ダブルスコア   88

 控え室は、重苦しい沈黙が支配していた。
 すでに口を利くのも億劫であるほどに、疲れていたこともある。だがそれ以上に、伊東の一発が与えた、精神的ダメージが甚大だった。ダフルスコアを阻んだ、チカのミラクルショットさえ、あのダンクによって、あっさり吹き飛ばされた。
 まさに《怪物》の名に相応しい。勝てるのか? あの伊東真希を擁する、浄善女学院に。その自問に対する答を、考えまいとした。黙って、ただ、疲労回復に専念する……。
 アカネの様子は、さらに深刻だった。床に直に体育座りをし、両腕の間に顔を埋めている。それを見かねた一年の染井佳乃が、アカネを励まそうと声を掛けた。身長145という、アカネ以上に小柄で、特にアカネから可愛がられている後輩だった。
「上田先輩、ナイス・ディフェンスです。伊東の、ダンクを、止めたんですから……」
(バカ……)
 それを見たモエミが、顔を曇らせてそう思った。
「あ?」
 アカネが顔を上げ、染井の腕を掴んだ。染井の眼が、丸眼鏡の奥で怯んだ。
「あいつはリングにボールをブチ込んだじゃないか。わたしは無様にふっ飛ばされたじゃないか! なにがナイスだよ。どこが止めたんだよ!」
「アカネ!」
 ヒカルがアカネの腕を取り、強い口調で制止した。
「あ……ゴメン……」
「いえ……その、すいませんでした」
 消え入りそうな様子で、染井が詫びた。
「気にしないで。ちょっと気が立ってるだけだから」
 ヒカルが染井の肩に手を置いて慰めた。
「悪い。頼むから、少し独りにしといて……」
 そう言って、また顔を埋める。
「ほっとけ」
 リサが言った。そっけない言い方だが、それが彼女の思いやりであることを皆、理解していた。
(辛いだろうな……)
(けど、お前が抱えなきゃならねえ。抱え切れないってんなら、そこまでさ)
(伊東を相手にしてる、お前だけ、特別に辛いわけでもねえ。あいつらは、強え。ハンパじゃねえ。油断も、慢心もありゃしねえ。安部も、相羽も、須田も、……田渕も)
 リサは、伊東がダンクを叩き込んだあとの、残り3秒のプレイを思い出していた……。


 副審からボールを受け取ったモエミが、エンドラインの外側に立つ。
 ――3秒。残り時間を示す電光掲示板の数字が、カウントダウンを始める。
 ――2秒。
 須田の攻めるようなマークが、フロントコートへのロングパスを阻む。
 なんとかリサに、ボールを渡す。
 ――1秒。
 パスをするのも、もはや手遅れだ。
(チイッ)
 できることは、もうこれしかなかった。破れかぶれの、ゴールへの投擲。可能性はなきに等しいが、バスケ史上、これが入った実例も、なくはない。
 ボールを掴んだ右手を振りかぶる。
(!)
 だが、それを田渕は赦さなかった。小柄な体躯の両腕を高く伸ばし、リサの超ロングシュートを封じる。
 ――0秒。
 第2Q終了のブザーが鳴った。
(奇蹟みたいなマグレの目まで、摘んじまおうってか)
 リサが相手ベンチの君津監督を睨みつける。
(これが、あんたの育てたチームか……)
(尊敬するぜ……オッサン!)


 静まり返ったまま、7分が過ぎた。作戦の打ち合わせも、ないもないまま。もうすぐ、ハーフタイムが終わる。
 アカネは、身動きひとつしない。
(自分を責めちゃだめよ……)
 そんなアカネを見て、ヒカルは思う。
(伊東真希は、凄すぎるよ……)
(私だって、まともにパワー勝負で、勝てる気がしない……)
 ヒカルの心配をよそに、アカネは自分の懊悩を彷徨い続けていた……。

