがったのである。やだねえ。最初から素直に「いかがなものか」と言ってりゃあ、正当性も可愛気もあったものを。文章を多少かじってるヤツって、どうしてこうも度し難いんでしょうね。

 管理人が説明を行い、すでに本人も納得済みの「終わった議題」を、今更のように蒸し返した難癖まがいの彼の発言(#368)に、沈黙をもって応じたBlackmoon氏の態度は賢明だ。ワタシが彼に対して、背中にゾワゾワ感を抱いたのもこの発言からである。
 何名かの心ある人々は、なんとか彼との相互理解を試みたようだが、どうやら徒労に終わりそうである。無理もない。「わたしをガチガチ頭の洒落のわからない人間などと決め付け、例のコメントを退けますか」などと自分に対する決め付けは忌避する(ちなみに、誰ひとり彼にそんなことは言っていない)一方で、他人に対しては《謎の物体UNCO》画像を面白がっているだけで「平井和正信者」などという、失礼千万な決め付けを行う人物なのだ。こんな輩の語る「良識」とやらに、一体どんな説得力があるというんだ?
 悪いが、彼の「“ガチャ文”考」の引用には、さんざ笑かしていただいた。だって、引用文のことごとくが、まさに彼自身のことを言っているんだもん。もうオカしくって、オカしくって。自分で気付かないかなあ? 気付いてりゃ、あんなバカな真似はすまいが。
《謎の物体UNCO》画像が不愉快だと言うなら、それはわかるし同情もできる。だが、そんな個人的感情を「良識」という錦の御旗で正当化する、その姑息さには、唾棄する以外にない。
 さて、問題の《謎の物体UNCO》画像は、果たして良識の範疇を逸脱しているであろうか? NOである。なによりも、あの画像の趣旨は、「わが家で起きたミステリー」の紹介である。平井家で起こった怪事の主体が「ウンコ状の物体」であったに過ぎない。これを非良識的であると言うなら、医学書における糞便の写真も良識に反するということになってしまう。ウンコは確かにバッチイものだが、その画像掲載の正否は、目的に鑑みて判定されるものだ。したがって、
もしも公共の電波を使い、テレビ画面上で糞尿の絵をさらしたならば、世間の顰蹙は免れません。議論の余地はないのです。
とは必ずしも言い切れない。また、
書店で売られている雑誌などの紙面に、糞尿の絵をさらしたならば、どうでしょう。おわかりですか、皆さん。街中にある掲示板、駅などに置いてある掲示板に、平井和正氏が糞尿の絵を大々的に貼り付け、往来をゆく人々からコメントを求めているとしたならば、どうでしょう。
というのは、不適切な喩えである。ハッキリ言えば詭弁だ。作家が自分のサイトで「わが家で起きたミステリー」として《謎の物体UNCO》画像を公開することと、上記の比喩とは、シチュエーションもニュアンスも根底的に異なる。そんなスカトロジックな粗雑な喩え話を引き合いに出されても困るのである。作家が自分のサイトで「わが家で起きたミステリー」として《謎の物体UNCO》画像を公開することの是非は、そのことそのものをもって論ずる以外にないのだ。この手の巧妙な(ワタシに言わせりゃ杜撰だが)論理のすり替えに、騙されてはいけない。
 ワタシを含め、多くの利用者が、あの画像を容認するのは、そうしたトータルなニュアンスをまさに「良識」的に判断しているからにほかならない。ほかの人間がやれば眉を顰めることを「平井和正だから」許容しているわけではないのだ。ゲスの勘繰りは勘弁してもらいたい。
 わかりやすく、好例をお目にかけよう。よろしいか、良識に反する行為とは、こういうことを言うのだよ。

