ダブルスコア   75

 伊東が、やたら大きく見える。
 伊東の掌が。腕が。脚が。大きく拡がり、アカネの視野を埋め尽くす。
 伊東真希、168センチ。アカネ、152センチ。身長差、16センチ。ミスマッチである。だが、アカネの眼に映っているのは、それどころではない、とてつもない巨人の姿だった。
 錯覚だ。そう自分に言い聞かせ、ピボットを繰り返しても、伊東の身体が、背後の巨大な壁となって、立ち塞がっている幻影を振り払うことができない。おとがいを伝い、コートにしたたり落ちる汗が、冷たい。
 あしらわれている。そう認識することは、勝ち気なアカネのプライドを傷つけた。だが、どれほどに闘志を燃やしても、子どもが大人に軽くいなされるように、空回りさせられている感覚を抑えることができなかった。
 ドリブルしなければ。そう思っても、その途端に奪られてしまいそうな気がして、アカネはいたずらに、ピボットを繰り返した。
「アカネッ」
 5秒バイオレーションの寸前、前に回り込んだヒカルにパスを渡す。再び、アウトサイドからの、ヒカルのオフェンスが始まる。
(来なさい。何度もやられるもんか)
 スリーポイントラインを挟んで、相羽は少し距離を置いて構えた。この距離なら、少々のことで、抜かれる懸念はない。だが、ヒカルはその場でジャンプして、ボールを放った。
(シュート!? この距離から!?)
 シュートではなく、高いパスだった。チカがジャンプして、ボールをキャッチする。間髪入れず、ゴール下に斬り込む。だが、むざむざフリーにする安部ではなかった。
(……さすがよね。仮初めにも、浄善でエースを獲っただけのことはあるよ)
(いままで一番怖いよ。謙虚になったあんたは!)

「でしょうね」
 安部は、あっさり認めた。
「監督に言われちゃった。『お前では大久保は荷が重い』って。どう、うれしい?」
「………」
「癪だけど、得点力はあなたに譲るわ、今回は。でももう、あなたに点はあげない」
「……!」
「プライドは棄てた。なりふり構わず、格上のプレーヤーと当たるつもりで、あなたを止める。個人では負けても、チームでは負けない、絶対に。覚悟しといて。チカ」

 マークが外れないまま、強引にシュートへ。
(こんな手は、使いたくなかったけどさあ)
痛(テ)ッ」
 顔を歪め、ボールを落とす。
(ファウル取れ、ヘボ審判!)
 ホイッスルが鳴った。
「ディフェンス、白5番」
 安部が鼻息をひとつついて、右手を上げた。

「ヘッヘッ、ザマぁ」
 チカとハイタッチを交わしたリサは、彼女の口元を歪めた笑みに、自嘲を感じ取った。頼りになる女(やつ)だと思う。いまのリサにとっては、これほど有り難いプレーはなかった。ひとつは、プライドの高いチカが、そこまでして得点のチャンスをもぎ取ったこと。もうひとつは、休みと、作戦指示の時間を与えてくれたことだ。
「決めろよ。二本とも」
「誰に言ってんだよ」

 ふふん、と登戸 彩は笑った。
「そうだよなあ。ダーティなプレイの借りは、そうやって返しゃいいんだよなあ」
 そう言う彼女を、大木ゆかりは複雑な面持ちで見つめた。


「ゆかりのファウルだと!」
 新人戦・準決勝。天島女子大附属対白虎四高――。
 第4Q半ば、大木ゆかりにファウルが告げられた。これで5ファウルだった。西表比呂子がコートに尻餅をついている。
「当たってねえよ。あいつが勝手に転んだだけじゃねえか! どこに眼ぇつけてんだよ、審判!」
「なんだって!?」
 主審が険しい表情で、食ってかかる彩を睨んだ。
「やめて、彩ちゃん!」
「この糞審判ッ、てめーが退場しろ!」

「……ディスクォリファイイング・ファウル!」
 彩のこの暴言に、ディスクォリファイイング・ファウルが下された。サッカーで言うところのレッドカードに相当する、最も悪質な行為に与えられるファウルである。罰則は、即退場。

