ネ,ネ,ネルフの大爆笑 〜新世紀エヴァンゲリオンの頁〜
ネ,ネ,ネルフの大
Red-robin's NEON GENESIS EVANGELION
LAST UPDATE 2003.2.22


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CONTENTS
江婆
見えざる敵
炊飯器エヴァンゲリオン
古き良きアニメの復権
説明?
せめてロボットアニメらしく(笑)
平凡な受け手の逆説
ただいま対立モード
ただいま対立モード(DEATH AND REBIRTH)
ただいま対立モード(Air/まごころを君に)
説明?再び
少年は神話になれるか
緒方邦彦著『くたばれ!エヴァンゲリオン』にドアホ
ドゲりおん のび太の人類補完計画
愛するエヴァンゲリオンへのふざけた弔辞



1996.05.23 初出:NIFTY-Serve
エヴァネタ 其之壱 スラダン風エヴァ
(主人公のウジウジ性格が我慢ならぬ貴兄に)

「汎用ヒト型決戦兵器はお好きですか?」
「はいっ。サードチルドレンですからっ」

「やはり通常兵器では使徒には歯が立たないようですねぇ」
「だから言ったろ、オヤジ。オレを出さねえからだ」(たぷたぷたぷたぷ)
「ほっほっほ。エヴァ初号機、出撃ですぅ」
「ナッハッハッ、地球の平和はオレに任せろっ。これで使徒達(おめーら)、もう負け決定!!」

エヴァネタ 其之弐 サザエさん風エヴァ次回予告
(これを考えたのは私だけではない筈……)

「さぁて、来週のエヴァンゲリオンは」
「シンジです。毎日毎日エヴァの操縦で、もううんざりです。みんな僕のことをネクラだとか、憶病とか言うけど、実際に怖い思いをしたことがないからそんなことが言えるんだ。次回予告? いいじゃないですか、そんなこと。どうせ録画するんでしょ」
「では来週も、サービスしちゃわよン。ふンが、ふンぐ」

「さぁて、来週のエヴァンゲリオンは」
「冬月です。碇のやつめ、面倒なことは全部私に押しつけおって。ワガママな上司はもちたくないものですね。さて、次回のエヴァンゲリオンは、「飲み会は嫌いです」「身元引き受けにご用心」「ミイラ取りがミイラに」の3本です」
「では来週も、サービスサービスぅ。ふンが、ふンぐ」

また来襲

CONTENTS

見えざる
1996.05.26 初出:NIFTY-Serve
 にしても、「エヴァ」はオモシレえよなあ。ヲタクのツボを押さえてるっつーか。なんといっても、敵である「使徒」が何考えてんだか解らない、というのがいいね。不気味でスリリングだ。わからない、というのは、おそらく恐怖の源泉なのだろう。栗本薫の『魔界水滸伝』において、クトゥルーの姿が次第に白日のもとに晒されるに従って、恐怖感を失っていったのは興味深い。
 敵、味方、双方の視点を導入した物語は多いが、これはドラマを最もつまらなくする要因かもしれない。佐々木さんには申し訳ないけど、『エルドラド』を読んでそう思った。やはり、『ボヘミアンガラス・ストリート』における、あの“白いソアラ”のゾワワっとする感覚。あれが最高なのよ。

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器エヴァンゲリオン
1996.05.26 初出:NIFTY-Serve
 もう。そんなこと言われたら、また血が疼くじゃないか(笑)。

「父さんはこれで僕にご飯を炊けって言うの?」
「そうだ」
「無理だよ、そんなの。見たことも聞いたこともないのに。できるわけないよっ」
「説明を受けろ」
「そんなあ、できっこないよぉ。こんなの炊けるわけないよっ」
「炊くなら早くしろ。でなければ帰れ!」

 うーん、シュールだ。原子力炊飯器と同じくらい物騒だゼ。

A10神経でシンクロする炊飯器、というジョークを受けて書いたもの。この頃から「エヴァ」にハマりだしている。

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古き良きアニメの
1996.07.03 初出:NIFTY-Serve
 デラべっぴんのかわいさとみの懐かしのおヌードを拝見し、感涙にむせんでおります(笑)。いや、しかし、この娘がアダルトビデオで出て来たときは、ホント驚天動地の大騒ぎでね。宮沢りえの「サンタフェ」なんて問題じゃなかった。
 で、そういう話題じゃなくて、エヴァンゲリオンなのだ。記事を見て驚いたんだけど、エヴァにガンダムを見ているひとって、結構多いらしい。確かに、人間ドラマなどは、それっぽいところはある。が、殊、ロボットアニメとしての様式に関する限り、私はエヴァをガンダムへのアンチテーゼだと思っている。エヴァは、マジンガーZや宇宙戦艦ヤマトのような、古き良きアニメの復権だと思えるからだ。
 カンダムによって、ロボットアニメは良くも悪くも「近代化」した。それまでの、地球征服を目論む悪の宇宙人の魔の手から、博士の開発したロボットを駆り地球の平和を守る、というパターンは、古臭いお子様向けとして嘲笑されるようになった。ヤマトが馬鹿にされるようになったのも、ガンダムが現れたからだ。
 エヴァって、斬新なようでいて、すごく古典的なんだ。基地から発進するところといい、敵が決まって基地を襲うところといい。懐かしのマジンガーZのパターンである。そこに古さを感じさせないのは、制作者の頭脳の勝利だ。
 ガンダム以降、絶えて無かった、たったひとりの少年(と一体のロボット)が地球の平和を守る、という壮大にしてシンプルなロマンティシズム。それはガンダム以降の、「戦争」をリアルに描くあまりに、主役がその一兵卒に過ぎなくなってしまった近代ロボットアニメに対する皮肉であり、そして、挑戦状でもあるのだ。

