ダブルスコア   84(承前)

(しまった――)
 リサはほぞを噛んだ。完全に虚を突かれた。
 ボール運びは常にスローで、いままで速攻を仕掛けてこなかったせいもある。だがなにより、チカのファインプレイに舞い上がって、気が緩んでいた。
 バカだった。逆転したわけでもないのに。油断など、あるまじき失態だった。
 伊東の速攻。状況を考えれば、十二分に予想できる攻撃だった。ほんの少しでも考えていれば、体勢も整えられたものを――。自分を罵りたかった。

 ただひとり、それを予測していた選手がいた。
 眼を見張る俊足でゴール前に回り込み、迫り来る伊東を待ち受ける。
 アカネだった。
(よく戻った!)
(止めろよ!)
(負けないで!)
(センパイ!)
 リサが。チカが。ヒカルが。モエミが。全力で駆け戻りながら、祈るようにエールを送る。
 そのエールに、力を与えられたのかどうか。アカネの気力は、いままでになく横溢していた。
 来る。始めからわかっていた。パスはない。止まることも。――身体を張って、止める以外には。
 まっしぐらに突進してくる伊東を見ながら、恐怖はなかった。アカネ本来の漲る闘志が、黴のように浸食していた恐怖を灼き尽くした。
 止める。止めてやる。来るなら来い!
「どけェェェ、チビィィィッ」
 伊東の瞳孔が、オレンジ色に燃える。
「誰がどくかッ、ヴァカッ」
 アカネの瞳孔も、オレンジ色に燃えた。
「上から行ってやるっ、ならアアアアアッ」

 ほんの一瞬の間に、実際にそんな言葉をやりとりしたわけではなかった。だが、コンマ数秒ぶつかりあった二人の眼と眼は、確かにそんな会話を交わしたのだった。
 フリースローラインを越えた伊東の足が、ひときわ強くコートを蹴る。
 伊東の身体が、舞う。
 高く。
 雄々しく。
 力強く。
「やらすかッ。ナメんなアッ」
 アカネも跳ぶ。小さな身体で、力の限り。目一杯、腕を伸ばして。
「ヤアアアアアッ」
 雄叫びをあげ、ボールを掴んだ伊東の右手が、肩口から真っ直ぐに伸ばされる。
 真上に跳んだアカネと、放物線を描いて飛翔する伊東。
 ふたりの少女が、ゴール前の空中で激突した!

  85

 まるで、ゴムでできたダンプカーにぶつかったようだった。
 のちに、アカネはこの時のことをこう述懐した。
 結果から言えば、アカネの身体を張ったディフェンスは、伊東の軌道を僅かにでも変えることはなかった。

 ガツン。
 鉄の輪(リング)が、悲鳴を上げるように、そう音を立てた。
 永遠にも似た一瞬。
 あっさり叩き落とされ、背中からコートに落ちたアカネは、肺の空気を残らず吐き出す衝撃にも増して、見上げたその光景に衝撃を覚えた。
(凄い――)
 その一瞬、アカネは彼女が敵であることを忘れ、その雄姿に見惚れた。
「オオオオオオオッ」
 リングを握った右手だけが、身体を繋ぎ止めている。勢いの死なない彼女の身体が、振り子のように跳ね上がる。
(まるで――)
 頁がバラバラになるまで貪り読んだ、アカネのバイブル――。アカネが憧れてやまなかった、その古い漫画の主人公。丈高い赤い髪のヒーローの像を、伊東の姿に重ねて、アカネは見た……。

 しん。と、静まり返った会場中が、度肝を抜かれていた。
 登戸 彩が。
 大木ゆかりが。
 三枝安奈が。

 西表比呂子が。

 長谷川博が。
 その後方、客席最後部の壁にもたれ、静かに観戦していた貴城崇士までもが、眼を見張り、ごくりと唾を飲み込んだ。
 そうであってはならない審判さえ、信じられぬ光景に、一瞬、務めを忘れていた。

 ひとりだけ、例外がいた。伊東のそれをその眼で見てきた浄善のバスケ部員達を除けば、ただひとり、上原冬花だけが、この光景に顔色ひとつ変えず、無表情にそれをビデオのアングルに捕らえていた。
 彼女は、何も感じないのか。それとも、動じないことが、彼女のプライドなのか。それを見た目から推し量ることはできなかった。