2000/05/05  食事の後に出してください


…てな画像&メッセージに寄せてだな

1.便田糞夫:初めて投稿します。平井先生のウンコが見れるなんてカンゲキ! さっそくパソコンの壁紙にさせていただきます

…なんてコメントがあった日にゃあ、どーぞ、好きなだけ、遠慮なく、情け容赦なく、この平井和正狂信者めッッッ、と罵ってやってくださいな。そうなったらワタクシも、ブックマークから外させていただきますので(爆)。あるいは便田糞夫クン、ひょっとすると、超絶的に高レベルな読者なのかもしれませんが(笑)。
 ついでだが、平井和正本人からの返答がないからといって、逆上するなんざ論外。要するにアンタ、ただの「お子様」じゃーん、と言うしかねえな。だから、相手にもされんのだよ。ワタシも、彼を説諭しようとは思わん。そんなことは徒労で、やるだけ無駄なのだ。彼とはわかり合えない――ワタシの直感はそう告げている。経験則から言えば、その確信に間違いはない。おそらくこの一文は、彼の主張を論破し尽くしているはずだ。それでも、これを読んで彼が納得するはずはあるまい。よって、今回もこちらで言わせていただく。
 ワタシにできるのは、よくいるワカランチンを素材に、一個のエンターテインメントを仕立て上げること、それだけだ。自分で言うのもなんだが、コレはなかなかのデキではないかと思う。>自画自賛 ソフィストに陥ることなく、奴さんのロジックに正面から向き合い、それでいて、こんなに面白おかしい文章なんていうのは、ワタシのような実力乏しい人間には、そうそう書けるものではない。
 この一文を書けただけでも、彼には感謝すべきかもしれませんな。その通りだ。彼は使命を果たした。それは、ワタシのネタとして発言することだったのだ。

P.S.近頃このページ、他の平井和正読者に噛みつくコーナーになってますな。遺憾である(笑)。

『ウルフガイDNA(11) フルメンバー仮面騎士團』購入。
 それにしても、オッソロシく入手困難になってやしねーか? 最近のウルフガイDNA。これまで発売初日には平積みで置いてくれていた近所の書店にはなく、通勤沿線の大型書店をあちこちハシゴした挙げ句、新宿紀伊国屋まで足を運ぶ羽目になった。都内をしてこの有様では、地方は推して知るべしというものだ。
 撤退が決まってる本の発行部数が減らされるのはムリもないが、あまりにもあからさまでイヤ〜ンな感じ。人気作家である平井和正の最新作をしてこの有様、というのが昨今の出版不況の深刻さを物語っている。
 80年代後半、「幻魔大戦」の大アタリに感化された出版界は、こぞって大長編小説を作家に書かせた。ひとり読者を獲得すれば、芋蔓式に何冊も買ってくれる作品が、商売としてオイしかったのだろう。だが、これだけ景気が悪くなると、いよいよ読者のほうも、クソ長ぇ小説を何十冊も買ってられっかということかもしれん。
 しかしながら、こうした事態――人気シリーズが出版社の事情によって続きが出せなくなった、なんてことを耳にする機会は滅多にない。なぜか。
 普通、商業作家なんてものは、どこそこから出すという約束があって初めて、ものを書くからだ。まずは出版社の発注ありきなのである。発表先も決まらない先から、ガンガン書いちゃうのは、アマチュアか言霊使いぐらいだろう。つまり、そういうことじゃねーかと、ワタシは邪推する。
 いろいろ、ありますわな〜。「言霊が去った」わけでもあるまいに、ストーリー中途にして止まったままの大長編シリーズというのが。ひょっとすると、それらがストップしている理由は、作家が「書かない」「書けない」のではなく、「出せない」のかもしれませんよ。そんな怖ろしい憶測が頭をよぎる、メディアワークス「月光魔術團」撤退に思う、でした。