言うまでもなく、これを書いた時は、テレビシリーズ全話をまだ見終わっていない。「エヴァンゲリオン」のアニメファン受けする「陽」の部分しか捉えていないことがよくわかる。「デラべっぴん」云々…というのは、同誌でエヴァの特集が組まれたことを受けてのもの。極めて異例の事態だが、そういう時代だったのである。

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1996.07.05 初出:NIFTY-Serve
 碇司令、視聴者に向けた最後のメッセージ。
「諸君はわたしに“説明”を求めているであろう……。
 だが――“説明”はないのだ」

 謎は必ず明かさねばならないのだろうか。伏線は必ず生かさねばならないのだろうか。未完成である、というそれだけの理由で、それまで夢中になった過程の面白ささえ、否定されねばならないのだろうか。
 エヴァの問題のラストについては、TV放映を観ていないため、大まかなアウトラインしか知らないが、多くの視聴者のブーイングを耳にするにつけ、私自身との感覚の違いを痛感せずにはいられない。
「ボヘミアン」や「犬神 明」でも、同様の物議をかもしたが、完成度って、そんなに大事なもんなのかしら?

人類補完計画、使徒、死海文書、ロンギヌスの槍……それら謎めいたキーワードの数々が「エヴァンゲリオン」の作品世界を深みのあるものにしている。その深みを味わうだけで充分だ、とオレは思っている。プロットを組んだ時点で、答が用意されているなら、それは出せばよい。だが、作者にも答が見えていないのなら、わざわざ無理にひねり出す必要はない。陳腐な謎解きは、かえって味わった深みさえ、台無しにしかねないからだ。

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めてロボットアニメらしく(笑)
1996.08.11 初出:NIFTY-Serve
『新世紀エヴァンゲリオン』をたったいま観終えたところだ。
 第拾伍話以降を一気にビデオで観たのだ。観た人は知っているだろうが、「エヴァ」は第拾四話以降、物語の様相を一変させる。それはまるで、『幻魔大戦』の4巻以降、『黄金の少女』以降のウルフガイのように。

 平井ファンだからか、こういうことには慣れている(笑)。というか、アスカが登場してからのアクション主体のエピソードが、そうそういつまでも続かないであろうことは、容易に想像できた。あれだけ敵である「使徒」の形態と、その撃退法を変えていけば、いつかは行き詰まってしまうだろう。
 日本人は、概してマンネリが好みである。「男はつらいよ」をいつまでも続け、結局、主演俳優の死によってしか幕引きができなかったのも、「セーラームーン」が相も変わらず同じことを繰り返すのもそのためだ。「エヴァ」のスタッフに商売っ気があれば、もっとパターン化したエピソードを量産しただろう。その方が楽だし、観る側も喜ぶ。しかし、彼らはそうしなかった。逆説的に言えば、そんな彼らだからこそ、あれだけクオリティの高い仕事ができたのかもしれない。
 平井和正もそうだが、絶大な人気を得た作家・作品が、得てして受け手を裏切るのは、そうした理由からだ、と私は考えている。超一流の創造者は、繰り返しを好まないのだ。二流三流の創り手だけが、評判の作りを繰り返す。

 問題のラスト2話については、特に文句をつけたいとも思わない(まあ、あの「演出」について、言語道断の手抜きと言うか、アニメ史に残る画期的な試みと言うかは、意見の分かれるところでしょうが(笑))。それを言うなら、第拾四話以降の展開自体を見直さねばなるまい。物語の終着点が、シンジの「心の補完」に行き着くことは、拾四話のレイのインナースペースのシーンが描かれた時点で既に明白だからだ。
 物語の主題は、あくまでもシンジの心の補完である。そう考えれば、むしろ、アクション編の方が「らしくない」エピソードであることに気付く。『幻魔大戦』の1〜3巻である。掴みはオッケー、でしかないのだ(笑)。
 心の補完。それは別段特別なものではなく、誰しもが多少なりとも抱える人生の課題である。そう、別にロボットアニメでなくても良かったのだ。親には誉められたい、でも、勉強は辛くて苦しい。そんなごく普通の少年の物語であっても、全く差し支えはなかった筈だ。なぜ、ロボットアニメであったかと言えば、それが作者の伝えたい者に伝える、最も有効な手段だったからではないのか。
 だが、そうした手段としてのロボットアニメが、ロボットアニメであることを自己目的化した作品に比ぶるべくもなく最高であることが、「エヴァンゲリオン」という作品の評価をややこしいものにしている。

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な受け手の逆説
1996.08.12 初出:NIFTY-Serve
 もし、ウルフガイの作者が平井和正でなければ、ウルフガイはもっと完成度の高い、文句のつけようない作品に仕上がっただろうか? そんなことを考えることは無意味だし、平井和正以外にあれほどの物語を綴れる者はいないだろう。

 庵野秀明という男が「エヴァンゲリオン」の監督であったことは、多くのアニメファンにとっての不幸だったに違いない。だが、庵野秀明でなければ、「エヴァンゲリオン」もまた存在し得なかったことも、また確かなのだ。
 今後、エンターティンメントに徹した「エヴァンゲリオン」とも言うべき位置づけの作品が次々と作られていくのだろうが、おそらく「エヴァ」を超えることはないだろう。凡庸なクリエイターは受け手を裏切ることをしないが、同時にさしたる感動も与えないからだ。天才は違う。天才は凡人を熱狂させ、そして時として、凡人の理解を絶する表現を為す。

 その「エヴァ」をリメイクするという。果たして、私の眼前に現れるのは、可もなく不可もないフツウのアニメなのか、それとも、非の打ち所のないパーペキな「エヴァ」なのか。