「ヘッ……」
 ポカンとした彩の表情はやがて、悽愴な笑みをその顔に刻みつけた。
「上等じゃねえか。退場喰らっちまったら、もうなにやろうがおんなじだよなあッ。覚悟しな、この糞野郎!」
 審判に飛びかかろうとする彩を、チームメイトが必死に押さえつけた。キレると手がつけられなくなるのを誰もが知っていた。
「なんで止めんだよッ。離せ、離せよッ。天女ばっかり贔屓にしやがって、この野郎、ブッとばしてやるんだッ」
「同じじゃないよ。チームファウルになるんだから!」
「お願い、ゆかり! このコ止めて!」
「……彩ちゃん、ごめん」
 ゆかりのその声を耳にした途端、延髄に強い衝撃を感じて、彩の意識は途絶えた。

 すぐに、眼は覚めた。タオルを敷いた床に寝転がされ、同じく退場したゆかりが、心配そうに上から覗き込んでいた。後頭部のアイス枕が心地よかった。
 チームベンチエリアではなく、控え室である。バスケットボール競技規則・第47条の定めにより、ディスクォリファイイング・ファウルが宣せられた者は、ゲームが終わるまで、コートのある建物から立ち去らねばならない。
「大丈夫……?」
「大丈夫じゃねえよ。頭がズキズキすらあ。思いっ切り手刀くれやがって。ちったあ、手加減しろい」
「加減した、つもりなんだけど……」
「試合は?」
「わからない。彩ちゃん運んできて、ずっとここにいたから。見てこようか」
「ああ、ゆかりはベンチに戻んな。心配すんな。おとなしくしてるからよ。勝てそうだったら、報告してくれよ」
「うん。じゃ、見てくるね」
 そうは言ったが、もはや勝つ見込みがないことはわかっていた。激昂は収まっていた。取り返しのつかぬことをした、後悔の念だけがあった……。

 果たして、試合終了のブザーが鳴るまで、ゆかりが戻ってくることはなかった。大黒柱とエースを同時に失った戦力ダウンは大きく、形勢は一気に天女に傾いた。結果は、二十点以上の大差をつけられて、完敗に終わった。

  76

「彩ちゃん、ねえ、もう帰ろ……」
 すでに制服に着替えた、ゆかりが言った。彩は控え室の壁に背を預けて、ぼうっと床に腰を下ろしている。ユニフォームのままだ。
「身体が冷えちゃうよ……」
 ほかには、誰もいない。もう何十分、そうしていただろうか。
 茫然としているように見えたが、彩の心は千々に乱れていた。勝てたかもしれない試合だった。あの天下の天女にである。終始リードされてはいたが、点差は僅かだった。ゆかりの退場は大きな痛手だったが、自分さえ踏みとどまっていれば、逆転できたかもしれないのだ。それを自分自身で台無しにした。そう思うと、申し訳なさでいっぱいになった。
 だが、悪いのは自分だけか? そんな思いもあった。そもそも、本当の悪(ワル)は誰だ? 汚いやり口で、ゆかりを退場にし向けた西表ではないか。わざと転んだことを見抜けもせず、ゆかりにファウルを与えた審判ではないか!
 誰かになじられたら、そう言い返したろう。だが、誰も彩を責める者はいなかった。彩ですら秘かに畏怖する、監督さえも。そのことが尚更、彩の心中を鬱屈させていた。

 ノックの音がした。
「入るぞ」
 野太い声がして、がっしりとした体つきの男が、控え室の扉を開けた。年の頃は、五十代半ばといったところか。顔は、いかつい。初対面の人が見たら、マル暴専属の刑事か、それともマル暴のいずれかだと思うだろう。だが、彼はれっきとした教師なのだった。担当は国語。しかし、天島でも一、二を争うワルの巣窟、白虎四高の生活指導となれば、この強面も、むべなるかなと言わねばなるまい。
 そして、男・女バスケ部を兼任する、監督でもある。権藤次敏(ごんどうつぐとし)。それが、この男の名前だった。
「まだ、いたのか。さっさと着替えて帰りなさい」
 それだけ言うと、控え室を後にしようとした。
「それだけかよ、おっさん」
「ん?」
 彩の言葉に、権藤が振り向いた。
「ほかに言いたいこと、あるんじゃねえのか。いいぜ。説教聞く用意は、できてるからよ」

