アバウト170   #7 強敵(承前)

(くしゅん!)
 バスを見送った校門前で、秋コーチから預かった紙に地図を描き込んでいた安部夏陽は、盛大にくしゃみをした。
(風邪かな……? 気を付けないと)
(それとも、バスでなにか噂されてたりして)
 どんなことを言われてるかは、察しがつく。口うるさいお目付役が同行しなくて、胸を撫で下ろしている――。おおかた、そんなところだろう。おおらかな性格で滅多に後輩を叱ることがないキャプテンとは対照的に、副キャプテンの安部は礼儀作法、生活態度、掃除の不行き届きに至るまで、バスケ以外にもあらゆる部分で、ガミガミと後輩を叱りとばし、監督やコーチにも増して、後輩から怖れられた。憎まれ役は、承知の上だ。
 反抗的なわけではなかったが、実力至上主義的な考えを持ち、掃除など適当に済ませてしまえばいい、といった態度の西澤には、とかく叱責の矛先が向けられた。口には出さないが、西澤が安部の思想を古臭い精神主義だと考えているのは明らかだった。だが、選手の平素の立ち居振る舞いがだらしなくて、強力なチームになれるはずがない。それは安部の強い信念であり、譲る気はなかった。
 一方で、現実にそうして叱られている西澤のほうが、安部よりも実力で上ではないか、という批判もある。面と向かってそう言った者はいないが、実際に安部はそれを自身の耳で聞いたことがある。トイレの、コンパートメントのなかで。

「……西澤さん、かわいそ。あんなにガミガミ言われちゃって。だいたいさ、もっともらしいお説教たれたって、そのお説教をしてるほうが実力で負けてるわけじゃん?」
「ホントよね、あんたが言うなって感じ。説得力ゼロ。ご高説をぶつんなら、せめて伊東や西澤に勝ってからにしてもらたいもんよねえ」
「僻んでるんじゃない? いくら努力しても、才能で敵わないもんだから」
 三人の女子部員達が、笑い声をあげた。
「なるほどね。それがあなたたちのご意見というわけ?」
 手洗い場の三人が凍りついた。使用中の個室(コンパートメント)から聞こえたその声は、当の本人のそれだったからだ。

 水を流し、扉を開けると、三人は観念したように、その場にしゃちほこ張っていた。顔色は蒼白だった。
「あの……申し訳、ありません」
 ひとりがそう言って頭を下げた。他の二人もそれに倣う。
「なぜ謝るの? それが自分の意見なら、堂々と主張すればいいじゃないの。それとも、卑しい陰口の域を出ないと、そう自覚しているというわけ?」
「………」
「まあいいわ。この際だから、私の考えを言っておきます。確かにあなたたちの言うとおり、私は伊東や西澤に、実力で及ばないわ。その現状に、甘んじるつもりはないけど」
「………」
「でも、そのことと、後輩の指導とは別問題よ。実力で及ばないからといって、彼女たちの態度に眼をつぶり、あたら伸びるはずの才能をスポイルしてしまったとすれば、それは指導に当たる先輩として、赦されない怠慢ではないかしら?
 叱られている西澤が、叱っている私より実力でまさっている。それを私の考えが誤っている証拠だと、あなたたちは考えているようだけど、私はそうは思わない。彼女たちが自分を律する、精神的な大人に成長すれば、いまよりもっともっと強くなれる! 私はそう信じているから。だから、指導方針をあらためるつもりはありません。これが私の意見よ。なにか反論はある?」
「いえ……」
「そう。私になにか言いたいことがあれば、遠慮なく言ってちょうだい。耳は傾けるつもりよ。そのことで、不当な扱いをしたりはしないし。そういうの、大嫌いなの。陰口と同じくらいにね」

 頭を振って、過去の再現映像をかき消した。
(まったくもう。変なこと思い出しちゃったじゃないの)
 気を取り直して、作業を再開する。簡単に片付けるつもりが、生真面目な安部は携帯のナビ画面を睨みながら、けっこうな凝った地図を描き込んでしまっていた。
「おはよー」
「おいーっす」
 そうこうしているうちに、同期の凸凹コンビが姿を見せた。
 凸がチーム最長身、正センターの相羽早織。凹があの加地姉妹を身長で下回るチーム最小、正ポイントガードの田渕万里である。
「一年は、もう行っちゃった?」
「ところでアベっち、なにしてんの?」
 安部は後者の田渕の問いに「ちょっとね」と答え、前者の相羽にはこう返答した。
「ええ。ひとりを除いて、だけど」

