第2Q ラバーボーイ

  11

「アカネちゃん、好きだよ」
「わたしも博くんのこと、好きよ。いままで、気付かなかった。こんなにすぐそばに、わたしの王子様がいたなんて……」
 妄想にしても、もう少しリアルな科白は浮かばないのかと言いたくなるような愛の言葉を交わし、二人は互いの顔を近づけてゆく。
 唇と唇が重なり合う。もちろん、アカネがつま先立ちをしている、というおまけも忘れてはいない。
 この年頃の男子は性急である。ベッドインへの手続きも、一枚ずつ服を脱がせる手間も、前戯もなにも、全部早送りにして、二人はすでにドッキングしている。
「素敵だよ、アカネちゃん……」
 押し寄せる快感の波に抗して、せいいっぱい余裕ぶった科白を口にする。
「お願い、じらさないで。もっと、もっと……」
「アカネちゃんてば、意外とエッチなんだね」
「……バカ。意地悪しないで」
 言葉嬲りに恥ずかしげに顔を背けるその仕草と表情が可愛く、いじらしい。ますます愛おしさと興奮が昂まってくる。
「じゃ、いくよ」
 腰のグラインドの速度を上げる。無論、実際にスピードアップしているのは、右手の動きなのだが。
「博……博ィィィ」
「ああ……アカネ……」
 めいっぱい張りつめた♂が、いままさに精気を迸らせんと、急速に臨界点に近づいてゆく。
「あン、あン、あッ」
「アカネちゃん、アカネちゃん……」
「兄ちゃん」
「アカネちゃん!」
「兄ちゃん!」
「アカネちゃん……ヘッ?」
 博が我に返ると、自室のドアを開けた弟の姿が目に飛び込んだ。
「わッ……部屋に入るときは、ノックぐらいしろよ!」
「何度もしたんだけど」
「なんなんだよ!」
「上田さんって、女の人から電話。
 ……マスかくのに忙しいからっつっとこうか?」
「違うッ、違うぞ! なに勘違いしてんだ。俺はいまトレーニングをだな……」
「下半身ハダカで何のトレーニングだか」
 そう言ってドアの向こうに消える。
(やっぱりケイタイほしいよなー)
 そうひとりごちて、急いでパンツとジャージを履き、階下の電話に出る。
「お、おまたせッ」
(遅せーよ。あにやってんだよー)
「ごめん。ちょっと……」
(なんか息荒いよ。どうしたん?)
「ちょっとその、トレーニングをしてて……」
(トレーニングぅ? 長谷川がぁ? なーんか、ヘンなことに耽ってたんじゃないの〜?)
 正鵠を射た洞察ではあったが、まさか自分がオナペットにされていようとは、想像もしていない。
「……それより、なに? こんな時間に」
 話題をそこから逸らすように、博が用件を尋ねる。
(悪ぃんだけどさー、いまから出れる?)
「いまから? いいけど、なに?」
「いやさー、長谷川ンとこ、電話、玄関先じゃない? そこで長話に付き合わせるのも悪いしさー。ちょっと折り入って話したいことあんのよ」
「わかった。どこに行けばいい?」
「いまベニーズにいるから。すぐ来れるでしょ」
 近所の24時間営業のファミレスの名前を告げた。
「二十分ぐらいで行けると思う」
「じゃ、待ってるから」
 おめーもいい加減ケータイ持てよ、とついでに言ってアカネは電話を切った。

