ダブルスコア   78

(英断、かもしれない)
 そう、リサは思った。伊東がどんなに凄い選手でも、ダブルチームにはできない。アカネにそう告げた、そのリサがである。
 ダフルチーム。一人のプレーヤーに、二人のマークマンがつく。マークは強力になる。だが、その代償に、ほかの一人をフリーにすることになる。
 ヒカルは伊東のマークに加わり、相羽をフリーにした。当然、相羽にボールが渡れば、あっさりとゴールを決められてしまう。
 浄善女学院は、伊東のワンマンチームではない。どのポジションにもスキのない、戦力バランスの取れたチームである。伊東を抑えようとするあまり、誰かを手薄にすれば、すかさずその誰かに点を奪われるだろう。だからこそ、リサは「ダブルチームなんて贅沢な真似はできない」と、アカネに言ったのだったが。
(マンツーで分が悪いのは、どこもいっしょ。ならいっそ、戦力を一点に集中させて、そこを破ったほうがいいかも。なによりも――)
伊東(アイツ)は、パスしない。あんな風に勝負を挑まれて、避けて通るヤツじゃない。受けて立つ。そういう性格をしてる)
(でも、もし――)
 だが、別の不安もよぎる。
(逆にあっさり、破られたら――)

「結構やるじゃない。あの二人」
 ベンチの石川 雅が言った。
「しっかり抑えてる。真希ちゃんの評価も、買いかぶりじゃなかったみたいね」
「あの小っちゃいの。上田――なんだっけ? アカネちゃんか。あのコの動きが良くなってる」
 石川の言葉に、西澤仁美が応じた。
「さっきまで、眼に見えて硬かったのにさ。お友達が加勢して、元気が湧いちゃったかな?」
 事実、アカネの動きは良くなっていた。ヒカルとのコンビの攻めるようなプレッシャーは、あの伊東にさえ突破のスキを与えていない――かに見える。
「パスすべきです」
 一年の、緒沢真琴が言った。怖れを知らぬ発言に、隣りに座した同じく一年の高科 愛がギョッとする。「よしなさいよ」と言うように、そっと緒沢の上着の裾を引っ張る。意に介さずに、緒沢は続けた。
「1点でも多く獲る。その、一番近道のプレイをする。それがうちのバスケなんじゃなかったんですか? 西澤先輩」
「あいつに言ってくれよ」
 挑戦的とも言える後輩の態度に、腹を立てるでもなく西澤は返した。
「でも、伊東先輩、なんだか、とても、愉しそう……」
 このベンチにいることが不思議なくらい、見るからにおっとりとした少女が、ゲーム開始以来、初めて口を開いた。緒沢、高科と同じく一年生。名前を紅野麻美(こうあさみ)という。
 彼女の言う通りだった。右に左に。前に後ろに。キラキラと汗を光らせ、巧みなボール捌きで揺さぶりをかける伊東の表情は、まるで知らない街を冒険する、幼い少年のような笑みを浮かべていた。それは、この勝負に感じるスリルへの、喜悦そのものだった。
「だから――」
 エースだからって、勝負を愉しむスタンドプレイが許されていいのか。そう言おうとした緒沢の言葉を、高科が遮った。
「大丈夫。伊東先輩は、負けない。きっとブチ抜いて、格の違いを見せてくれる。そうですよね、先輩!」
 まあ見てなよ。そう言ったあとで、西澤はひと言、付け加えた。
「たまにゃあ負けんのも、いいクスリだけどな。アイツの場合」

「引かば押せ、押さば押せ――」
 のちに、この時のプレイを振り返って、キャプテン・相羽早織は、こう述懐している。
「という言葉が、大相撲にあるの。勘違いしないでね。無謀な真っ向勝負を奨励するつもりはないの。これは言わば、プレーヤーとしての、理想。
 けど、伊東は勝てる。この場合、パスが必ずしも最善の選択とは言い切れないと、私は思う」
「なぜですか? 伊東先輩が負けるとは、私も思ってません。でも、パスすれば、もっと早く点が獲れた筈です」
「パスは合格点。でも、満点じゃないということ」
 緒沢の問いに、相羽は明確に答えた。
「もしパスすれば、点は獲れても、『伊東が逃げた』『伊東を抑えた』という自信を、敵に持たせることになる。逆に、ダフルチームを破れば――」

