日之出が丘高校から海は、ほんの目と鼻の先にある。二人の眼前には、オープンカフェのテラスから見渡せる、セルリアンブルーの南太平洋が広がっている。
「こういうロマンチックな場所で、する話じゃないよね」
 静かに耳を傾けていたヒカルは、博が話を終えても口を開かなかった。黙って、黄昏時の海を見つめている。
「……やっぱり、軽蔑しちゃうよね。こんなヤツ」
 何があったのか教えてほしい。そうせがんだのは、ヒカルである。最初は渋っていた博だったが、力になれるかもしれないからと粘って、やっと重い口を割らせたのだ。
「アカネのこと、好きなのね……」
「え……」
 それは問いではなく、断定だった。
「うん……」
 否定しても無駄に思えた。また、その必要もなかった。
「みんな、わかっちゃうんだね」
「だってミエミエだもん。わかるよ、それは。約一名の例外を除き」
 はあ〜、と博は溜め息をついた。
「あいつ、変に鋭いくせに、肝心なところで、てんで鈍いんだよなー」
「だめよ」
 怒ったような口調で返す。
「それとなくわかってもらおうなんて、虫のいいこと考えちゃ。男の子でしょ。真っ向勝負!」
 ヒカルは握った拳で博の胸を突いた。
「勇ましいんだね。さすがあのメンバーでセンターを獲っただけのことはあるよ。……俺も、いつもそうしようと思ってる。でも、いざとなると、どうしてもダメなんだ。情けない話だけど」
「ううん。ごめんなさい。生意気なこと言って。やっぱり、そういうことって、あるよね。ダメもとで割り切れることばっかりじゃないもんね。それを口にすると、人間関係の微妙なバランスを崩してしまいかねない。それで好きなひととうまくいけばまだしも、そうなる保証はなくて、何もかも喪ってしまうかもしれない。そう考えると、その一歩をどうしても踏み出せなくて、自分の胸の裡にしまい込んで。そういうこと、あるよね」
「なんか、経験者は語る、みたいなお言葉だね」
「それは私にだって。いろいろと辛いことはね」
「意外だな。斉藤さんってモテるし、男なんてその気になれば選り取りみどりって思ってたけど」
「ダメなんだ。大して知りもしない人からラヴレターとかもらっても。いったいこの人は、私の何をわかっていて、どういうつもりで私のことを好きだなんて言うのかって思っちゃう。それで何を言うかと思えば、天使だとか、女神だとか、そんな歯の浮く科白を並べ立てて。私はそんな、清らかな聖女じゃない。いやらしくて、嫉妬深くて、恨みはいつまでも忘れないイヤな女で、そのくせ、それを知られるのは怖くて、いい子ぶって優等生として振る舞っている。心の底では軽蔑しきっているのに、丁寧に返事まで書いて、幻想の斉藤光を演じている。そんな自分が、時々いやになる。
 私はアカネが羨ましい。あのコは、私みたいにグニャグニャ曲がりくねっていない。気持ちいいくらいに真っ直ぐで、素直で。そんなアカネをいいところも悪いところも、全部含めて好きだと言う長谷川君を素敵だと思う。私に言い寄ってくる人達は、私のことなんて何もわかってはいない。自分に都合のいい、斉藤光というお人形さんが欲しいだけ。
 こんな人間だから、自分から好きになる恋愛しか、私はできないと思う。好きになったひとにだけ、本当の私を見せるの」
「好きなひと、いるの?」
 我ながら頓珍漢なリアクションだと博は思った。「アイツは見た通りのカワイイ女の子じゃない。情の強(こわ)い女なんだぜ」。そう、アカネに聞かされてはいたが、実感は持てなかった。いまその斉藤光という少女の秘めたるダークサイドを目の当たりにして、圧倒され、そして魅せられ、博はそんな月並み以前に、ピントのずれた言葉を発することしかできなかった。
「……いるよ」
「誰? 俺の知ってるやつ? 誰にも言わないから」
「ナイショ」
「ひでえ。俺には恥ずかしい話させといてさ。もしかして、貴城?」
「まさか。あの人は苦手。ていうか、この話はおしまいッ」
「少なくとも、俺の知ってるやつなんだ」
「答えませんからね。……それより、最初の話に戻るけど。私は、長谷川君を軽蔑したりしない。好きでそうしたんなら、不潔じゃないもの」
 恥じらっているのだろう。ヒカルはまた海のほうを向いて言った。夕暮れ時にも関わらず、ハッキリそうと判る、紅潮した顔が博には好もしく思えた。
「そうなのかな? 女の子も、そう思うもんなの?」
「好きだから、心も身体も自分のものにしたい。そう思うのは、女だっていっしょ。女にだって性欲はあるし、男のスケベさを理解できないわけではないの。ただ、女が赦せないのは、男の人のそれがちょっと見境ないように思えるのと、それと意に染まない男性が、自分をそういう目で見たり、妄想の対象にしたりするのが、死ぬほど厭なだけ。女は冷酷だから」
「……俺は、意に染まないのかなあ」
「そうじゃない。友達という間柄で、エッチな対象にされたことを怒っているのであって、長谷川君の真剣な気持ちが伝われば、アカネだって反応は違ってくると思う」
「そうかもね。確かに俺も、それは考えた。考えてはいたんだけど……」
「言えそうもない?」
「いままでも、言おう言おうと思って、言えなかったから……」
「実はね」
 悪戯っぽく笑みを浮かべて、ヒカルは言った。
「そうだろうと思って、アカネと仲直りする、ちょっとしたアイデアを思いついたんだけど」
「なに?」
 博が身を乗り出す。
「時間もないし、ちょっと大変なんだけど――」

