アバウト170   #7 強敵(承前)

「ディフェンス甘いよ、ニシザーッ」
 またマンツーマンで、あざやかに抜かれた。
「西澤だッ、この……」
 中学二年の夏。県大会出場の常連校が、地区予選で無名の弱小中学相手に、追いつめられていた。彼女の存在によって。
 彼女――伊東真希のレイアップシュートが、ゴールを決めた。

 伊東との初対決は、第3クォーター開始のジャンプボールだった。なんと伊東は、大会予選に遅れてやってきたのである!
(公式戦に遅刻かよ? ふざけやがって……)
「ゴメン、ゴメン」
 そういって詫びる伊東を迎えるチームメイトたちは、彼女を責めながらも、どこか安堵の表情を浮かべていた。まるで彼女がいれば、この点差もなんとかしてくれる、とでもいうかのように。それも西澤は気に入らなかった。
(悪いが、点差はダブルスコアの大量リードだ。お前がどの程度のエース様か知らないが、こっから試合がひっくり返るなんて、有り得ないんだよ)
 その有り得ないことが、あわや起こりかけたのだった。

 ジャンプボール対決は、西澤が制した。張り切りすぎた伊東がジャンプのタイミングを早まり、空振りしてしまったからである。
(バカか、コイツは……?)
 だが、彼女のチョンボはそこまでだった。

 リバウンドでは、身長で下回る彼女にことごとく上をいかれ、ボールを攫われた。ジャンプ力にも、バカがついていた。
 高さだけではない。ポジションの獲り合いでも、彼女の圧倒的なパワーの前に、苦杯を喫した。いいポジションはブルドーザーのような圧力で強引に奪われ、逆をやり返そうとすれば、まるで脚に根が生えたように、1ミリも譲らなかった。
 ディフェンスではスティールの山を築かれ、オフェンスに回れば西澤をはじめ、誰も彼女を止められなかった。
 独壇場。その言葉は、このゲームの彼女のためにあった。彼女はコートの誰よりも高く跳び、速く駆け、力でまさり、何よりバスケセンスとテクニックで、群を抜いていた。
 西澤のチームの得点ペースは半減し、相手チームは倍のペースでポイントを稼いだ。そのほとんどが伊東の、もしくは彼女のアシストによる得点だった。
 辛うじて試合に勝てたのは、前半の貯金があったればこそだ。最終的な点差は、わずか4点。ツーゴール差だった。伊東の遅刻に、救われたようなものだ。

「楽しかったよ、ニシザー」
 コートから引き上げようとする西澤に、伊東が声を掛けた。汗だくの表情は晴れやかだ。対する西澤は仏頂面だ。どちらが勝者で敗者かわからなかった。
「試合に遅刻さえしなきゃ、勝てたってツラだな。そう言いたいのか?」
「寝坊したのはワタシが悪いんだし、そんな言い訳はしないよ」
(………)
 開いた口がふさがらないとは、こういうことかと西澤は実感した。
「また、やれたらいいね。今度は負けないよ」
 伊東が握手の手を差し出した。次の瞬間、風船を割ったような、特大の音が響いた。西澤がその手を平手で、はたいたのだ。
「今度は遅れんな。今日の借りを返してやる」
 きびすを返しかけて、再び「それから――」と振り返り、付け加えた。
「ボクの名前は西澤だ。ニシザワ! ちゃんと呼べ」
 今度こそきびすを返した西澤の背中を、真っ赤にヒリつく手のひらにフゥフゥと息を吹きかけながら、面白そうに伊東が見つめた。
「覚えとくよ、ニシザー」

 どのくらいの時間、そこでそうしていただろうか。床にじかに腰を下ろし、スコアブックを眺めていると、控え室の扉が開いた。
「まだ、ここにいたんだ」
 同じ二年のチームメイト、鮎川だった。
「行こうよ、みんな待ってる」
「先に行っていいよ。ひとりで帰る」
「気持ちはわかるけどさ」
 鮎川は西澤の前に腰を屈めた。
「勝ったのは、うちなんだから……」
 立ち上がった西澤は、開いていたスコアブックのページを鮎川の眼前に突きつけた。
「30点。アイツ一人に30点だ。後半だけでな。これで勝った気になんてなれるかよ!?」
 鮎川の胸元にスコアブックを放り投げ、控え室を出た。胸中には、ある決意があった……。

