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 必ず勝ちますから。そう、伊東真希は言った。
 それでも、不安はあった。自分の在学中、そして卒業してから今に至るも、浄善が天女に勝ったことは、一度としてなかったからだ。浄善だけではない。この十年間、天女は公式戦で、県内では負けたことがない。大変なチームである。
 だが、伊東はその約束を守った。85対53。浄善の圧勝! それを生で観たときの感動は忘れられない。熱い涙があふれて止まらなかった。まるで自分のことのように嬉しかった。果たせなかった自分の悲願を、後輩達が代わって果たしてくれたような気がした。
 天女に勝つ。それのみを目標に、ひたすら頑張ってきた。だが、その志は遂に叶うことはなかった。失意の祐子は、大学進学をやめ、もうひとつの夢、ケーキ職人への修行の道を選んだ。
「もったいないな」
 君津監督はそうこぼした。
「確かに、チームとしては、うちは天女に勝たれへんかった。けど、お前は――もっと強いチームに入って、活躍できるチャンスはいくらでもある。全日本代表入りも、お前なら、夢やないんやけどな」
「なんだか、疲れてしまったんです。“勝つためのバスケ”に」
 祐子は、そう答えた。
「バスケが大好きで、バスケが楽しくて、それで始めたバスケのはずなのに、いつの間にか『勝つこと』が目的の苦しみに変わってしまって。それでも、勝ちさえすれば、どんな苦しみも報われる。そう思って、精一杯、これ以上はないくらい頑張りました。それでも、勝てなかった……。そしたら、なんだか、とても空しくなってしまって。
 それに、自分が負けて気付いたんです。勝つということは、戦った相手に、こういう思いをさせて、勝利の悦びを得ているんだって。お互い様だし、それが勝負の世界だってことはわかっています。でも、そのことに、とても疲れてしまったんです」
「そうか」
 君津はもう、引き留めるのをやめた。彼女には、スポーツマンとして最も大事な要素、“闘志”を無くしてしまっていた。
「私、自分のやることで、みんなを笑顔にしたいんです。奪い合うのではなくて、与えることに、これからの人生を懸けてみたいんです」
「それで、ケーキ職人か。まあ、お前の人生やからな。お前は根性がある。どこへ行っても、ひとかどの人間になれるやろ」
 別れ際に君津はこう言った。
「俺は必ず、俺のチームで天女を破ってみせる。そのときに、お前がお前の夢を叶えていたら、お前が作ったケーキを俺にごちそうしてくれ」
 祐子は笑顔でこう答えた。
「はい。必ず」