 リングを掴んだ右手を離し、コートに降り立つ。右手を再び、突き上げる。
 その瞬間、会場は大歓声で沸き返った。巻き起こる、伊東コール。
 ――華。言葉にすれば、そうなる。天性のスター。本能的な一挙手一投足が、見る者の心を捕らえ魅了する。応援する者のみならず、敵でさえも。
 コートにしゃがみ込んだままのアカネは、まるで魂を奪われたように、眩いライトの逆光に照らされた、このゲームの《主役》を、ただ陶然と見上げるばかりだった。

 ――と。突き上げた右拳から、人差し指だけが、ピィンと突き出される。その腕が、踏切の遮断機のように、ゆっくりと降ろされ、二階席の最前列を指差して止まった。
 会場にいる全員が、その指差す先に視線を向けた。
 ビデオ撮りをしている上原冬花と、西表比呂子の二人が、そこにはいた。

「へえ。来てたんだ。あのデータ収集オタク」
 西澤仁美が、そちらを見やって言った。
「それより、試合やってて、よく気付くよねえ、あのコ」
 石川 雅が、呆れた口調で続いた。
「ゆかりチャンもいるよ」
「えー、どこどこ」
「ホラ、あそこー」
「ホントだあ、彩チャンもいっしょだー」
「あの二人、いつもいっしょにいるよね」
「アヤしい関係だったりして」
 キャッキャッキャー、とハシャぐ多湖亜衣、柘植のぞみの二人組を横目で見ながら、「ひとのことを言えた義理か」と西澤は思った。
 そんな二人に叱責もせず、監督・君津は黙って足を組み、眼鏡のフレームを押し上げた。満足げな笑みを湛えた、その顔に架かる眼鏡のレンズが、まるで「どうだ」と言うかのように、天井のライトを反射し、ギラリと光った。

 立ち上がった比呂子の握るペットボトルが、バキバキと音を立てて潰れた。こぼれたウーロン茶が、彼女の手を濡らす。
 引き攣ったような笑いが、比呂子の口から漏れる。あまりにも激烈な怒りは、時に笑いの発作を引き起こす。
「やってくれるなあ……アイツは!」
 全身が、小刻みに震えている。比喩でもなんでもなく、こめかみに血管が浮かんでいた。
 そんな比呂子とは対照的に、会場中の眼が自分たちに注がれている、そんな事態に際してなお、冬花になんの動揺も見られなかった。静かに、そして冷ややかに、自分たちに指差す伊東真希をカメラの眼で捕らえ続ける。

 指鉄砲のように、天女の二人組を指差す、このパフォーマンスに込められた意味。それはあまりにも明白な、伊東真希のメッセージだった。

 ――宣戦布告。
 コ・イ・ツ・ヲ、
 オ・前・ラ・ノ・眼・ノ・前・デ、
 叩・キ・込・ン・デ・ヤ・ル!

「面白えじゃん。やってもらおうじゃないの。――やれるもんならさあッ」
 潰れたペットボトルを足下に叩きつける。あらかた溢れてしまっていたが、わずかに残った中身が、周囲に飛び散る。飛沫のかかった浄善の生徒達が顔を顰める。
「飲み物を粗末にするもんじゃないわ」
「ああッ?」
「みっともない真似、よしなさい。彼女の思う壺でしょ。わからない?」
「………」
 底冷えするような冬花の眼差しが、さしもの比呂子の頭に上った血も、クールダウンさせた。
「すぐに感情を吹きこぼすのは、ヒロの悪い癖よ。そういうのは試合まで、大事に取っておきなさい。試合で返してやればいいのよ」
 冬花はビデオカムを操作し、伊東をズームアップした。
「倍にしてね……」
 アップで映された伊東が、液晶モニター上で指鉄砲の人差し指を反動がついたように跳ね上げた。ウインクのように片目を閉じた彼女の口が開く。音声は拾っていないが、伊東がこう叫んだことは、誰の眼にも明らかだった。
「バァンッ」

  86

 ここで遅まきながら、審判の笛が鳴った。
「オフェンスファウル。白、8番ッ」
「うっそお〜」
 途端に、情けない顔で伊東が悲鳴を上げる。
「ディフェンスファウルじゃないのお〜? バスケットカウント・ワンスローじゃないのお〜?」
「伊東!」
 安部のキツい叱声を浴びて、渋々右手を上げる。
「とほほ〜」

