35

 出血負傷した君津監督と、付き添いで医務室に同行した相羽キャプテンが出ていった控え室で、安部夏陽は伊東真希に正座するよう命じた。
「正座……ですか?」
 戸惑ったように、伊東は訊き返した。
「もうすぐ試合なんですけど、正座しなきゃダメですか?」
「なに言ってんの?」
 夏陽は冷ややかに言った。
「大事な公式戦に遅刻しておいて、まさか試合に出られるなんて思ってる?」
「そんなあ!」
 まさかの言葉に、伊東は驚きと落胆の込もった声をあげる。
「……またまたあ、アベっちってば、うまいんだから。……驚かそうと思って。冗談ですよね?」
 一縷の望みを託して、軽口を叩いてみる。
「冗談だと思うの? 今日の相手は、別にあんたがいなくたって充分勝てるんだから」
「マジっすか……」
「わかったら、さっさと正座する!」
 鬼の形相で、夏陽は命じた。
「はい……」
 イタズラが見つかった子どものような意気消沈ぶりが可笑しい。田渕、多湖、柘植の低身長トリオが「ぷくく…」と笑いを堪えている。
「正座が苦手なら、わたくしがみっちり教えて差し上げましてよ」
 にこやかに石川 雅が言う。彼女は茶道・華道・和楽をひととおり嗜む、本物の“和のお嬢様”である。
「……遠慮しとく」
 間に合えば伊東を出す。それが君津監督の意志だ。それは夏陽も承知している。夏陽が口にしているのは、もちろん脅し(ブラフ)に過ぎない。
 だが、自分が監督なら、絶対に出さないのに、と夏陽は思う。監督も、みんなも、彼女を甘やかし過ぎる。真面目な相羽や須田にしても、伊東の放縦ぶりには、妙に寛容だ。いくら実力でナンバー1だからといって、それとこれとは話は別だ。いや、むしろ、実力ナンバー1のエースだからこそ、彼女の態度がデタラメでは、後輩に示しがつかず、チームの志気にも影響するではないか。
「あなたのお寝坊さんは、いい加減、諦めてるけど……」
 部活のみならず、日頃の学校生活でも、しょっちゅう遅刻している伊東の、超人的な寝起きの悪さをチームのメンバーに知らしめたのは、去年の夏の合宿でのことである。テコでも起きないとはこのことか、とチームメイトを驚かせ、呆れさせた。
 怒鳴ろうが、揺すろうが、イタズラ好きの田渕が、ティッシュで作ったこよりで、鼻の穴をコチョコチョしようが、暴れるばかりで眼を覚まそうとはしない。あまりしつこくすると、凶暴な平手が襲ってくるので、しまいには誰も手を出さなくなった。田渕など、顔面を馬鹿力で掴まれた挙げ句、投げ飛ばされてしまったほどである。
 日頃、伊東とはなにかと角突き合っている西澤が、これ幸いと彼女の顔にメガネと泥棒ヒゲをマジックで描き、部員全員を爆笑させたが、あとで大喧嘩になった。
「遅れるなら遅れるで、どうして連絡しないの?」
「すいません……」
「……すいませんじゃないでしょ。私は訊いてるの。連絡をしなかった、その理由を説明しなさい!」
「いえその……うっかりしてまして。というか、電話番号、わかんなくって。……すいません」
「この間、練習試合で遅刻したときも、私おんなじこと言ったよね? そのときも、あなた、おんなじ言い訳したよね? 私、あのとき、言わなかったっけ。言ったよね? 監督と、キャプテンと、学校の電話番号はメモリーしとけって! どうして、言われたことを言われたその日にやっておかないの? ねえ、どうして?」
「それよりケイタイの電源さえ入れてりゃ、こっちから連絡ついたのにサ」
 西澤がもっともなコメントで割り込んだが、伊東がチラとそちらを向いただけで、誰も取り合わなかった。
「ワタシって、ケロッと忘れちゃうんですよねー。どうしてなんですかね」
 周りで傍観しているメンバーから、失笑が漏れる。伊東には、こんなふざけているとしか思えない言葉も、どこか憎めなくさせる不思議な愛嬌があった。
「あなたはね、結局ナメてるのよ」
 だが、夏陽には通じなかったようだ。
「実力で劣る先輩の言うことなんて、馬鹿らしくて聞いてられっか。あなたはそう思ってるのよ。そうやって、上辺だけ神妙にして、うるさい小姑のお小言をやり過ごせば、それで済むと思ってるんでしょ!」
「そんなあ! そんなことないです。それって、アベっちの被害モーソーっていうか……」
「被害妄想ですってぇぇぇ」
 夏陽の顔が般若の面になる。
「……あ、あの、ワタシ、トイレ行っていいでしょうか? もれそうなんですッ。すいません、シツレイしまーすッ」
 返事も待たず、逃げるように控え室を飛び出してゆく。
「こらあッ、待てッ、逃げるなッ、伊東ォォォッ」
 廊下に飛び出して叫ぶ夏陽の背中を、医務室から戻った相羽早織が、呆れたように見つめていた。
「またお説教? 糠に釘だよ、あのコには」
「そうやって、サオリンまで甘やかすから、図に乗るんじゃない。私だって、言いたかないわよ。でも、誰かが言わなきゃ、しょうがないじゃない。巧けりゃいいってもんじゃないでしょ。
 サオリンはいいよ。そうやって『優しいキャプテン』やって、みんなから好かれてさ。私なんか、いっつも憎まれ役でさ」
 気のおけない同輩の前でのみこぼす夏陽の愚痴に、早織が苦笑する。
「どうも叱るのって苦手でさ。感謝してるよ。アベっちがそうやって、おっかない父親役やってくれるから、私は母親役やってられるんだって。いいから、なかに入ろ」