 深更にアカネと二人っきりの時間を過ごせる。それだけでも、ケータイを持ってなくてよかったと、博は現金に考えを翻した。弟に自慰現場を目撃されるぐらい、それと引き替えにすればどうってことはない。
 折り入って話したいこととは何だろうか? まさか告白だったりして? 博は一瞬そう考えてニヤつき、すぐにその虫のいい想像を棄てた。
 アカネとは中学時代からの昔なじみである。中一でクラスメイトになった彼女に恋して以来、我ながら長い片想いを続けている。別に好きでもなかったバスケを始めたのも、もっと上の高校に行く学力はあったのに日之出が丘に進学したのも、すべてはアカネのためである。
 その甲斐あって、かくのごとく仲良しにはなれた。自分の祈りが天に通じたのか、高校では一年二年を通じて同じクラスにもなれた。だが、一向に「異性の友達」以上の間には進展できずにいる。
 たまに中学時代の友人に遭えば、必ずアカネとの間のことを訊かれ、その度にいい加減告白(コク)って、男女の付き合いを始めるか、玉砕して次の恋を探すかしろと言われる。その通りだと自分でも思う。だがいつも、いざとなるとその勇気が出ない。それによって、いまの仲さえも壊れてしまうことが怖かったし、それ以前にアカネと話していると、彼女の一方的なペースに巻き込まれて、それどころではなくなってしまうからなのだが。
 それにしても。俺の都合が悪かったり、断ったりしたら、どうする気だったんだ? と、ファミレスへと向かう道すがら、博はふと考えて、そして考えるのをやめた。彼女はそんな可能性など、微塵も考慮してはいないのだ。過剰なまでに楽天的で脳天気。何事も自分に都合良く物事が運ぶと思っている。それで何度も痛い思いをしているはずなのだが、ことそれに関しては学習能力が欠如しているのか、ケロリと忘れてしまえるらしい。そういう人間なのだ。上田茜という女の子は。その点は、自分の好意を知った上で振り回しているのではないか、という疑心暗鬼は抱かずに済んでいるのだが……。
 アカネとの夜の逢瀬は心弾んだが、彼女の用件が何かを想像すると、ちょっとした怖れも抱かないではなかった。それはきっと無理難題に違いなく、そして何を要求してされようと、自分は決して断れないことをよく自覚しているからだった。

  12

 待つ、というのは、わたしにとって最も苦手なことのひとつだ。
 ひとに限らず、何かを待つ時間というのは、なぜこんなにも長いのだろうか。
 おかわり自由のティーパックのハーブティーを飲みながら、わたしは長谷川がやって来るまでの時間を持て余していた。リストウォッチに目をやると、電話をしてからまだ5分しか経過していない。
 家を出る前に、電話を入れればよかったのだ。いっつもそうだ。オッチョコチョイの慌てん坊。みんなからそう言われる。
 でも、あのビデオを視た焦りと懊悩のさなか、一条の閃きを得たわたしは、堪らずに家を飛び出して、とりあえずここに来てしまったのだ。あれこれと段取りを巡らす気持のゆとりなんてなかった。
 去年の新人戦決勝。スーパールーキーと呼ばれていた頃の伊東真希がそこにいた。当時から噂には聞いていたが、実際のプレイを視たのは初めてだ。天羽さんもそうだが、世の中には本当に凄いプレイヤーがいる。
 新人戦、か。もし、出場してしていたなら、そこで初遭遇を果たしていただろうか。新人戦には、出場できなかった。ちょうど去年の今頃、わたしを含む一年メンバーは、5人を切ってしまったからだ。
 持て余す間延びした時の流れに身をまかせながら、わたしはそのほろ苦い思い出をリピートさせていた。


