ダブルスコア   81

 フェイクは入れなかった。迷わず、撃ちにいく。
 時間をかければかけるほど、状況は悪化する。そしてチカには、正面のディフェンスに対する、絶対的な武器があった。――フェイダウェイ。チカの十八番。
 安部の手が、遠ざかるボールを追って、宙を泳ぐ。
(それがあったわね。あなたには)
(でも、だめよ)
(ほら――)

 いままさに、ボールを放たんとするチカの後ろから。
 音もなく忍び寄る掌――。須田 恵が獲物を狙う梟のように、チカの持つボールを叩きに迫る。
「よし!」
 ベンチの西澤仁美が、ガッツポーズのように拳を握る。
(捕らえた!)

「ディフェンスに、一番必要なもの?」
 シャワーの水音に負けないように、須田は大声で聞き返した。聞きたいんです。と、隣のコンパートメントから、西澤が同じように大声で寄越した。夏期強化合宿の練習後、西澤の求めに応じて、1オン1をした。そしていま、二人で汗を流している。ほかには誰もいない。
 須田はバルブを捻って、シャワーの温水を止めた。
「あなたはなんだと思うの?」
 洗った髪を両手で挟んで滑らせ、水分を切る。
 スキルと身体能力。そう西澤は答えた。隣のコンパートメントの水音が消えた。
「でも、先輩の答はきっと違う。だから、聞きたいんです」
「……想像力。って言ったら、びっくりする?」
「想像力ぅ!?」
 頓狂な声が、シャワールームに響きわたった。
「スキルに身体能力、それは基本よ。言ったでしょ。相手の動きを読むこと。その上に、身体能力は生きてくる、ってね」

(私ね、マッチアップする相手のことを、いつもこんな風に考えてるの)
 その一瞬に、西澤はあの日のシャワールームで聞いた、須田の言葉を思い出した。
(もし自分があいつだったら、どうするだろうって。彼女のスキル、身体能力、性格まで、全〜部自分のものだったら、私自身をどうやって出し抜いてやろうかって。意外と当たるのよ。そう考えると)

(私ね、アベっちに、なりたかったんだ)
 誰にも内緒にしてくれるか。そう念押しして、須田は自分の秘密を打ち明けた。
(あのコが羨ましくて、妬ましくて。でも、どんなに頑張っても敵わなくて。取り憑かれたみたいに、あのコのプレイを眼で追ったわ。ちょっとアブないヤツよね。終いには、本当に取り憑かれたみたいに、気分だけは安部夏陽に成り切ってた。するとね、ウソみたいに彼女を止められたの……)
 それが《ディフェンス職人》須田 恵の、開眼の瞬間だったという。

 その日を境に、二人の1オン1の日々が続いた。西澤にとり、それは須田の優れたディフェンス能力を盗むことでもあり、得意のオフェンスに更に磨きをかけることでもあった。須田にとっても、西澤という優れてオフェンシブなプレーヤーは、自らのディフェンスを鍛えるのに、うってつけの相手だった。
 優れた矛と優れた盾は、こうして互いに研鑽し合い、それぞれを卓越したオフェンスと、ディフェンスの使い手へと高めていったのだ……。

(同じ手は何度も通じないよ。予想外のことをしない限り、須田さんは出し抜けない)
 西澤の思いに呼応するように、須田もまた。
(ドンピシャ。お生憎様)
 須田の掌が、チカの持つボールを叩く。――その掌が、空を切っていた!
「うそ!」
 驚愕のあまり、西澤が思わず立ち上がった。

 チカは頭上のボールを一旦、胸の前に下げた。そうして、須田のブロックを空振りさせると、チェストパスのようにゴールに向けてボールを放つ。
 斜めになり過ぎた身体を支えきれず、着地するなり、ころんと背中から転がったチカを尻目に、敵味方ともに驚きの表情を貼りつかせ、視線を集めたボールはボードを撃ち、ネットに吸い込まれた。
 コートに背をつけたまま、チカが拳を突き上げた。

  82

 背後の須田を知覚したわけではなかった。だがそのとき、チカが感じたのは、猛烈な厭な予感だった。
 そのときである。チカの視野が色を喪い、モノクロームに変化したのは。
(来た――!)
(スーパープレイの刻だ!)