  36

 安部夏陽。
 強豪・浄善にあって、一年からレギュラーとして活躍した彼女の名を、天島でバスケをやる高校女子で、知らぬ者はいない。
 だが、彼女が浄善女学院に入学以来、たどって来た三年間は、決して華々しくも順風満帆でもありはしなかった。
 夏陽は一般入試で、浄善に入学した。戦力となるメンバーの多くが、スカウトによるスポーツ特待生で占められるこの学校では、不利なスタートである。初めてのインターハイ予選では、ベンチ入りもできなかった。
 だが、全国大会ではベンチ入りを果たし、ウインターカップでは一年にしてスタメン入りを遂げた。強豪・浄善で、一年でユニフォームを獲る。これ自体が、大変なことである。名伯楽・君津監督にその隠れた資質を見出され、引き出されたことにもよるが、なによりも彼女自身の人一倍の努力の賜物である。
 スカウトで入学し、入部当初から即戦力としてレギュラー入りしていた相羽、田渕と並んで、驚異の一年生トリオと呼ばれた。彼女らが二年、三年になる頃、王者・天島女子大附属を下し、天島に君臨するだろう。そう言われても、おかしくはなかった。だが、そう言われることはなかった。
 一方の天島女子大附属には、同じ学年に、天羽七海恵がいたからである。
 中学時代から全国的な有名人であり、鳴り物入りで天女に入り、一年でエースと呼ばれ、新人王・得点王・MVPを総ナメにしたスーパースター天羽の輝きの前に、努力のルーキー安部夏陽の光は掻き消された。
 二年でエースと呼ばれた。だがそれは、チーム内の扱いでしかない“名ばかりのエース”だった。外部の人間は、決して彼女をエースとは認めなかったからだ。そう。一年に、伊東真希が現れたからである。


 ノックの音がした。リサが返事をすると、開いた扉から、伊東真希が現れた。
「こんにちわ」
 後ろ手に扉を閉める。
「何の用だよ」
 突っ掛かるようにアカネは言った。マッチアップの相手だと思うと、意識せずにはいられなかった。
「今度はこっちの控え室に、単身お礼参りかよ?」
「アベっちのお説教がうるさいから、逃げ出してきちゃった」
 それを聞いて、チカが苦笑いする。
「オメーも相当なタマだな。伊東」
「ワタシのこと、知ってるんだ?」
 嬉しそうに、伊東は言った。
(そりゃま、あんな登場の仕方すりゃあね)
 リサは内心でそう思った。
「天島でバスケをやってる高校女子で、ポスト天羽の呼び声高い、あんたを知らねーヤツはいねーよ」
(ビデオ視るまで顔も知らなかったクセに)
 チカは内心でそう思った。
「嬉しい。光栄だな。でも、『ポスト天羽』ってのは、余計だな」
 伊東は親指で自分の胸を指し、サラリと言ってのけた。
「天羽の時代は今大会で終わる。ワタシが終わらせる」