 オーシャンズクロスの異名を持つ天島県は、十字の縦横をちょうど東西南北に伸ばしている。日之出が丘高校はその東端に位置する、青竜市日之出が丘にある。天島のどこよりも早く日の出を見るので、日之出が丘。安直に、そう名付けられたらしい。別に地形的には、「丘」でも何でもないのだけど。
 校舎の屋上からは、天島の東端に面した海がはっきりと見渡せる。たっぷりと潮を含んだ風は、すっかり屋上を囲むフェンスを錆びつかせている。
 昼休みのその屋上に、わたしたち三人はいた。
「やめる?」
 責めるような口調になるのをわたしは抑えることができなかった。
「うん……。いままで頑張って来たけど、もうこれ以上は……。正直、秋月先輩達のやり方には、ついていけない」
「ちょっと待ってよ。もう一年は5人ギリギリなんだよ? マリまで辞めちゃったら……」
 新人戦はどうするのだ? という、言わずもがなの疑問をわたしは呑み込んだ。ヒカルは何も言わず、黙って耳を傾けている。
「悪いんだけど。我儘言ってゴメン。でも、もう私、耐えられない」
「そんなこと、言わないでさあ。この辛い時期を乗り切ったら、きっと楽しくなるって! バスケ続けて良かったって、思えるようになるって。だから、ね。もう少し、一緒に頑張ろうよ。お願いだから、そんな辞めるなんて言わないでさあ」
 マリは辛そうにかぶりを振る。
「お願い……。そんな風に私を責めないで。もう自由にして……」
「責めてなんか……。マリだって、バスケが好きで、バスケ部入ったんじゃないの?」
「バスケは好きよ! 好きだけど、でも全てじゃない。いやなの。いまみたいに、勉強と食事と風呂と寝てる時間以外の全部バスケに費やすような生活! 私はそんなバスケの鬼じゃない! 私だって、たまには街へ出て羽を伸ばしたい。彼とデートだってしたい。なのに、日曜まで練習に駆り出されて! もうこんな生活、私は耐えられない!」
「ウソだね」
 わたしははっきり断言した。
「それは後付けの理屈でしょ? マリは練習がキツいのに耐えかねて、キブアップしたいだけなんだ。続ける根性がないだけ。そうでしょ? はっきりそれを認めたら?」
「そうよ! 私はあんたたちみたいに根性ないわよ! それが何? 悪い? 私はもっと楽しくバスケがやりたかった。アカネや秋月先輩がケイベツしてる、サークル的な活動で私は良かったの! 私だけじゃない、三年の先輩達だってそう思ってるんだからね。専任の監督もいない弱小校が、試合の勝ちに拘って、吐くまでトレーニングして、バカバカしいって思わない? ……いいわよ。別に反対なんかしない。秋月先輩や大久保先輩が、この弱小チームを天女や浄善みたく強豪にするってんなら、勝手にすればいい。でも、私は降りる。それがいけない? ねえ、私なにか間違ったこと言ってる? ねえったら、なんとか答えなさいよ!」
「もういいよ、マリ。マリの気持ちは、よくわかったから」
 ヒカルが初めて口を開いた。興奮したマリをなだめる。
「私たちだって、いまのバスケ部が好きで、続けているだけなんだから。だから、好きになれなくて辞めるのだって、気兼ねも負い目も感じる必要なんてないよ。仲間が減っちゃうのは寂しいけど、しょうがないよね。マリが、自分で考えて、自分で決めたことなんだもんね。私たちだって、無理強いする権利はないんだよ」
 最後の言葉は、わたしに向けて言った。わたしはもう、マリのほうを向いていなかった。フェンスの向こうの海を見つめるように、二人に背を向けて。いまにも泣いてしまいそうで、こらえるのに精一杯だった。
「……ごめん。私、言い過ぎた」
「詫びなんか、いらねーやい」
 涙声になってしまったのが恥ずかしい。
「行けよ。行っちまえよ。お前みたいな根性なし、こっちで願い下げだいッ。彼氏とデートでもなんでもして、バラ色の青春とやらを謳歌してろッ」
「アカネは――」
 マリが背中越しにわたしに訊いてきた。
「やめたいと思ったことはないの? 毎日毎日、秋月先輩に居残り特訓でしごかれてさ。しょっちゅう吐いてるんでしょ」
「ねえよ。ただの一度も!」
「……そう。凄いね。アカネも、ヒカルも、きっと将来凄いプレイヤーになるんだろうね。私は、脱落したけど……。それじゃ」
 気まずい雰囲気のなか、マリが去っていくのを背中で感じた。