かくして、ワタシの眼前に現れたのは、まさしく天才の作品だった。そしてワタシは、その天才の感性の前に置き去りにされたのだった(笑)。

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ただいま立モード
1996.08.16 初出:NIFTY-Serve
KANAMEシステムは、3台の人工無能による協議システムである。
今回の命題は、「これで良いのかエヴァンゲリオン」。はりきってどうぞ。

カナメ・バルタザール(以下、<バ>)「ずいぶんとまあ、曖昧な命題が与えられたもんだな」
カナメ・メルキオール(以下、<メ>)「トリオ漫才じゃあるまいし、「はりきってどうぞ」はないよなあ」
カナメ・カスパー(以下、<カ>)「めんど臭えし、「これで良い」って回答しとくか」
<メ>「いや、一応我々はコンピュータだし……」
<バ>「良いか悪いかと言えば、良くはないだろう。肝心のクライマックスで、あまりにも不評を買い過ぎた」
<カ>「「幻魔大戦」な内容についていけなかっただけだろ。レベルが低いのよ。アニメファンも、結局その程度だったってことだわな」
<バ>「あれだけ良く出来たロボットアニメで精神訓話を垂れたら誰だって怒る」
<カ>「庵野がそいつをやりたかったんだから、しょうがねーじゃねーか。気に入らない奴はそっぽを向く。それだけの話よ」
<バ>「自分の欲求で大勢のファンを裏切るのは、プロのやることじゃない」
<カ>「プロってのは、それで飯が食えりゃプロなんよ。絶賛されようが、顰蹙を買おうが(笑)。それにプロとアマの差は、数じゃない。百万のバカに受けるのと、千の鋭敏な人間に評価されるのと、どちらがプロとして、より優秀かってことだ」
<メ>「しかし、心の問題をメインテーマとするなら、ロボットアニメではなく、もっと現実的なシチュエーションのドラマを作るべきだったのでは」
<カ>「そんなの誰が観るんだよ。それ以前に企画が通らねーわな」
<メ>「つまり、ロボットアニメとしての設定は、より多くの視聴者を得るためのだと?」
<カ>「ロボットアニメなんかを観るような連中こそ、庵野監督の最も訴えたい対象ではあっただろうな。もっとも、訴えたところで、彼らが生き方を改めるとも思えんのだけど」
<バ>「ロボットアニメでお説教されては堪らない。反発を喰らうのは当然だ」
<カ>「本当なら『中学生日記』とかでやるべきテーマなんだよ(笑)。確かにね。でも、それをテレ東のロボットアニメでやっちまったてのが痛快じゃないか。アニメがここまで進んでるってことをアニメファンは誇りに思うべきだよ」
<バ>「伏線を引くだけ引いて、何も解き明かさずに終わるのは論外だ」
<カ>「制作者だって考えてないんだろ。謎解きにやっきになっている奴もいるけど、徒労なんじゃないの。だいたい、辻褄の合わないキーワードの羅列かもしれないんだし」
<メ>「そうだとしたら無責任だ」
<カ>「それでみんな夢中になったんだろが。それとも何か、すっきりして解りやすい代わりに、ちっとも夢中になれないストーリーの方が良かったか?」
<メ>「解答はそもそも用意されていないと?」
<カ>「答があれば、本放送の中で謎解きをやったろうよ。それとも、あれかな。リメイク版のために温存してんのかなー。だとしたら、相当なワルだぜ(笑)。TV放送で大騒ぎさせて注目を集めて、ビデオと映画で大儲けか。飛ばされたテレ東のプロデューサーこそ、いい面の皮だよ」
<バ>「(KANAMEシステムを)作った人間の性格が伺えるコメントだよ」

☆結論.2:1で「エヴァンゲリオンはこれでは良くない」で可決

江婆野健三

CONTENTS

KANAMEシステムは、3台の人工無能による協議システムである。
今回の命題は、「どうするどうなるエヴァンゲリオン」。はりきってどうぞ。

<バ>「とりあえず、リメイク版と映画に期待ってとこだな」
<カ>「こうなると、TV放送も長い宣伝みたいなもんだな。OVAじゃ、どんなにいいもん作っても、あそこまでは売れんもんな」
<メ>「映画は角川の配給になるんだろうか」
<カ>「となると、監督はりんたろうか?(笑)」
<バ>「愛と勇気と冒険の「エヴァンゲリオン」。観たくねぇぇ」
<カ>「キャクターデザインは大友克洋。悪夢よもう一度だな(笑)」

江婆野健三

CONTENTS

ただいま対立モード(Air/まごころをに)
1996.12.29  初出:「Angel Passed Children」
 KANAMEシステムは、3台の人工無能による協議システムである。今回は『新世紀エヴァンゲリオン』の内容の是非について協議していただきます。張り切ってどうぞ。

KANAME・B(本質追究ヲタクとしての私)

 最初に言っておく。ラスト二話こそ、「エヴァ」の本質である。あれこそが、監督・庵野秀明の本当にやりたかったことなのだ。「ぼくはここにいていいんだ!」。そのシンジの叫びこそ、庵野秀明自身が探し求めた、己れの人生に対する解答ではなかったか。庵野はおそらく、自分の見い出した答を多くの自分と同じ様な人々に見せたかったのだ。そのためにこそ、第壱話という極上の“エサ”が用意されたのだということに、ちゃぶ台をひっくり返した人々は気付くべきである。『幻魔大戦』(全20巻/平井和正)という小説を読んだ人なら解るだろうが、「エヴァ」の壱話から弐拾四話までは、いわば『幻魔大戦』の1〜3巻なのである。「幻魔」と「エヴァ」の違いは、“エサ”と“本質”の比率の違いである。その、あまりと言えばあまりの“エサ”のウェイトとゴージャスさが、「エヴァンゲリオン」という作品の本質を多くの人々に見誤らせたのだ。

《解答:是》

KANAME・M(アニメヲタクとしての私)

