ダブルスコアTO(タイムアウト)
   雑草小夜曲


  1

 彼女の一言は、部に語り継がれるべき《伊東真希伝説》に、またひとつ新たな一頁を加えた。
「あのー、この『冷たいやつ』って、なんですか?」
 テーブルを支配する、一瞬の間。
 彼女が何を見てそう言ったかに気付いた西澤仁美が、クールに指摘した。
「伊東。それ、冷奴(ひややっこ)」

 まさに爆発するような爆笑が、そのテーブルから巻き起こった。何事かと、他のテーブルの客が一斉に振り向く。
 注文を聞きにきたウエートレスが、笑いを堪えて肩を振るわせている。

 ここは浄善女学院の近くにある和食チェーンレストラン。新しくオープンしたばかりのこの店に、試しに入ってみようと、練習を終えた浄善バスケ部二三年の主要メンバー9名が、訪れたのである。
 そして、伊東真希がメニューの「冷奴」を見て、ウエートレスに笑撃の一言を発したというわけだ。

「つ、冷たいやつ……」
 ゲラの田渕万里が、ほとんど苦悶するように笑い転げている。
「ひややっこって、こう書くんだ……」
 さすがにちょっと恥ずかしそうに、伊東が口にする。
「知らなかったの……?」
 笑いが収まった富山梨華(とみやまか)が、今度は苦笑いして訊く。その隣で、加地あい、加地のぞみの双子姉妹が、まだキャッキャと笑い続けている。
「コラアッ、お前らまで笑うなッ。お前らだって、知らなかっただろッ」
「知ってたモーン」
「知ってましたア。冷奴ぐらい、読めるモン――」
「ネー」
 ネー、の部分をお互いの顔を見合わせ、ふたり口を揃えて言う。この背丈はおろか顔立ちまで瓜二つの一卵性双生児は、バスケでの息の合ったツインガードであるばかりでなく、日常生活においても驚くべき相似性を見せた。
(ひややっこって、こう書くんだ……)
 心の中で、そう思っていたのも、二人お揃いだった。

「あれ、夏陽、どうかした?」
 相羽早織が目尻の涙を拭いながら、隣で先ほどから笑いもせず、堅く拳を握りしめて俯いている安部夏陽の様子に気付いて訊いた。
「私は――」
 俯いたまま、夏陽が口を開いた。
「この学校を受験するために、1日5時間、夜中の2時まで、来る日も来る日も勉強した。進路指導の先生には、最初ムリだって言われてた。それでも頑張って、やっとの思いで入学したっていうのに……」
「な、夏陽?」
「うちは、毎年東大合格者もいる進学校じゃなかったの? なんでこんなアホがいるの!? なんでこんな……よりにもよって、冷奴を『冷たいやつ』って言っちゃうアホがいるの!? こんなアホが同じ浄善女学院の生徒だなんて! こんなアホと同じ高校へ通うために、あんな辛い受験勉強をしてただなんて!」
「そこまでアホアホ言わなくたって……」
 伊東が左右の人差し指を合わせて上下に動かしながら呟く。その仕草は、まるでお小言を食らっている幼児のようだ。
 よしよし、といって田渕が伊東の頭を撫でてやる。
「夏陽ったら、落ち着いて」
「スポーツ特待生だか何だか知らないけど、ちょっとバスケが巧いからって、こんな不公平が許されていいわけ!? 不公平よ! 不公平だわ!」

 ハッ、と夏陽が我に返ったとき、テーブルには気まずいムードが漂っていた。この場にいる者のほとんどは、そのスポーツ特待生だったからである。所属小学校からの生え抜きである富山を別にすれば、加地姉妹はもとより西澤も、君津監督のスカウトによるスポーツ特待生だ。もともと学力優秀な相羽のような例外もいるが、多くは伊東ほどではないにせよ、学校の授業にはついてゆけない者ばかりだ。ここにいる者で一般入学者は、夏陽を除けば須田恵子だけだ。
「せっかく揃って食事に来たんだから、楽しく食べようよ。ね? さあさ、『冷たいやつ』が来たよ、『冷たいやつ』が」
 テーブルに運ばれた冷奴をみて相羽が軽口をたたく。軽い笑いが起きたが、雰囲気を和らげるほどではなかった。評判の和食レストランチェーンの料理の味は悪くなかったが、美味しい食事にはならなかった。