「説教の必要が、あるのかね?」
 しばらく間を置いて、権藤は答えた。
「今日の結果が、なによりの教訓じゃないのか。登戸」
「これがバスケかよッ」
 彩は立ち上がって叫んだ。
「汚ねえよ、アイツら。あんな真似してまで、勝ちてえのか! あの眼が節穴の審判にもムカつくが、もっと赦せねえのはアイツらだ! なにが県内無敗の王者だよ。なにが、フェアプレイの精神だよ!」
 権藤は、深い溜め息をついた。
「いつから、そんなに甘くなった。登戸」
「あんだと……」
「ルール無用の喧嘩に明け暮れてきたのじゃなかったのか。相手が得物を持っていたから。向こうが助っ人を大勢連れてきたから。そんなことが、負けたことの言い訳になるのか?」
「バスケはスポーツだ。喧嘩じゃねえ。そう教えてくれたのは、あんただぜ、おっさん」
「そうだ。だがスポーツとて、純粋にフェアではありはせん。世の中と同じ、やり切れんことは多い。だがな、そんなことは、負けたことの何の言い訳にもなりはせんのだ」
「やった者(もん)勝ちだって言うのか? おっさんは!」
「誰にでもできると思うのか? なら、やってみるがいい。自分から転んだ、間抜けになるだけだ」
「………」
「審判の死角にいる。そのことを見極めた上でないと、自分で墓穴を掘るだけだ。咄嗟の判断で、それができる視野の広さが要る。いまの君らには、無理な芸当だよ。それをやってのけた、西表君が巧いのだ。よく覚えておけ。審判をペテンにかけるプレーは、高等技術だ。これも、バスケだ。それと、もうひとつ」
 権藤は続けて言った。
「西表君のプレーと審判のジャッジ。それによる、大木の退場。そのことと、お前のつまらん癇癪で審判に暴言を吐き、退場を喰らったこととは何の関係もない! 他人をあれこれ責める前に、自分の未熟さをよく見つめ直したらどうだ!」
「全部オレが悪いのかよ!? オレだって、面が気に食わないからって、審判に文句つけたわけじゃねーよ!」
「彩ちゃん、やめて。誰も、彩ちゃんが悪いなんて、思ってないから」
「……スカッとしたか?」
 声のトーンを落として、権藤が訊いた。
「審判に暴言を吐いて、あれで良かったと思っているか? そうではあるまい。もし最後までコートに立っていたら……? そう考えて、悔やまれてならんのじゃないのか。精一杯やって負けた悔しさよりも、もっと始末の悪い感情だ。なにがそれを招いた? 西表か? 審判か? その前に4つもファウルを出した大木か? 一番の原因は、誰でもないお前自身だ。
 苦しみの責任を他人に押しつけるのはたやすい。だが、自分の未熟さを直視しないうちは、いつまでもその苦しみを乗り越えることはできんぞ。もっと強くなれ、登戸。選手としても、人間としてもだ」

  77

 権藤監督が去った控え室には、再び彩とゆかりの二人が残された。
 彩は俯いて立ったまま、身じろぎもしない。
 ゆかりはその肩に、そっとジャージをかけた。
「身体、冷えちゃうから……」
 それが合図であったかのように身体を翻すと、彩はスチール製のロッカーに拳を叩き込んだ。ガンッという音とともに、ロッカーの扉がいびつに撓んだ。
「暴れ足りねーな、ゆかり」
「彩ちゃん!」
「ガッコに戻って、練習でもすっか」
「え……あ……」
 不安な表情は、戸惑いに。やがて、満面の笑みへと変わった。
「……うん!」
(強くなれ――か。お望み通り、強くなってやらあ。おっさんよお)

「でも、物に当たっちゃダメだよ。直していこうね」
 彩の拳によって作られた窪みが、ゆかりの手で、ベコッという音とともに平らに矯正された。
「………」


「2ショット」
 審判がフリースローの数を告げる。
 チカはフリースローラインの手前で、数度ボールをバウンドさせた。左右のフリースローレーンには、それぞれヒカルとアカネがいる。
 フリースローの際、フリースローレーンに沿って立てるのは、5人までである。シューター側が2人。相手側が3人。こうして、アカネがフリースローレーンに立つことは少ない。最後のフリースローが外れた時のボールの獲り合いで、小さいアカネよりは、もっと高い選手を配したほうが、有利だからである。
 今回そうするのは、事情があった。リサはモエミに話があったからである。

「須田のマークはキツいか?」
 リサはモエミの肩を抱くようにして、耳元で言った。
「はい……あ、いえ……」
 モエミの答えは混乱した。須田のディフェンスは堅かったが、それだけがポイント0の理由ではなかった。
「キツくないわけねえよ。浄善でディフェンスのスペシャリストって呼ばれるほどの女と当たってるんだ。――でも、いまのお前には、もっと厄介な敵がいる。モエミ、お前自身だよ」
「!」
「……って、バカッ、外してんじゃねえよ!」
 チカが1本目のフリースローを外していた。