「エヴァ」はある意味で、ロボットアニメの先祖帰りとも言える作品である。毎度、基地を襲う敵を出撃しては倒す、これは『マジンガーZ』以降、綿々と続いたロボットアニメの黄金パターンである。このパターンを陳腐なものにしたのは、近代ロボットアニメの祖『機動戦士ガンダム』だろう。「ガンダム」の出現は、ロボットアニメに過剰なリアリズムを要求するようになった。敵は地球侵略をもくろむ異星人から同じ地球人に。ヒーローは地球を守る救世主から戦争における一兵卒となった。そのリアリズムの追求が、同時にロマンティシズムの喪失を招いたことは否めない。「エヴァ」が特異なのは、敵が毎回同じ基地を、なぜか一機ずつしか襲撃をしないというナンセンスを設定の妙によって解消した点である。使徒が決まって一匹(?)ずつ現れるのも、決まって第3新東京市を襲うのも、ストーリー上の必然であって、それをナンセンスだと笑う者はいない。
 古き良きロボットアニメに、リアリズムが加味される。これは無敵である。だが、この斬新にして古典的なロボットアニメには、ある構造的な弱点があった。それは使徒と呼ばれる敵が組織だったものではないために(それが一匹ずつ現れることの必然性にもなった訳だが)、敵の大ボスを倒すという通常のクライマックスが有り得ないことだ。
「エヴァ」TV放映においては、このクライマックスを人類補完計画の発動によるシンジの心の救済の過程を描くことに充てた。戦いを描いてなんぼのロボットアニメにあって、これは明らかにタブーを犯したと言える。だが、無理もない選択と言えなくもない。戦いを描こうにも、戦うべき敵はもはや存在しないのだから。

《解答:保留》

KANAME・C(人間ドラマヲタクとしての私)

「エヴァ」のクライマックスをシンジの心の成長で飾ったのは正しい。だが、その方法論については疑問が残る。己れのあるべき姿についての答が、あのような他力本願な形で与えられて、果たしてよかったのか。そもそも、人類補完計画そのものを肯定してよいのか。
 断じて、否である。人類補完計画なる忌まわしい企みは、叩き潰さなければならなかった。それこそが、シンジの最後の聖戦となるべきだった。即ち、それはシンジが、父・碇ゲンドウを倒すことである。
 そもそも、「エヴァンゲリオン」で一番の悪者は誰だ。使徒ではない。碇ゲンドウである。彼こそが、セカンドインパクトを引き起こし、15年後の悲劇を招いた張本人ではないか。人類補完計画など、罪滅ぼしにもならん。
 過度のシンクロによって、シンジは初号機と一体化を遂げてしまう。リツコのサルベージは失敗する。シンジが戻れたのは、自身の「生きたい」という強烈な意志だった筈だ。碇ユイそのものである初号機からの帰還は、母のくびきからの脱却に他ならない。つまり、乳離れである。母にさようなら。
 だとすれば、シンジに残されたもうひとつの課題は、父を乗り越えることではないのか。父のしいたレールの上で「補完」とやらを施され、皆に祝福に「ありがとう」と言うシンジは、まだまだ大人になりきれない子供である。
 己れの居場所も、己れの生きる道も、己れの幸せも、決して座して与えられはしない。それらは血を流し、戦って勝ち取るものだ。
 シンジよ。大人(おとこ)になれ。父の屍を越えて――

《解答:否》

 以上、三者三様の解答につき、多数決による統一見解は出せませんでした。判断は三者のメッセージを参考の上、あなたが下してください。

KANAMEシステム・オペレーター 江婆野健三

テレビ・雑誌で「エヴァ」が取り上げられるとき、必ずといっていいほど見受けられるのが、従来のロボットアニメの枠を超えた執拗なまでの心理描写が多くのファンを魅了した、といった類の説明である。外野から観れば、そうとれるのだろうが、これは事実ではない。エヴァファンの多くは、過ぎた心理描写とその気持ち悪さに辟易している。エヴァファンがエヴァにハマったのは、第壱話に集約されるロボットアニメとしての面白さであって、監督庵野秀明の「作家性」ではない。本来、マイナーなカルトに位置づけられる病的狂気に満ちた作品に、多くの健全(?)なファンが注目したのは、こだわりのアニメ職人・庵野秀明に「夢よもう一度」と、はかない期待を寄せたからにほかならない。だが、彼の作家的本領が、悪評紛々の最終二話にこそ発揮されていたことは、いまや明白である。「エヴァ」を批判するならば、スカッとするエンターティンメントとしてのロボットアニメを全うしなかったことではなく、むしろ、ロボットアニメという作品の本質に反する商業主義的体裁を取ってしまったことに対して、なされるべきではないだろうか。

CONTENTS

説明?
1997.02.28 初出:HIRAIST ML
 なぜ、エヴァのパイロットをチャイルドと言わず、複数形のチルドレンと呼ぶのか、長いこと不思議に思っていた。で、この前、ようやくその疑問が解けた。気付いてみればなんのことはない。「涙」(第弐拾参話)を観た時点で、ピンと来なきゃいかんかったのだ。あたし莫迦よねぇ、てなもんだ。
 受け手としての力量を試される作品がある。「エヴァンゲリオン」は、まさにそんな物語だ。碇シンジという、ひとりしかいない少年を何故、サード・チルドレンと呼称するのか、物語は「説明」することをしない。地下研究施設で培養された無数の……が、そのことを暗示するだけだ。明示、ではなく、暗示。だから、訳わかんねー、辻褄あわねー、などと文句を垂れているうちに、ふいに掌を拳で叩く瞬間が訪れたりする。
 ある意味、不親切な作りとも言える。その不親切さから来る大衆性の欠如は、人気作品にあるまじきカルト臭を漂わせる。全ての伏線は明示的に「説明」されるという、ポップな物語のセオリーに馴れきった者の苦情は不可避であろう。だが、庵野秀明の美意識はおそらく、「説明」という野暮を許せないのだ。