■きりんも啼かずば討たれまいに

 まあ、今回の顛末をひとことで総括するならば、クソ以下のクソ野郎が、なにUNCO画像を問題にしてやがる――と言うに尽きるだろう。
 黙って聞いてりゃ、ひとのアタマを際限(きり)もなく小突き回しやがって、注意したって聞きゃしねーから、しょうがないのでそれでも手加減して顔面ハタいてみりゃあ、てめーのことは棚に上げての逆恨みである。
 自信過剰もあそこまで行くと、狂気と妄執と言うしかないが、そこに被害妄想が加われば、もう怖いもんなしである。まさに神経のMコマンダーと言えよう。
 神経のMコマンダーには、44マグ並みに強力な論理も通じはしないのだが、管理人に眼をつけられれば強制排除はできるのだから、彼はもっと慎重に振る舞うべきだったのだ。というか、ワタシは彼がいったい何がしたかったのか、いまだによくわからない。平井和正が自分の批判に答えなかったというので逆上し、自粛すると言ったかと思えば、管理人によって禁止された話題を再び蒸し返したいと嘆願し、特別にあてがわれた「隔離病棟」で、なにを言うかと思って見てみれば、以前と変わらぬ繰り言のリフレインである。そこでも相変わらずの侮辱的言辞を繰り返し、とうとう出入り禁止を喰らってしまった。
 彼の思考のプロセスのおかしさについてはすでに述べたので、ここでは繰り返さないが、彼の動機については、ケンカを売りまくって、弁舌巧者ぶりを見せつけたかったのか、あるいは本気で読者の妄信的追従を危惧し、苦言を呈したのか、判断をつけかねている。前者にしては、あまりにもお粗末すぎ、後者にしては、あまりにも他人をバカにし過ぎているからだ。まあ、ロジックの破綻した人間に、合理的な筋道など存在しないのだろうが。
 確かに彼の言うとおり、彼は「荒らし」ではなかろう。掲示板を潰して悦に入る、確信犯的テロリストたる「荒らし」なら、もう少し巧妙にやっている。『悪玉扱い』もないものだ。思い上がりもほどほどにするがいい。誰が悪玉扱いなどした? 悪玉ってなー、もっと厄介で油断のならない奴を言うのだよ。君は所詮、頭の悪い程度の低いただの人格欠損者に過ぎない。

■批判に求められる「礼節」とは

 彼の言う『物言いが……云々』とは、誰のどの発言を指しているのだろうか? 彼の「お粗末」さは、こういうところに如実に顕れている。検索してみたところ、「物言い」もしくは「もの言い」を彼の発言を指して使用していたのは、僅かにワタシと馬陵氏のみ。それで『彼等』もないものだが。わかりやすく、引用してみる。
彼等の機嫌をとる目的でない文章に「物言いが……云々」と言われても首肯する理性はありません。
 わかりにくい文面だが、要するに、批判する文章が批判される当事者にとって快いものでないのは当然、それを快くないからといって責められても、首肯できるものではない――と仰りたいようだ。
 ……ったりめえだろうがよ。というより、よくこんな都合のいい読み違いができたものだ。誰に言ったかは存じ上げぬが、ワタシはなにも「言葉遣い」やら「言い回し」を問題にしてるわけじゃございませんのでね〜。ほかの人だって、そうだろう。
 批判と言えど、いや、批判という負の意見表明だからこそ、正確さ厳密さといった、「質」が要求される。「誰かが……というようなことを言ってたけど、私もその通りだと思います」といった、好意的な文章ならある程度許されるいい加減さも、こと批判においては許されない。そういったことも含めて「礼節」なのだ。言い回しが気に入らないなどといった、そんな問題ではない。言い回しだけでいうなら、ワタシの言い回しだって、けっこう「キツイ」だろう。当然だ。仮にもひとりの人間を徹底的に非難しようというのだから。彼にとっても、決して快くはあるまい。だが、自信を持って言うが、礼は失していない。ワタシは批判の対象を明確にし、一字一句違えずに引用したうえで、ものを言っている。これがひと様を批判する「礼」というものである。失礼なもの言いとはなにも、文章が粗野だとか、乱暴だとか、そんなことを言うではない。「てめーの言い種はクソ以下だ」を丁寧に言えばオッケーとか、そういうことではないのだ。
 しかるに、彼の発言は、引用した先の文章ひとつ取ってみても、明らかに「失礼」である。『彼等』とは、誰を指しているのか。『物言いが……云々』とは、具体的にどのような文面なのか。全て引用するには長すぎるなら、それは何番の発言なのか。全てが曖昧不明瞭で、これならいかようにも言い逃れが利く。「あなたのことは言っていない」と。
 ちなみに、『物言いが』で検索すると、ワタシの発言ただ1件しかヒットせず(無論、彼自身の発言は除く)、それも彼とは直接には関わりがない発言である。つまり、彼の言う『物言いが……云々』などという発言は、どこにも存在しないのだ。彼が批判の対象となる発言を確認もせず、漠然とした印象をもとに発言しているのは明白である。こうした杜撰さ、非礼に、ワタシは唾を棄く。こんな手合いに言ってやる科白はひとつしかない。おととい来やがれ、だ。