「あ〜あ、見てらんないなあ」
 後頭部に両手を回して、西表比呂子が言った。
「一年のシューターで行きま〜す。って、言ってるようなもんじゃん。あれじゃ」
「別に、あっちを見に来たわけじゃないでしょ」
 相変わらず、ビデオ撮りに専念している、上原冬花が返した。
「そうだけどさ。なーんか、肩入れしちゃうのよねえ。浄善の相手チームには」
「負けてもらっちゃ、困るんじゃなかったの?」
「困るよ。負けてもらっちゃね。でも、楽勝で圧勝されんのも、ムカつくわけ。しっかりしろって言いたくなるわけ。おわかり? この複雑で矛盾に満ちた、常人の気持ち」
「人が非論理的な言動に及ぶ生き物だということは、承知してるわ。ヒロが『常人』かどうかは疑わしいけど」
「ヨユーで常人よ。あんたに比べればね」
「あのシューターを生かすことができれば、戦況は変わる」
 常人談義には取り合わずに、冬花は言った。
「第1Q、イーブン。第2Q、25対2。でも、そこまでの力の差はないと思う。外が決まってディフェンスが拡がれば、斎藤、大久保のインサイドのオフェンスも生きてくる」
「そう簡単にいくと思う? 須田だよ、あの一年の相手は」
「いかにフリーになるかね。でも、本当の問題はそのあと。たった独りでリングに向き合う。そのとき、シューターの真の実力が問われる」

 チカが二本目のフリースローを決めた。46対24。
 ドン、とリサがモエミの背をどやしつける。
「いいな、気をしっかり持て。あんなブサイクに負けんな、モエミ」
「はい!」
「聞こえたわよ」
 ギクッ、としてリサとモエミが振り返る。背後で須田 恵が腕組みをして仁王立ちしていた。
「言われたくないわね、あんたには」
 須田と一瞬の視殺戦を繰り広げて、リサはきびすを返した。
「どういう意味よ……」
「こういう意味でしょ」
 リサの呟きにすれ違いざま、チカの人差し指が彼女の鼻を押し上げた。顔を振って払いのける。
「やめてよね。低次元の争いは」
 そう言い残して、走り去る。
(……アイツよりは、イケてるだろ)
 ムッとしながら、そう思うリサだった。

 田渕のドリブルが、ゆっくりとセンターラインへと向かう。
「さあ、ダブルスコアで前半終えるピョンよ!」
(どいつもこいつも、ムカつくことばっかり言いやがって)
 突如、ダッシュ。リサの左サイドへ突進。
(抜かすかよ!)
 瞬時にリサも動く。田渕の侵入を阻む。
 顔も視線も向けることなく、田渕の右腕がパスを送る。右サイドにいる伊東に、ボールが渡った。
 アカネが大きく両腕を広げ、腰を落として構える。アカネの眼に、またしても伊東が巨人に映る。余裕の表情が小面憎い。抑えなければ。だが、自分にこの女を抑えることができるのか……? 不安が、アカネの闘志をも上回り、浸食していく。

 そのとき、会場全体にどよめきが走った。ヒカルがゴール下を離れ、伊東についたからである。ダブルチーム。
(ヒカル……!)
 驚きの眼で、アカネがヒカルを見る。
「しっかり前を見て」
 アカネを注意する。そしてヒカルの発した科白は、さらにアカネを驚かせた。
「天羽七海恵を倒して、天島の女王の座を奪おうというあなたが、まさかここでパスなんてしないよね?」
 ヒカルは笑みを浮かべて言った。それを聞いた伊東も、キュウっと唇の両端を吊り上げた。
 第2Q、残り1分と15秒。

続く 78〜

次回予報
 止められへん。ノーモーションで始まる伊東の動きは、あらゆる予測と反応速度を超えるからや。抜いてやれ。それぐらいできんで、天羽を超えられるか!
 アカネとヒカルの攻めるようなプレッシャーをかわしながら、伊東はその顔に笑みを浮かべていた。それは本物のスリルを愉しむ、喜悦の表情だった。挑戦は受けて立つ。そして、勝つ! 眼の前の敵のためでなく、天島に君臨する女王を倒すために!
 次回『強敵』第十七幕。引かば、押す。押さば、押す。それが、ワタシのやり方。

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第1稿 2003.5.27