改題改稿

HIRAISTメーリングリストから発掘したもの。もともとは平井和正作品を論じた内容だったが、こちらに転載するにあたり改稿を施した。

CONTENTS

少年は話になれるか
1997.04.12 初出:NIFTY-Serve
「エヴァンゲリオン」が結局、オタク文化の象徴でしかなく、「ヤマト」「ガンダム」を継ぐ、スタンダードとなり得なかったのは、物語の「核」たる「少年」を欠いていたからだと思う。主人公シンジは「少年」としての主体性を完全に放棄していた。
「美少女」が好き。「メカ」が好き。「戦い」が好き。だから、「美少女」を「メカ」に乗せ「戦い」をやらせる。それがオタクをマーケットにした、近頃のアニメの構図である。「トップ」にしろ「ナディア」にしろ、その系譜の上にあるのだが、そこには、感情移入すべき「自己」が、決定的に欠落している。
『黄金の少女』の主人公、アルフレッド・キンケイドは、少年とは程遠いアダルトだが、父親に虐げられたトラウマを持つが故に、最愛の女性からも、ホピ族の師匠からも見捨てられるという、満たされぬ魂の持ち主である彼は、それ故に読者にとって切実な問題を共有する自己投影の対象であった。だからこそ、キンケイドは、もうひとりの犬神明と呼ばれ、『黄金の少女』もまた骨太なスタンダードたり得た。
 富野由悠季に言わせれば「エヴァ」は、「ドラマは、生気ある人によって描かれるはずなのに、その根本を無視している」となる。「ガンダム」の作者らしいコメントだが、仮に平井和正が「エヴァ」を観たとしたら、おそらく同様の感想を抱くのではないだろうか。
 碇シンジは、女性によって声を演じられたことに象徴されるが如く、男性性を欠いたキャラクターだった。「助けてよ」「僕にやさしくしてよ」と繰り返し訴える、ヒーローの風上にもおけない(笑)情けない主人公は、救いのないことに、最後までそこから脱却できなかった。エヴァがまさに“荒ぶる神”として雄叫びを発し、殺戮の嵐を巻き起こすとき、それは決まって「暴走」であったり、「ダミーシステムの稼働」であったり、シンジの意志とは関わりのないところで行われる。
 シンジが「男」になれるチャンスはあった。拾九話『男の戦い』がそれだ。最強の使徒の前にアスカとレイが無惨に敗れる様を目の当たりにした彼は、頼りになる兄貴・加持に諭され、乗らぬと決めたエヴァに乗り、敵を倒すことを決意する。切れた表情で使徒をブチのめす彼の姿は、まさにヒーローそのものだった。が、ここでもまた、「暴走」によって、カタがつけられてしまう。
 何故なんだろう、とオレは首を傾げる。シンジを主人公に据えたとき――貞本氏の意向が多分にあったにせよ――そこには、従来のガイナックスの「美少女路線」の超克が意図されていたはずだ。にも拘わらず、シンジをヒーローにすることをかくも拒む、庵野秀明の心理とはいかなるものなのか。
 巷の「エヴァ現象」に、歯痒くも腹立たしいのは、その論じる内容の貧相さである。取りに足らぬ枝葉末節を嬉々として語るオタク文化のマーケットの担い手達と、取りに足らぬストーリー的破綻に目くじらを立てる人々。どうせ論じるなら、男性原理の極致たる“荒ぶる神”エヴァンゲリオンの正体が、パイロットの母親であるという矛盾、異常さをこそ論じるべきであろう。だが、オレの知る限り、「エヴァ」のそうした「物語としての本質的問題」に言及した人間は限りなく少ない。
 平井和正のような、骨太な「本物」を愛する人間だけが、「エヴァ」のひ弱さを本能的に察知している。面白いことは面白いが、確固たる評価は与えられない、という結論に逢着する。

「エヴァ」の完結は、夏を待たねばならない。従って、「エヴァ」を総括するには、時期尚早なのかもしれぬ。確かに、「エヴァ」がスタンダードになる可能性はある。それは、9体のエヴァによって「陵辱」される弐号機=アスカを救う騎士(ナイト)に、シンジがなることである。そこで、「暴走」ではなく、自らの意志によってエヴァの持てる力を解放し、操ったとき、シンジは周囲に流されるだけのコドモから男に、ヒーローになれる筈である。
 だが、庵野秀明に、それができるかどうかが疑問だ。これはオレの勘だが、庵野という男、前衛芸術家にありがちな、正統派を毛嫌いする、気取りがあるのではないか。おそらくは、庵野秀明が抱える何かを彼自身が克服しない以上、何度リメイクを施そうと、結果は同じであろう。生意気なオレは、だから「庵野秀明、見切ったり」と不遜にも言ってしまうのである。
 父を超えたい、敵をブチ殺したい、惚れた女をこの腕に抱きたい。自己投影としての「少年」の素直な意志の発露から逃げまくっている限り、いつまでたっても、少年は神話になれはしない。