 涙をぬぐい、トイレで化粧を直して、祐子は新人戦優勝と、対天女戦初勝利に沸く控え室へと、足を運んだ。
 祝福の花束と、約束の、苺のショートケーキを手に。


 それ以来、定休日には、差し入れに行くほどの、親密な交流が続いている。
 もしも。自分のチームが天女に勝っていたなら――。ふと、そんな思いに耽ることがある。有力な大学に進学し、今頃はプロリーグや実業団で、バスケを続ける自分がいたのだろうかと。
 夢を生活の糧にするのは、ケーキのように甘いものではない。職人仕事のケーキ作り自体は、重労働でも苦ではない。だが、雇われ店長としての店の経営には、気鬱なことも多い。良質な材料の入手には腐心するが、苦労して取りつけた仕入先との取引が、あっさり他の条件の良い先に鞍替えされることもしばしばだ。あるときは怒鳴り、あるときは平身低頭して頼み込む。そんな交渉事ほど、疲れるものはない。仕入値を巡るせめぎ合いは、宿敵・天女との闘いにも増して、困難で厄介だ。
 考えても詮無い「もしも」に思いを馳せるのは、そんなときだ。商売の過酷でやるせない現実に神経を磨り減らすとき、あんなに辛く苦しかった練習やトレーニングの日々が、美しい思い出として甦ってくる。
 そして、その可能性を自ら否定する。いずれどこかで壁に当たり、同じ挫折を味わっていたであろうと。
 仮に天島を制したとして、今度は全国という舞台で、各県を制したチーム同士、しのぎを削らなければならない。天島では敵なしの天女でさえ、いまだ全国を制したことはない。天才と呼ばれる天羽にしても、全国優勝は未経験なのだ。
 さらに、日本の頂点に立ったとしよう。今度は、世界という舞台が待っている。国を代表するプレイヤーがぶつかり合うステージが。そしてそこには、他国の人間が、どうしても超えられない壁がある。アメリカ、という高い高い壁が……。
 自分より強い者がいる。自分より実力で勝る者がいる。そのことに我慢できない人間がいる。ナンバー1でなければ、満足できない人間。そういうタイプの人間は、かえってスポーツには向かないのではないか。祐子はそう思っている。
 頂点への門は狭く、その道は果てしない。県を制すれば全国。全国を制すれば世界。どこまでも強くなろうとすれば、どこかで自分よりも強い相手と遭わずには済まされない。世界一にでもならぬ限り、どこかで負けることになるのだ。
 そういう人間は、そこで自分の弱さや限界に、折り合いがつけられない。自分はそうであったが故に、バスケに挫折したのだ。祐子はそう自己認識している。
 現・浄善メンバーにも、そんなタイプが二人いるように思える。一人は、安部夏陽。彼女はしかし、自己の能力と現実との折り合いをつけつつあるように、祐子の眼には見えた。身近に伊東真希という存在を持ったことが大きいだろう。きっと、悔しさや無力感も味わったに違いあるまい。彼女はそんな自分の性情を、意識的な努力によって克服しようとしている。
 もう一人は、伊東真希。彼女もまた、自分より強い者がいることに我慢ならない人間だ。そしてまた、彼女の闘志そのものは、いまだ折れることを知らない。あの天羽七海恵に敗れてさえも。次に戦うときは勝つ。その強烈な意志だけがある。強い者がい、それに挑戦し、倒すことに、最大の生き甲斐を覚えている。
 同じ県、同じ時代に、天羽七海恵という傑出したプレイヤーがいる。そのことを不運だと言ったことがあった。それに対して伊東はこう答え、祐子を驚かせたものだ。
「不運なのは、天羽(アイツ)のほうですよ」
 心外だと言わんばかりに、彼女はそう言った。
「ワタシさえいなかったら、《女王》のまま、高校を卒業できたのに」
「――なーんてね」
 目を丸くしている祐子に向かって、そう付け加えて、ペロッと舌をみせた。その含羞と子どもっぽさを、祐子は好もしく思った。
「あのヒトには、感謝してるんです。ホントですよ。
 天羽(アイツ)に出会って、初めてわかったんです。『本気になる』って、どんなことか」
 静かに語る伊東の全身から、抑えても抑えきれない闘志が、オーラとなって滲み出ているように、祐子は感じた。
「新人戦は、勝って当たり前です。だって、天羽(アイツ)がいないんだもん。今年は負けた。でも、この次の夏は――」
「この次の夏は……?」
 両手を腰にあて、大空に向かって宣言するように、伊東は言い放った。
天羽(アイツ)を倒して、ワタシが天島の女王になる!」

 彼女の毅さは、どこから来るのだろうか。祐子は思う。伊東真希の「怪物」たる所以は、並外れた身体能力以上に、およそ挫折することを知らない、無類の精神的タフネスにこそあると。
 彼女こそは、数少ない「頂点」を極める人間になれるかもしれない。
 技術、身体能力ともに、いまも目覚ましい勢いで成長を続ける伊東の実力は底知れない。誰もが目指し、そしてどこかで諦める「頂点」の座を、彼女なら掴み取るかもしれない。
「あいつは将来、本場アメリカのプロリーグで活躍する器や」
 君津監督は嬉しそうに、伊東についてそう語ってくれた。祐子も同感だった。

