アバウト170   #3 監督(承前)

米子(ヨネコ)はどうした? 米子はよおッ」
 だが、そんな優の幻想は、実物の登場の前に、もろくも崩れ去ったのだった。
「今日は補習で遅れると言ってました」
 整列した部員たちの先頭にいる、白井敏江が答えた。
「補習だあ? んなもん受けんなつっとけ!」
「ムリですよ。あいつバカだから」
「バカが補習受けたって時間のムダだっつってんだよ、俺は!」
(口悪ぅ。この人、ホントに監督……?)
 河村 優は心の中で、落胆のため息をついた。

 優がこの監督と初遭遇したのは、しばらく前に遡る。
「おい新入り、挨拶はどうした!」
 そのとき優は、床のモップ掛けをしていた。練習前の体育館の掃除は、一年生の仕事である。
 明らかに自分に向けてそう言った五十過ぎの男を、優は怪訝そうに見た。
「あの、失礼ですけど、どちら様ですか?」
 某名作テニス漫画に登場する青年コーチのような監督像を、勝手にイメージしていた優である。まるでワンカップ○関片手に競艇場にたむろする、鉄火場オヤジのような風体のその男が、まさか自分たちの監督であろうとは想像もしなかった。
「どちら様だぁ?」
「ちゅーっす。監督、お久しぶりです」
 その男に気付いたペコが、先に挨拶をした。
「おおッ、ペコぉ。しばらく見ねえうちに、ずいぶんと精悍な顔つき、体つきになったじゃねえか」
「基礎トレばっかなんだもん。やんなっちゃった。早くボール触らせてください」
「それでいいんだよ。ボールなら、これからイヤってほど触らせてやっからよ」
「……ちょっと待って! まさかこのひとが、ひょっとして、うちの……監督さん?」
「そ。升田小次郎(ますろう)監督」
「そんなあァァァァァ〜ッ」

「ちゅ〜っす」
 遅れて現れた二年生を災難が見舞った。
「おせーんだよ、米子ォォォッ」
「あ、監督。やべ」
 まさか監督が来ているとは思っていなかった彼女は、完全に虚を突かれた。
「重役出勤とは、ずいぶんと偉くなったじゃねえか、ええコラ」
 米子と呼ばれた女が、升田に首根っこを掴まれ引きずり回される。
「……だって赤点の補習で、しょうがないじゃないっすか」
「バカが一人前に単位なんぞ気にしてんじゃねえよ。バスケしか取り柄のねえお前が、バスケやんなくてどうすんだ」
「そんなムチャクチャな……」
「口答えすんな!」
「イテテテテテテ……」
(ねえ、あのひと本当に合気道の実力者なの?)
 優がヒソヒソ声で隣のペコに訊いた。
(私も見たわけじゃないけど、本人はそう言ってたよ。いまだって、ほら。技かけてるし)
「ギブッ、ギブギブギブッ」
 米子が悲鳴を上げてタップを繰り返していた。
(技かけてるって……あれ、コブラツイストやん!)

  #4 鳥人間

「一年は何人だ?」
「ここにいる9名です。百名以上いた入部者も、残ったのはこれだけです。例年通りですが」
 升田の問いに、白井が答えた。
「いいってことよ。升田式強化メニューを耐え抜いた精鋭どもだ。9人か。ちょうどいい。二チームに分かれて、一年同士で紅白戦をやる」
「一人足りませんが?」
「米子、お前が入れ。ペコの相手チームだ。あとはテキトーに分かれろ」
「あのぉ、すみません……」
 優がおずおずと手を挙げた。
「なんだ、デカいの」
「河村です。……私、初心者で、バスケのことはまだ何も習ってなくて、いきなり試合っていわれても、どういうふうにしていいのか、全然わかんないんですけど……」
「初心者ぁ? そうは見えねえがなあ」
 升田は優に近付き、しゃがみ込むと、彼女の太股とふくらはぎを握った。
「キャッ――なにするんですかあッ」
「ガタガタ騒ぐな。乳臭い小娘に性的な興味はねえよ。『女囚さそり』の梶芽衣子が俺の好みでよ。って、知らねえか。――鍛え抜かれた、いい脚だ。ひと月やそこらでできる筋肉じゃねえんだがなあ」
「監督、彼女は中学までバレーをやってたんです。ですから、バスケは未経験です」
「なるほど。そういうことかい」
 白井のフォローに升田が納得した。
「なら、元バレー部。お前はペコのチームに入れ。ペコのハンディだ」
「河村です! ですから、私、どうしたらいいのか、わかりません!」
「お前な、女だったら、手鞠ぐらいやったことあるだろ?」
「それは、ありますけど……」
「手鞠の要領でボールを運ぶ。ゴールの手前まで来たら、あの高いところにある網にボールを入れる。そんだけさ」
(ホントにこの人、バスケの監督なのかなあ……)