 あまりのセリフに、伊東以外の全員が絶句した。
 なんという自信! なんというプライド!
 天島ナンバー1プレイヤー・天羽七海恵を意識し、挑まんとする腕自慢の選手は少なくない。だが、ここまでストレートに、天羽に対する勝利宣言をする人間は、彼女をおいていないだろう。
「いるもんよね〜、上には上が。自信のバケモノ。ま、それを言うだけの実力・実績はあるんだけどさ。誰かと違って」
「その言葉、すんげえトゲを感じるんすけど?」
 アカネはイヤな顔で、チカに言った。
「つまり、決勝リーグには行くということね。対戦相手を前にして、ずいぶんと言ってくれるじゃない?」
 リサが怖い笑みを浮かべて、伊東に言った。
「あいや〜、そんなつもりでは……」
 自分の失言に気付いたという感じで、首をすくめる。そんな仕草は、悪意のない人柄を感じさせたが、かえって小面憎く感じる者もいるだろう。
「いいってことよ」
 アカネはそんな伊東に告げた。
「互いが互いに勝つと思ってる。それが勝負ってもんだろ? 言っとくがこっちだって、おめーら蹴散らして、天羽さんに挑戦する気でいるんだ。そいつは覚えとけ」
「同感だね」
 伊東はニッコリと笑みを浮かべて言った。
「はじめっから勝てっこないと思ってる相手なんて、やっつける値打ちもないもんね。
 あなたとは気が合いそう。握手してもらえる?」
 だが、そう言って差し出したのは、右手ではなかった。
「――気に入ったよ。戦う前に敵とは握手はしねえ。そう言うつもりだったのにさ」
 伊東とアカネが、左手で握手を交わす。右手の握手とは正逆の、決闘の挨拶。ギュッと互いに握力を込めて。
「上田、茜さんでしょ? あなたには、会いたかった」
「……知ってんのか、わたしのこと?」
「知り合いから聞いてて、興味あったんだ。日之出が丘にすばしっこいヤツがいるって。ひと呼んで、日之出が丘の小さなエース」
「!」
 そう言った途端、クスクスと伊東は笑い始めた。
「もっとキツイ感じかと思ってた。白虎四高の登戸 彩チャンみたいな。こんな可愛い人だったなんてね。うちのカントクに、鼻に指つっこんだんだって? スゴイことやるよねえ!」
「……光栄だね。『小さな』ってのは、余計だけど」
 アカネは、伊東の頭の一点を凝視していた。
「ところでよう、伊東。ひとつ言っていいか」
「うん?」
「……お前、寝癖ついてるぞ」
「あちゃーっ、しまったーっ」
 伊東が髪を押さえてうずくまった。

  37

 一年で既に「怪物」と呼ばれ、「ポスト天羽」として脚光を浴びたスーパールーキー伊東真希の輝きの前に、努力のエース安部夏陽の光は、またも掻き消された。
 ライバル校の同学年に天羽七海恵、チームの後輩に伊東真希。外と内に十年に一度の逸材に挟まれ、通年なら主人公(ヒロイン)になれたはずの彼女は、脇役でいることを余儀なくされた。

 我慢がならないのは、そんな鬱屈から、夏陽が伊東に辛くあたっているのだと、口さがない一部部員に囁かれていることだ。
 トイレで用を足している最中に、はっきりと耳にしたこともある。
「ねえねえ、見たあ? また真希ちゃん、安部に怒鳴れてたよ」
「見た見た。あいつホント礼儀とか、うるさいんだよねー。古臭い精神論振りかざしちゃってさ。肝心のバスケじゃ敵わない相手にさ。お前が言うなっての」
「小姑のヒステリーだよ。せっかくモノにしたエースの座を後輩に獲られちゃうからって、僻んでんのよねー」
「言えてる〜」
 下卑た嬌声が響くなか、コンパートメントの扉を開けた。
 まさか個室に噂した本人がいるとは思わず、ギョッとした二人の後輩を後目に、夏陽は手を洗いながら告げた。
「あなたたち、『ゲスの勘繰り』って言葉知ってる?」
 二人の後輩は蒼い顔をして俯いている。
「仮にも伝統ある浄善女学院バスケ部の部員なら、恥を知りなさい。ベンチ入りする見込みもない万年補欠でもね」