  2

「ケイベツしてくれていいよ。私ってサイッテー」
 四人が飲み物を注文したあと、夏陽はがっくりと首を落としてそう言った。
「気にしなくっていいよ。あの程度でヘコむタマじゃないし」
 田渕が夏陽の肩を叩いて慰める。
「悪いこと言っちゃった。万里も早織も、ほんとゴメン……」
「だから、もういいって」
「でも、夏陽と伊東がいっしょにいると、必ずなんかあるよね。化学反応みたいなのが」
 話を逸らすかのように、須田が口を開く。
「混ぜちゃいけない洗剤みたいな?」
 相羽の言葉に四人が笑う。ここには三年の四人しかいない。和食レストランで食事を終えて解散したあと、三年だけでこの喫茶店に来たのだ。

「この四人だけになると、やっぱりホッとするな」
 夏陽が紅茶にレモンを垂らしながら言った。
「同期の気易さ、だけじゃないと思う。あのコたちって、なにかこう、気質そのものが、私たちと違うっていうか……。私の言ってること、わかってもらえるかな? こんなこと言うと、すぐ巧い後輩に対するやっかみだ、みたいな取られ方されるから、イヤなんだけど」
「よくわかるよ」
 アメリカンコーヒーにミルクを混ぜながら、須田が応じた。
「伊東だけじゃないよね。あのコはスケールが違いすぎるけど、西澤にしても、加地コンビにしても。富山は比較的マトモだけど、それでもちょっと違うよね。……よく言えば、個性派揃いというか」
「悪く言えば、無軌道、放縦、ハミダシ者。夏陽のキライなタイプだよね」
「キライとまでは言わないけど……。でも、あのコ達、巧いのよねー。ヤんなっちゃう」
「後輩の立ち居振る舞いを正すのは、先輩としての正しい務めなんだから、気にしなくてよろしい。キャプテンである私が公式に認めます。相手が巧かろうが下手だろうが分け隔てなく、遠慮なく指導していいよ、夏陽」
「そうやって、イヤな役、ぜーんぶ私に押しつけるんだからあ」
「ヘッヘー、バレた?」
「でも、今年の一年って、おいらたちにタイプ似てない?」
「万里に『おいらたち』って言われると、ちょっと承伏しがたいのよねー」
「そうそう。ブッチって、どちらかというと、二年に近いというか。タイプ的に」
 田渕の言葉に、相羽と須田が不服を申し立てる。
「ちょっと待って、それどういう意味よ」
「やっぱり、“ミニバスず”の親びんだし」
 クスクス笑いながら、夏陽が言う。“ミニバスず”とは、身長145センチの田渕万里を筆頭に、150未満の部員で構成された、部内低身長派閥である。他の主要メンバーには、加地姉妹コンビがいる。
「あのねー、いくら背が同じくらいだからって、あのバカ弟子どもと、いっしょにしないでもらえる?」

「一年はねー」
 相羽が、一年生の話題に軌道修正する。これはこれでキャプテンには、悩める問題であるようだ。
「ちょっと、おとなし過ぎるのが、気になるのよねー。もう少し前に出てくれればと思うんだけど」
「私はあれで普通だと思うけど? 伊東以下、いまの二年が生意気すぎるのよ」
 二年の態度については、どうしてもシビアになる夏陽だった。

「一年のベンチ入りは、棚橋、緒沢、紅野か。順当な選抜よね」
「そうかな。紅野ってのは、意外だったな、おいらは」
 須田の言葉に田渕が疑問を差し挟む。ベンチ入りメンバーについては今日、トーナメントの組み合わせとともに、発表があったばかりだ。
「いや、紅野はああ見えて、ガッツがあるよ。期待できると思うよ」
「眼ぇかけてたもんね、夏陽は。あのコ、ちょっと気が優しすぎるところがあるけど、がんばり屋だもんね。一般入学組だし、昔の自分を思い出した?」
「うん。そうなんだ、実は。なんだか、可愛いんだよね。……1コ下の後輩には、腹立ってばっかりなんだけど」
 そう言って、夏陽は笑った。