「ええ〜ッ、じゃあアイツまだ来てなくて、それで置いてけぼり食っちゃったの!?」
 安部から事情を聞いた田渕は、そう驚いてみせると、続けてアハハハと大笑いした。何ごとも面白がり、笑い飛ばしてしまうのが彼女の性癖なのだった。
「笑い事じゃないわよ」
「いや〜、いつかやるとは思ってたけどね」
 そうコメントしたのは、相羽である。
「よりによって神奈川ナンバーワンと対戦する、この日にやらかすとはねえ」
「ひとのことが言えるの、サオリン?」
 安部は目を細めて、責めるように相羽を睨んだ。
「後輩の遠征に、キャプテンが見送りにも来ないなんて」
「あいや〜、悪い!」
 バツが悪そうに、相羽キャプテンは拝み手で詫びた。
「ブッチが待ち合わせに遅れたもんだから」
「ひっでーッ、おいらのせいにする!?」
「とにかく、いきましょ」
 苦笑した安部は、ふとリストウォッチの時刻を目にして、ハッと息を呑んだ。
「いっけない、もうこんな時間! ぜったい、おケイ怒ってるよ……」

「遅い!」
 果たして、そのとおりだった。
 ひとり体育館のモップ掛けをしていた、おケイこと須田恵子は、そう三人を一喝した。
「ひとりじゃ掃除終わんないし、練習も始めらんないじゃない! 今日は一年全員出払ってるんだから」
「ゴメンゴメン、バスの出発が遅くなっちゃって」
 ぬけぬけと田渕が言う。彼女らが来た時点で、バスはとうに発っていたのだったが。
「一年は一年、私たちは私たちでしょ。ただでさえ、二年より一年のほうが強いなんて言われてんのよ」
 そういう声が囁かれているのは事実である。二年生トップ5と、一年生トップ5が試合をすれば、勝つのは後者である――と。そのような対戦を実際に行ったことはない。君津監督も用心深く、それを避けてきた節があった。
 十回やって十回とも負けるとは、安部も思っていない。だが、客観的に戦力を比較すれば、安部自身、向こうに軍配を上げざるを得なかった。なぜなら、チームの実力ナンバー1とナンバー2は、いずれも一年の側にいたからである。

「アクアライナーだ!」
 すれ違うようにバスの車窓の風景を走り抜ける特急列車を見て、加地姉妹が喚声をあげた。
 天島と本土は、道路と鉄路で結ばれている。千葉県房総半島の突端、野島崎までの延長50キロ、鉄道・道路併用橋では瀬戸大橋を抜いて世界最長の、この銀河橋(ギャラクシーブリッジ)によってである。
「はしゃぐなよ、ただの電車だろ?」
 走り去る列車を追って、リアウィンドウ越しに眺めにやって来た双子コンビを、西澤は邪魔っけに追い払った。べーッ、イーだッ、とそれぞれ、あいがアカンベを、のぞみが舌を出して、二人は前方の座席に戻っていった。
「そんなに邪険にしなくても。あのコ達、中学まで東京だったから、珍しくてしょうがないのよ」
「にしたって、いったい今まで何度往復してんだよ?」
「私はわかるわ、あのコ達の気持ち」
 うっとりとした眼で、富山はバスの窓に映る光景を眺めた。青く広くひろがる海。それを斬り裂くように延びた橋は、前にも後ろにも果てなく、どこまでもどこまでも続いているように思えた。
「この橋を渡る度に思うの。人間の力って、なんて偉大なんだろうって」
 ハッ、と嘲笑うように西澤が肩をすくめた。
「こんなイカれたテクノアイランドをこしらえたお陰で、日本がどんだけ余計な借金を抱え込んだと思ってるんだよ」
「それは知っているけど、でも天島の好景気が、日本の経済に貢献しているのも事実よ。それはトータルの収支でいえば、とうてい比較にはならないわけだけど」
「誘蛾灯だな」
 西澤の言葉の意味が解らず、富山は小首を傾げた。
「眩しくて、キラキラしてて、誰も彼もこの島の光に誘われてやってくる。夢と希望がここにはある、ってね。でも、そいつは罠だ。その罠にかかった挙げ句、スッテンテンになって、本土に引き返すのはまだいいほうで、ひどいのは死んだりする。そういう生存競争に負けたやつらが流した血を、たらふく吸ってるんだよ、この島は」

(ほら、見えてきたぞ。あれが天島だ)
 西澤の脳裏に、家族三人でこの橋を渡った、幼い日の記憶がフラッシュバックした。
(キレイだろ。あの島がなんて呼ばれてるか知ってるか? “プラチナの都市(まち)”っていうんだ)
 車の窓から顔を出す。潮の香りをのせた風をあびて、遠く夕暮れの海に浮かぶ天島を見た。点った灯りのひとつひとつが光の粒子となって、島全体をデコレートしていた。それを散りばめた宝石のようだと形容にするには、彼女はまだ幼すぎた。それでも子供心にその幻想的な光景を美しいと感じ、それにふさわしい輝く明日があるのだと、父母とともに信じて疑わなかった。
(父さん、ここで一旗揚げて、必ずビッグになってやるからな。俺たち家族の新しい人生が、ここから始まるんだ!)