 ちょっとムリかなと思ったのですが、博君は凄く喜んで、さっそく準備に取り掛かるからと、飛び出していきました。明日の試合までに、間に合えばいいのですけど。
 それにしても、私ったら何をしているのでしょうか。明日は試合だというのに、親友に想いを寄せる男の子に、恋の相談役。それも、私の好きなひとを相手に。
 自分がこんなにも大胆になれることを初めて知りました。やっぱり私って、自分から積極果敢にアタックするタイプみたい。今日だって、その気になれば躊躇わずに言えた自信はある。あなたが好きです、って。彼の想い人が、アカネでさえなければ。
 少し妬けるけど、博君とアカネが付き合うのなら、私は祝福してあげようと思う。いや、そう思っていた。少なくとも、いままでは。そのために、二人の仲を取り持とうとし、博君をけしかけさえした。
 でも、博君の相談に事寄せて、あらかじめ自分で選んで決めておいた場所で、二人っきりの時間を過ごして、こんなにもときめいてしまって。もっともっとこんな風にいっしょにいたい。博君にも、ヒカルが好きだと言ってほしい。自分の貪欲な願望に、はっきりと気付いてしまったいまは、アカネの良き友人でいられる自信がない。
 もし、二人が男女の仲になったら、私は隔意なくアカネと付き合えるだろうか。たぶん、いままでと同じではいられないだろう。彼女に悟られない自信はある。上辺だけは、いままでと同じように振る舞って、友達付き合いをして。それでいて、心の裡では、燐火のような小昏い嫉妬の炎を燃やしている。そんなイヤな女になってしまいそうで、怖い。
 私、どうすればいい? こんなとき、一番の相談相手はアカネなのに、こんなにもあのコの明快でストレートな答を訊きたいことはないのに、よりによって彼女にだけは私の気持を明かせない。このことを知ったら、優しいあのコは、自分の気持とは関係なく、私と博君をくっつけようとするだろう。
 わからないのは、アカネの気持ち。あのコは、本当に博君を友達としてしか見ていないのだろうか? そのことは、アカネがハッキリそう言ったと、博君からも聞いてはいる。けど、私はそれが本当に彼女の本心なのかを疑っている。もちろん、そんなことでウソを言う彼女じゃないのはわかっている。ここで言っているのは、彼女自身、無自覚な心の奥底。アカネの気持ちは、いつも手に取るように判るのに、ことこれについてだけは、私はアカネの気持ちを読めずにいる。
 やめよう。このことを考えるのは。とりあえず、いまだけは。明日の相手は、強い強い浄善女学院なのだから。

