ダブルスコアTO   7

 久しぶりに華南里奈が、バスケ部の練習に姿を見せた。
「ちわ〜ッス」
 後輩達が、次々に挨拶を寄越す。体育館には何故か、リサの姿がなかった。
「みんな、ごめんね。あんまり見てあげられなくて。練習できないんなら、店手伝えって、うち、うるさくって」
 里奈の家は、酒屋を営んでいる。
「リサちゃんは? まだ来てないの?」
「それが、今日は用があるから休むって……」
 一年のひとりが里奈に返答した。
「そう……。珍しいわね」
 里奈の知る限り、リサがいままで部活を休んだことはなかった。
「ショックだったのかなあ」
 別の一年が呟いた。
「ショック?」
「話をチラッと耳にしただけなんですけど……」
 その一年が里奈に説明した。
「今日、体育の授業で、バスケの試合をやったそうなんです。それで、リサのチームが、負けちゃったらしくて」
 意外な気がした。一、二組を通じて、女子のバスケ部員はリサだけである。そのことを里奈は知っていた。しかも、リサは一年どころか、引退した三年を含めても、バスケ部でナンバー1と目されたプレイヤーなのだ。正直、膝の故障がなかったとしても、彼女に勝てる自信は、里奈にもなかった。
 無論、チームの試合であるから、他のメンバーが相手チームよりも格段に劣っていれば、負けることは有り得る。だが、そうであれば、リサがショックを受けることはあるまい。リサを上回る何者かがいた、ということなのか。
「二組に、すっごい巧い人がいるんだそうです。大久保、っていう人らしいんですけど」
 里奈の内心を読んだかのように、その一年が付け加えた。
「大久保……」
 呟くように、そう口にした。その名前には、覚えがあった。


 チカが7階建てのマンションに帰宅して、1時間が過ぎようとしていた。そのことを、リサはリストウォッチを見て確認した。
 いったいなにをしているのか。リサは自らの行為を自問した。
――なにをしている。
 言ってみれば、張り込みだ。あいつが学校から帰って、どこでなにをしているのか、確かめてやる。
――なんのために。
 あいつがバスケをやめていない、決定的証拠を押さえるために。その上で、バスケ部に入ることを承知させてやる。
 だがそれは、後付けの理屈だ。そのことも、リサは自覚していた。それはまるで、好きな相手の自宅の前まで出かけていき、なにをするでもなく、ただ想い人の住む家を眺めて佇んでいるかのような、そんな無目的な衝動に似ていた。リサは恋をしたような熱烈さで、チカに憑かれてしまっていた。
 こんな風に、誰かに夢中になったのは、初めて恋をしたとき以来だ。そう考えて、リサは苦笑いを浮かべた。少女のような顔立ちをした、きれいな男の子だった。中学一年のときだ。
 自分から告白した。玉砕覚悟だったが、意外にもあっさりとOKしてくれた。面と向かって好きだと言われたのは、初めてだと彼は言った。そんな君の勇気が、とても好きだとも。
 天にも昇る気分だった。体調が悪いと偽り、部活をサボっては、デートを重ねた。遊園地の観覧車で、初めてのキスをした。以来、デートで誰もいない二人きりの場所を見つけては、唇をむさぼり合った。彼は人前だって気にすることはないと言ったが、それだけはイヤだった。
 いっちょ前に、大人になった気分でいた。男性アイドルの話でキャーキャー言ってるクラスメイトに、嘲笑を浴びせてやりたくなるような、いま思えば鼻持ちならない優越感を覚えていた。
 それでも、彼がそれ以上を求めてくるのは、頑なに拒んだ。ごめんね、と詫びるリサに、君は古風なんだね、と言って優しく微笑み、頬にキスした。まだ早いという思いもあったし、怖くもあった。また、そういう男には気をつけなさい、という曾祖母の忠告が、心に引っかかっていたのかもしれない。何も知らないくせにと、その時は激昂したが、あとになって流石は年の功だと、大好きな曾祖母の人間観に、改めて畏怖したものだ……。