 初めてそれを体験したのは、小学生のときだった。
 ワイヤーが延び切り、ブレーキがバカになっているのに気付いたのは、下り坂で自転車に加速がついてからだった。何の手応えもないブレーキを何度も何度も虚しく握り締める。
 転けて止めるにはスピードがつき過ぎていた。坂の終わりは、交差点だった。信号は青。どうか自分が通り過ぎるまで、青でありますように。チカは生まれて初めて、なにものかに真剣に祈った。だが、その祈りも虚しく、交差点に差し掛かる手前で、信号は黄色に、そして赤へと変わった。
 猛スピードで赤信号を突っ切る自転車の横合いから、圧倒的な質量で迫るダンプカーがチカの眼前に出現した!

 そのときのことは、いまでもはっきりと覚えている。色も音もない世界。そして、スローモーションのように間延びした時間。
 ゆっくりと近づくダンプカーの前で、チカは自転車から飛んだ。両手をアスファルトにつくと、飛び込み前転の要領で一回転する。週に二度通っていた体操教室で、マット運動をやっていたのが咄嗟に出た。自分の動きまで、妙に間延びしていた。
 世界が正常に復したとき、アスファルトに真っ黒なタイヤ痕をこびりつかせて、ダンプカーが停止したところだった。自転車はグシャグシャの屑鉄に変わっていた。チカ自身は、掌にすり傷を負っただけだった。
 現場検証にやってきた警察官を始め、大人たちは皆「奇蹟」だと言った。チカも同感だったが、その意味は大きく隔たっていた。自分の身に、なにか不可思議なことが生じたことは、子ども心に理解していた。だが、そのことをチカは大人たちに告げなかった。自分にも信じられないことが、大人たちに信じてもらえるはずがない。そう幼いチカは考えたからである。
 そしてその体験は、チカの記憶の中で封印された。

 その記憶が封印を解かれたのは、中二の夏の大会でのことだった。ゲーム終了間際、パスを受け取ったチカの前に、中学生にして170を超える大型プレーヤーが、猛然と突進してきた! そのとき、再び「それ」が起こったのである。
 チカは身体を沈め、そのプレーヤーの腕の下をかいくぐるようにして、シュートを決めた。このゴールが決勝点となって、チカのいる西岡中は土壇場で逆転勝ちをおさめた。
 よろこぶチームメイトにもみくちゃにされながら(安部だけは冷ややかに「まぐれが出た」などと言ったものだが)、チカは茫然と幼少の異常体験が再び自分の身に起こったことの意味を持て余していた……。

 生命の危険に晒されたとき、脳が異常な集中を働かせることがある。超高密度の視覚の情報処理は、まさに高速度撮影のように、眼に映る世界をスローモーションにする。
 そのような現象が存在することを、自己の体験について調べていく中で、チカは知った。そしてそれは、スポーツのプレイのさなかにも起こることがあり、そうした体験を持つトップアスリートが、少なくないことも。

 これを意のままに操ることができれば、怖いものはない。チームメイトのライバル、安部夏陽だって敵ではない。そう考えたチカは、なんとか意識的に、あの現象を再現しようと試みたが、全て不発に終わった。しまいには、禅やヨガの本にまで手を出したが、役には立たなかった。
 これは僥倖でしかない。僥倖に期待するのは、馬鹿げている。少なくとも、そのための試行錯誤に時間を費やすぐらいなら、地道にトレーニングでもしたほうがマシだ。そう思い直して、チカはそれを頭から払いのけた。
 それでもその後、二度にわたって、チカは同じ体験をした。決まって大舞台の、ここ一番という状況下に限られた。練習中に起こることはなかった。安部との勝負の時でさえも。
 チカはそれを秘かに「スーパープレイの刻」と名付けた。だが中学県大会、対旭台南戦の土壇場で同点シュートを決めた、その時を最後に、それはついぞ訪れることはなかった。高校バスケでは、まるでチカを見限ったかのように、それは気配すら感じさせることはなかった。
 ――いま、この瞬間までは。