 カッカッカッ、と登戸 彩が手を叩いて大笑いした。
「ファウルだってよ。さんざカッコつけゃがって、ザマぁねえや。なあ……あん?」
 大木ゆかりが、ガタンと音を立てて、立ち上がった。彩が驚いて見上げる。
「彩ちゃん……私、帰る。帰って、練習する」
 思い詰めた顔をしていた。
「あ、ああ……」
 前の通路から、さっさと歩き去る。彩の気分を損ねることを何よりも気にする彼女には、異例の行動と言えた。
「ゆかりッ」
 思わず、彩は呼び止めた。
「あのさ、気ぃ付けろよ。車とか」
 言わずにはいられなかった。まるで放心状態のように見えたからだ。
 振り返ったゆかりは、泣き笑いのように、静かに笑みを浮かべ、頷いた。
「……うん。じゃ、あとでね」
 そう言うと、再び通路を歩いてゆく。超長身の彼女が通りかがると、そこかしこで女生徒達が互いに目配せし、ひそひそ話をした。まるで海を歩く怪獣が蹴立てる波紋のようだ。

(疼いちまったかよ)
 遠ざかる、ゆかりの背中を見送りながら思った。
(ムリもねえ。あんなダンク見せつけられちゃあよ)
 天島で唯一、ダンクのできる女。それがシロヨンの大巨人・大木ゆかりの称号であり、誇りでもあった。それを決して大柄ではない、伊東にやられた。穏やかでいられるはずがなかった。
(とんでもねー女だな、アイツは)
(テクとスピードなら引けはとらねーがよ、あのパワーには敵わねーよ)
(まともにぶつかれば、オレもたぶん――ああなる)
 腰が抜けたように、まだコートに尻をつけているアカネに視線を向けて思う。
上田(あいつ)は、オレとタイプが似てる。あれは、決勝リーグでのオレの姿なのか……? いや、違う! 絶対に違う! なぜなら――)
(うちにはゴール下の大魔神、ゆかりがいるからだ!)
(お前(めー)の相手はオレじゃねえ。ゆかりだ! ゆかり相手に、同じことをやってみるか? 楽しみだなあ、伊東!)
 彩の顔が、悽愴な笑みを刻む。
 彩のそばから、いつの間にか、三枝安奈の姿も消えていた。だが、伊東への敵意に燃える彼女には、そのことに気付く様子もなかった。

 三枝安奈は客席を出、エントランスへと続く通路の壁に、背を凭せた。
(とんでもない女ね、アイツ)
(天羽がいなくなったら、私の天下だと思ったのになー)
 頭を壁につけ、天井を仰ぐ。
(次元が違うよ。あの化け物は)
 そして、第2Q終了のブザーが聞こえた。

  87

 モーターの音が唸りをあげて、可変式ボードがせり上がってゆく。
 ハーフタイム。コートでは、第二試合の男子チームの練習が始まった。
「ん……ん……」
 そんな折りも折り、コートと控え室を結ぶ通路で、不届きな行為に耽る男女がいた。
 絡み合う舌と唇が、ピチャピチャと淫らな音を立てる。
 男は黄色のトレーナーを、女はピンクのそれを身に着けている。胸にはそれぞれ、流星マークの学章が刺繍されている。翔星学園のものだ。
 バスケプレーヤーとしては、二人とも高くはない。男は170、女は160ぐらいか。口づけを交わすには、ちょうどいい身長差かもしれない。男は女の腰を抱き、女は男の首に手を回している。彩が安奈に言った通り、確かにこの二人は「別の練習」をしているらしかった。ただし舌使いの巧みさから言えば、コーチしているのは、女のほうだったかもしれない。