  89

 凄いや。
 本当に凄い。
 初めて見た。いや、初めてじゃないか。でも、ダンクをする女子高生もいるにはいるけど、見たこともあるけど、彼女たちは、歩く鉄塔みたいな、背丈だけで、ある意味、女捨ててる人達で、わたし、背ぇ高くなりたいけど、あそこまではちょっとイヤだなってゆーか、でも、そんな風に考えちゃうコトが、ダメなのかな? だけど、わたしだって、やっぱり普通に恋もしたいわけで、180超えてる女って、やっぱり男の子は引いちゃうよね? 相手、プロレスラーしか、いなくなっちゃうよね? わたし、ワイルド系は好きだけど、プロレスはイヤだな。あれ……?
 初めて見た。あんな、普通の身長の女の子が、ダンクするの。この眼で見ても、まだ信じられないよ。凄い。本当に凄い。震えが、止まらないよ。この感覚。全身が、痺れるような。この感覚。初めてじゃない。なんだか、懐かしい。そうだ。天羽さんのプレイを初めて見たときも、こんな風に感じたんだ。それでわたしは、バスケを始めたんだっけ。バスケをやりたいって言い出したとき、家族全員、鈴姉ちゃんも、静姉ちゃんも、父さんも、母さんも、みんな三日坊主ですぐに飽きるって思ってたけど、確かに、それまで、色んなものに興味持って、始めて、すぐに放り投げちゃったけど、バスケだけは、ずーっと、いままで続けてきたよ。エラいぞ、アカネ。別にエラくないかな? 好きなこと、やってきただけだもんね。
 凄い。本当に凄い。天羽さんとは、まるでタイプが違う。でも、レベルは。レベルなんて、わかんないよ。雲突く山の高さなんて、わかるはずがない。ただ、高いとしか。どっちが高いかなんて、わからない。比べようなんてない。わかるのは、あの二人が、ほかのプレーヤーとは、まるで違うのだということだけ。ポスト天羽。女王・天羽七海恵が認める、県内ただひとりのライバル。大袈裟だって思ってた。褒めすぎだって。あの天羽さんに、敵うわけないじゃん。って。でも、ウソじゃなかった。伊東真希は、それほどのプレーヤーなんだ。どうなるんだろう? あの二人が戦ったら? きっと、凄い勝負になるんだろうなあ。観たい。観てみたい! でも、そのためには、うちが負けなきゃいけないんだよね……。
 負けるのは、イヤだな。でも、勝てるのかな。50対26。24点のビハインド。あの、天下の浄善女学院相手に。これから追いついて、引っ繰り返す? ムリだよ。勝てっこないよ。だって、あの天羽さんに肩を並べちゃうエースがいるチームなんだよ。よく頑張ったよ。精一杯、やったじゃん。悔いは、ないよ。悔いは…………悔いは…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………イヤだ! イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ。イ・ヤ・だ! イヤだよ。負けたくないよ。勝ちたいよ。まだ一回戦じゃないか。こんなところで、終わりたくないよ。
 悔しいよ。悔しくて、悔しくて、涙が出そうだよ。でもなんで? 天羽さんには、ただ憧れて、尊敬していられたのに。あのひとに勝とうなんて、そんな大それたこと、考えもしなかったのに。なんで伊東(アイツ)に負けちゃうのは、こんなに悔しいんだろう……?
 ――実際に、試合をしてるから?
 そうかもしれない。
 でも、それだけじゃない。
 ――同じ、高校二年だから?
 そうかもしれない。
 でも、それだけじゃない。
 ――試合当日に寝過ごして遅刻するような、フザけたヤツだから?
 そうかもしれない。
 でも、それだけじゃない。

(ふっ飛ばしちゃった。ゴメンね)
 伊東はファウルの宣告を受けたあと、まだコートに座り込んだままのアカネに、そう言って手を差し伸べたのだった。その手をアカネが握ることはなく、ヒカルが半ば強引に腕を取って、助け起こしたのだったが。

 ――あの、優しい笑顔。敵に向ける表情じゃない。アイツにとって、わたしは取るに足らない弱者でしかない。あのダンクだって、うちのチームに対して、やったことじゃない……。アイツが指差した二人組――。あの人達のことは、知ってる。ビデオで見た。天女の、西表比呂子に、上原冬花。アイツは、彼女達へ見せつけるために、ダンク(アレ)をやったんだ。わたし達のことなんか、アイツは、まるで、まるで、眼中にないんだ……。それが、それが、死ぬほど悔しい!

 アカネの身体が、小刻みに震えだす。
 畜生!
 畜生!
 畜生!
 勝ちたいよ。
 負けたくないよ。
 だけど、勝てっこない。でも、でも――
 勝てないなら。勝てっこないなら、せめて。せめて……
「アカネ! アカネったら、どうしたのよ、アカネ!」
 ヒカルが心配して、アカネの身体を揺する。
 震えが止まり、アカネが顔を上げた。
「どうもしない。行こう。……絶対アイツを、本気にさせてやる!」
 そう言って、立ち上がった。
「腹は、括れたか?」
 リサが訊いた。
「はい」
「いいか、アカネ。ゴチャゴチャと難しいことは言わねえ。……動け」
「………」
「どんだけ悩もうが、どんだけ歯軋りしようが、それでいつもより高くジャンプできたりはしないし、いつもより巧くなったりもしない。そんなことは、試合が終わってから、好きなだけすりゃあいい。どうせ、自分がいままで積み重ねてきたぶんしか、出せやしないんだ。もう悩むな。迷うな。考えんな。精一杯、必死こいて、ただ動け。結果は、その後で出る!」
「うん……うん。わかったよ、リサ姉」
 アカネは俯き、リサのユニフォームの裾を掴んだ。
「リサ姉の言葉は、いつも心に染みる。……なんで? なんでそんな、わたしのツボにハマる言葉が、ポコポコ出てくんの?」
「そりゃお前、お前がどんな気持ちでいるのか、どう言やあ、力づけてやれんのか、必死こいて考えてるからさ」
「………!」
「いいか、アカネ。私が引退したら、お前がポイントガードだ。そうなったら、今度はお前が、そういうことをする番なんだ。仲間が苦しんでりゃ励まし、弱気になってりゃ勇気づける。チームの頭脳として、手足をフルに使うためには、そういうスキルだって必要なんだよ。テメーのことばっかり考えてるようじゃ、務まんねーぞ」
「ポイントガード……? わたしが?」
「そうだよ。ほかに誰がいる?」
「なんだよそれ。やだよ。聞きたくないよ。まるで、今日で引退するみたいじゃない」
「今日で引退するかしないかは、お前次第さ」
「………!」
「それから、モエミ。お前もだ」
「はいッ」
「浄善相手に、24点のビハインド。正直キツいんだよ、これは。虚勢ばっかり張ったって気休めにもならねえ。現実を見つめねーとな。けど、諦めんのはまだ早い。点差ほどの力の差はないと、私は思ってる。なんたって、第1Qはイーブンだったんだからな!
 アカネ、モエミ。お前らは、まだ1点だって入れてねえ。ということは、お前らが点を獲ってくれるなら、後半戦、追い上げることだってできる」
「!」
 ノックの音がし、ドアが開いた。
「すみません。そろそろ、お願いします」
 浄善生徒の係員が、ハーフタイムの終了を告げた。
「うし。それじゃあ、奇蹟の大逆転劇といこうや。メイク・ミラクルだ!」
「オウッ」
 控え室を出、コートへと向かう。再び、気力をチャージして。
 だがコートでは、屈辱が彼女たちを待ちかまえていた……。