「何十人も部員がいれば、心ないヤツだっているよ」
 相羽早織は、そう言って慰めた。
「でも、同じコートでプレイした“戦友”に、そんな風に思う人はいない。みんなアベっちのことは、よくわかってる。伊東だって、そんな風に思ってやしないよ」
 早織の気遣いは嬉しかったが、夏陽の心は晴れなかった。なにも伊東への嫉妬が理由で、辛く当たっているわけではない。伊東の不真面目さは、本当に目に余るのだ。他の誰が同じことをしても、同じように厳しく指導するだろう。それは神かけて誓える。
 ――だが、自分が伊東に嫉妬していることは、まぎれもない事実だ。
 彼女の底知れないバスケのスキルとセンスを目の当たりにする度、腰から下の力が抜けてしまいそうな、無力感に苛まれる。一瞬のスキを突いてマークを抜き去る俊敏さ、真似のできない多彩な技。それは、県大会で当たった天羽にも感じたことだ。自分とどのくらい差があるのか、自分がどういう努力をどれほど積めば追いつけるのか、それが見当もつかない。
 さらに伊東には、女子とは思えぬパワーとスタミナ、そして、信じられないほどの跳躍力があった。
「なに食ったら、あんなに跳べんだよ?」
 忌々しげな西澤の呟きが、心に残る。何を食べたら。西澤らしい、本質を捉えた言葉だ。これはもう、努力や経験がどうのといった、次元の問題ではない。肉体が、細胞が、遺伝子が、人間として、いや、生物として根本的に違う。
 自分が必死の思いで積み重ね、身につけてきた技術が、身体能力が、入部したての一つ下の後輩に、あっさりと凌駕される。
 フォーメーションプレイの練習で、自分が苦労していることを彼女は難なくクリアしてのける。飲み込みも早い。監督の容赦ない罵声にも増して「アベっち、ドンマイ!」という伊東の励ましが、傷口に塩を擦り込むように心に痛い。
 うるさい! お前に言われたくない! そう言いたくなる気持ちを抑えつける。厭味で言っているのではない。それはわかっている。自分の悪意を、そんな回りくどい方法で表現するコではない。
 嫌いなわけでは決してない。可愛い後輩だと思う。赤ん坊のように素直で、そして、無邪気なまでに無神経で。
 醜いと思う。敵ではなく、仲間に対して、そんな嫉妬や鬱屈を抱いている自分がだ。西澤が伊東に抱いている、強烈なライバル意識とも違う。西澤もまた、天才肌のプレイヤーだ。自分が抱いているのは、己れの信念に反し、フェアであるはずのスポーツの世界にも、まるで容姿の美醜のように、努力ではどうにもならない天性の「差」を持つ者がいることに対する、濁ったジェラシーだ。

 不器用なタイプだと自覚している。不器用だからこそ、他人(ひと)の二倍三倍努力して、他人に勝つ。努力こそ、己が信条だった。努力に勝る天才なし。そう信じて、いままで生きてきた。そう信じて、血の滲むような、辛いトレーニングにも耐えてきた。
 そして、その努力は、確かに報われた。スカウトではない一般の部員ながら、一年でレギュラーを獲り、二年でエースと呼ばれるまでになった。それが夏陽の自負であり、誇りの拠り所でもあった。誰よりも頑張った。だから、誰よりも上に立てた――と。
 だが、そんな自負も誇りも、伊東真希の前に脆くも崩れ去った。猫と虎が、生まれながらにして違うように。猫がどんなに頑張ってみても、虎にはなれないように。伊東や天羽のような、選ばれた《特別な人間(プレイヤー)》には、凡人がどう足掻いても、太刀打ちできないのだろうか? カメがウサギに勝てるとすれば、それはウサギが油断して居眠りをするからであって、走り続けるウサギには、カメは勝てないのか?
 認めたくはなかった。だが、認めないわけにはいかなかった。それがスポーツという勝負の世界の、冷徹なジャッジだからだ。

