ダブルスコアTO   6

 昼休みの購買部の前には、午前の授業を終えた中学生の群れで長蛇の列ができる。チャイム後の生徒たちのダッシュは、競走(レース)そのものだ。売れ残りを出さぬよう、やや少な目に仕入れている昼時の食品の数々は、グズグズしていると売り切れの憂き目に遭うこと必至だからである。カツサンドやカレーパンのような人気商品にありつきたいのなら、なおのこと熾烈な順番争いに勝利せねばならない。列が途絶える頃、残っているのは菓子パンの類ぐらいだ。アンパンやクリームパンで、その日の午後を乗り切らねばならなくなる。
 彼女は残り一個になったカレーパンが、自分の番になるまで買い手がなかったことにホッと胸を撫で下ろしながら、頭のなかで反芻し続けた「注文」の品々を告げた。
「アンパンにメロンパン、焼きそばパンとエッグロール、ホットドッグと、それから……」
「いっぱい食べるんだねー」
 背後の驚いたような声に、思わず振り返る。見覚えのない小柄な女生徒を彼女は見た。長い髪をサイドポニーにしている。名札は二年のそれだった。同学年だ。きめ細かな白い肌が、親戚から土産にもらった博多人形のようだと彼女は思った。
 転校生だろうか。ひと目みたら忘れようのない、これほど印象的な少女を、クラスが違うからといって、一年以上知らずに過ごせるはずはなかった。それは中学二年にして、身長185センチを超える彼女――大木ゆかりにしても同じことが言えたのだが。
「それから?」
 購買部の中年女が無愛想に言った。大木ゆかりは慌てて向き直り、ひと言詫びると「カレーパン」と告げた。
「ええーッ、カレーパンも獲っちゃうのお!? 今日はカレーパンの気分だったのに〜」
 背後の少女の不平に一瞬、困惑、逡巡し、注文の品を替えた。
「すみません。カレーパンはやめて、もうひとつ、焼きそばパンに」
「サンキュウ」
 背後の少女が、そう言って背中を叩いた。
「いいとこあるぅ。ね、よかったら、いっしょに食べない?」
「ごめん、先に寄るところがあるから……。それじゃ」
 大木ゆかりは済まなそうに言うと、購買部横の自販機で飲み物を三本買い、パンと同じ袋に入れると、足早に去っていった。その様子を横目で見ていた少女は、譲ってもらう形で買ったカレーパンを手に、気取られぬよう後を尾けた。
 これから起こるであろう波乱に、ワクワクするような、そんな悪戯っぽい笑みを浮かべながら。