「……それはもしかして、亡くなったご両親のことを言っているの?」
「あー、つまんねえコト言ってるな。いまのセリフ、キャンセル。忘れてよ」
 西澤は手を振って、富山の問いをかわした。陽気で快活な西澤だが、ふとこうしたシニカルな陰を伺わせるところがあった。それは彼女の生い立ちと深い関わりがあるのだろう、と富山は思う。
 幼くして両親は他界、中学までは施設に入っていたと聞く。いまは寮生活をしているが、夏休みにすら帰る家はない。天島には身寄りもなく、天涯孤独。
 富山が知るのは、それぐらいだ。他のチームメイトも、クラスメイトも、おそらく同程度だろう。西澤は自分の過去を、語りたがらなかった。ベールに包まれた彼女のほの昏い人生の暗部は、お嬢様学校には異質であるだけに、よりいっそう学園の崇拝者たちのハートをくすぐることになったのだが。

 忘れようにも忘れられない光景がある。
 ブラブラとロープにぶら下がった、冷たく硬い男と女。
 苦悶の断末魔で息絶え、紫色に膨れあがった顔と顔。垂れ流した糞尿で下半身は汚れ、床に腐臭を放っている。およそ人間の尊厳など、一片もとどめない死体のペア。
 それまで、自分の両親であったもの。5歳の西澤は、それをまざまざと己が瞳で見たのだった。

 郷里である埼玉に親類はいたが、引き取る者はなかった。父の兄である叔父に、金銭の面倒だけは見てもらえたのが、せめてもだった。彼女は民間の施設にあずけられた。
 そこでの暮らしにも、いい思い出などありはしなかった。悪い思い出なら、腐るほどある。その極めつけは、彼女の人格形成に大きな陰を落とした、レイプ未遂事件である。それは彼女にとって、人生の転機でもあった、
 皆が寝静まった深夜、離れのトイレに向かう途中、ボランティアの学生に襲われた。施設の女子達に、「キモ夫」と呼ばれている小太りの青年だった。ガームテープで口を塞がれ、腕の自由を奪われた。
 未発達の胸をまさぐられながら思ったのは、不思議と恐怖や屈辱ではなく、「女であることの非力さ」だった。その年頃の女子としては身体も大きく、体力にも自信があった。年上の青年とはいえ、こんな豚のような、ろくに運動もできない男に、あっさりと組み敷かれ、力で圧倒されてしまうのかと、愕然とした。

 ――なんのために生まれてきた?
 ――こんな男の、慰み者になるためか?
 ――幸せなんて感じたこと、一度もなかった。

 涙がこぼれた。身体を弄ばれることでなく、自分の人生そのものが惨めだった。
 男の口元が弛んだ。泣いているのを見て、もはや抵抗する気は失せたと踏んだのだろう。ベルトを解き、ジーンズのジッパーをおろすと、下着ごと一気に膝下までずりおろす。そそり立つ陽物が天を向いていた。

 そのとき、脳裏に浮かんだのは、首を吊った両親の光景だった。
(ふざけるな!)
 あんなふうにはならないと、そう心に誓ったのではなかったか。
(負けるもんか! 負けてたまるか!)
 いったい、誰に?
(クラスの男子と喧嘩したって、向こうを泣かしてきたんだ!)
 自由になる脚を曲げ、踵で思い切り、男の局部を蹴った。股間を押さえて男が倒れ、のたうち回った。呻き声は、サイレンさながらだった。
 冷徹に、冷酷に、第二撃を見舞う。股間を押さえる手が邪魔だった。どかそうにも、手はガムテで縛られ使えない。そこでまず、顔面を狙う。仰向けに倒れた男のそれを踏みつけるように。顔を庇って、ガードが上がる。そこへ再び、男の股間へ蹴りをブチ込む。容赦なしのサッカーボールキックだ。男はもう、声も出さなかった。気を失ったのかもしれない。
(まだまだ――。こんなもんで、こっちの気がおさまるかよ)
 倒れた男に馬乗りになり、男の顔面に頭突きを喰らわす。男の鼻からドロドロとした血が流れた。それでもかまわず、繰り返し頭突きを見舞った。何度も何度も。ゴリ、と彼の口の中で、歯の折れる手応えを額に感じた。

 騒ぎを聞きつけた、職員達に押さえられた。彼らはべったりと血で汚れた顔に悽愴な鬼の笑みを浮かべる西澤を見て、ぞっと背筋を凍らせた。
 小学六年の出来事である。

 そう、絶対に負けはしない。
 いったい、誰に? 決まっている。
 自分を虐げる、すべての者に。

 あの日以来、狂ったようにトレーニングに励んだ。まるで男子よりも、強靱な肉体を作り上げようとするかのように。
 部活はバレーとバスケを掛け持ちしていた。長身の西澤は、どちらの部からも引っ張りだこだったからだ。競技へのこだわりはなく、なんでもよかった。身体を動かすことが好きだったし、なにより勝負に勝つことが好きだった。空虚な心を埋めるように、彼女はスポーツにのめり込んだ。
 それは中学に進んでも変わりなかった。ところが、ある日を境にバレー部を辞め、バスケに専念するようになる。バスケットボールの世界で、倒すべきライバルに遭遇したからである。
 彼女の名を、伊東真希といった。

続く

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第1稿 2007.10.08