 同じ学年の相羽や田渕、須田らは、そうした隔意は全く持っていない。優秀な後輩の加入を素直に喜んでいる。伊東の存在は、打倒・天女の切り札であり、要だ。伊東なくして、天羽率いる天女への勝利はあり得ない。それがわかっていてなお、夏陽は害虫に蝕まれるような、自分の感情をどうにもできなかった。
 自分の限界と役割をしっかりとわきまえ、自分より上手の仲間に尊敬と信頼を寄せる。それが夏陽にはできなかった。自分が一番頑張っている。それなのに、なぜ自分は一番ではないのか!? それが理不尽に思えた。それが赦せなかった。
 なんのことはない。下種は自分のほうだ。主役でなければ満足できない、俗悪で、肥大した自我の持ち主。卑しい陰口に興じる部員を責める資格などない。彼女たちは、そんな自分の本性を正しく見抜いていたのだ。
 自分のそうした性情が、人並み外れた努力へと駆り立てたのも事実だ。だが、それでも勝てない相手に対しては、妬みの感情が首をもたげるのだ。伊東になんの罪がある? 天性の資質を具えているからといって、それは彼女の罪でもなんでもない。努力の量が結果を決める。それが全てだという自分の勝手な思い込みが、間違いであったというだけだ。
 それを直視することは辛かったが、理性的に振る舞う役には立った。感情はどうにもならず、それを押し殺すのは苦痛を伴ったが、醜態を晒すよりはマシだった。プライドの高い夏陽には、感情の赴くままにヒステリックに振る舞うことだけは、何にも増して恥辱だった。幼児のように泣き叫ぶ己れの自我を鉄のプライドで抑えつけ、危うい精神の均衡を保っている。それが「堅物の厳しい先輩」、安部夏陽の偽りない姿だった。
 次期キャプテンにという監督の指名を固辞したのもそのためだ。仲間にわだかまりを抱いたまま、キャプテンを務めるわけにはいかなかった。

 夏陽にとって頭が痛いのは、プレイヤーとして敵わないだけではなく、伊東が部員として、あまりにも不真面目かつデタラメなことである。先輩を馴れ馴れしくニックネームで呼ぶのはまだしも、練習やましてや試合に遅れるなど、もってのほかだ。もともと生真面目な夏陽には、これが赦せない。
 当然、叱責する。しかし、「だから、お前はダメなのだ」とは言えない。プレイをすれば、伊東には敵わないからだ。人としての折り目正しさが、選手としての結果にも結びつく。それが夏陽の信念であり、指導の根本でもあった。だが、伊東の前では、それが否定される。
 それはまた、他の後輩の指導にも、影響せずにはおかない。そんなこと言ったって、伊東みたいな選手もいるじゃないか。そんな偉そうなことを言うあなたは、現に伊東より下手ではないか。それがやるせなかった。伊東の存在が、夏陽の生き方を、信念を、根こそぎ否定する。
 伊東の奔放さこそ、彼女の強さの根源なのだと、相羽早織は言う。だから、変に抑えつけないほうがいい、とも。
 その意見には賛成できない。そんなことを言って放任しているから、図に乗っていつまでも態度が改まらないのだ。
「ま、抑えつけようったって、抑えつけられやしないんだけどさ」
 そう言って、早織は笑う。確かに、夏陽がどんなに口を酸っぱくして叱っても、次の瞬間には、ケロッとして同じことを繰り返すのだ。ナメているのか、と言いたくなる。
 それでも、匙を投げたりはしない。そう、夏陽は決意している。伊東が何度でもチームの規律を逸脱するなら、自分は何度でも同じ叱責を繰り返すまでだ。これは単に、伊東ひとりの問題ではない。チーム全体の秩序に関わる問題なのだ。
 伊東に倣って、自分もチームの規律から自由に行動するというなら、この鬼の安部先輩の、恐怖のお説教を覚悟の上でやってみるがいい。