 モノクロームの世界に、安部夏陽が自分に向かって手を伸ばして浮かんでいる。表情はクールだ。焦りの微塵もなかった。
 それをチカは訝しんだ。安部の視線も、チカよりも、ややその先で結ばれている気がした。
(………)
 衝動の命じるままに、チカはボールを胸の前に下ろした。その刹那、驚きに眼を見開いた須田の姿が、チカの視界にフレームインした。
(やっぱりね)
 両サイドを支えたボールをグッと胸にためる。
(よーっく拝め。本邦初公開、チカ様の、フェイダウェイのダブルクラッチだ!)
 腕が伸び、手首が返る。
(行っけーっ)
 ボールがボードに向かって飛ぶ。コートの、ベンチの、観客席の、全員の眼を釘付けにして。
 コートに足がつく。立っていることはできなかった。膝を曲げ、身体を丸める。尻から背中へ。うまく衝撃を逃してコートに転がりながら、ボードを撃ったボールがリングをくぐり、ネットを二三度前後に揺らして落ちるのをチカの眼は捕らえた。

  83

「信じらんない、なにあれ!」
 西表比呂子が呟いた。飲みかけのペットボトルが、口元に凝固している。
「大久保……なんていったっけ? あの6番。あんな選手が、なんでいままで無名だったわけ?」
「無名じゃないわ」
 ビデオカムのファインダーを覗きながら、相変わらずの無表情で上原冬花が応えた。
「大久保千夏。中学時代は県下でそこそこ知られた選手よ。高校では鳴かず飛ばずだったけど。昔から個人技では定評があった。県大会でベスト8まで行ってる。ちなみに、安部夏陽とは、そのときのチームメイト」
 そんなことまで、彼女はよく知っていた。
「中学時代の話は知らないよ」
 ペットボトルのウーロン茶を呷って言った。西表は地方から天女にやってきた選手だ。
「で、中学時代から、あんな凄技使うヤツだったわけ? アイツは」
「フェイドアウェイは彼女の得意技だけど、あんなプレイをした記録はないわ」
(それに、凄いのは技自体じゃない……)
 冬花は口に出さずに思惟を紡いだ。
(見た目は派手だけど、それほど難しくはない。真似しようと思えば、私にもできる。実戦で使いようがないだけで……)
(問題は、どうやって後ろから来る須田のブロックを予測、もしくは知覚したかということ……)
(天羽さん並みの勘を具えているというの? 彼女が)
(大久保千夏。もし、当たることがあれば、要注意ね。当たることがあれば、だけど……)

 一方。
「やったよ、やったよ」
 両脚を踏み鳴らし、隣の大きな背中を叩いて、登戸 彩がハシャいだ。無論、そのぐらいで痛がる、大木ゆかりではなかった。
「踏ん張りやがる、あいつら。土俵際でよ。……この一本はデケぇぞ」
 彩の言う通り、この1ゴールは大きかった。
 一つは、ピリオドの終了間際で、ダブルスコアを阻んだこと。
 二つ目は、チカを抑えることに専念していた安部と、ディフェンスのスペシャリストである須田の二人をかわして、スーパープレイを決めたこと。
 日之出が丘には、希望が。浄善には、不安が。このプレイが両チームに与えた、メンタル面での作用は、はかり知れなかった。
「ひょっとしたら、後半、逆転も有り得るぜ」
 それを耳にした周囲の浄善女学院の生徒達が、ムッと気色ばんで彩のほうを向く。
「なんだよ」
 彩は立ち上がり、サーチライトのように顔を巡らせ周りを睨みつけた。さっと女生徒達が顔を背ける。
「おめーらの体育館だか知らねえが、これは公式戦だぜ。相手チームの応援して悪いかよ、ああッ」
「相変わらずね」
 ゆかりが彩をなだめようとしたその時、背後の通路からそう声を掛ける者がいた。かわいらしいピンク色のトレーナーに身を包んでいる。胸には流れ星をシンボライズした、学章が刺繍されている。翔星学園、女子バスケ部のそれだ。
「おめーか。久しぶりだなー。三枝(さんし)師匠」
三枝(さえぐさ)よ」
 いい加減飽き飽きしたという口ぶりで、わきの通路を下りて二人に近づく。
 三枝安奈(あんな)。翔星学園二年のパワーフォワードである。
「おめーも偵察かよ」
「よしてよ」
 サラサラのロングヘアを耳の後ろにかき分けて言った。
「興味ないわよ、こんな結果の見えてる試合。このあと、うちの男子の一回戦があるの。今日はその応援」
「へッ。仲のいいこった」
「いいわよ」
 涼しい顔で言う。
「練習だって、一緒にしてるもの。うちは男子も強豪だし、これ以上ない練習相手よ」
 アカネが対浄善用の特訓として考えた練習を、翔星学園では日常的に行っているらしかった。
「別の練習もしてんじゃねーか? やらしい身体しやがって」
 スタイルよく膨らみを帯びたバストをむんずと鷲掴みにする。逃げるかと思ったが、逆に誇示するように胸を張り、腰に手首を当てて言った。
「そんなに私のナイスバディが羨ましい? 無理もないか。その幼児体型じゃね〜」
「誰が幼児体型だ! オレだってなあ――」
「彩ちゃん!」
 負けずに自分のバストを突き出そうとした彩を、ゆかりの切迫した声が制止した。
 その声につられて、彩と安奈のふたりがコートに眼をやる。須田のロングパスが、伊東に通っていた!