「DEATH AND REBIRTH」が公開された当時のエヴァ論評。実に不遜な言い種ではあるが、確かにその通りだったのかもしれない。

CONTENTS

『くたばれ!エヴァンゲリオン』を買ったのは、エヴァマニアがエヴァマニアのために書いた、濃ゆ過ぎるエヴァ本の洪水の中にあって、一般人の視点から観た「エヴァファン批評」が新鮮だったからだ。感想をひとことで言えば、オッサン、放っといたれよ(笑)に尽きる。枝葉末節に拘りすぎると、かえって本質を見失う。という著者の主張には賛成する。ただ、オレに言わせれば、そんなことは前提でしょう、ということになる。作中に散りばめられた衒学的キーワードの数々。それらについて、制作者側があらかじめ明確な答を持っていなかったであろうことは、もはや誰もが承知していることだ。それは承知の上で、敢えて答をひねくり出す。「使徒の正体は、自分を必要としてくれる世界を望むシンジが、観自在力とも言うべき想念の力で生み出した、こころの産物である」などとこじつけちゃうのが、“オタクの血”というものだ。
 アニメに関しては門外漢、という彼は、巷のアニメオタクにあらざる一般人の、まさにアニメオタクに対する、嫌悪、侮蔑、偏見に満ちたスタンスでもって、エヴァファンにお説教を垂れる。その笑える一節を取り上げてみる。
 シンジのように他人の前で自分の意見を述べることを躊躇したり、あるいは他人の前で恥をかくことを極度に恐れるいまの若者たちにとって、相手の顔が見えず、自分独断(独善的な)の意見が開陳できるこの手段は、まさにスペードのエースだった。(中略)
 換言すれば、インターネットには、自分を絶えず安全な場所に置き、同時に自分の必要な情報を世界中から自由に入手できるという、とても身勝手なメリットがそこにはあったのだ。この身勝手というキーワードこそ、いまの大多数の若者たちにとって、最高に価値のあるメリットだったのだ。(中略)
 匿名性の高い電子メールだけのコミュニケーション(相互伝達)……いや厳密には相互などとは呼べないだろう。そう、一方通行の情報時代の幕開けとでも言おうか。
 そんな若者文化の情報交換の土壌の中で、『エヴァ』は秘かに育てられていったのである。
 自分が気に入った情報へは四六時中アプローチが可能で、気に入らない相手なら、そのメールに応じる必要などまったくない。
 相手からの電子メールを無視すればそれですむことなのだ。
 考えてみれば何という侘しいコミュニケーションの時代であることか!
 そういうアンタかて、ごっつい独善的やで。と、ツッコミを入れたのはオレだけだろうか(笑)。インターネットでの自己表現が安全なのはごもっともとしても、では、マスコミでライター稼業をやるのは危険が伴うでも言うのだろうか?(生活的なリスクはあるだろうが) 雑誌や書物の原稿を書くとき、読者の顔が見えるとでもいうのだろうか? 差し向かいの議論でもない限り、相手の顔など見えやしない。情報が一方通行なのは、あらゆる既存のメディアを通じて言えることだ。既存のメディアに比べれば、インターネットは遥かにインタラクティブである。
 こんなエヴァファンにケンカを売る「エヴァ本」を書けば、さぞかし抗議も殺到するだろうが、匿名でさえなければ、必ず返事をくれるとでもいうのだろうか? そんな筈はあるまい。箸にも棒にもかからない中傷誹謗は、緒方さんと言えども無視する筈である。では、本を出版するのと、インターネットで意見を述べるのと、どう違うというのだ? 違いなどありはしない。書物を商品として売るに足る技量とネームバリューを持つプロの物書きか、遊びでやってるシロートかの違いでしかない。
 ハイテクものには、ある種の偏見がつきまとう。将棋や双六は素朴で温もりがあり、ゲームマシンは空虚である、といった妙な偏見である。緒方さんのインターネットに対するお考えも、言っちゃ悪いが年寄りのハイテク拒否症ではないかと勘ぐりたくなる。あるいは、アマチュアが自己表現の場を得たことへのやっかみか。
 考えてみてほしい。インターネットに興じる主流は三十代である。要するに立派な社会人だ。人付き合いが苦手だろうが嫌いだろうが、それなりに立ち回りながら、それぞれの職で銭を稼いでいるのである。銭を稼いでいればこそ、インターネットなどという道楽にも手を出せるのだ。
 一人前のオトナが趣味でやってることに、つまらない謎に拘っていようがどうしようが、そっとしといたげてください(笑)、とは言うまい。読み物として商売になるなら、それについて書くのがプロの物書きというものであろう。プライベートにすき好んで「エヴァンゲリオン」を観、それが昂じて本をものしたのではなく、「エヴァ」という作品とその愛好者を批評すべく、仕事で「エヴァンゲリオン」全26話を視た人間には、それなりの切り口というものがあろう。だから、マニアックなエヴァ本の中で、緒方さんの本は特異だったし、エヴァ本など買わないオレが、緒方さんのエヴァ本は、二冊とも買ったのである。感謝してね、緒方さん
 ただ、前述のごとき偏見に満ちた論評をされてしまうと、せっかくのプロのライターならではの人脈から得た内幕話も、信憑性を疑ってしまう。現に、明らかにおかしいと思えるところがある。
「この前までテレビ放映されていたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の結末が、僕にはどうしても納得できない」
 インターネットで発信されたこのたった一通の電子メールが、今日の『エヴァ』の大ブームの発端になろうとは、(中略)夢想だにしなかったに相違ない。
 相違あるで、緒方さん(笑)。そうしたメールがあったのは、嘘ではあるまい。だが、それに対するリアクションが、エヴァブームに火をつけたというのは、いくらなんでも飛躍が過ぎるだろう。現実に、ニフティ・サーブの「ガイナックス・ステーション」においては、最終話放映当時、システムの上限を上回る数の発言がなされている。明らかなリサーチ不足だとオレは思う。
 社会にブームが起これば、当然、インターネットにおいても、議論は活発になる。だが、その逆にインターネットが社会的ブームの火付け役になれるかと言えば、オレはかなり懐疑的だ。なんだかんだいいながら、世間でインターネットに興じている人間が果たしてどれだけいるかってことだ。「エヴァ」は本放映当時、7%の視聴率を出したという。だが、日本のインターネット人口は、本放送で「エヴァ」を観た者の人数に到底及ばない筈である。
 もし、緒方氏の説が正しいなら、「『ボヘミアンガラス・ストリート』の結末が、僕にはどうしても納得できない」という発言をすれば、空前の平井和正ブームを巻き起こすかもしれない。試してみようか(笑)。