 そこまで書いて、ヒカルは電子ノートのディスプレイパネルを閉じた。椅子から立ち上がると、背中からどさりとベッドに倒れ込む。
 机とベッドとクローゼットのほかは、これといった家具調度もない部屋で、これだけは立派で頑丈な書棚に、ギッシリと書物が詰まっている。古典文学の名作から、いまどきのベストセラーまで、小説が主だが、ほかにはバスケ理論の本などが並んでいる。そして、ベッドの周りには、これだけは女の子らしく、ぬいぐるみ達が大勢、所狭しと群れをなしている。
(これから、どうするの? どうしたいの?)
 自問しても、答は出ない。
 ふとベッドのわきを見ると、アライグマのぬいぐるみと眼が合う。小首を傾げて、いつもこちらを見ているように思える、お気に入りのアライグマである。その子を手にとって、高い高いのような姿勢で言う。
「な〜にが『肝心なところで、てんで鈍いんだよなー』よ。鈍いのはお前だ! ドンカン博ッ」
 そう言ってベッドの布団にたたきつける。
(ひどいなー)
 アライグマが言う。
(自分は、日記にもウソを書く、偽善者のくせに)
(ウソなんか、書いてない。あれは全部本心)
(でも、肝心なことを書いていない。君はしっかり計算してるくせに。アカネの好みは、長身&ワイルド系もしくは超美形。つまり、ルックス的にはモロ貴城くんタイプ〜)
(アカネと貴城君とは有り得ない。アカネは決定的に彼を嫌ってる)
(わかんないよお。最初の印象は最悪。それってラヴコメの王道じゃん)
(これは現実で、ラヴコメじゃない)
(ラヴコメの登場人物は、みんなそう思ってるよ。この世界の創造主が、面白がり屋のラヴコメ作家でないという保証がどこにあるのさ?)
(くだらない禅問答に興味はない。私の書いていない肝心なことってなに?)
(貴城とアカネの交際が有り得ないかどうかはともかくとして、身長166センチ、顔はよく言って可愛い系の博は、アカネの好みとは、およそ真逆。博がアカネに告白すれば、かなりの確率で博は振られる。そうして、彼が恋に破れれば、自分にもチャンスのお鉢が回ってくる。失恋の痛手に傷ついた博を慰める、ヒカル天使のご降臨〜って寸法)
(ゲスの勘繰り)
(そう言う君だってゲスだよ。しかも、ゲスであることさえ認めない偽善者)
(………)
(もう言い返せないの? なら続けるけど、だから君は、このままウジウジズルズルと博にいまの状態を続けられると困るんだよ。博にハッキリと告白させ、アカネに本当の本心を吐き出させる。その結果、博が自分の想いに終止符を打ったあとでないと、君はアプローチできないんだよ。なぜか。君はもしかしたら実を結ぶかもしれない芽を摘んでまで、自分の想いをかなえたくないからだよ。一見、思い遣り深そうだけど、実はそうじゃない。君は、そんなエゴイスティックな自分に、なりたくないだけなんだ)
(まるで、私のことを何でもよく知ってるような口を利くのね)
(そりゃそうさ。――だって、ボクは君だもん)

「やっばいなー」
 ヒカルは口に出して、ひとりごちた。
(これって、乖離性同一性障害の前駆症状かな)
 抑圧的な普段の人格に替わって、自由奔放な「魔女人格」が自分の意識を乗っ取ってしまう。そして、その間の記憶を普段の自分は留めていない。そんな過去いくつか読んだ、サイコスリラーの物語をヒカルは思い出した。
 その時、ガチャリと部屋のドアが開いた!

 ドキンと心臓が跳ね上がった。自慰行為にも似た、自分の最もプライベートな瞬間を誰かに見られた。一瞬、そんな感覚をおぼえたからだ。
 開いたドアの隙間から、幼い弟の守(まもる)が、パジャマ姿で眠そうに眼を擦っていた。
「まーくん! どうしたの?」
「おしっこ……」
 驚愕からの落差に、肩から力が抜ける。
「んも〜、甘えん坊だなー、まーくんはあ。もう小学生でしょう」
「おしっこ……」
「はいはい。お姉ちゃんがいっしょに行ってあげるから。おいで」
 弟の手を引いて、階下のトイレへと向かう。十(とお)歳の違う、この春小学校に上がったばかりの弟をヒカルは大好きだった。クラブで家を空けることが多い分、たまの休みには、いつもいっしょにいて、まるで母親のように面倒をみていた。守も、次女の薫よりはヒカルに懐いている。
 弟が小用を足している音を聞きながら、ヒカルはまるで可愛い小天使が、懊悩の泥沼にはまり込んだ自分を助けに来てくれたような気がしていた。
(グジグジ悩んだって、しょうがないよね。なるようにしか、ならないんだから。いざとなったら、アカネとだって、正々堂々と勝負すればいいんだ)
 私たちは、戦うことを通じて、互いを信頼し、尊敬し合える、スポーツ界の住人なのだから。
 水を流す音がして、トイレのドアが開いた。
「ちゃんと手、洗った? じゃ行こっか。あ、ちょっと待って!」
 洗面所から出ようとした矢先、いままさに台所を抜け階段を上ろうとする妹を見て、慌ててヒカルは弟を押しとどめる。
 ビックリして立ち止まっている妹に、ヒカルは手の甲を振って、さっさと行けと合図を送る。妹の手には、皿にのったショートケーキがあった。