「なによこれ」
 予想通り、女子バスケ部の部室で、イビリが待ち受けていた。
「誰が焼きそばパンなんて言ったよ、あん?」
「すみません」
 プレハブの狭い部室で、三名の女生徒が、そう詫びた大木ゆかりを囲んでいた。
 一人は正面。「注文」とは異なる焼きそばパンを手に上下させながら、ゆかりを睨んでいる。もう一人は右。こちらは「注文」どおりの焼きそばパンを頬ばりながら、教室で使う椅子を背もたれを前にして、馬乗りのように腰掛けている。下卑た笑みが、せっかくの童顔を台無しにしていた。そして、いま一人は左。
 教室で使う椅子を三つ並べた簡易のベンチに寝っ転がって、メロンパンを口にしている。傍らの、これも教室用の椅子に、アンパンと缶入り緑茶が置かれていた。老成した顔の割に、甘党であるらしい。事の成り行きには無関心なのか、黙々とメロンパンを口に運んでいる。
「カレーパン、買えなかったものですから……」
 甘党の女生徒の眼線が、その瞬間、チラと大木ゆかりを射た。
「売り切れか」
「………」
「だったらしょうがないよねー……なんて言うと思う?」
 右側の童顔の女生徒の口元が、笑みで歪む。
「カレーパンが売り切れだったら、焼きそばパンにしろなんて、言ったっけ? ねえ小城、私そんなこと言ったかなー?」
 彼女は右側の女生徒に振った。
「いいえ」
 右側の女生徒――小城は愉しげに答えた。
「言ってません」
「でも、この間は、ないならないで、気を利かせて、代わりの似たようなもの、買ってこいって……」
「あ?」
 正面の女生徒の眼が不機嫌に細まった。
「それは口答えかな、タイボク? ちょっと図体がデカくて、南田に目ぇかけられてるからって、いい気になってるのかなー」
「すみません」
 ゆかりは再び詫びた。道理が通じる相手ではない。というより、なにかと理由を見つけては、責め苛むのが目的なのだ。言い返して逆上させては、かえってひどい目に遭うだけだ。ひたすら下手に出て、嵐が過ぎ去るのを待つのが最も賢明なのだ。
「お金は返します。それは、私が食べますから……」
「トーゼンでしょ」
 ゆかりから硬貨三枚を引ったくるようにして受け取った彼女は、焼きそばパンをくるんだラップを剥がしはじめた。
「せっかくだから、剥いてあげるよ」
「………」
 あっ、とわざとらしく声を上げると、ラップを剥いたそれを落とした。ろくに掃除もしない埃まみれの床に、はさんだ麺を散乱させて、焼きそばパンが転がった。もう、とても食べられたものではなかった。
「あららー、落っことしちゃったー。ごめんねー」
 くくく、と小城と呼ばれた女生徒が嗤う。
 なにも思うまい。そう、ゆかりは自分に言い聞かせた。はじめから、こうなることは判っていた。怒りは、なかった。ただ、哀しかった。世の中に、こんな人間がいることが。そして、自分自身が。背が高いことを鼻にかけたことなど、一度もない。それどころか、気に病んでさえいる。にも関わらず、その並外れた長身ゆえに目をつけられ、敵視され、嬲り者にされる、そんな自分自身が。
「大木よ」
 簡易ベンチの甘党の女が、初めて声をかけた。上体を起こし、背もたれに身体を預けていた。
「さっき、買えなかった、って言ったな。それは、売り切れって意味か?」
 腰を屈め、床に転がった焼きそばパンに手を伸ばそうしたゆかりの動きが、止まった。
「どうなんだ。違うのか」
「……違います」
 嘘はつけない性分だった。そのように厳しく躾けられてきた。だから、誤魔化した。「買えなかった」と。しかし、この女はその誤魔化しを目敏く見抜いていた。
「本当は、一個だけ残ってました。でも、私の次に、どうしても欲しいってひとがいて、そのひとに譲りました」
 正直に言った。もう誤魔化しは利くまい。それより、半ば自棄でもあった。もとはといえば、自分の蒔いた種でもある。だが、後悔はなかった。食べ物を粗末にする、こんな意地の悪い女よりも、あのキレイな、気の良さそうなコに食べられたほうが、カレーパンも幸せだろう。
「てめえッ」
 正面の女が、ゆかりの胸ぐらを掴んだ。いままでからかい半分だった顔に、怒気が浮かんでいる。
「ナメてんのか。売り切れならともかく、売ってて買わずに誰かに譲ったってのか!? このヤロー、返答によっちゃ、ただじゃ済まないよ。誰に譲った? 誰に譲ったんだよッ!?」
「それは、私でーす」
 振り向いたゆかりを含め、全員の眼が、開いた扉に背を預けた、サイドポニーの女生徒を見つめた。サイドポニーの少女は四人の視線を浴びながら、カレーパンの袋を開けると、ひと口頬ばる。モグモグと咀嚼すると一言、「んまいッ」とつぶやいた。