「二人掛かりでも止められねえ。その力の差と、点差が、ずっしりとのしかかってくる……」
 登戸 彩は、そう大木ゆかりに解説した。
「正念場だな。ゲームのケリがつくか、まだ土俵際で踏ん張っていられるかの」

(止められへん)
 控え選手達の会話にも口を挟まず、監督・君津はただ絶大な信頼を寄せ、伊東のプレイを見守っていた。
(ノーモーションで始まる伊東の動きは、あらゆる予測と反応速度を超えるからや)
 伊東の右手のボールが、エレベーターのように垂直にコートに落ち、跳ね上がる。
 そのボールが伊東の手に触れる。――伊東の左手に。
(え――?)
 ヒカルは驚愕に眼を見開いた。ボールを眼で追ったほんの一瞬に、伊東の身体がボールを軸に、左右を入れ替えていたからである。
(抜いてやれ)
 アカネとヒカルの壁の外へ跳び出した伊東の脚が、コートを蹴る。
(それぐらいできんで、天羽を超えられるか!)
 抜いた。抜かれた。誰もが、そう思った。
「この――!」
 ヒカルは仰向けに倒れるように、後ろに跳んだ。その目一杯伸ばしたヒカルの手が、ボールに触れたのは、ただの幸運だったかもしれない。
「ぬ」
 伊東のコントロールを離れ、ボールが転がる。身体の接触はない。笛は鳴らなかった。
 だが、そのルーズボールを拾ったのは――相羽だった。ルーズボールを追ってきたチカのディフェンスをものともせず、あっさりと上を行った相羽のジャンプシュートが、ゴールを決めた。48対24。三たび、ダブルスコアに。

「すっごい、あのコ!」
 石川が感嘆の声を上げた。
「抜いた真希ちゃんのボールに触れたよ!(獲れなかったけど) 動けるセンター。まるで、ニシザーみたい」
「あいつは、本職のセンターやない」
 君津が腕組みをして、コメントを加えた。不機嫌な顔をしている。伊東がカットされたことが、意外でもあり、面白くなかったのだろう。
「たまたまスタメンで一番高いから、センターをやっているに過ぎん。日之出が丘は、センターのおらんチームや。……西澤とは、違う」
「ヘヘッ、そりゃどーも」
 そんな監督の胸中も知らぬ気に、西澤が破顔した。

(くそッ)
 上半身だけを起こした状態で、ヒカルが珍しく、悔しさも露わに拳をコートに叩きつけた。
「ナイスカット」
 そんなヒカルに、アカネが手を差し伸べる。
「思いっ切り、ぶつかっていこう。負けても、こっちの勝ち。――だろ? ヒカル」
 ヒカルの顔に、笑みが浮かんだ。
「そうね」
 アカネの手を借りて、立ち上がる。
「なに?」
 ヒカルが訊いた。アカネがまだなにか、言いたそうな顔をしていたからだ。
「……いや、なんでもない」
 照れ臭そうに、ヒカルから離れる。
(カッコ良かったよ。ヒカル……!)
(それに比べて、わたしは……)
(まだ、1点だって、獲れやしない……!)
(《小さなエース》なんて呼ばれて、いい気になって……)
(なのに、自分より速くて、高くて、巧いヤツを相手にしたら、手も足も出やしない)
(実力で、劣っているからじゃない。わたしは、ビビってた)
(わたしは、ちっぽけだ……)
 傲岸な自信家だったアカネの心に、ある変化が生じようとしていた。
(どうせ背伸びしたって、あいつより大きくなれるわけじゃない。しっかり地に足をつけて、自分にできることをしよう)
(わたしにできる、精一杯のことを!)