  3

 ふいに話題が途切れて、沈黙が落ちた。会話のエアポケットに耐えかねたように、田渕が口火を切った。
「アベっちには知っておいてほしいから言っちゃうけど、スカウト組への一般生徒の風当たりってのも、けっこうあるのよね」
「………」
「責めてるんじゃないから、誤解しないでね。
 授業で当てられて、答えられなかったりすると、こんなこともわかんないのか、って空気、感じちゃったりすんのよねー」
「そうかな? 私には別にそういうのはないけど」
「そりゃあ、サオリンは学年成績上位だしぃ」
 田渕が口を尖らせる。
「おいら、頭あんま良くないし、バスケだけが取り柄で、ここに来たようなもんだから。だから、バスケで負けるわけにはいかないって、そういうプレッシャーもずーっと感じてた。そのバスケにしたって、こんなチビなわけだし。もっと背の高い、巧いヤツにポジション獲られたら、って思うとね……。
 スカウトで入って、ベンチ入りもできなかったら、悲惨だよ。なにしに来たのって、針のムシロだからね。膝の故障で、学校退めちゃった先輩もいるし……」
 明るい田渕には珍しく、翳りを帯びた表情で語った。怪我による戦力からの離脱は、決して他人事ではない。そしてそれは、即「要らない生徒」となることを意味する。
「うちってさ、バスケ人気はあるし、活躍する選手はチヤホヤするけど、そうでない部員にはとことん冷たいからね」
「確かに。そういうとこあるよね」
 相羽がカプチーノを口にしながら付け加える。

「だから、アベっちが、キミっつぁんに見込まれて、メキメキ実力つけてきたときは、同期だし、仲も良かったから嬉しかったけど、でも怖くもあった。アベっちとはポジションもタイプも違うけど、おいらもうかうかしてたら、がんばり屋の誰かに抜かれちゃうんじゃないかって」
「………」
「そりゃま、私たちだって一年で先輩のポジション、奪っちゃったわけだからね」
「そうだよねー。もう睨まれちゃって、大変だったよねー」

「でも、夏陽ぐらい頑張れる人は、そうはいないと思う」
 須田が、ぼそりと口にした。
「忘れ物して、学校に取りに帰ったことがあったのね。そしたら、部室には夏陽の制服があって、体育館を覗いてみたら、夏陽が一人で汗だくになってトレーニングしてた。あたりはもう真っ暗なのに。あれを見たとき、私にはとても真似できない、って思っちゃった」
「おケイ……」
「希望の星だったんだよ、夏陽は。私みたいな、一般入学組のね。……一年でレギュラーを獲って、エースにまでなっちゃったんだから!」
「……私はエースじゃないよ」
 小さく笑って、夏陽は言った。
「私は一度だって、エースだったことはない。エースはあのコ……。確かに私は一時期、エース扱いはされた。でも、あのコは入部したその時から、私より上だった」
「あいつは特別だよ」
「特別……」
 夏陽は田渕の言葉を反芻した。
「確かにね」
 ニヤリと笑みを浮かべて相羽が言った。
「冷奴を『冷たいやつ』って言っちゃうヤツだしね」
 四人に笑いが戻った。
「それにしても、『冷たいやつ』は良かったよね」
「もう私、冷奴が食卓に出る度に、今日のこと思い出しちゃうよ」
 四人は声を上げて大笑いした。

  4

 地下鉄で帰る相羽と田渕と別れ、夏陽と須田は停留所でバスを待っていた。
 すでに日はどっぷりと暮れ、中天に青白い月が輝いている。
「みんな、それぞれに、いろんなものを抱えてるんだね……」
 中天の月を見上げながら、夏陽は言った。
「三年も付き合っていて、少しも気付かなかった。だって万里は、あんなに明るくて、陽気で、背のことも、成績のことも、ちっとも気にしてるようには見えなかったし」
「悩みがなさそうだからって、悩みがないとは限らないよ」
「……そうだよね。私、早織や万里のことが、羨ましくって、眩しくって、しょうがなかった。スカウトで入学して、あっさりレギュラーになって、同じ高校一年なのに、なんでこんなに違うんだろうって、二人を妬んでさえいた。そうして、仲良しの友達になりながら、心の中では『負けるもんか』って、対抗意識を燃やしてた……。スカウト組にはスカウト組の、悩みや苦しみがあるなんて、想像もしなかった。顔から火が出そう」
「別に、それでいいんじゃないの」
「え?」
「表に出さない悩みを忖度したって始まらない。悩みがなさそうに振る舞うのは、悩んでいると思われたくないから。でしょ? 今日、ブッチがあれを言ったのは、三年になって、心を開いて、弱みを見せられるぐらいの、本当の自信がついたからだと思う。
 第一、私たちは普通の仲良しグループでもなければ、宗教団体をやっているわけでもない。私たちはバスケのチームで、五つしかない椅子を獲り合う、仲間で、ライバルなんだから」
 プレイヤーとしても、また、個性においても、さほど際立ったところのない、この須田恵子という少女のクールな哲学を、夏陽は初めて知った。日頃見せない彼女の心の深淵を、夏陽は垣間見たような気がした。
 今日という日は、仲間の意外な一面ばかり見る、と夏陽は思った。