  7

「誰、あんた? 見ない顔ね」
 思わぬ闖入者の登場に呑まれていた正面の女生徒が、気を取り直して訊いた。
「転校生です。今日、うちの組に。登戸、彩(のぼりあや)ってコです」
 本人が名乗るより先に、小城が告げた。
(登戸……)
 甘党の女が、誰にも聞こえぬ小声で呟き、問うた。
「字は、登戸研究所の登戸か」
「そ。JR南武線・登戸駅の登戸。小田急線のほうがいいかな。ちなみに彩は、色彩の彩」
 カレーパンを食べながら、籠もった声で登戸 彩が答えた。
「で、いったい何の御用かしら。転校生の登戸 彩さん?」
「ジュース三本は、いくらなんでも多いと思ったんだよねえ」
 食べかけのカレーパンをブラブラさせながら、登戸 彩は正面の女の問いに、答えるでもなく言った。
「そしたら、案の定。《使いっぱ》の犯行現場、目撃〜」
「後輩使いっ走りにして、なにが悪いのさ」
 吐き捨てるように、正面の女が言った。
「先輩の命令は絶対なの。運動部はどこだってそうよ。昨日今日、よそから転校してきた一コ下のヤツに、とやかく言われる筋合いはないよ」
「ああ、やだやだ。体育会系のノリ。じゃあ聞くけど、なんで同輩(タメ)の使いっぱまで、このコしてるのかなあ?」
 同じ組の小城を睨んで言った。小城が思わず俯く。
「………」
 答えに窮する正面の女を尻目に、登戸 彩はさらに追い討ちをかける。
「とても健全な先輩後輩の関係とは思えないんですよね。これって、わかりやすいイジメじゃないですか? そう思いませんか、そこでアンパン食ってるリーダーの方」
「なぜそう思う?」
 甘党の女は面白そうに、リーダーと呼ばれたことを問うた。
「だって、どう見たってそうですよ。この場の頭(ヘッド)はあなたで、小心者丸出しのこのひとじゃない」
 小心者、と言われて、正面の女がムッと気色ばんだ。
「一応、キャプテンはやってるよ。やらされてるっていうべきかな。鬱陶しいポスト背負わされてるだけでね。ヘッドはそこの磯辺さ。私じゃない」
 それともうひとつ、と言って彼女は付け加えた。
「お前は勘違いしてる。こっちはなにも、嫌がる後輩に無理強いしてるわけじゃない。私らは大木に頼み事をして、それを大木は快く引き受けてくれてる。そんだけさ。脅しや暴力でいうこときかせてるわけじゃない。イジメ呼ばわりは、言い掛かりだね」
「使いっぱやらせてるヤツって、みんなそう言うんだよねー」
「だったら、当の大木に聞いてみな」
 彩は、ゆかりを見た。彼女は困ったように俯き、何も言わなかった。
「――ま、はっきりイヤだと言わないほうにも、問題はあるんだけどね。本人が否定しないんなら、今回はそういうことにしとくよ。でもさあ」
「コイツの代金は、返してもらわないとね!」
 中身が飛び出し埃まみれになった、床の焼きそばパンを指さして言った。真っ直ぐに、磯辺と呼ばれた女を睨み据えている。

 磯辺はこの二年の転校生の放つ気迫に、完全に気圧されていた。何か言い返さなければ――大木や小城の手前もある――その思いだけが空回りし、肝心の言葉が、何も出てこないのだった。
「返してやんな」
 助け舟をだすように、甘党の女が口を挟んだ。
「お前が落としたんだ。そいつの言い分は、もっともだろうよ」
 舌打ちをひとつして、磯辺がさっき大木ゆかりから受け取った硬貨三枚を取り出した。
「そらよ」
 と言って、放り投げる。バラバラに飛んだ三枚のコインを、ゆかりが双つの掌で器用にキャッチするのを彩は見逃さなかった。
「これで気は済んだ? 正義の味方さん!」
「とりあえずはね」
「用が済んだら、とっととお引き取り願いましょうか。部外者は立入禁止なんだよ!」
「出ていきますよ、そう急かさなくたって。さ、行こ」
 彩はゆかりの腕をとって促した。
「名前、聞いていいかな」
 部室の扉に手を掛けた彩は、振り向いて言った。
「犬飼」
 甘党の女が名乗った。
「犬飼カヲリ」
 部室の扉が閉まり、登戸 彩が大木ゆかりを伴って退室した。と思った矢先、再び扉が開き、顔を覗かせる。
「そうそう。言い忘れてたけど、さっき顧問の南田センセイには入部届け、出しときましたんで。以後、お世話んなります、犬飼キャプテン。それじゃ、また
 また、を強調して、今度こそ転校生・登戸 彩は退場した。