 ボールを手にした主審を挟んで、優と米子がセンターサークルで向き合う。ジャンプボールを、この二人が争う。
(私のところにボールを落として。できるよね)
 ペコと目配せを交わす。彼女とはさっき、手短に手筈を決めてある。
 バスケはド素人。だが、トスを叩いて狙いの場所に落とすのは、バレーの領分だ。米子の背は、そう高くない。中学バレーではウイングスパイカーで鳴らした優が、この勝負で後れをとるはずがなかった。
(うん。わかった)

「このジャンプボール、なかなか面白れーぞ」
 升田は体育館の舞台のへりに腰を下ろしている。ここで試合を見物するつもりらしい。
 その傍らで、白井敏江が舞台のへりに背を預けている。
「そうですね」
 優いわく、白い黄金仮面のような面相が、いつにも増して、怪しい笑みを浮かべているように見える。
「上背で有利だからって油断してっと、足下すくわれるぞ。デカいの」

 ボールが宙に舞う。主審の手を離れ、真っ直ぐ上昇し、頂点に達して落下を始める。
 二人が同時に跳ぶ。優の大きな掌が、ボールを斜め上から叩く。だが、このときボールに触れていたのは、彼女だけではなかった。
(高い!? このひと、すごい跳ぶ!)
 優は自分の顎の下まで迫った米子の顔を、驚きの眼で見つめた。
 米子の指先が、ボールのを底を引っ掻くように、ぐりん、と回転させる。

 ジャンプボールの勝敗をボールを獲ったチームで判定するなら、この勝負は優の負けだった。ボールは優の狙うペコの足下を外れ、相手チームの手に渡ったからだ。
「どんなもんよ」
「………!」
 優に向かって、米子がうそぶく。身長の不利を卓越したジャンプ力で、見事カバーしたのである。
 大鳥米子(おおとりよねこ)。その名前と能力から、仲間内でこう呼ばれている。鳥人米子、と。このジャンプ力を買われて、正パワーフォワードのポジションに抜擢された女である。

 だが、その後の試合内容では、二年生・米子を加えたチームをペコのチームが圧倒した。それほどに、木村ペコの実力はズバ抜けていた。
「行かすか!」
 マッチアップしている米子が、ペコのカットインのコースをふさぐ。が、ペコはそれをあしらうようにバックステップ。クイックモーションでシュートを放つ。
3P(スリー)!)
 ペコが3点シュートを決め、点差を15点に拡げた。

(あいつ……)
(すごいな……)
 コートわきで観戦する、二・三年の目つきが変わり始めた。
 米子は学校の成績こそ悪いが、ことバスケの腕にかけては、先輩を押しのけてレギュラーの座を勝ち取った白井同様、一目置かれる存在である。
 それが、こうも軽々とあしらわれるとは。
 木村ペコ。本名、理絵。彼女を、升田小次郎が直々にスカウトしたということを二・三年で知らぬ部員はいない。
 升田は、スカウトをしない男だった。神奈川の強豪である朔商には、黙っていても優秀な選手達が集まってくることもあるが、それ以上に、中学で実績を上げ、完成され、ともすれば天狗になっている選手よりも、まだ伸びしろを多く残した人間を鍛え上げることを彼は好んだからだ。その点で、中学オールスターのような選手達を金に糸目をつけずかき集め、さらに国内のみならず中国ジュニアの至宝と呼ばれるヤン・メイファまで手に入れた桜井修造とは、対照的な指導者といえた。
(エースだ。桜井まどかに対抗できる、絶対的なエースが要る。探し出す。桜井が眼を付けねえ、隠れた逸材をな)
 昨年のインターハイ、桜井修造率いる桃花学園に一回戦負けを喫した升田が、打倒・桃花を期して、節を曲げた。そして、神奈川中を探し回った末に、ついに見つけたのが彼女――木村ペコである。

 そうした事情を二・三年は知っている。だが、升田はペコを特別扱いはせず、他の一年と同じく基礎トレーニングに徹させ、ボールに触ることを許さなかった。ゆえに、彼女がどれほどの実力の持ち主なのか、升田以外には、まだ誰も知らなかったのである。
 ――お手並み拝見。彼女たちもまた、升田小次郎の猛練習を耐え抜き、手ほどきを受けた朔商女バス部員としての自負がある。その彼女たちがいま、ペコのプレーに眼を見張り、息を呑んでいた……。

(凄いよ。ホントに凄い……)
 彼女のプレーに驚愕していたのは、ギャラリーだけではなかった。コートの河村 優もまた、この天才的チームメイトに魅了されていた。
(知らなかった。ペコが、こんな凄いひとだったなんて!)
――三年以内に、桃花を破って、うちが天下を取るよ。
――私が入部するから。
 その大口は、大言壮語ではなかった。
(ペコは、あんなに凄いひとなのに、なのに私は――)
(私は――)
 試合は、すでに中盤に差し掛かっている。
 だが、優はジャンプボール以来、いまだ一度もボールに触れていなかった……。

  #5 誰よりも高く!