(そして、アカネちゃんも、おそらく同じタイプ……)
 だが、伊東のようなタフさはない。ナイフのように鋭く、硬く、そして脆い。
 彼女の実力は知らない。それでも、伊東とのマッチアップになれば、勝ち目はあるまい。人一倍負けん気が強く、勝ち気で、自信家の彼女が、圧倒的な実力差で打ちのめされたあとの心中を想うと、胸が痛んだ。それはかつて、自分が味わった苦悩でもあるからだ。妹のように可愛い子であるからこそ、なおさら辛かった。
 敗北によって、あの子にもたらされるのは挫折なのか、それとも――?
 母校である浄善には、優勝してほしい。天羽は三年。インターハイで天羽のいる天女を倒すのは、これが最後のチャンスだ。一方で、常連客として親しんできたあの子たちが、一回戦で敗退するのも忍びない。秋月リサや大久保千夏が、どんな苦労をしてクラブを変え、後輩を育成していったかも、三年の月日を通じて、よく知っている。ジレンマだが、あの子たちにも、勝たせてあげたいと思う。
 まるで我が子の姉妹対決を見守る親のような心境だと、祐子は苦笑いした。
 店内の壁掛け時計に目をやる。アンティークの柱時計だ。時刻は、11時3分前を示していた。
(まもなく、試合開始――)
(アカネちゃん、強いわよ。真希ちゃんは。私の後輩達は)
(がんばれ)
 互いに勝敗を競う双方に想いをかける者には、その言葉しかない。
(がんばれ、みんな)
 がんばれ――

  43

〈ただいまより、全国高等学校総合体育大会、女子バスケットボール、天島県予選第一回戦、浄善女学院高校対日之出が丘高校の試合を行います〉
 場内アナウンスが流れると、会場の歓声とテンションが一気に高まった。
「がんばっていきまァァァァァァァッ」
「ショォォォォォォォイッ」
 相羽早織のかけ声とともに、浄善名物「がんばっていきまっしょい」の円陣の声が上がると。
「日之出ェェェェェェェェェェッ――ファイッ」
「オゥゥゥシッ」
 負けじと、日之出が丘の今度はスタメン5人による円陣の声が上がる。
〈試合に先立ちまして、両校のスターティングメンバーとヘッドコーチの紹介を行います〉
〈初めに、日之出が丘高校から。4番、秋月リサ〉
 リサが一礼して、センターラインへと進む。場内から拍手が寄せられる。
(へえ、拍手してくれるんだ? さすがはお嬢様学校、しつけは行き届いてるみたいね)

〈5番、大久保千夏〉

「マッキー、真里」
 相羽が伊東と田渕に話しかける。
「ハイ」
「なに?」

〈6番、斎藤 光〉

「ジャンプボールは私が獲る。マッキーはゲーム開始と同時に、ゴールに走って」
「私はボールをもらって、伊東にパスすりゃいいのね」
「うん。必ず真里んところにボールを落とす」

〈7番、上田 茜〉

「真里からパスが通るから、マッキーが決めて。上から、ガツンとやっちゃっていいよ」
 それを聞いた伊東がニヤッと笑みを浮かべる。
「いいんですかあ? 一発目から決めちゃって」

〈8番、篠塚萌美〉

「許す。監督の仇だからね。最初の一発で、震え上がらせちゃいな」
「ラジャー!」
「サオリン怖〜い。人格者豹へ〜ん」
「あったり前でしょ。私がやさしいのは、私の可愛い子ども達だけだよ」

〈ヘッドコーチ、蔭妻さん〉
「なんでやねん!」
 整列した日之出ファイヴが、一斉にツッコミを入れる。
 存在感の薄い顧問・蔭妻教諭が、一歩前に出てお辞儀をする。
「あのヤロー、ただの顧問のクセして、なにちゃっかりヘッドコーチで登録してやがんだよ!」
「ウソは頭だけにしてもらいたいもんよね〜」
「……ったく、なにがヘッドコーチだよ。テメーの乏しい頭髪をコーチしろよ」

〈続きまして、浄善女学院高校〉
 一気に、歓声がボリュームアップする。
〈4番、相羽早織〉
 身長178センチ。ポジション、C(センター)。
(相羽さーん)
(サオリーン)
 客席から甲高い声援が飛ぶ。
「しんどいミスマッチだけど、負けないで」
 リサがマッチアップするヒカルを励ます。
「はい。ポジション獲りで勝って、リバウンド獲ります!」

〈5番、安部夏陽〉
 157センチ。F(フォワード)。
(アベっち〜)
(夏陽〜)
「負けんなよ」
「誰に言ってんのよ」
 前に並んだ相羽の手前、小声でリサとチカが応酬する。