  84

「凄い凄い、凄いよ、チカ姉!」
「このヤロー、おいしいトコ持ってきゃがって、このこのッ」
 アカネとリサにもみくちゃにされながら、チカは強い視線を感じて、顔を向けた。
「やるねえ」
 静かにチカの眼を見て、伊東真希が言った。
「悪いね」
 ニヤリと笑みを浮かべる。
「私もけっこう、負けず嫌いでさ」
 これがアニメなら、伊東の両の瞳孔がオレンジ色に輝いていただろう。そうアカネは思った。伊東の顔は穏やかだったが、そのことがなお一層、彼女の決意の強さを感じさせた。
 来る。アカネのファイターの直感が、それを確信した。そして、それは事実だった。
 伊東の闘志のアフターバーナーは、いよいよ本格的に炎を噴いていた。自分の持てる力を、余すところなく爆発させる、その瞬間が待ち遠しく、ゲート前の奔馬のように、身体をわななかせている。
「田渕先輩、ボール頼みます」
 すれ違いざま、彼女にだけ聞こえるように、そっとそう呟く。
 田渕は何の反応もしなかった。気取られないためである。気安いアダ名ではなく、「田渕先輩」と言った。真剣になっている証拠だった。
(わかってるよ。マッキー)
(あんな真似されて、黙って引っ込んじゃいられないよね)
 田渕はスコアボードのタイムに、チラと眼を走らせる。
(残り7秒。――いける!)
(お返ししてやんな。誰にも真似のできないことを)
 須田のスローイン。それを受け取る構えを見せた田渕の両掌は、あるサインを須田に告げていた。――伊東へ、ロングパス。
(天羽にもできない、あれを!)
 素早いモーションで、須田がボールを投じる。田渕の耳元を掠めるようにボールが疾る。ヒュン、という風を切る音を田渕は聞いた。
 フロントコートを走る伊東の手にボールが渡ったのを、振り返った田渕は見た。
「伊東ォォォッ、行っちゃえェェェェェェェェッ」
 ゲーム開始早々に発した田渕の叫びが、再びコートにこだました。

続く 84〜87

次回予告
「彩ちゃん……私、帰る。帰って、練習する」
 伊東の一発は、《天島で唯一ダンクを撃てる女》大木ゆかりのプライドにひびを入れた。そして、あっさり吹っ飛ばされた、アカネもまた。
 右手にリングを掴み、勢いのままに身体を跳ね上げるその姿に、アカネは自分が憧れた架空のヒーロー、赤い髪の丈高い男の姿がダブって見えた。
 息を呑む観衆、そして大歓声。そのとき、コートに降り立った彼女は、驚くべきパフォーマンスを見せつける! 次回『強敵』、衝撃のクライマックス!

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第1稿 2003.07.21
第2稿 2003.07.24
第3稿 2003.08.06
第4稿 2003.08.12