■坊や、いったい何を教わってきたの

 問題は、瑣末的な作法や、口調ではない。主張の正否さえ、さしたる問題ではない。もっと根元的な、精神、稟性といったものが問われている。管理者から注意を受けているにも関わらず、平然とそれを無視し、従わない理由さえ述べない。そのくせ、自分の問いかけに納得できる反応がないと、答えてない〜答えてない〜とこぼす。実際には、何人のも方が彼の問いに答えている。ところが、的外れな例え話を根拠に『議論の余地はない』と聞く耳を持たない。――話は逸れるが、そもそも例え話を用いなければ、自説を展開できないことそのものが、問題の主体に実は問題など無く、その問題性をダイレクトに説明したのでは、「世間的」コンセンサスが得られないことを、彼自身、心の底ではよくわかっている証左でもある。
 こうなると、彼を満足させるリアクションとは、要するに彼に同意する以外ないのだが、彼はしゃあしゃあとこんな科白を口にするのである。
わたしの考えに到らないところがあるならば、道理を示し、正解を明らかにしてもらいたいのです。わたしは大喜びで飛びつき、正解を受け入れるでしょう。
 さっさと飛びついてくれ。受け入れてくれ(笑)。ここまでくると、失笑を通り越して、爆笑してしまう。爆笑を禁じ得ない、というシャレた言い回しまで発案してしまった。いつか使う日は来るだろうか。あなたの発言には、爆笑を禁じ得ません……そうとう険悪な局面だね、こりゃ。
 真面目な話、こんな手合いが嫌われ、疎んじられるのは、当然すぎる帰結ではないか。平井和正は、こうした潤いを欠いた精神から発する、支離滅裂な悪文、駄文、粗文を、まさにそのガチャガチャした印象から「ガチャ文」と名付け、エッセイ「“ガチャ文”考」において、ファンジン参加者に向け、警鐘を鳴らした。これを収録したエッセイ集「ウルフの神話」(徳間書店)も、書店から消えて久しく、幻のエッセイとなったいまでは、いささかの解説を必要とするだろう。およそのニュアンスは、伝わっているにしても。インターネット時代を迎えたいま、「“ガチャ文”考」に記されたテーマは、より普遍性を増している。
 驚くべきは、彼もまた「“ガチャ文”考」を読み、彼なりに感銘を受けていると思われる点である。いったいどこを読んだのかと訊きたいぐらいだが、ことほどさように、自己を客観視できない御仁もいるということだろう。

■滑稽なり、「ファン」批判

 いまひとつ、看過できないポイントがある。それは彼が彼に対して批判的な向きを、平井和正を擁護するあまり、道理を曲げて強弁していると決めつけて憚らないことだ。彼はそれを『信者』『アイドル視』といった、侮辱的言辞を弄して主張している。その心性の厭らしさを、取り沙汰してみたところで仕方がない。少なくとも、彼はこれによって、大きな墓穴を自ら掘る結果となった。UNCO画像に本心から「義憤」を覚えていたのだとすれば、バカげた戦略ミスというほかない。というより、これによって、彼の「義憤」そのものが疑わしくなってしまうのだ。本性を晒す、とはまさにこのことである。
 だいたい彼の問題提起に対して、きわめて穏便かつ紳士的な皆の態度に接していながら、そんな言葉が出てくること自体、噴飯ものなのだ。もし、彼の言う通りなら、彼はこのように歓迎されたことだろう。

「こいつ、うぜえ」「氏ね」

               ∧ ∧     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
〜′ ̄ ̄(  ゜Д゜)<  逝ってよし
   UU ̄ ̄  U U      \________

