メガロポリスの
サノファビッチ
LAST UPDATE 2003.12.27

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 平井和正の言葉や作品は、もはやワタシの「身体の一部」のようなものだ。無論、身体の一部だからといって、鏡に映してウットリと見とれるほど、無条件にお気に入りというわけでもない。むしろ、気に入らないところだらけ、といってもいい。でも、身体の一部なのだ。幸か不幸か。
 平井和正は多感な少年期に絶大な影響を及ぼした作家だ。ワタシは平井和正に痺れ、憧れ、そして、平井和正になろうとした。「羊どもの法律に虎が従えるものか」(悪霊の女王)と言い放つ、平井和正にである。その点で、ワタシはワナビーだ。結果、いまのワタシがある。皮肉なことに、それによってワタシは、決して平井和正の忠義の読者とは言えなくなってしまった。虎は、他の虎に仕えたりしないからだ。
 狷介孤高で気難しく、貴方のことが好きで集まったファンクラブに「不浄物やら糞便並みのガチャ文で汚染された紙面を、またしても読まされるのは願い下げにしたい」(夜にかかる虹・下巻収載)なんてメッセージを寄越す。なんちゅう怖いお人やと散々トラウマを植えつけられ、またそこに心酔してもいたワタシにすれば、昨今のフレンドリーで柔和に見える平井和正には、戸惑いを覚えもする。あくまで、そう見えるだけなんだろうが。
 といって、そこでワタシの愛した平井和正はもういないなどと嘆いてみせ、ついでに生頼範義のイラストを懐かしがって訣別するほど、ワタシの業は生易しい代物ではない。だから、昔ほど平井和正を語ることをしなくなっても、リニューアルなんぞ、ついしてみたくなるわけである。
 ワタシは幻魔大戦から入ったワリに、アナクロちックな読者であろうと思う。生々しくもドライな、初期作品的作風が大好きなのだ。そんなワタシの好みが、ページタイトルに反映されている。いちいち解説はしない。新しい読者の皆さんも、いずれ『メガロポリスの虎』や『虎はねむらない』に遭遇する日が訪れるだろう。そのときに、ああなるほどと思っていただければよい。
 あらためて、全コンテンツのインデックスを設け、回顧してみれば、ずいぶんと長いこと、平井和正を語り倒してきたものだと思う。しかし、2002年度の更新は、とうとうH.K ヒストリーだけになってしまった。開幕早々言うことではないが、今後どうなるかは、ワタシにもわからない。なにしろ身体の一部であるから、お付き合いは続けることになるのだろうが、それがサイト運営に結びつくのか、またそれがリスペクトなのかは定かでない。
 ひとは誰も、他人の期待通りにはならない。平井和正がそうだし、ワタシもそうだ。ワタシに昔のように、平井和正を語って欲しいと期待する向きがいるのは知っている。しかし、ワタシもペーパー同人誌時代から十数年間、平井和正を語り続けてきて、平井ファン相手に平井和正を語ることに、いい加減倦んでしまった。そんな境地に至ったといっても罰は当たるまい。ワタシをウォッチし続けるつもりなら、諦めてフォルダー5に注目してほしい。
 ワタシはそんな、エゴイスティックな己れの性を熟知している。だからこそ、エゴイスティックに我が道を往く平井和正にも、好みでないならないで、時に酷評もするが、同時に赦してもいるのである。好きな仕事をしていい、好きなことを言っていい。そのかわり、ワタシも好きなように論評させてもらう。
 そんなワタシのスタイルは、決して作家平井和正のお好みではあるまい。別に構わない。ワタシは平井和正と彼の仕事をひたすら愛しているのであって、平井和正に愛されるのが目的ではないからだ。遠い昔の遠藤ミチロウのエッセイ集のタイトルに、アレンジを加えた(パクッたともいう)この言葉で、締め括りとしたい。
 どんなに憎まれたって、愛してやるさ。