 体調不良を理由にするのも、いい加減ウソ臭く(事実、クラブの全員が、本当の理由を知っていた)、いっそのこと退部してしまおうかと思っていた。さほど熱意があったわけではない。仲良しの友人に誘われるままに、なんとなく入ったバスケ部だった。バラ色の日々が崩れ去ったのは、そんな矢先だった。
 部活を終えて、忘れ物を取りに行った廊下で、教室から漏れ聞こえる、彼の声を偶然耳にした。
――お前も物好きだよなー。なんで秋月なんかと付き合ってんだよ。
 ああいう気の強い女がさ、しおらしげに従順に振る舞うのって、気分いいんだよ。いままでなかったタイプだったし、試しに遊んでみたんだけどさ。
――だって、やらせてくれねーんだろ?
 そうなんだよ。ああいうブスに限って、ガードが固えのな。それで余計、意地になるんだけどさ。こうなったら、一発ヤるまでは、ぜったい別れられねーよ。
――一発ヤったら、お払い箱かよ。かわいそうに。
 まあ、スポーツやってる女って、具合がいいらしいからよ。そんなに良けりゃあ、****用に俺の女の末席に加えてやってもいいけどな。
――ひっでえ。お前ってホンット、天使の顔した悪魔なのな。
 誉め言葉として、受け取っとくよ。

 引き戸を思い切り開け、驚愕に凍りついた彼の顔に、渾身の右ストレートを叩き込んだ。整えられた机の列に、吹っ飛ぶように彼の身体が倒れ込む。道連れとなった机と椅子が五つ六つ、派手な音を校舎中に轟かせて引っくり返った。拳が熱かった。ガツン、という頬骨の感触をいまでも憶えている。
 泣いて殴った。殴って泣いた。反撃はなかった。ひたすら惨めに、赦しを乞うだけだった。つまらない男。なんの値打ちもない男。ただ、きれいな顔をしているだけの。そんな男の正体に気付きもせず、夢中になり、もてあそばれ、唇をゆるした自分が情けなかった。
 この顔がいけないのだ。不相応にきれいな、この顔が。こんな顔、グチャグチャに潰れてしまえばいい。そうすれば、私のように騙される女もいなくなる……。
 物音を聞いて駆けつけた教師に押さえられ、顔を変形させるには至らなかった。あとで知ったことだが、地元でも有名な、名うてのプレイボーイということだった。薄情な彼の友人(?)が洗いざらい証言したこともあって、リサの暴力は不問に付された。恋をする以前の、元の生活がリサに戻った。ただひとつ、《地獄の鉄拳》という、あまり嬉しくない評判を除いて。

 苦い初恋の思い出など、どうでもいい。だが、あの苦い経験が、バスケに打ち込むきっかけになったと思うと、複雑な気分になる。失恋の痛手を振り払うように、リサはバスケに没頭した。
 打ち込むほどに、バスケを好きになっていった。自分をバスケ部に誘った当の友人は退めてしまったが、リサにとってのバスケは、日に日にその比重を増し、いつしかバスケは、リサの全てになった。
 三年の引退の後、一年でレギュラーとなり、二年でエースと呼ばれ、引退した先代を継いでキャプテンになった。「鬼の秋月」と呼ばれ、怖れられもしたが、懸命についてくる後輩たちには、面倒見もよく、慕われもした。
 校内には、敵う者はいなかった。バスケットマンとしての自負もあった。そんな腕に覚えのアスリートが、考えることは決まっていた。
 自分はバスケット界で、どれほどのものなのか――と。
 他の中学のバスケ部を見ては、特に同じポイントガードの選手に対しては、自分とどちらが巧いだろう、マッチアップしたら、どちらが勝つだろうと考え、うずうずし、血が騒いだ。
 だが、そんな自信もプライドも、井の中の蛙の自惚れでしかないと、対外試合では度々思い知らされることになった。自分も、チームも、決して「強い」とは言えない。そのことを、対戦したチームが、マッチアップした選手が、イヤというほど教えてくれた。外の世界には、強いチームが、強い選手が、ゴロゴロと存在した。
 とりわけ、小さい、ということの不利を、リサは試合の度に痛感した。中三にして一四〇代の身長は、小柄なプレイヤーの多いポイントガードとしても、小さかった。