 その屈辱の夏から一年――。待ちに待ったリベンジの機会が訪れた。地区大会決勝という、極上の舞台で。
「あれ見てよ、あれ! 神室(かむろ)監督じゃない、あのひと!?」
 早川の浮ついた声に、コートのベンチから気のない視線を観客席に向けた。
「誰だよ、あの車椅子?」
「知らないの!? 信じらんない。天女(アマジョ)の神室龍哉(たつや)監督じゃないの!」
 天女(アマジョ)なら西澤も知っている。というより、天島でバスケをやっていて、その名を知らぬ者はいまい。正式な校名を天島女子大学附属高校という。天島の高校女子バスケの世界で、長くトップの座に君臨し続ける名門中の名門。新設校として創立以来、県内無敗――! その常勝チームを指揮する監督こそ、“車椅子の智将”と呼ばれる神室龍哉である。
「もしかして、うちのこと見にきたのかな? どうしようッ、スカウトなんかされちゃったら!」
「ないない、それは」
 鮎川が手を振って否定した。
「なによおッ、あたしだってそれなりに――」
「誰かを見にきたとすれば、それはあんたでしょ」
 早川の文句には取り合わず、鮎川は話の矛先を西澤に向けた。
「どうだか」
 西澤の反応が、鮎川には意外だった。自信に満ち満ちて、「当然だろ」とでも言うものとばかり思っていたからだ。西澤のこの一年の頑張りは半端でなかった。バレー部との掛け持ちもやめ、バスケットに専念したのは、間違いなく、打倒・伊東を期したものだったはずだ。
「誰を見にきたかなんて、わかりゃしないし、どうでもいいんだよ」
 西澤はシューズの紐を結んで、立ち上がった。
「試合が終わったあと、あの監督さんが、こっちを見てりゃいいのさ。――お目当てが、アイツだとしてもな」
 相手ベンチの伊東真希の姿を目線に捕らえて言う。鮎川の表情が晴れた。それでいい。それでこそ、西澤仁美だった。
(遅刻せずに来たことを誉めてやる)
 伊東に念を送るように、心のなかでそう呟いた。
(約束どおり、去年の借りを返してやる。覚悟しな、伊東さんよ)
 その念に応えるように、伊東が振り向いた。ふたりの眼と眼の回線がコネクトした。
 それへ伊東は、パチリとウィンクを送って寄こした。

「腕をあげたねえ、ニシザー」
「………」
 ふたりの実力差は縮まっていた。と、鮎川は思う。
 それは試合のスコアに、よく表れていた。去年の対戦では、伊東が入った後半以降、一方的な相手ペースだった。だが、今年は最初から伊東が出ているにも拘わらず、ここまでリードを奪われてはいたものの、その差は一桁を超えることはなかったからである。
 ボールが渡った伊東を西澤がマークする。ストライドを広くとり、両腕をひろげる。背丈で上回る彼女が、伊東よりも低く腰を落としていた。隙はない。去年の対戦以来、好きではなかったディフェンスを鍛えに鍛えた。
 第3クォーター終了間際、46対55。ロースコアながら、ここまで競ったゲームをしてこれたのは、稼ぎ頭(スコアラー)の伊東を西澤が抑えていたからにほかならない。だが――。
 相手選手のひとりが声を掛けて、膠着状態の伊東にボールをもらいに来た。
 チラ、とほんの一瞬、西澤の視線がそちらを向く。
 その一瞬を逃さず、伊東がコートを蹴った。
 だが西澤は、そのコースもタイミングも読んでいた。視線を動かしたのは釣り――誘いだった。
 にも拘わらず、伊東の初速は、西澤の読みを凌駕した!
 伊東を追おうとして、前のめりにバランスを崩す。脳が命じたダッシュに、脚がついてこれなかった。自他ともに認めるタフネスの西澤が、消耗しきっていた。
 伊東がシュートを決めた直後、ブザーが鳴った。崩れるように膝をつき、四つん這いで喘ぐ。滴る汗が、ポタポタとコートに水滴をつくった。
 46対57――。ついに点差が二桁に開いた。なんとしても、一桁のビハインドで第3クォーターを終えたかった。重い重い2点を入れられた。
「ホイ」
 視界に手のひらが飛び込む。伊東が手を差し伸べていた。
「やっぱり、ニシザーとの勝負は面白いや。さっきは、まんまと引っかかっちゃった。でも、最後はワタシのスタミナ勝ちかな」
 伊東は涼しい顔をしていた。汗だくではあったが、西澤のような疲労感はない。どうなってるんだと思う。自分も疲れているが、コイツからも同じだけ体力を絞り取ってやったはずだ。まだまだ、無尽蔵にスタミナの蓄えがあるというのか――?
「西澤だ、つって――」
 言葉を途中で切った。言うだけ虚しく、喋る体力すらもったいなかった。癪に障るが、伊東の手を取ろうかと思う。この際、ほんのわずかでも敵に塩をくれるというなら、もらっておいて損はない……。
 西澤の手が伊東の手を取りかけ……止まり、再び距離をおいて、勢いよく彼女の掌を打ち鳴らした。伊東は肩をすくめて苦笑いし、自分のベンチに帰っていった。
(なっちゃねーな、ボクとしたことが……)
 自分の脚で、立ち上がる。
(みみちいソロバン弾いて、あのバケモンに勝てるかよ!)
 損得と、プライドを秤にかければ、重いのは後者。それが西澤仁美だった。