悪口を言ってはいけません、という人がいる。自分に言われて嫌なことは、他人にも言うべきではないというのだ。まことに筋が通っていて、よい心掛けではあるが、ワタシは他人の悪口ほどオモシロイものはないのだから、自分への悪口も我慢はしないが覚悟はするよという考えである。悪口にだって価値はある。要はオロシロイかツマラナイかが問題なのだ。ことさらに悪口でなくとも、それを愉快に思う者もいれば、不愉快に思う者もいる。言論とはそういうものではないか。賞賛であろうと、批判であろうと、主張したいことは責任を持って主張すればよろしい。ただ、それが的を外していれば恥をかく。それだけの話だ。上記のように、緒方氏の主張にはオカシなところがあるが、別にエヴァファンを傷つけるこんな本は許せない、とは思わない。そこらのエヴァ謎本よりは、よほど食指をそそられたのは事実だし、それだけの商品価値があったということだ。

CONTENTS

――西暦2015年。セカンドインパクトと呼ばれる未曾有のカタストロフから15年、ようやく復興の兆しが見え始めた頃、人類に新たなる危機が訪れた。「使徒」である。予測されていた「使徒」襲来に対抗すべく、人類は汎用ネコ型決戦兵器「ドゲりおん」を開発。「ドゲりおん」のパートナーには、1人の少年が選ばれた。その肩に人類の存亡という大きすぎる運命を担った、のび太の戦いが今、始まる――

ドゲりおん び太の人類補完計画
1997.08.15 初出:「こんなじゃダメ、神様」
◆第壱話
「人の作り出した究極の汎用ネコ型決戦兵器、人造人間ドゲりおん。その初号機。建造は極秘裏で行われた。我々人類の最後の切り札よ」
「コンニチワ。ぼくドゲりおん」

◆第参話
「ドゲりおぉん、使徒が襲ってくるよう」
(タタタタッタター)
「はい。プログレッシブ・ナイフ!」

◆第六話
「ドゲりおぉん、近接戦闘ができないよう」
(タタタタッタター)
「はい。ポジトロン・ライフル!」

◆第八話
「いやはや、波乱に満ちた船旅でしたよ。やはりこれのせいですか?」
「既にここまで復元されています。硬化ベークライトで固めてありますが、生きています、間違いなく。人類補完計画の要ですね」
「そうだ。最初のネコ型ロボット、ドラ×もんだよ」

◆第拾五話
「これは……まさか!?」
「そう。セカンドインパクトから、その全ての要であり、始まりでもある。ドラ×もんだ」
「ドラ×もん……。あの第一使徒がここに……。確かに、ネルフは私が考えているほど、あまくないわね」

◆第拾八話
「じゃあまだ、のび太君はしらないの?」
「なかなか、言い出すきっかけがねえ。ジャイアンが自分で言い出すかもしれないわ」
「それはないわね。ひとに自慢するほど、喜んでなかったもの。入院中のジャイ子を本部の医学部に転院させてくれっていうのが、彼の出した例の条件だったのよ」

◆第拾九話
「死ぬ?」
「そうだ。使徒がここの地下に眠るドラ×もんと接触すれば、人は全て滅びると言われている。サードインパクトでね。それを止められるのは、使徒と同じ四次元ポケットを持つ、ドゲりおんだけだ」

ドゲりおん ◆第弐拾弐話
「ドゲりおぉん、使徒が衛星軌道から動かないよう」
(タタタタッタター)
「はい。ロンギヌスの槍!」

◆第弐拾四話
「ドラ×もん、我らが母たる存在。ドラ×もんに生まれし者は、ドラ×もんに還らねばならないのか。人を滅ぼしてまで。違う! これは……オ×Q。そういうことか、藤子○不二雄」

「こんなじゃダメ、神様」に寄せたもの。同誌の編集人O野氏と「リリスってオバQっぽいよね」という話になったことから、この作品は生まれた。O野氏の描いた「ドゲりおん」のイラストが傑作だった。