〈6番、田渕真里〉
 149センチ。PG(ポイントガード)。
(ブッちゃ〜ん)
(マリーッ)
「あんたこそ、あのアカネより小っちゃいチビに負けたら、承知しないからね」
「誰に言ってんだよ」

〈7番、須田 恵〉
 165センチ。G(ガード)。
(メグ〜)
(須田さーん)
「“納豆ディフェンス”って言われてる、ねちっこいディフェンスの名人だ。おめーを徹底マークする気だ。締めてかかれよ、モエミ」
 隣り合ったアカネが、愛弟子モエミに注意を与える。
「はい!」

〈8番、伊東真希〉
 168センチ。PF(パワーフォワード)。
 ひときわ大きな声援が、体育館を揺るがせる。
(マッキー!)
(真希さーん!)
 伊東は四方の声援に応えるように、コートでくるりとターンすると、握った拳を天高く突き上げてみせた。黄色い声援が、一層高くなる。
「あのバカ……」
 夏陽が不機嫌に呟く。
「華があるよね、あのコは。天性のスターだよ。ああいう真似はできないわ、私らには」
「ただのお調子者よ。まったく」
 相羽の賞賛を夏陽がにべもなく否定する。

〈ヘッドコーチ、君津さん〉
 君津監督が一礼する。鼻にティッシュを詰めたその姿は、やはり滑稽だ。
(キミッちゃ〜ん)
 それでも声援が飛ぶのは、やはり女子校ゆえだろうか。

「ねえねえ」
 センターラインに並んだ伊東が、ヒソヒソ声でアカネに喋りかける。
「あん?」
「お宅のコーチ、ひょっとして……カツラ?」
「ひとつ言っておく」
 アカネは厳かな口調で告げた。
「あいつはコーチでも監督でもねー。ただの顧問だ。質問への回答。見りゃわかんだろ。以上」
「やっぱりね」
 クスクスと笑う。
「伊東――」
 無表情に夏陽が言い渡す。
「あとでグラウンド十周」
「あうー」
 伊東が顔を顰める。

 その様子をリサが面白そうに見つめている。
(安部夏陽。彼女とは、馬が合いそうな気がする。同じチームにいたら、親友になれたかも。彼女も、チカとはケンカばかりしてたって言ってた。似た者同士なのかもね)
(そういえば、彼女もコイツのことを「チカ」って呼んでた。コイツがなぜ自分のことをチカって名乗るのか、三年付き合ってる私も知らずにいる。彼女なら、そのわけを知っているだろうか……?)

「両校選手、私語は慎むように」
 主審が注意を与える。
「白=浄善女学院、赤=日之出が丘高校でいきます。一同、礼!」
「お願いします!」
 試合開始を告げるブザーが鳴る。
 両校選手が各々の位置へ散る。センターサークルには、相羽とヒカルが残った。
 相羽早織、178センチ。斎藤 光、163センチ。身長差、実に15センチ。それはまるで、両チームの実力差を象徴するかのようだ。
 主審がトスアップの体勢に入る。あれほど騒がしかった会場が、いまはシンと静まり返っている。緊張の一瞬。
 遠く日之出が丘のケーキ屋「彩紋」では、浄善の卒業生・長沢祐子が健闘を祈っていた。観客席では、恋しいアカネのため、徹夜で横断幕を作った博が、胸一杯のエールを送っている。その目的すら不可解な貴城は、何を思うのか、客席最後部の壁に背をあずけ、ただコートに眼を注いでいる。
 様々な想い、思惑を集め、いま日之出ファイヴのバスケ人生を変える、運命の一戦が始まろうとしていた。
 主審の手から、ボールが舞う。アカネ、ヒカル、リサ、チカ、モエミの運命をのせて。自らの運命を追って、ヒカルが跳ぶ。

続く 44〜46

次回予告
「伊東ォォォッ、行っちゃえーッ」
 ボールを拾った田渕は、ゴールへと疾る伊東真希にロングパスを送る。狙うはただひとつ。先制のダンク!! 浄善の作戦通り、日之出ファイヴは先制ゴールを奪われてしまうのか?
 いよいよ物語はゲームに突入。次回『強敵』第七幕、がんばれ、負けるな。君達は強い!

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第1稿 2002.08.02
第2稿 2003.01.28
第3稿 2004.01.10