 地区代表の座を勝ち取ることは、三年間を通じて、ついになかった。最後の大会のベスト4が、最高の成績だった。あと一つ勝てば、上位2校が代表枠の、県大会だった。リサは敗戦で、初めて泣いた。最低の男に騙されていたと知った、あの時以来の泪だった。
 そして、もし勝っていれば、地区優勝の常連、西岡中学と相まみえることになっていたのだ。安部夏陽、大久保千夏のいた、あの西岡中にである。

  8

 もし決勝で顔を合わせていれば、その後の成り行きは、大きく異なったはずだ。隣のクラスにいて、気付かないということはなかったろうし、向こうだって自分に気付いたかもしれない。その結果、彼女がバスケ部入りをしていれば、戦力の差は比較にならない。翔星戦に勝っていたとは言わないが、少なくとも、あんな無様な負け方はしなかったはずだ。そして、安部夏陽もまた、彼女との再会を果たしていたことになる……。
 過去の話に、「もしも」を考えたところで仕方がない。中学地区大会の決勝に進めなかったことで、時間を大きくロスしたのだとすれば、それを取り戻すまでだ。そのためにこうして、接触の機会を伺っているのだ。
 諦めるなど、できなかった。負けたら、二度と勧誘はしない。そういう約束で、そして、負けてしまったにしてもだ。チカは長部の出した条件を呑む代わりに、自分が勝ったらリサに勧誘をやめることを要求したのだった。

 チカはセンターサークルを離れ、チームメイトのひとりに声を掛けた。
「悪い。ジャンパー、替わって」
「ムリだよおッ。ぜったい勝てっこない!」
 長部相手のジャンパー指名にかぶりを振る。
「わかってる。私でも勝てない。だから、替わってもらうの」
 本気だ。とリサは思った。チカも背は高いほうではない。155ぐらいか。170を超え、ジャンプ力もある長部の敵ではない。勝ち目のないジャンパーをやるよりも、ジャンプボール以後の展開に加わることを選んだのだ。
「試合時間は5分!」
 センターサークルに立った、服部女教師が言った。それぐらいでなくては、四十名8チーム、計4試合を授業時間内に終えられない。
「いい、時計係? 1分ごとに時間を報せて。あと、残り30秒と、残り10秒からカウントダウン。よろしくッ」
 ストップウォッチを預けた女生徒に指示を終えると、服部はボールを構えた。トスアップ。高く上がったボールが、やがて頂点に達し、落下を始める。そのボールを高い跳躍で、長部が叩いた。

 2時間が過ぎた。退屈な授業に勝る、うんざりするような、間延びした2時間である。リサはマンションに面した通りの反対側の街路樹に身を凭せて、一階の出入り口に視線を注いでいる。
 突っ立っている足がダルい。2時間走り回るのは平気なのに、2時間じっと立っているのは、どうしてこうも疲れるのだろうと不思議に思う。どちらか好きなほうを選べと言われれば、迷わず2時間走り回るほうを選ぶ。夏の暑さもそうだ。炎天下を走り回って汗を流すのは、嫌いではない。むしろ、気持ちがいいくらいだ。しかし、炎天下でじっとしてダラダラとかく汗は、気持ち悪い。早くシャワーを浴びたいと思う。
 アスファルトを灼くムッとした熱気は、木陰にいてさえ耐え難い。蝉の声がうるさい。リサの頭上、ほんのすぐそばの幹にとまり、その姿を晒している。手を伸ばしても、届きはしないだろう。まるでそれがわかっていて、嘲笑っているかのように。リサは掌で、ドンと樹を叩いた。太く丈夫な樹は、小揺るぎもしない。蝉は変わらず、そこで鳴き続けている。
 今度は足の裏で、思い切り蹴りを入れる。蝉がブンと羽を振るわせて、空へと飛び去った。額に滲んだ汗を、手の甲で拭う。喉も渇いた。飲み物を買っておくのだったと後悔した。視界に自販機はなかった。飲み物を求めに行くことはできるが、その間に外出されては、元も子もない。当のチカは、エアコンの効いた部屋でくつろいでいると思うと癪に障る。
 ふいに自分の行為が莫迦莫迦しくなる。チカが今日、外出するとは限らないのだ。
 チカの住所は、二組の神代(くましろ)に教えてもらった。まさか乱暴を働く気ではと気を揉む彼に、アホかと答えておいた。
 リサの格好は下のジャージにTシャツの練習着である。制服では目立ち、気付かれやすいこともあるが、あらためて勝負を挑んでやろうという考えもあった。
 あと一時間だけ待とう、とリサは思った。それがタイムリミットだ。学校に戻らねばならない。制服とカバンを部室に置いて来たからである。あまり遅くなると、面倒なことになる。
 そう思った矢先、マンションの出入り口から、チカが姿を見せた。あわてて街路樹の陰に身をひそめる。下のジャージにTシャツ。リサと似た格好をしている。背のナップザックが、大きく膨らんでいる。バスケのボール以外の、何物でもなかった……。