 重苦しいムードで控え室に引き上げようとしていた、日之出が丘の部員達が、まともに鉢合わせすることになった。先に気付いた男のほうが、慌てて唇を離した。
「あン……もっとお」
 女のほうは、周囲の状況などお構いなしに、貪欲に唇をせがもうとする。
 さすがに驚いて(かつ呆れもし)足を止めたが、別に構いもせず、何事もなかったかのように、二人の横を通り過ぎる。普段なら、冷やかすぐらいのことは、したかもしれない。だが、いまはとてもそんな気分ではなかった。
 ヒカルだけが、露骨にイヤな顔をしていた。こうした行為は秘め事であって、人前ですることではないと思っている。恥ずかしげもなくそれを人目に晒すのは、情熱的というより、羞恥心の欠如であり、露出狂なのだ。
 こんな時、ふざけるな、どこだと思ってるんだと食ってかかりそうなアカネはと言えば、ヒカルに肩を抱えられるようにして、機械的に足を運んでいる。心がなにかに占められ、不謹慎な行為も、まるで眼に入ってはいないようだった。
「ハーフタイムだから。行かないと……」
「いいじゃん、練習なんて。勝つに決まってんのに」
「そういうわけにはいかないよ」
「じゃあ、ナオくんとのキスも、ハーフタイムってことにしてあげる」
 男が、微かに苦笑いした。
「ルミもさあ、試合観れば? 浄善女学院だろ」
 どうやら男のほうは、所を嫌わぬ熱烈求愛に、少し引いてしまっているようだ。
「興味なーし。だって、結果見えてんじゃん」
 それを聞いたモエミが、振り返ってキッと睨みつけた。
「ほっとけ。相手すんな」
 リサの言葉に、渋々向き直り、あとについてゆく。
「おい」
 リサは肘で横を歩くチカを小突いた。無表情に言う。
「スベって良かったな」
 チカはもともと、翔星学園志望だった。入試に落ち、日之出が丘に入学したのである。
「かもね」
 チカも無表情に返した。

 一方。対照的に意気揚々と控え室に向かう浄善女学院一行を、意外な人物が出迎えた。
 その丈高い少年を誰であるか見分けた伊東が、顔を輝かせて彼の元に駆け出した。
「タカシーッ」
 飛び込むように、彼に抱きつく。帰宅した主人にじゃれつく忠犬のように、全身で歓びを露わにする。
「やめえ。汗臭い。ベトベトになるわ」
「うそ。そんなに汗かいてないよ。いい匂いだって思ってるくせに」
 伊東が「タカシ」と呼んだ、その関西訛りの少年こそ、誰あろう、貴城崇士その人であった!
「来てくれたんだあ、嬉しい! ね、トーゼン、うちの応援だよね!」
「応援が要るか?」
「そりゃあ、勝つに決まってるけどさ。――ね、ね、見てくれた? さっきのワタシのスラム・ダーンクッ。ビックリしたでしょ。これでタカシにできて、ワタシにできない技はなくなったよ。ヘッヘーンッ」
「ああ。眼の醒めるようなダンクやったな」
「でしょ、でしょ!」
「ファウルさえ、もろてなかったらな」
 途端に、伊東の顔がふくれっ面になる。
「あれはミスジャッジだよぅ」
「確かに微妙なプレーや。けど、そういう問題やない。相手が上田なら、あそこは無難にジャンプシュートやろ。上田には届かん。お前は確実な1ゴールを逃した上、ファウルまで喰ろた。大向こう受けを狙って、遊んだりするな。その1本が、ゲームを決めることもある」
「もう、タカシって固いんだから。この試合が、そんな競ったゲームになるわけなーいじゃん」
 続けて、伊東が言った。
「タカシが監督になったら、うちの監督以上に、ガチガチのシステムバスケになりそう」
「俺が言うべきことを、代わりに全部言うてもろうたな」
 ふたりのやり取りを黙って聞いていた君津監督が、近づいて言った。
「久しいな、貴城君。元気か」
「はい。ご無沙汰してます。それより監督、それ、どないしたんですか?」
「ああ、これか」
 怪訝そうな顔で訊く貴城に、君津は鼻に詰めていたティッシュを抜き取って言った。先端が赤く染まっている。出血はすでに止まっていた。
「あら、連載があまりにも長期化していたから、わたくし、すっかり忘れていましたわ」
「石川先輩、ありえないセリフやめてください」

「君の学校には、とんでもない女生徒がいるな」
「はあ?」
 伊東が、クスクスと笑った。
「あとで教えたげる。……ねえ。今日、ヒマなんでしょ? 試合終わったら、どっかご飯でも食べに行こうよ。ね?」
「ああ、そやな」
「やったあ」
 首に抱きつく。
「デートかあ。いいなあ」
 冷やかすように、田渕が言う。
「からかわんといてください。こいつとは、家族ですから」
(家族ね……)
 西澤仁美は、そう小声で呟くと、シニカルな笑みを浮かべた。

続く 88〜90

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第1稿 2003.08.06