 弟を寝かしつけて、ヒカルは妹の部屋に行った。
「もう、気を付けてよ。まーくん、欲しがっちゃうでしょ!」
「ごめんごめん。まさかトイレに行ってるとは。お姉ちゃん、一口食べる?」
「いい。こんな夜中に甘いもの食べて。太るよ」
「お勉強をしてると、頭が糖分を欲しがるのでーす」
 二つ年下の妹、薫は中学三年、受験生である。
「身体は動かしてないんだから、贅肉がいっぱいついちゃうよ。ほらなに、このプヨプヨのおなか!」
 親指と人差し指で、ヒカルが薫のウエストをつまむ。
「お願ァいッ、それは言わないでッ」
 薫が笑いながらイヤイヤをする。
「お姉ちゃん、ほんっと引き締まった身体してるもんねー。羨ましい」
「羨ましいんなら、夜中のケーキはやめる!」
「私もなにかスポーツやろっかなー。ねえ、バスケって痩せられる?」
「体脂肪は燃やせるよ。かわりに、筋肉ついちゃうけどね」
 ヒカルはTシャツの袖をまくって、力瘤をつくってみせる。
「うひゃーッ、それはカンベンみたいな」
「ここまで鍛えてるコは、そんなにいないけどね。……いまから、ちょっと走ってくるから。鍵は持っていくから、心配しないで」
「こんな時間にィ? だって明日、試合でしょう?」
「ちょっと眠れそうになくって」
「なんかお姉ちゃん、トレーニング中毒になってない?」
「そうかも。クタクタにならないと、眠れなくって。じゃ行ってくるから。勉強は感心だけど、お夜食はほどほどにね」

 しんと静まり返った深夜、中天の月と街灯が、夜の住宅街を照らしている。
 車ひとつ通らない夜道に、ヒカルの呼吸と地面を踏む音だけが、規則正しくリズムを刻んでいる。こうして身体を動かし、汗をかいていると、余計な雑念が消え去ってゆく。身体に力が余っていると、ロクでもないことばかり考える。恋の悩みもそうだが、対戦相手の浄善女学院への不安もある。もともと内省的な傾向を持つヒカルは、負の思考に囚われると抜け出せなくなる。
 こんなとき、ヒカルは決まってランニングをする。妹の薫がいみじくも「トレーニング中毒」と指摘したのは、正鵠を射ていた。辛いことを酒で紛らわす者がいるように、ヒカルはトレーニングによって、心のモヤモヤを晴らしていたのだ。

 しばらく走って、公園にたどり着いたところで、ヒカルは足を止めた。自宅からランニングをするときは、ここを折り返し点にするのが常だった。可変式のバスケットボードが設置されている。ヒカルはそれに近寄った。小学生が使用したのか、リングの高さは2メーター60センチの、ミニバスのそれに設定されていている。
「とうッ」
 腕を伸ばしてジャンプする。ヒカルの掌は軽々とリングを超え、はるか高みへと通過した。
(これなら私にも、ダンクできるんだけどなー)
 莫迦ばかしい思いに、自分でクスリと笑う。
 明日の試合のことが、頭をよぎる。浄善には、1メーターを跳ぶと言われる伊東真希、178センチセンター相羽早織がいる。彼女達を相手に、ゴール下でどう闘う?
 高さでは、勝ち目はない。

 もはや、恋の悩みは完全に消え去っていた。強力な試合への闘志が、それを頭から追い払った。無論それは、一時退却に過ぎなかったが。
 悩める乙女の顔はそこにはなかった。バスケという名の神に仕える、ゴール下の戦士の顔だけがあった。
(ポジション獲りが、勝負!)
 ヒカルはきびすを返すと、もときた道を自宅に向けて走り始めた。家に帰れば、あとは朝まで眠りにつくのが、唯一の仕事だ。きっと、ぐっすりと眠れるだろう。

 ――一方。
 懐中電灯を片手に、近所の広場にうずくまって、博はなにやら作業をしている。
(名案だと思ったけど、思ったより結構大変だなー。徹夜かな、こりゃ。というか、朝までに間に合うのかなー)
 懐中電灯で腕時計を照らし、その時刻が深更を過ぎていることに気付くと、「ひー」と泣きそうな悲鳴を漏らして、よりピッチを上げて博は作業を再開した。

HALF TIME ヒカル 了 

次回予告
「天羽の時代は今大会で終わる。ワタシが終わらせる」
 なんという自信! なんというプライド! アカネら日之出が丘メンバーを前にして、浄善女学院エース・伊東真希は、傲然とそう言い放った。それは天島の女王・天羽七海恵への勝利宣言であると同時に、これから戦う目の前の相手など、まるで眼中にないのだという、痛烈な皮肉でもあった。
 次回、「第3Q 強敵」 いよいよ、日之出が丘VS浄善女学院、TIP OFF!!

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第1稿 2002.05.06
第2稿 2003.01.28
第3稿 2003.02.15