 一方、伊東真希は。
「ふ〜ん」
 そう口にしながら、ヒカルの腕を取った。
「?」
「あんたって、ホント腕(て)ぇ、長いよね」
「………」
 確かにヒカルの腕は、身長に比して長かった。普通よりも、拳ひとつ分ほど。これは、かなりの長さといってよかった。
「伊東ッ、早く戻る!」
 そんな伊東を、安部が叱責した。
「はーい」
 能天気そうに見えたが、伊東の心中は決して穏やかではなかった。ダブルチームをヒカルの側から抜きに行ったのは、たまたまではない。あんな挑発をされて、礼をせずにいられる女ではなかった。
 そのヒカルに、奪られはしないまでも、ボールをカットされた。それが伊東のプライドに障った。
 伊東の闘志に、いま小さな火が点った。いままでの伊東は、言うなればマッハのジェット戦闘機が、基地内の滑走路を徐行していたに過ぎない。そのアフターバーナーに、ようやくチロチロと蛇の舌のような炎が踊り始めた。

  79

 第2Q、ラスト1分。
「この1本、獲るぞッ。前半、ダブルスコアにだけはすんな!」
「オウッ」
 マークの田渕が、ニッと口元に笑みを刻む。電光石火の早業でボールを奪いに迫る!
 一瞬早くボールを掴んでパス。ボールがスリーポイントライン際の、モエミへと渡った。

 モエミもまた――。
 アカネと同じく、この試合で、いまだ無得点だった。
「撃ってみなさいよ」
 静かに、須田が言った。
「撃てるもんならね。ディフェンスを拡げろとでも言われた? させないよ。一年生」
「………」
 ドリブルで一歩後退、シュートモーションに入る。
(――に見せかけてパス。ミエミエ!)
 予測通りのモエミのパスを、須田がカット!
(!)
 ルーズボールが、サイドラインへと向かう。それを追って、田渕と競り合い、間一髪リサがボールを手中にした。だが、勢い余って、自分がサイドラインを飛び越えてしまう。
「チカ、頼む!」
 空中で首を捻り、眼に映ったチカに向け、高いボールを放る。
 リサの投じたボールに向かって、チカと安部が同時に跳ぶ。身長、ジャンプ力、ポジション、すべて互角。そのとき、チカの広角の視野の片隅に、それが映じた。
 チカはボールを掴まず、タップした! ボールを捕らえようとした安部の機先を制して、狙い通りの位置へ、ボールを叩き落とす。スリーポイントライン際。


 モエミと須田のマッチアップを見ながら、アカネは考えていた。いまの自分に、何ができるだろうかと。伊東相手に苦しんでいたとき、ヒカルが助けてくれた。ならば、自分は――?
(モエミをヘルプする)
(須田にスクリーンをかけて、モエミをフリーにする)
 だが、どのタイミングで。須田へのマークをスイッチしても、伊東にモエミのマークにつかれては、元も子もない。
 そのとき、それが起こった。須田のカットしたルーズボールをコートから飛び出しながら、リサが繋いだ。ボールは生きている。アカネは素早く、そして静かに、須田の左後方につく。モエミに眼で合図を送る。
 行け――と。


 モエミがコートを蹴る。追おうとした須田は、そのときはじめて、アカネにつかれていたことを知った。アカネが楯となって、須田の追走が阻まれる。
(スイッチ!)

 チカのタップしたボールは間髪入れず、一度コートをバウンドして、モエミの手に渡った。アカネが須田を抑えていられるのは一瞬。だが、その一瞬で充分だった。
 モエミのつま先が、コートを離れる。両腕が伸び、手首が返る。


「フリーになれば、相手がディフェンス職人だろうが、NBAだろうが関係ねえ。いつものシュート練習と同じことだ。いつも言ってきたよな。練習の時は、試合の最中だと思ってシュート撃てってな」
 リサはモエミの耳元でそう言った。
「だったら、いまは練習と同じだ。いまは、練習中だと思って、シュート撃ってみろ。面白いようにスリーが入った、あの練習と、同じ気持ちで――」