CONTENTS

愛するエヴァンゲリオンへのふざけた
1997.08.15 初出:「こんなじゃダメ、神様」
■シンジとアスカが新生世界のアダムとイヴになるという結末は、おおかたの予想の範疇だったのではないかしら。シンジとレイじゃあ近親相姦だもんね(だからって、「シンジ、レイとの交際は許さん」なんて、東海テレビの昼メロのパターンやられても困っちゃうけど)。ただ、世界で異性はこのひとだけ、と言われても「ぜったいにイヤ」という相手はいるものでね(笑)。
■シンジとアスカ、なんでああなっちゃったかなあ。まんざらでもない仲だったんだけどね。アスカが病室のシンジをこっそり様子見に来てたりとか、そういう微笑ましい屈折した愛情があったのは確かだったのに。振り返ってみると、ポイントになるのは、やっぱり。アスカが第十五使徒の精神攻撃受けてるときに、シンジがただ漫然と待機していたことですね。ここは命令違反を犯そうが、あとで独房に入れられようが、助けに行かなきゃならない。事が終わってから、「よかったね」なんて言っても、そりゃあ拒絶されます。
■「エヴァンゲリオン」の気持ち悪さって、ここら辺なんですよ。悲鳴を上げるアスカを助けに行かないシンジ。トウジの見舞いに行かないシンジ。オヤジが推進する「人類補完計画」のなんたるかを知ろうともしないシンジ。うおぉぉぉぉッ、どおしてお前っヤツぁ、いつもいつもそおなんだぁぁぁぁッ、シンジぃぃぃぃ!!!
■オレみたいな健康優良不良中年(笑)から言わせると、シンジ君の苦悩っていうのが、全然切実じゃなくてね。いらない人間でもいいじゃん、誉めてくれなくてもいいじゃん。自分が周囲に認められようと認められまいと、必要とされようとされまいと、自分の生きたいように生きればいいじゃん、と思ってしまう。実際一個の人間なんて、死のうと生きようが、どうってことないですからね。人間が50億いれば、ひと一人の命の重さなんて全人類の50億分の1でしかない。たまにビル・ゲイツみたいに、ちょっと比重が大きめなのがいるだけでさ。みんなから必要とされれば、それなりの努力を払うしかないわな。好きなことだけやっていたいのなら、「不良」「異端児」「オタク」(笑)という、世間の冷遇を甘んじて受け流すしかない。それだけの話なんだよ。
■生きるって事はキレイゴトじゃない。殺るか殺られるかの選択を迫られれば。「殺る」方を選んで当然なんだよ。相手が妙チキリンな形をした怪物だろうと、人間だろうと。まあ、一緒に風呂まで入ったヤツを殺すのは確かにつらいわな。ただ、オレが厭なのは、シンジが自分を正当化するでもなく、かといって原罪を背負うでもなく、ひたすら「助けて、助けてよ」と泣きごとを繰り返していることだ。アスカに助けを求めてどーする。お前がアスカちゃん助けたらんかい。
■で、助けてくれない、相手してくれない、となると、今度は「首絞め」だもんなぁ。理解を絶しとるよ。オナニーは許すけどさ(笑)。横道に逸れるけど、ああいう「ヒドイこと」は、オトコはやるもんよ。触ったり、パンツ脱がさないだけ、罪は軽いって。でも、ドアをロックするのはいいけど、常時モニターされてるの知ってる、シンジ君? あの最中にA−801が発動しなくてよかったねえ。「シンジ君は?」「303病室です。××かいてます」「わちゃー」
■詰まるところ、庵野さんの自己投影の結果でしかないんだよな。内向的なシンジが、やがて一人前の男になるっていう、少年の成長譚としての「王道」は、庵野さんにとって「ウソ」だったんでしょう。「ウソ」は描かない、というのは、それはそれで作家の良心だろうし、「ウソ」で王道行ったところで、月並みな出来になるだけかもしれない。結局、「首絞め」こそが、庵野さんにとっての「リアル」だったってことでしょう。「ナディア」や「トップ」が、エンターティンメントを貫けたのは、主人公が女の子だったからだと決め打ちしてしまいます。女の子であれば、男・庵野秀明がダイレクトに自己投影する対象とはならないですから。
■庵野秀明の病理と狂気。これこそが、「エヴァンゲリオン」に対する絶賛の渦と罵声の嵐の根本原因ではないですかね。アニメファンを釘付けにした第壱話。これに、シリーズ制作日程の半分を費やしたっていうんですから。これ自体狂気ですよ。だから、シリーズ後半の神経症的ムードというのは、言ってみれば、狂気が位相を変えて現れただけだと思うんですね。これは皮肉な逆説なんですが、もし、もっと普通の終わらせ方してくれって、普通に終わらせるひとだったら、第壱話のクォリティだってなかったでしょう。これは一枚のコインの表と裏というものです。
■ビデオで出される筈のリメイク版が映画になり、テレビ版全てがビデオ化される前に訳のわからない「総集編」が映画として上映され、リメイク版新作は春に間に合わず夏にずれ込み、ビデオが全部出ていないのにDVDは出しちゃう……といった、数々の批判非難を浴びる、破綻した非常識の数々も、満足に予告編も作れない、TV制作の破綻した状況の延長線上にあると考えるのは、うがち過ぎというものでしょうか。
■でも、ストーリーだって、破綻してたもんなあ。初号機使ってサードインパクト起こそうってのに、ベークライトで固めてどうすんの。シンジ殺してどうすんの。シンジ初号機に乗せて、起動しないとダメじゃない、ねえ? それ以前に、サードインパクトで人類補完が成るなら、使徒なんて撃退しなくてもよかったことになるよな。そうなると、物語そのものが成立しなくなるんだが(笑)。
■そういえば、REBIRTH編には出ていた、山寺宏一の声も、第25話「Air」では、なくなってたよな。「加持リョウジは生きていた!?」なんて、さんざん物議を醸しておいて、結局なしんこかい。
■オタクのいかんところは、「現実」を見ようとせんことなんだな。「エヴァ」がつじつまの合わないのは、ストーリーが破綻しているからだ。という単純明快かつ唯一の「解答」から目を背けている。かくして、完成する筈もないジグソーパズルのピースを手に、ああでもない、こうでもないと、本気で悩んでいる。合う筈はないのだ。何故なら、それらのピースは、一枚の絵から切り取ったものではないのだから。アスカがドイツ語が下手なのは、みやむーの語学レッスンが足りんからだ。ふんとにもう。
■人類補完計画。ヒトの形を捨て、完全な単体生物として人工進化する。……ヤな計画だねえ(笑)。こんなこと本気で考えたり、実行に移したりする奴は、殺さなきゃダメだよ(笑)。ゼーレの唱和なんて、モロ邪教宗団のそれじゃありませんこと。健康優良不良中年としては、断固否定したいね。スペクタクルとしては、見ものではあったのだけど。
■物語のセオリーからいえば、シンジがその「邪悪な目論見」を叩き潰さにゃならんのだけどね。でも、シンジはなにもしない。ただ、状況に流されるだけ。庵野=シンジ君、あんたって、ほんと「気持ち悪い」よ。
ご臨終です。

全てを観終えた後のエヴァの総括である。シンジに本当に腹を立てているところが微笑ましい(笑)。エヴァンゲリオンとは、病める現代人の幻想の依り代であった。ワタシもまた、この物語に自らのエゴイスティックな幻想を仮託していたのだ。

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