 おかしくてたまらぬ、そんな笑みを口元に刻んで、犬飼カヲリは再び簡易ベンチに横たわった。
 一方、唖然としていた磯辺は、やがてその顔を憤怒の形相に変え、癇癪を爆発させた。
「小城ッ」
 憐れな腰巾着の後輩が、その犠牲となった。
「この汚ねーモン、さっさと片付けろッ」
「ハ、ハイッ」
 慌てて小城が埃まみれの焼きそばパンを手掴みにすると、逃げるように部室を飛び出していった。

「おい、磯辺。また、爪噛んでんぞ」
 犬飼の言葉が耳に入っているのか、いないのか。
 親指の爪を噛みながら、磯辺がなにごとかブツブツと呟いていた。
「クソが……あんなヤツ、ぜってー追い出してやる……見てろ……ふざけやがって……ぜってー追い出してやるからな……畜生……ただで済むと思うなよ……ぜってー追い出してやる……」

  8

「さっきは、どうもありがとう」
 グラウンドの隅の木陰で、巨体にふさわしいビッグサイズの弁当箱を開けて、ゆかりは礼を言った。女の子らしからぬ、弁当箱の大きさを気にしないではなかったが、巨体を維持すべく胃袋が要求する食欲には逆らえなかった。
「私が、勝手にやったことだから」
 礼には及ばない。そう暗に言った。
「嫌いなんだ。ひとの良さにつけ込んで、利用したり、からかったりする奴。でもさ」
「自分も、イヤなことは、はっきりイヤって言わないとね」
「うん……」
「それを言わないから、つけ込まれるんだよ。快く引き受けてくれてる、なんてぬけぬけとさ。でも、ただ言いなりになってたんじゃ、こっちだって何も言い返せないよ」
 牛乳パックの口を菱形に開け、ストローも刺さず、直接唇につけて喉に流し込む。そういうワイルドな所作が、人形のような外見を決して損なうことなく、少年ぽい倒錯した色香を醸し出していた。そんな登戸 彩という少女を、ゆかりは眩しそうに見つめた。
 牛乳のパックから口を離すと、手の甲で唇を拭って言った。
「逆らうと、仕返しが怖い?」
 こくり、とゆかりは頷いた。
「イヤって、言えない性格?」
 また、ゆかりは頷いた。
「優しいんだね。私にも、カレーパン譲ってくれたもんね」
(………)
 無論、それは優しさなどではなかった。傷つけることも、傷つけられることも厭う彼女は、ただ周囲に言われるがままに、唯々諾々とその場の状況に応じていたに過ぎない。だが、そのことを自覚するには、この頃のゆかりは、まだ幼すぎた。

「じゃあさ、あらためて訊くよ。使いっぱやらされるのは、イヤなんだね?」
 大きく、ゆかりは頷いた。
「わかった。もう二度と、使いっぱなんてさせない。……私が守ってあげる」
 ゆかりの手をとって、彩は言った。
「強いんだね。登戸さんは……」
「メじゃないよ、あいつらなんか。口でも、腕でも……バスケでもね!」
 そう言って、彩が笑った。こぼれた歯から覗く八重歯が、まるで狼の牙のように見えた。