 同じ気持ちには、なれなかった。不安、焦り、緊張、気負い。なによりも、リサが、アカネが、チカが、必死にこのチャンスを作ってくれた、その期待に応えなければ、という想い――。なにもかもが、練習とは違っていた。頭ではわかっていても、自分の心が、自分でどうにもならなかった。
 いつもとは、まるで手応えが違う。自分の身体が、借り物のような気がした。利き腕でない左手で字を書くような、そんなもどかしさがあった。
(入れ――!)
 入る気はしなかった。それでも、モエミは祈った。マグレでいい。入れば。1本入れば、自分の気持ちが変わる。外のシュートが入れば、ゲームの流れが変わる。
 だが――。
 無情にも、ボールはリングを直撃し、跳ね上がった。

  80

 伊東の判断は、早かった。
 チカがモエミにタップパスを送ったと見るや、ゴール下へと取って返した。モエミを止めるには、間に合わない。そう判断したからだった。そしてそれは、的確だった。
 リバウンドの獲り合いで、ヒカルの身体を造作もなく押しのけ、ボールをキャッチする。バランスを崩したヒカルが、コートに尻餅をついた。
「ブッちゃん、よろしくッ」
 着地すると、すでにゴールに向かってダッシュを始めた田渕にロングパスを投じた。センターラインを跨いだ長い距離に関わらず、ボールは中間点でワンバウンドして、田渕の手に渡った。難度の高い送球である。
「あいよッ」
「ヤロウッ、行かすか!」
 リサが追う。ドリブルで走る田渕の前に、なんとか回り込んだ。
 右へ。リサが合わせて動くと、今度はバックロールで左に。
(!)
 鮮やかに、リサを抜いた田渕が、レイアップシュートを決めた。

(こいつ、オフェンス力もある!)
(これが、田渕真里。浄善で一年からレギュラーを獲った女……)
「これで、ダブルスコア、プラス2点だピョンよ」
 そう言って、ボールを投げて寄越す。涼しい顔が小面憎い。息も切らしていない。肩で息をしているリサとは対照的だ。

「すみません、私……」
「気にすんな!」
 詫びるモエミに、リサはボディに突き入れるように、ボールを手渡した。
「くよくよ失敗気にして、いいプレイができるか! 次のプレイに集中しろ」
「はい」
 ともすれば、絶望感に苛まれそうになる。だが、ここで挫けるわけにはいかなかった。自分の闘志が折れることは、チーム全体がそうなることを意味する。気丈に振る舞わねばならなかった。リサはポイントガードで、キャプテンだからだ。
 なんとか、いい形で、前半を終えたかった。そのためにも、1ゴールを決めて、ダブルスコアだけは阻止しておきたかった。
 だが、どうすれば? 刻々と、第2Qのタイムアップが、近づいていた……。

(よ・こ・せ!)
 リサの逡巡を、強い眼光が断ち切った!
(私が決める!)
 三年間、コンビを組んできた。リサの気持ちは、チカにも痛いほどよくわかった。だから言った。私にまかせろ――と。ともに日之出が丘・女子バスケ部を支え、鍛え上げてきた戦友同士が、目線で会話を交わした。
 田渕の右へ。田渕が追うと、左脚を軸にターン。バックロール――?
 そうではなかった。ボールは時計回りに回転したリサの手を離れ、飛び出したからだ。ビハインド・ザ・バックパス。
(頼んだぜ。相棒!)
 リサのパスを、チカが受け取る。ピボットターンでゴールを向く。正面には、無論、安部夏陽が立ちはだかっている。
 戦友が信頼を込めて預けたボールを手に、チカはいままた、かつての戦友と対峙した。
 第2Q、50対24。残り時間、あと10秒。

続く 81〜84

次回予告
「私ね、アベっちに、なりたかったんだ」
 ディフェンスの神髄を尋ねる西澤に、須田は誰にも明かさなかった秘密を告白する。それは《ディフェンス職人》須田 恵の、開眼のきっかけだった……。
 チカの十八番、フェイダウェイ・ジャンプシュートを須田は予測していた。獲物を狙う梟のように、須田の手がチカの持つボールに忍び寄る! チカと須田。安部を目指し、そして敗れた二人が、空中で交錯する。
 オフェンスの鬼とディフェンスの鬼が雌雄を決する、次回『強敵』第十八幕。矛と盾は、どちらが強い?

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第1稿 2003.07.02
第2稿 2003.08.06