「垣之内、八木沢、お前達も伊東につけ」
 だが、監督の指示は、その西澤のプライドを痛く傷つけるものだった。
「西澤と三人で、伊東を潰せ!」
「……そんな!」
「いかに伊東でも、三人で囲まれれば、動きは止まる。伊東が止まれば、チーム全体のリズムが狂う。相手はワンマンチームだ」
「待ってください!」
 監督は西澤の不服を意に介さなかった。
「実質2対4で、最終ピリオドを戦う。鮎川、早川!」
「ハイ!」
「お前達ふたりで、11点差をひっくり返してこい。お前らならできる!」
「ハイ!!」

 硬く拳を握り締めて俯く西澤に、はじめて監督が眼を向けた。
「伊東との一騎打ちなら、もう結果は出ている。お前の負けだ、西澤。お前自身が、一番よくわかっている筈だ」
「………」
「辛いだろうが、堪えろ。チームの勝利より、優先すべきものはない。返事は?」
「……わかりました」
 鮎川が黙って西澤の肩に手をおいた。

 早川がだめ押しの2点ゴールを決め、決勝戦は終わった。64対60。去年と同じ、4点差の勝利だった。
(さすがに今回は握手しに来ないか……)
 西澤は相手ベンチの伊東の様子を見た。泣いているチームメイトの肩や頭をたたいて、彼女たちを慰めていた。
 視線を感じて、こちらを振り向いた。試合前と同じように、ふたりの視線が結ばれる。
(そんな顔して見るなよ。悪いが、これもバスケの兵法さ)
(結局、お前のチームが弱かったんだ。お前がフルタイム出ても、勝てなかったんだからな)
(個人的な借りは返せなかったが、勝ちは勝ちだ。ザマァ見ろ、だ)
 そこまで考えて、伊東に背を向けた。
(ダメだ……)
(やっぱり、勝った気がしねえ……)

 一方、伊東真希はといえば、西澤が思うように、三人マークに腹を立てていたわけではなかった。
(優勝したってのに、つまんなそうな顔……)
(また、はたかれそうだから、握手はやめとこっと)
(あんたはどう思ってるか知んないけど、ワタシは楽しかったよ。去年より、ずっと)
(ずっと巧くなってたよ、ニシザー。……ワタシにはまだまだ及ばないけど、ね)
(でも、ニシザークラスがいると、さすがに三人マークはキツいや。タカシの言うとおりだなぁ、やっぱ)

――強いチームへ行け、真希。
――お前ひとりで通用すんのは、せいぜい地区予選までや。いまの中学では、ちょっと強いチームと当たれば、徹底マークで潰されて終わる。
――実力に見合うチームにいてこそ、お前のスキルは生きる。弱小チームで強豪を倒す。そんなマンガみたいなことを考えんのは、やめとけ。

 その言葉の主である“タカシ”の姿を見つけて、伊東は大きく手を振った。タカシがこちらにやってくる。強いチームの監督を連れて。

 西澤のわきを神室監督と、彼の座す車椅子を後ろから押している長身の男子がすれ違った。西澤は立ち止まって振り返る。彼らはまっすぐ、相手チームのベンチ――正確には、伊東真希のほうへ向かっていった。
 すれ違いざま、後ろの男子と眼が合った。背は高い。180は優に超えている。だが、顔つきはまだ少年のそれだった。年の頃は、同じぐらいだろう。これが西澤と貴城崇士(きしろたかし)との、最初の遭遇だった。むろん、このとき彼女はまだ、彼の名を知る由もない。のちに伊東真希を通じて、彼とは再会することになるのだが、それはこの物語とはまた別の話である。そして、神室監督はといえば、西澤にはまったく一瞥もくれなかったのだった。

 西澤の視線の先で、伊東と神室が談笑している。監督(伊東の中学の)のほうが、むしろ恐縮しきりで平身低頭していた。
(なるほどね)
(案の定、お目当てはアイツかよ)
(こっちは見てくれなかったな……)
 彼らに背を向け、試合会場をあとにした。地区大会優勝の歓びはなかった。
(わき見もしねえんでやんの)

 その後、西澤の中学は県大会で初優勝を飾り、部の悲願である全国出場を果たした。
 中学最後の夏に青春の炎を燃やし尽くし、三年生達は心おきなく部活を去った。ただひとり、西澤仁美を除いて。
 それを象徴するように、県大会の優勝トロフィーとともに部室に飾られた記念写真には、彼女の顔にだけ笑みがなかった。



第1稿 2007.11.11