「登戸さん――」
「彩って呼んでよ」
 ゆかりがなにか言いかけるのを、彩の言葉が遮る形となった。
「自分の名字、あんま好きじゃないんだあ。私も名前で呼ぶからさ。そういえば、名前、なんていうの?」
「ゆかり。平仮名で、ゆかり」
「可愛い名前だね。よく似合ってるよ」
「そうかな……? みんな私のこと、タイボクって呼んでる。名字が『大木』で、こんな身体だから……」
「自分が大っきいこと、気にしてる?」
 ゆかりが頷く。
「あ、彩ちゃんみたいなひと、羨ましい。もし、生まれ変わりがあったら、彩ちゃんみたいな、可愛いくて綺麗な女の子に生まれてきたい。そしたら、もっと違う人生を生きられると思う」
「………」
 彩の表情から、笑みが消えた。ひとの感情の動きに敏感なゆかりには、それは怒りであるように思えた。なにか気に障ることを言っただろうか? だが、そんなゆかりの不安をよそに、彩はなにも言わず、ただ黙っていた。

「バスケ部に入るの?」
 気まずさを紛らわすように、さっき言いそびれたことを訊いた。
「うん」
 そう言った彩の表情に、笑みが戻っていた。
「よかった、ゆかりがバスケ部で」
「………」
「バレー部とかだったら、どうしようかと思って。私、小学生ん時からミニバスやってて、そこそこいいとこまで行ってたんだ。でも、前の中学じゃ、チームメイトに恵まれなくってさ。で、ここに転校してきたら、すっごい大っきなコがいるじゃない。運命を感じたね」
 ゆかりの顔が、曇っていた。
「……親切にしてくれたのは、私が大きいから?」
「よしなよ」
 彩の表情も、真顔に変わった。
「自分の不幸を、身体のせいにするのは」
「!」
「言いたいことはわかるよ。大っきいせいでイジめられて、たまに一目置かれるのは、やっぱり大っきいせい。南田センセイから聞いたよ。バスケ部に入ったのは、センセイに勧められたからで、これまで何度も退めようとした。その度に引き留められて、いまじゃ籍だけ置いてる幽霊部員。そうだよね?
 生まれつきの身体は、自分の落ち度じゃない。だから、自分の惨めな境遇だって、自分の落ち度じゃない。そうやって自分の運命を嘆いていれば、ある意味楽だよね。でも、それは間違ってるよ」
「………」
「ゆかりがイジめられたり、バカにされたりするのは、大っきいからじゃない。本当なら、胸を張って自慢にもできる自分の資質を、自分で卑下してるせいだよ。自分で自分を惨めにしてるから、周りだってそんなふうに、ゆかりを見るし、態度にも出る。
 ゆかりの不幸の本当の原因は、背丈なんかじゃない。そうやって、どうにもならない背丈のせいにして、どうにかしようと思えばどうにかなる努力や苦労から目を背ける、ゆかりの性根そのものだよ。それがゆかりの、本当の不幸の原因なんだよ」
 わかるものか。実際にこんな身体に生まれてきた者の苦しみが、そうでない者に、わかってたまるものか。彩は雄弁であり、それは正論でもあった。だが、そんな言葉にたやすく納得できるほど、ゆかりの心の蔵する闇は、浅くも薄くもありはしなかった。
 それでも、ゆかりは言葉に出して反撥することはなかった。そうやって、辛いことも、悲しいことも、なにもかも胸の裡にしまいこんで、いままで生きてきたのだった。