 最初の2本をチカが連取した。最初の1本目、長部がリサの足下へ、注文通りに落としたボールを横合いから掠め取ったチカは、そのまま速攻で先制ゴールを決めると、続く2本目。スティールから相手ボールを奪うと、マークするリサをかわし、ゴール下の長部をも。
「撃たすかよ!」
 長部がジャンプする。さすがに高い。チカも跳ぶ。真上ではなく、後方に向けて。
(フェイダウェイ!)
 フェイダウェイ・ジャンプシュートで、長部の高さをしのいだチカのボールが、ネットを揺らした。
「ほお〜。ハイレベル〜」
 審判の服部が、感心したように呟いた。

 まるで錆びついてない。それが同じコートで彼女のプレイを見た、リサの印象だった。現役バリバリ、という長部の言葉に、誤りはなかった。それどころか、リサの記憶にある一年前の大久保千夏に比して、更に技を増やし、上達しているのではとさえ感じさせた。
 やめているはずがなかった。どこかで、練習を続けているのだ。そして、そのことを証すように、バスケのボールを入れたザックを背に、いずこかへと足を運んでいる。
 どこへゆくのか。ジムか。それとも公園か。バスケットのボードを置いた公園は多い。この時代、21世紀までの定番であったブランコ、すべり台、ジャングルジム、砂場は、公園から消え去って久しい。危険性や衛生上の問題から、責任を負うことを忌避した自治体は、そうしたトラブルの元となる遊び道具を、徐々に公園から撤去していったのである。
 それに取って代わったのが、バスケットボードである。ルール改正に伴う、可変式ボードの登場が、小学生から青少年まで、幅広い層の利用を可能にし、街の公園の新たな定番としての普及に一役買った。まして天島は、21世紀に生まれた、若い土地である。公園に設置されるのは、初めからバスケットボードであった。普及率は全国一である。
 人工島である天島は、宿命的に土地面積が乏しい。48都道府県で最も狭い県でありながら、人口は東京・神奈川に次ぐ、関東第三位である。猫の額のような公園で、天島っ子たちが興じるのは、野球でもサッカーでもなく、バスケだった。天島はバスケ王国として、多くの名選手を輩出することになるのだが、そこにはこうした土壌が、背景としてあったのである。