2003.3.6 一部訂正

 SFマガジンなどチェックもしなくなって久しいのだが、今月号は書評で『インフィニティー・ブルー』が酷評されていると、2ちゃんねるで情報があったので、書店で手に取ってみた。
 風野春樹という評者の名前に覚えがあると思ったら、この方ではありませんか。これは立ち読みで済ますわけにはいかん。買わせてもらいましたよ。
彼はまさに「信頼できない語り手」であり、物語の全てが主人公の妄想なのではないかとすら思えてくるくらい。 まとまりなく、冗長で、首尾一貫しておらず、しかし何とも言えぬ異様な迫力のある熱病病みの夢のような小説である。ただし、作者のファンでない一般読者にはあまりお薦めしません。
 そりゃあ彼なら、こう言うだろうねえ(笑)。風野氏の書評には、自分が読んだ小説に関して共感するものが少なくないし、ゆえに未読の小説のそれにも信頼を寄せている。ただ、近年の平井和正の基調とする小説を読んだとしたら、その評価の程は推して知るべしだろうとは思っていた。それが証拠に、というわけではないが、彼のサイトの膨大な書評の山に、平井和正の小説は僅かに『美女の青い影』だけである。思えば、ワタシがこのサイトを読むようになったきっかけが、検索で見つけたこの書評だった。
主人公の中学生は、隣の洋館に住む美女に出会った瞬間から、彼女への理屈抜きの盲愛に取り憑かれてしまい、しだいに小説全体がそれ一色に覆い尽くされてしまうのである。おいおい、そんなジュヴナイルがどこにある。(略)この主人公の行動は、まさに「取り憑かれた」人間のもの。ガールフレンドへの仕打ちや従兄への態度など、どう考えても理不尽である。その理不尽さときたら、読んでいくうちにだんだんと主人公=語り手の記述の客観性が信頼できなくなっていくほど。
 主人公に対して「引いて」いながら、物語はおろか、作家の持ち味まで洞察してしまうところ、ワタシは感心してしまう。
 ハッキリ酷評と言ってもよい『インフィニティー・ブルー』の書評にしても、その洞察力は遺憾なく発揮されている。「何とも言えぬ異様な迫力のある熱病病みの夢のような小説」なんて、まさにいま現在の平井和正テイストの理解者・支持者にとっては、誉め言葉のようなもんであろう。ただ、風野氏にとっては、そのテイストは嗜好・理解の外、というだけで。
 もし平井和正ご本人が、この書評を見たら、どう思うだろうか。ワタシなら激怒するよりは、ニンマリと北叟笑むほうに賭ける。読者が戸惑い、首を傾げる小説を書くことに、平井和正は愉快犯なのだと思う。怒っている諸君、ヤツの思うツボだ。

『美女の青い影』もそうだが、かつて平井和正は『超革命的中学生集団』という、体裁はジュヴナイルだが、中身は毒たっぷりのとんでもない「少年向け」小説を書いたものだ。(超革中は「中一時代」に連載された!) 同様に、『月光魔術團』や『インフィニティー・ブルー』は、見てくれはキャラ萌えライトノベルだが、その中身は言わば“呪術小説”である。
 その現在の平井和正の持ち味について、かろうじて理解はしているつもりだ。しかしワタシも、昔ほど良き理解者・支持者ではなくなってきている。インブルへの複雑な想いは、回線本屋に書いた通りだ。
 長い間、去って往く読者を見ては、「明日は我が身」と思っていたが、いよいよワタシにもお迎えが来たか?(笑) いいんだ。寂しくなんてないさ。AKINAチャンさえいれば。

 ワタシもまた、この書評に不思議と腹は立たない。それは、この書評にちょっと共感してたりとか、個人的に風野氏の文筆が好きだったりすることもあるのだが、それよりなにより、SFマガジンで平井和正を取り上げるという快挙(暴挙?)をやってくれたことそのものが、ワタシは嬉しいッ。
 さすが、奥様がヒライストだけのことはある。かなうものなら、奥様がどう思ってるのかお聞きしたいものですね。インブルを。

俺、最近、丸くなったって言われるんだよねえ。(ザメディ・ボール)



 論争をやれば必ず勝つ。だって不利になればサイトをさっさと閉めてしまえるもん。一読者は作家と喧嘩しないほうがよい。

 情けない。としか、言いようがない。論争で不利になってサイトを閉じておいて、それで「勝った」と思えるのなら好きにすればいいが、それを見た人々はそうは思うまい。物笑いの種だ。これを実行すればではなく、こんなことを言っていることがだ。