…って、こりゃ2chだけですか(笑)。

 ワタシの感慨を申し上げれば、また現れたか…、という苦笑いにも似た思いがあるばかりだ。ご本人はさぞかし自分を平井和正読者の中では特異な存在とお思いらしいが、実際には彼のような人物は「よくいるタイプ」である。ワタシは過去、そんな手合いを何人も見てきた。まあせいぜい、十人に一人の逸材、と言って差し上げるのが関の山だ。
 平井和正読者に限らず、こうした人種は、ある一定のパーセンテージで存在する。ヒートアップしている人々の間にあえて割り込み、笑っちゃうねと水を注す輩が。本人はそれをクールでイケてると思ってるらしいのだが、それこそ笑っちゃうねとワタシは言おう。ワタシにも身に覚えがあるが、そんなのは青少年期のつまらぬ倨傲でしかない。何者をも愛さず、ゆえに何者にも左右されないことにプライドを持つなんていうのは。いい加減、酸いも甘いも噛み分けた、いい歳をしたアダルトなら、そんな幼稚なステージは卒業してもらいたいものだ。彼の年齢は存じませぬが。
 堂々と言ってしまうが、ワタシは平井和正信者である。いや、正確に言えば、信者どころか、ワタシは教祖だ。平井和正教エンターテイメント宗カナメ派の教祖なのだ。信者の数は知らんが。ついでに言うと、フィロソフィー宗の連中とは、少々折り合いが悪い(笑)のだが、そんなことはどうでもいい。
 多分に誤解されていると思うのだが、信者であったり、アイドル視する、そのことそのものは、決して忌むべきことではない。問題は、盲目的になり、道理を見失ってしまうことであって、信奉・崇拝、それ自体ではない。信奉・崇拝にも、自ずと貴賤はある――というより、盲目的になり、道理を見失う主たる原因は、むしろ個人の資質にある。他人の熱烈な信奉・崇拝を蔑み、冷静で理性的であると自分では思っている彼が、誰よりも盲目的で、道理がわからないことにも、そのことがよく証明されている。ところで、こう言ってしまうと、『信者』『アイドル視』といった言葉も、侮辱には当たらないのではないかという意見もあるかもしれないが、それを「盲目的」「道理を見失う」と同義で語るとき、それは明かな侮辱となる。まあ、当サイトの読者には、無用のフォローでしょうが。
アイドル視する小説家をめくらめっぽー支持してえ、ってえ欲望が強いうちはまともな議論になるわけぁーねえわな。
 我々は別に書評家の集団ではありませんのでね〜。平井和正に熱い思い入れを持っているからこそ、平井和正掲示板にアクセスしているのであって、その立場をもって『まともな議論になるわけぁーねえ』と言うなら、よそへ行ってくれと言うしかない。特定の作家・作品に肩入れせず、冷静かつニュートラルな論評を下す、そんな掲示板にな。
 それにしても、「最近のウルフガイファンは熱くなり過ぎです」と語った読者が、「熱くなってるからこそウルフ会に入っているのに…」と、当の「“ガチャ文”考」でも指弾されてるんだけどな〜。いやホント、いったいどこを読んでたんだろう。

■動機を問うな、結果を見よ

 平井和正をリスペクトしたい! ワタシはそこに、モーレツな動機、リビドーがある。だが、原動力がそれだからというので、偏った礼賛しかできないのだと言われるような、そんなヤワなシロモノは書いていないつもりだ。動機なんて、どうだっていいはずだ。結果として、見る者を唸らせるものを創出すればいいのだ。
 議論だってそうだ。明快な論理をもって、論敵の主張を覆す力のない人間に限って、「○○信者(○○主義者でもよい)だから、そんなことを言うのだ」などと言ったりする。ワタシには、それが自ら己れのバカを晒す、愚かしい失言に思えてならない。相手の理解力は、この際問題ではない。真に正しいことを主張していれば、理性ある第三者には、必ず通じるものだからだ。
 そう。バトルとは、相手に納得していただくためにやるのではない。相手がワカランチンなのは百も承知。そのうえで、ギャラリーを湧かせ喝采を得る、エンターテインメントの一手段としてワタシは罵倒る。
 彼がこのページを読んでくれることを期待はしないし、読んでくれたとして、わかってもらえるとも思わない。公式掲示板に疾手のように現れ、疾手のように強制退去させられた、彼こときりん君の行状を通じて、ガチャ文とはなにか、言葉を発する者の礼儀とはなにかについて、ワタシの思うところを綴ってみたまでだ。これもまた、私憤を動機にして、エンターテイメントを創出した一例だと言っては、自画自賛かもしれませんが。
「隔離病棟」こと臨時掲示板もいまはなく、ことの仔細を知るすべはない。しかし、この一件を御存知ない方にも、拙文「ま、「いつものこと」なんだけどね」「糞労戦線」と併せてお読みいただければ、アウトラインは掴んでいただけるだろう。
 文章書きとしては短距離走者のワタシが、ずいぶん長々と書いたものだ。これにて本稿「“ガチャ文”考DNA」の筆を置くことにする。二度ときりん君に触れることはあるまい。彼が再び、ワタシの視界に入らない限り。

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