「畜生……畜生……」
 そう呟きながら、赤錆びた金網に何度も何度も拳を叩きつける。我慢する必要もなくなった泪が、とめどなく溢れては頬を伝う。
「根性なしがッ。おめーなんかを仲間だと思ってた、おれが莫迦だったよ!
 やめたいかだと? 誰がやめるもんか! そりゃ特訓はつれーよ。当たり前だろーが! だからって、尻尾を巻いて逃げられるかよ! 見返してやるんだ! 鬼の秋月をな! あいつがおれに叩き込んだ体力も、テクニックも、いつか全部あいつ自身にお見舞いしてやるんだ! くそっくそっくそっ」
 そう言って、金網をめちゃくちゃに殴りつける。
「やめてアカネ、お願い。怪我しちゃうから!」
 ヒカルがそんなわたしの自棄を止めようとする。
「ケガだと? ケガがどうした。どうせ、もう新人戦には出れねーんだ!」
 あとで思い返せば、無茶苦茶な理屈だ。新人戦は選抜(ウインターカップ)後の年明けに行われる県大会である。まだまだ半年以上も先の話なのだ。
「怪我されちゃあ、困るんだけどね」
 ギクリとした。それはあの人の声だったからだ。

  13

 その声がした方向に、あの人はいた。泣く子も黙る《鬼軍曹》、秋月先輩が!
「なんだって。誰を見返すって? え、おい」
 薄い笑みを浮かべた秋月先輩の顔が、おでこをくっつけんばかりに迫ってくる。怖いッ、怖すぎる。
 そうやって、さんざんビビらせておいて、秋月先輩はイイ子を誉めるように、ポンと掌をわたしの頭頂に乗せて言った。
「いい心掛けだよ。その根性、忘れんなよ」
 ホッと胸を撫で下ろす。いま思えば、あの頃のリサ姉はマジに怖かったが、こういう度量も確かに広かった。本当に、チームを強くすることだけを考えていたのだ。
「先輩、マリが――岡野さんが、退部するそうです」
「知ってる。さっきキャプテンから聞いた。やんわり咎められたよ。潰す気か、ってね」
 ヒカルの報告に、さほど驚いた風もなく、あっさりと答える。
「潰れちゃあ、困るけどね。でも、私はいまのやり方を改める気はない。ついて来れる者だけ、ついて来ればいい。あんたらみたいにね。
 これで一年は、あんたらも入れて4人、か。このぶんだと、江藤と川島も、やめるのは時間の問題だろうね」
 まさか、と思ったが、わたしのほうが甘かった。秋月先輩の予言通り、しばらくして彼女たちも部を去った。そして一年は、わたしとヒカルだけが残った。
「去る者は追わず、ってね。気の毒だけど、新人戦は諦めな。頭数だけ揃ったって、勝てやしないんだから」
 わたしに言い聞かせるように秋月先輩は言った。
「それより、IH(インターハイ)だよ。IH予選は、あんたらにも出てもらうからね」
「!」
「だからさ」
 そう言うと、わたしの手を取って、両の手の甲を点検する。
「つまんないヤケ起こして、怪我なんかしてもらっちゃ困るんだよ」
「あ……秋月先輩……」
「お前らをベンチウォーマーにはしない。先輩方は不服だろうけど、ゼッタイに承知させる。いまの三年、口ばっかで体力ないんだから。……おっと、いまのはココだけの話ね」
 最後の科白のあとに、イタズラっぽくウィンクしてみせる。
 そんな自分の行為に照れたのか、頭を掻きながら、じゃな、と言って屋上の出入り口へときびすを返す。
「えぐっ……えぐっ……秋月先輩ィィィ」
 今度は、嬉しくて、また泪が溢れた。
 そんなわたしをヒカルは、顔中の体液で制服が汚れるのも構わず、そっと肩に抱き寄せ。無言で「よかったね」と、祝福してくれた。

続く 14〜17

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