  90

 その丈高い少女がコート中央へ足を運んだとき、このときを待ち侘びた女生徒達の嬌声が、客席のそこかしこから上がった。
 ファッションモデルさながらの三六〇度ターンを見せながら、敬礼のように額に触れた二本の指を、サッと客席に向けて振ると、爆発するような黄色い歓声が、体育館を揺るがした。
〈ヒ・ト・ミ!〉
〈ヒ・ト・ミ!〉
〈ヒ・ト・ミ!〉
〈ヒ・ト・ミ!〉
 四周のヒトミコールに手を振って応える西澤仁美の様子を眺めながら、ベンチに腰掛けた田渕真里は、隣の伊東真希に向かってこう言った。
「さすがのマッキーも、人気ではあいつに一歩譲るよねえ」
「人気はいいですよ」
 伊東は、薄い笑みを浮かべて応えた。
「ワタシ、ノーマルだし」
「ったく、もう、あの、お調子者が……」
 同じくベンチに腰掛け、ワナワナと震えながらそう言う安部夏陽を、その横の相羽早織が「まあまあ」と肩を叩いてなだめる。
 須田 恵はベンチの隅で、そんな西澤を頼もしそうに見つめていた。

〈浄善女学院の、選手の交替をお知らせします〉
 メンバーチェンジのアナウンスが告げられる。
〈4番、相羽早織。5番、安部夏陽。6番、田渕真里。7番、須田 恵。8番、伊東真希に替わりまして――〉
〈9番、西澤仁美。10番、石川 雅。13番、高科 愛。14番、緒沢真琴。15番、紅野麻美〉

「な――」
 早々と、センターラインに整列した5人を見て、リサは絶句した。
「オールメンバーチェンジだとお!」
「13、14、15番って、あのコ達、一年ですよお!」
 甲高い声で叫ぶように、モエミが言った。
「二軍でも勝てるってか」
 ボソリとチカがそう呟いた。眼が据わっている。
「上等じゃん」
 ふと気になったヒカルは、アカネを見て、息を呑んだ。
(――切れてる!)
 能面のように無表情な顔に、眼光だけはレーザーのように、センターラインの5人を刺している。
(向こうの控え室に怒鳴り込んだ時とは、比べものにならないくらい……)
 このアカネをコートに解き放ったら、一体どうなるのか? 楽しみであるよりは、怖いような気がした。鬼気迫るプレイをするのか、あるいは冷静さを欠いて自滅するのか、ヒカルにはまったく予測できなかった。

 掌を重ね、円陣を組む。
「こっちにとっちゃ、願ってもない好都合ってもんだ」
 静かに、リサは言った。
「ナメた真似しやがったこと、死ぬほど後悔させてやろうぜ。
 スタメン、引きずり出すぞッ。1・2・3――」
 続く鬨の声の機先を、アカネが制した。

「ゼッタイ、勝アアアアアアアアアアつッ」

第3Q 強敵 了 

次章予告
 格下のプレーヤーを尊敬するのは、初めてだ。倒しても倒しても、立ち上がってくる……。不思議がったりはしないよ。キミも、同じなんだね。赦せないんだろ? 自分より巧いヤツが。自分より強いヤツが! よくわかるよ。ボクもそうだからさ! 本気で相手をするよ。そして、全力で叩き潰す! ボクにだって、超えなきゃならない敵(やつ)がいるんだ。こんなところで、小石につまづいている暇はないんだ!
 負けられない。その事情を背負うのは、どちらも同じ。負けられない者同士がぶつかり、どちらかが勝ち、どちらかが負ける。それが、勝負の世界。
 最終章、「第4Q ライバル」。日之出が丘VS浄善女学院戦、決着。――勝負は残酷で、そして美しい。

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第1稿 2003.08.06