「これ見て」
 彩は足下のバスケットのボールを手にとって言った。
「それ……」
「部室の前に転がってたんだ。杜っ撰だよねー。先が思いやられるよ」
 そう言って、ボールを持つ右手首をひねると、勢いよく回転させた。彩の人差し指の上で、独楽のようにバスケのボールが回る。
「すごーい!」
 さきほどの屈託も忘れたように、ゆかりが眼を輝かせて感嘆した。
「まだまだ序の口」
 ホイッ、と声に出してボールを宙に上げると、今度は左手の人差し指で受け止める。ボールは回転を続けている。
「すごいすごい!」
 ゆかりが拍手で賞賛した。
 勢いの衰えたボールを掌に乗せると、その伸ばした腕を水平よりわずかに傾ける。ボールは掌から腕へと転がり、首を前に倒した彩の両肩を通過して、右腕へ、そして右の掌に収まった。
「ま、こんなのは、曲芸だけどね。これからが本当のバスケの基本」
 高い位置から、ゆっくりとドリブルを撃つ。地面から跳ね返るボールをまるで吸い付かせているかのように彩の掌が操り、また地面へと放つ。
 肩幅よりやや広げた両脚の間をボールがくぐり、左手に渡る。左手のドリブルがまた両脚の間をくぐると、右手が受け取る。そうして彩の脚の間で、ボールが∞記号を描きながら、徐々にそのスピードを上げていった。それはまるで、マニュアルシフトの車がローから2速(セカンド)へ、2速(セカンド)から3速(サード)へと、ギアチェンジしていくように。
 彩のドリブルは、いままさにトップギアに入っていた。目まぐるしく上下するボールが、彩の両手に操られ、右に左に、前に後ろに、∞の軌跡を描き続ける。
「凄い……」
 ゆかりは眼を見張った。彩は手元を見ていなかった。その眼はずっと、ゆかりに向けられている。
「このくらいのことは、練習すればできるんだよ。というか」
 ボールを両手で掴んで、ドリブルを終わらせる。
「ドリブルで手元を見ているようじゃ、初心者以前だね」
 普通にドリブルで走るのに、手元を見ないでできる選手が、うちにどれだけいるだろう。主将の犬飼なら、できるだろう。だが、これほど複雑な高速ドリブルを手元を見ずに、いや、手元を見たとしても、やってのける人間は皆無だろう。バスケにおける彼女の自信は、ハッタリではなかった。
 右掌に乗せたボールを、ゆかりに差し出す。
「掴んでみて。上から、片手で」
 言われた通りにした。手入れをしていないボールは、表面が少しすべったが、中指と親指で挟むようにして、なんとか掴めた。
「……凄い。片手で掴めちゃうんだね。できるとは思ってたけど。私には、ムリ。この小っちゃな手じゃね」
 小柄な身体にふさわしい、小さな手を広げてみせた。可愛い手だと、ゆかりは思った。
「どんなに練習しても、私にはできない」
「……!」
「ね、ゆかり。大きいっていうのはね、バスケではそれだけで宝物なんだよ。その宝物を、ゆかりは初めから持ってる。これって凄いことなんだよ? せっかくの宝物を持ち腐れにするなんて、もったいないよ! 練習すれば、テクは磨ける。でも、大っきくなることは、自分の意志ではどうにもなんないんだから。
 確かに、私はゆかりの大きさに惚れた。今日、この学校へ来て、朝礼でゆかりを見て、このコだって思った。このコが私のチームメイトなんだって! バスケ部かどうかもわかんないのに。購買部ですぐ後ろにいたのは、偶然じゃない。近づくチャンスを狙ってたんだ。朝からずっと……。
 でも、信じて。私、ゆかりのこと、大好きだよ。さっき会ったばっかだけど。ちょっと気が弱くて、じれったいとこあるけど、優しくて、素直で、天使みたいな女の子だって思った。だから、知ってほしい。バスケが、本当は、本当に楽しいスポーツだってこと。自分の人生を賭けて、悔いのないぐらいに!
 このままずっと、自分が大きいことを気に病んで生きていくの? ダメだよ、そんなの。それよりも、自分が大きいことを生かして、誇れる人間になろうよ。バスケをやれば、そうなれるんだよ! 私が教えてあげる。だから、ね。私といっしょに、バスケやろうよ!」
「うん……」
 彩の熱情に、打たれなかったわけではない。だが、このときのゆかりは、バスケ部に戻ることに、内心さほど乗り気ではなかった。これまでと同じように、他人の言葉に逆らうことができず、ただ言いなりになっていたに過ぎない。
 しかし、これはその後のゆかりの人生を大きく変える、その第一歩だった。
 登戸 彩と、大木ゆかり。のちに、天島高校女子バスケ界の二強――天島女子大附属と浄善女学院を脅かす存在となる白虎四高の、そのエースと大黒柱と呼ばれる二人の、これが運命の出逢いだった。

続く

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第1稿 2004.06.06
第2稿 2006.03.05