 議論で相手の言い分がより正しいと判断したのなら、それを認めればよかろう。つまらぬ意地や、安いプライドを懸けたりするから、議論に「勝ち負け」が生まれ、「喧嘩」になるのである。

 物笑いと言ったが、ワタシ自身は笑いのめす気はない。二十年間ファンを続けてきた情は、そう簡単に絶える代物ではないからだ。ワタシは、ただただ情けなく思う。
 ワタシにとり平井和正は、最高に面白い小説を書くエンターティナーであると同時に、エッセイ等から伺える人生観や、辿ってきた半生は、人間としてヒーローだった。しかし、そろそろ認めるべき時機が訪れたようだ。エンターテイメントとしての作品の質は別問題としても、ヒーロー・平井和正は、ワタシの裡で失墜してしまったことを。

 それでも、ワタシはこれからも彼を見守り続けるだろう。これは平井和正のマインドの「一時的な故障」であって、そこから脱する日もいつか来るのではないか。そんな、はかない希みを抱きながら。それから、「卒業」のお祝いはご遠慮申し上げます(笑)。

「おめーも変わったな、ジョー‥‥」
 空港で来日したハリマオにのされ、そのことを派手に書き立てた新聞に毒づく矢吹 丈にむかって、丹下段平は冷ややかに言ってのける。
「なぜ、新聞なんぞより、当面の相手であるハリマオとやらに、その怒りをぶつけねえんだ。おめえの大切な、男としての体面そのものよりも、なぜ、世間体のほうばかり気にする‥‥?」
「なんもかんも以前のジョーとは逆――さかさまだぜ。そもそもの発想ってやつがよ!」


「ヒライスト」という言葉を取っ払い、「メガロポリスのサノファビッチ」という、まさにクラシカル・コンサバティヴ(伝統的保守派)なタイトルにリニューアルした2003年度は、巻頭の「開幕の辞」が、その後を暗示する一年となった。
 かれこれ二十年以上読者を続けてきて、今年ほど平井和正の言動に、異和感・不審感を抱いた年はなかった。人づての情報を鵜呑みにし、他人を「人格欠損者」呼ばわりした挙げ句、疑問視する意見に対して「議論する気は毛頭ない」と取り合わない。匿名を批判する一方で、きわめて匿名の疑いが濃い、礼儀知らずの発言者肩を持つ。そのうえ、突如結成された管理人会約二十名という人数以外、構成員等、一切未公表)とやらにも、無記名の発言を黙認ないし容認している。
 いったいぜんたい、どうしたっていうんだ? そう首を傾げるほかはない。

 もちろん、この程度のことで信者からアンチに鞍替えするほど、単細胞ではない。ワタシの心境を端的に言い表すとすれば、冒頭に記した『あしたのジョー』の段平オヤジの科白そのままだ。憎いわけじゃない。敵に回ったわけでもない。だが、醜態はあくまでも醜態だ。そのことは、遠慮なくそう言わせていただく。ワタシは多少声はデカいかもしれないが、平井和正の身内でも担当編集者でもなく、一介の読者風情でしかないのだから。
 その立場に立った上で、これからも素晴らしい作品、痺れるような立ち居振る舞いに対しては、これまでと変わりない、惜しみない称讃を捧げるだろう。ワタシをそうさせる、平井和正であってほしい。そう願わずにはいられない。

 作品と作者の人格とは無関係ではない。作家は人格者たれ、そんなバカなことは言わない。だが、作者のスピリットは、自ずと作品に顕れる。物語は、読者も選ぶが、その前に作者を選ぶ。ワタシは自ら小説を書いた経験から、そう信じている。
「論争をやれば必ず勝つ。だって不利になればサイトをさっさと閉めてしまえるもん」などと口走る精神状態で書く小説が、読む者の魂を揺さぶりうるだろうか。少なくとも、そんな科白は死んでも口にすまいと思うワタシに対しては、望み薄であろう。もっとも、それはワタシとは違うタイプの読者のハートを捕らえたりするのかもしれない。そんなことは知らんし、どうでもいい。
 もし、(少なくともワタシにとっては)好ましからざる平井和正の変化が、不可逆的なものであったとすれば――。あまり考えたくはないが、それを思うたび、このフレーズが頭をよぎるのである。

 やっぱり、「お迎えが来た」のかなー、と。

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