 新入部員で優のほかに初心者はいない。大勢いた入部者の中には、あるいはいたのかもしれない。が、そんな人間はとっくに去っていた。
 トレーニングばかりをしていた時には気付かなかった。周りの人間との差に。初めてゲームを体験することで、優はそれをまざまざと思い知らされた。
――お前はペコのチームに入れ。ペコのハンディだ。
 そう言った監督の言葉の意味が、いまはよくわかる。
(私は、いないのと同じだ……)
 県下の強豪、朔商女子バスケ部。神奈川の中学バスケのエース級が、バスケをやるために、こぞってこの高校に進学し、この部に入部するという。そんな部に、少しばかり背が高いからといって、のこのこ入ってしまったことが、そもそもの間違いではなかったか? このままバスケを続けたところで、周りの経験者たちに追いつけるだろうか? いまからでも、遅くはない。バレー部に転籍したほうが、いいのではないだろうか……。
「優!」
 ペコの声に、ハッと我に返る。
 声に続いて、ボールが飛んできた。ペコのパスが、優に渡った。突然ボールを回されて、パニックに陥る。
(ああッ、ど、どうしよう……!?)

 時は、その少し前に遡る。
「やはり米子じゃ荷が重いな、ペコは」
 米子とペコのマッチアップを眺めながら、升田は白井にそう評した。
「自分が先輩だからって、意地になってるんですよ。あのバカ。相手は一枚も二枚も上手(うわて)だろうが。マンツーで勝てる相手かどうか、ちっとは考えろっての」
「いや、ビンコ。ちーと遅いが、あいつも考えたようだぞ。バカなりに」

(――!)
 ペコの周りに、米子を含む三人の選手が張りついた!
(そうきたか。そりゃそうよね)
 一人のプレーヤーに、三人のマークマンがつく。当然、相手チームの二人をフリーにすることになる。だが、この場合、さほど問題ではなかった。
 ペコが率いるチームは、典型的なワンマンチームである。得点のほとんどをペコが入れている。つまり、多少の犠牲を払っても、ペコさえ潰せば、得点は止まる。しかも、一人は、ほとんど員数外といってもいい、河村 優である。
 さすがのペコも、三人の敵に囲まれては、そう簡単に振り切ることはできない。
「優!」
 ペコは三人のマークの間隙を縫って、優にパスを出した。

(どうしよう……!?)
 ボールをもらったはいいが、どうしていいか、まるでわからなかった。
 即パスを出そうとしたが、ペコをはじめ、全員にしっかりとマークがついていた。優につくマークマンはいない。フリーにしても問題はないと思われているのだ。
「5秒経っちゃう!」
 おろおろして、なにもできずにいる優に、ペコが焦って声をあげた。
「5秒?」
「いいから、ドリブルで走って!」

「5秒ルールも知らねえのか……」
 升田がボリボリと頭を掻く。
「当然でしょう。バレーにそんなルールないですから(たぶん)」
「ボール、持たねえもんなあ(サーブ以外で)」
 ちなみに5秒ルールとは、ボール保持者がパス、シュート、ドリブルのいずれもしないまま、5秒を超えてはならないことをいう。これに触れるとバイオレーションとなり、相手チームのスローインとなる。

 仕方なく、ドリブルでフロントコートに進む。長身の優には、滑稽なほどのへっぴり腰で。
 それを見てゲラゲラと升田が笑う。
「こりゃいいや。本当に手鞠やってやがる」
 笑いすぎて、舞台にひっくり返る。
(手鞠の要領で、つったのはあんただろ)
 さすがに白井も、これには心の中でツッコミを入れた。

(あっ……!)
 おまけに、ドリブルしているボールを足で蹴飛ばしてしまう。舞台上で、またしても升田が笑い転げる。
「ドンマイ」
 ペコが優の背中を叩く。
「まだ練習だってしてないんだから、気にしなくっていいよ」
 ペコの優しさが、胸にしみる。惨めで、泣きたくなる。

 同じような展開が、その後も続いた。徹底した3人マークで、ペコは身動きが取れない。どうしてもフリーの優に、ボールを回さざるを得ない。ボールをもらった優は、ミスを連発する。あるいは、あっさり相手チームにボールを奪われてしまう。
 ペコの稼いだ点差は、みるみるうちに無くなり、同点(イーブン)でハーフタイムを迎えた。

 がっくりとうなだれた優は、ある決意を固めていた。
(ペコ、ごめん……)
(ペコみたいな凄いひとに誘われて、本当にうれしい。でも、やっぱり私、このスポーツに向いてない……)
(今日で、バスケ部は、やめる)
(やめて、バレー部に入ることにする。違う道で、お互いがんばろ)



第1稿 2007.01.22