 かくして、努力・真面目の優等生、安部夏陽と、天分・奔放の神童、伊東真希との葛藤は、周囲の仲間たちを半ば呆れさせながら、いまなお継続中なのである。

  38

 伊東真希がまるで空き巣のように、ソ〜ッと控え室の扉を開く。
「そんな風にこっそり入ってきたって、同じでしょうが!」
 夏陽が呆れ気味に荒げた声で言った。
「長いトイレだったねー」
 田渕がニヤついて、そう付け加えた。
 エヘヘ、どーも。と言って伊東が入室する。さっぱり言うことを聞かないわりに、こうしたおっかなびっくりな態度は、妙に子供っぽい愛嬌がある。伊東が憎めないのはこういうところだ、と夏陽は思う。
「アベっちには悪いけど、スタメンで出てもらうからね。伊東」
「はい」
「あれ。……驚かないのね?」
「おおかた、あいつらに聞いてきたんでしょ」
 夏陽が首を振りながら言う。
「すごいッ。アベっち、鋭い!」
「あんたの行動パターンぐらいお見通しよ。で、どうだった? 話してきたんでしょ。上田 茜っていう、とんでもないコと」
「面白そうなヤツですね。眼がギラギラしてて」
 マッチアップが楽しみでならない。そんな表情で伊東は言った。
「監督の仇を取ってもらうんだからね。しっかり抑えてよ」
「合点承知!」
 相羽の檄に伊東が応えた。
「伊東」
 夏陽が伊東に告げる。
「はい」
「あなたの人間性に関しては、言いたい文句は山ほどある」
「………」
「でも、選手(プレイヤー)としては、信頼してる。遅刻の罰は、コートで働いて償ってちょうだい。あなたが、うちの主役なんだから!」
 夏陽はドン、と伊東の背中を叩いてそう言った。
「……押忍!」
(そう思えるようになるには、時間がかかったけどね)
 長い髪を後ろ手にリボンで括って、キャプテン相羽が号令する。
「さあ。じゃあ、行こうか! ファンの皆さんが、お待ちかねだよ」
「オウッ」

 キャプテン相羽早織に率いられ、浄善バスケ部十三名(含スコア係)の戦士たちが、コートへ通ずる廊下をゆく。
 浄善女学院。インターハイの常連であり、強豪の名をほしいままにしてきたこのチームにはしかし、「優勝」の経験がなかった。天島の王者・天島女子大附属が常に立ちはだかり、その行く手を阻んできたからである。
 対天女戦で勝利した公式試合は、ただ一度。それが、去年の新人戦決勝である。次は、天羽七海恵のいるベストメンバーを倒す! 狙うは優勝。その二文字しかない。
 この試合、誰ひとりとして、負けるなどとは微塵も思ってはいない。君津監督は言った。この試合は、対天女戦の試金石になる。ダブルスコア、倍以上の点差で勝て。それが、最低合格ラインだ――と。
 ならば、それを果たすまでだ!
(まったく、上には上がいるというか、とんでもないコがいたものね)
 コートへと歩を進めながら、夏陽はアカネに思いを巡らせていた。
(でも、いい具合にモチベーションを高めてくれたわ。あのコは)
(いい度胸してる。うちに喧嘩を売ってくるんだもの。いいわ、買ってあげる。ウンと高値でね)
(そして、教えてあげる。自分がどんなに向こう見ずだったのかを。去年の選抜、準々決勝は、見ていたわ。いいチームよ。あなたたちは。でも、私たちは負けない)
(チカ、そして上田 茜。あなたたちに、はっきりと思い知らせてあげる。私たちがいまいる場所は、あなたたちのいる遙か彼方なのだということを!)
 相羽がコートへの扉を開ける。眩いライトに照らされたコートに彼女たちが足を踏み入れると、四方の観客席を埋め尽くした、応援の女生徒たちの大歓声が、体育館を揺るがした。

続く 39〜41

次回予告
「去年、うちはベスト8まで行きました。そのメンバーが、四人も残っているんです。あの頃より、もっと強く、もっと逞しくなって。そして今年、とっておきの長距離砲が、仲間に加わりました。私、自信を持って言い切れます。勝ち目はあります。私たちは、強い!
 ヒカルの力強い言葉は、みんなに勇気を与えた。ついに訪れた運命の一戦。試合開始のブザーが鳴る。次回、『強敵』第五、六幕。主審の手から、ボールが舞う。アカネ、ヒカル、リサ、チカ、モエミの運命を乗せて!

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第1稿 2002.07.16
第2稿 2002.08.02
第3稿 2003.01.28