 序盤はチカ率いるチームがリードした。率いるというより、チカの独壇場といってよかった。彼女ひとりでボールを獲り、抜き、そしてゴールを決めた。
 それに対し、リサはチカのマークを引き受けつつ、仲間にボールを回し、的確な指示を与えながら、ポイントを重ね、徐々に盛り返していった。そして4分を経過して、ワンゴール差へと詰め寄った。
「井上ッ、臼井にパスッ」
「臼井、撃って。いいから!」
 チカが迫るその一瞬早く、臼井がシュートを撃つ。しかし、慌てて撃ったシュートは、リングに弾かれる。
「リバウンドーッ」
「まかせろいッ」
 圧倒的上背とジャンプ力で、長部がリバウンドを獲った。
「下ッ、気をつけて!」
 着地したところを狙って、ボールを奪うべく、チカが忍び寄っていた。
「盗らすかよ!」
 ボールを頭上高く抱えたまま、再びジャンプ。長部が同点のシュートを決めた。
「ドーンッ」
 下に向けて親指を立てた拳を、長部はチカの眼前に突きつけて見せた。
(上等……)
「残り、30秒!」
 時計係の声が、その場を更に緊迫させた。10対10、同点。残り時間、30秒。次のゴールを獲ったチームが、時間的にも、精神的にも、圧倒的に優位だ。
「早く!」
 チカがスローインを急かす。ボールを受け取ったチカが、独りゴールへ向かって突進する……。

 短い試合ではあったが、そして負けはしたが、公式戦や練習試合にも勝る充実をリサは感じた。チームメイトは素人だったが、そのぶんリサの指示に忠実だった。すでに引退したが、その点で部の三年は駄目だった。
 一年の言うことなど聞いてられるか、ということはあっただろう。前キャプテンの前田が、チームのイニシアチブを握っていたこともあっただろう。だがなによりも、あのチームはめいめいが自分勝手なプレイに走り、チームとしての統率も連携も、まるでなっていなかった。リサはポイントガードという司令塔のポジションにありながら、それを歯がみしながら見つめるしかなかったのだ。
 リサは中学での引退以来、久々に己れの本領である、チームの司令塔としてのプレイを文字通りプレイした。ヘタなりにでも、まとまったチームは、たった一人の名選手を擁するワンマンチームに対抗し得る。
 1オン1なら、おそらく負けるだろう。だが、チームを率いてぶつかり合えば、リサのゲームメイクの能力が、チカの個人スキルを相殺する。リサは自分ではあまり意識したことのない、司令塔としての資質に改めて気付き、身震いした。開眼した、といってもいい。未熟なチームを率いることが、かえってリサの能力を引き出し、際立たせ、そして目覚めさせたのである。
 だからこそ――。
(私とお前が組めば、凄いコンビになれるんだ)
(お前のエゴイスティックなまでの個人技は、私の指揮下に入ることで、より輝きを増す)
(そうだろ?)
(そう思ったって、自惚れじゃないよな? 私だって、けっこういい線いってるだろ?)
(だって、負けは負けだけど、あわやってとこまで、お前を追いつめたんだから)
 前方を歩くチカを尾けながら、リサは知らず知らず、そんな思惟を紡いでいる。
(忘れてもらっちゃ困るな〜。この私の大活躍をさ)
 リサの思惟の中で、長部がツッコミを入れた。
(わかってるよ。あんたがいなきゃ、あそこまで競ったゲームにはなんなかった)
 あの試合における、長部の功績は大きい。彼女は強力なリバウンダーとして、攻守を問わず、こぼれたゴールをことごとく拾った。それがリサのチームのチャンスを拡げたのである。

「リバーンッ」
 チカが外したシュートを、またも長部が拾った。
(チイッ)
「カウンターッ」
 フロントコートのリサ目掛け、ロングパスを投じる。
「あいよッ」
 パスをもらったリサは、立ち塞がるディフェンスを難なくかわし、危なげなくジャンプショートを決めた。
「よっしゃあーッ」
 リサと長部がコート中央でハイタッチを交わす。12対10。リサのチームが逆転を遂げた。
 チカの、眼つきが変わった。
「残り10秒!」
 チカがスローインを受け取った直後、時計係のカウントダウンが始まった。
「9」。「8」。「7」。……カウントが刻まれてゆく。
「愉しいな、大久保」
 チカの突進を止めたリサが、そう笑いかける。
「ふん」
 そう言ったチカも、軽い笑みを浮かべた。
 右へ。リサも鏡合わせに動く。チカの身体が時計回りに翻る。バックロールターン。
(しまった!)
「3!」
 鮮やかにリサを抜き去り、ゴール下に切り込む。
「2!」
 踏み切ってジャンプ。
「撃たすかよおッ」
「狙ってるぞ! 長部ェッ」
(わかってら)
(この長部さんが、二度も同じ手を喰うかってんだ)
(借りは返すぜ。大久保!)
「1!」
――その須臾の攻防を己が眼で捕らえられた者が、どれだけいただろうか。
 その数少ない一人が、リサだった。
 その数少ない一人が、体育教師・服部久美子だった。
 チカの手が、ボールの前後を支えている。それに向かって、長部の腕がサイドから撃ち抜きにかかる。その瞬間、チカはクルリとボールを90度回し、支える手の向きを左右に変えた!
 バシッと鈍い音を立てて、長部の右手がチカの左手を叩いた。
 その衝撃に耐えて、放ったボールがリングを回る。
「0」のコールに合わせて、試合終了のホイッスルが吹き鳴らされる。その直後、ボールがストン、とリングの輪の中を落ちた。
「ドーンッ」
 下に向けて親指を立てた拳を今度は逆に、チカが長部に向かって眼前に突きつけて見せた。