「だから、夏陽と伊東が人間的にソリが合わなかったとしても、それは構わない。試合のチームワークさえ、ちゃんと取れてるんなら」
 当然だ、と言おうとして、夏陽はやめた。それはひどく、凡庸な反応のように思えた。
「あのコも、悩みや苦しみを、こっそり抱えてたりするのかな?」
 代わりに夏陽は、問いを投げた。
「でしょうね」
「それは、自信がないから? そうは思えないけど」
「プライドが人一倍高いから、だと思う。伊東はきっと、私たちよりも、ずっとずっと高いところを見ているんでしょうね」
「ずっと高いところ……」
 夏陽の見上げた中天の月に、天島女子大附属の天羽七海恵の姿が浮かんだ。夏陽が彼女とマッチアップしたのは二度。一年のウインターカップ予選と、新人戦である。――全く、歯が立たなかった。そして、去年の伊東もまた、天羽に苦杯を喫している。
 天女に負けたときも、伊東の態度は明るく、気丈だった。心の裡では、血の涙を流していたのだろうか。そうかもしれない、と夏陽は思った。学校外のジムで、彼女が独り、鬼気迫る練習をしていたところを目撃したことがある。
 天羽も三年。倒すとすれば、今年しかない。夏で引退する可能性もある以上、そうだとすれば、このインターハイが最後の機会だ。並々ならぬ決意で臨んでいることだろう。
 ただ、「冷たいやつ」などと言われた日には、いまいち想像が困難になってしまうのだが……。

  5

 バスが到着した。夏陽だけが乗車する。須田の乗るバスは、路線が異なる。
「じゃね」
 夏陽が手を上げる。
「今度の試合、頑張ろうね」
 須田が、拳を握ってみせて言う。
「うん!」
 夏陽も拳を握ってみせる。
 バスの扉が閉まり、二人の間を遮った。バスが発車する。

(夏陽、あなたはぜいたくよ)
 夏陽を乗せたバスの後ろ姿を見送りながら、彼女は想像上の言葉を夏陽にぶつけた。
(私に言わせれば――)
(夏陽がどんなに眩しくて、羨ましくて、妬ましかったか。私があなたのことをどんな思いで見ていたか、あなたには想像もつかないでしょうね)
 須田がレギュラーの椅子を手に入れたのは、先輩の三年が引退した昨年秋。レギュラーとして参加する公式大会は、前回のウインターカップから数えて、これで二度目である。だが、そのレギュラーの座も危ういことを彼女は自覚している。成長著しい現・二年生の存在によってである。
 テクニック、身体能力ともに、伊東に次ぐ実力ナンバー2と目されている、西澤仁美。
 外角シューターとして、天島を代表するプレイヤーになりつつある、富山梨華。
 生まれたときからチームメイト。双子ならではの息の合ったプレイを見せるツインガード、加地あい・のぞみ姉妹。
 いつスタメンに加わってもおかしくない、実力派揃いだ。そして、そうなれば、まず真っ先に外されるのは自分だ。
 この夏で引退する。予選も含め、あと何試合、コートに出られるだろうか。
 だからこそ、試合に使ってもらえるならば、一瞬たりとも無駄にはすまい。と思う。

 ディフェンス職人。いつの頃からか、そう呼ばれるようになった。取り立てて秀でた特長のなかった彼女に、君津監督が見出した資質が、ディフェンスであった。彼女のその粘り着くような執拗なプレイは、いしつか揶揄を込め「納豆ディフェンス」と呼ばれ、嫌がられ、怖れられた。
(私には、これしかないんだから――)
(地味でもいい、格好悪くてもいい。私は私にできる、精一杯の仕事をする)

 停留所を発ったバスの窓から、須田恵子は中天に輝く月を見上げた。同じ頃、同じ月の光を、遠く日之出が丘の公園で、リサとアカネが浴びていることを、無論、彼女は知るはずもない。
「日之出が丘、か……」
 ぼそりと口に出して、今度の対戦相手の名を呟く。インターハイ予選・第一回戦、日之出が丘高校との試合を6日後に控えた、夜のことであった。

雑草小夜曲 了 

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