  9

 なんという反射神経。
 なんというボディコントロール。
 ファウルを避けるべく、横から来たブロックに合わせ、チカはシュートを放つべくジャンプしたさなかに、ボールを支える手を前後から左右に換えた。それで長部に自分の手を叩かせ、なおかつシュートを決めたのである。
(つくづく、とんでもねーヤツだよ。お前ってヤツぁ)
 そう思った矢先、前をゆくチカが角を曲がった。急いで追いかける。
 民家の建ち並ぶ、閑静な住宅街である。さすがに人通りも少なく、リサは距離を取っていた。それでも、5秒とかからず、自分も角を曲がる。
(!)
 チカの姿が消えていた。

 ファウルの笛は鳴らなかった。不審げにチカは服部を振り向いた。服部はゆっくり首を振る。
「いまのは大久保が、自分から長部のブロックに手を持っていった。ノーファウル」
(チッ)
(さすがハットリ君。ナイスジャッジ)
「叩かれ損だったな。大久保」
 ファウルにこそならなかったが、ゴールは決められてしまった長部が、せめてもの腹いせに言う。
「ふん……」
 忌々しげに、真っ赤になった左手の甲をさする。
 だがそうなると、結果は12対12のドロー。勝負なし、ということになる。
「大久保のバスケ部入りは、とりあえずなし。そのかわり、リサの勧誘もやめなくっていい、ってコトだな」
 改めて確認するように、長部が言った。互いの条件に、引き分けは盛り込まれていない。
「つまんなーい」
 観戦していた女生徒のひとりが言った。
「延長しようよ、延長」
 それを受けて、もうひとりの女生徒が言う。
「エ・ン・チョー」
「エ・ン・チョー」
「エ・ン・チョー」
 たちまちのうちに、エンチョー・コールが女生徒の間に巻き起こる。
「ああもう、時間がないってのに! しょーがねえなあッ。お前らの試合時間、1分ずつ削るからな」
 歓声があがる。不服の声はなかった。
「特別に、3分間だけ、延長戦をやる。今度引き分けでも、再延長はないからね。お前らしっかり、これでケリつけな」
「ありがてえ。さっすが服部センセイ、話がわかるゥ」
 土壇場で同点ゴールを決められても、長部はあくまでポジティヴ・シンキングである。
「大久保……」
 リサはチカに声を掛けた。
「うちが負けたら、勧誘は今日限りだ。それでいいんだな?」
「………」
「答えろよ。それでいいんだよな」
「いいよ。はじめから、そういう約束でしょ?」
「それを聞いて安心したよ」
 改めてそう言ったのは、リサには長部ほど、この勝負を楽観できなかったからかもしれない。

 30メートルほど先に、また角がある。そこを曲がったのだろうか? 走ってその角に差し掛かったリサが仰け反った。
 その角を曲がったすぐそばの塀に肩を凭せて、チカがこちらを向いて立っていたからだ。
「何の用?」
 不機嫌な表情で、チカが言った。

続く 10〜12

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特別公開版第0稿 2002.12.01
第1稿 2003.01.28