ダブルスコアTO   15

 真っ赤な夕陽が、校舎とグラウンドを朱に染めている。
 犬飼、磯辺、小城の三名が、登戸 彩の過去を知った夕刻。同じ夕陽を朱雀光陽中学のグラウンドで、彩も浴びている。大木ゆかりとともに。
 様々な思惑と謀り事が彼女を巡って渦巻きはじめた、まさにその夕刻。時を同じくして、彩とゆかりの間にも、異変が生じようとしていた。

「ペース落ちてるよ、ゆかり」
「………」
 返事を声に出す余裕もない。荒い息で喘ぎながら、ゆかりはわずかにランニングのペースを上げた。
「ファイト、ゆかりッ。ラスト5周!」
 足踏みをしながら、ゆかりが追いつくの待って、背中をぽんと叩く。
 彩には、苛立ちがあった。
 この一週間、パス、ドリブル、シュートと、バスケの基礎を駆け足で特訓してきた。ゆかりはバスケに関して、まるで素人だった。部には籍しか置いていない、幽霊部員だったのだ。時間は絶対的に足りない。それは初めからわかっていたことだった。だが、それでもなお、ゆかりの出来は彩の期待を大きく下回った。特に、シュートの覚えの悪さは、目を覆うばかりだった。距離感覚、力の加減、ともに絶望的といってよかった。

 ボールがリングにかすりもせず、ボードに跳ね返る。
(やる気あんの!)
 何度もそういって、声を荒げた。
(ごめん……)
 しょげるゆかりを見る度、気持ちを抑え、辛抱強くアドバイスを繰り返した。
(腕に力を入れなくていいから。もともとタッパがあるんだから、手首だけを返して、ボードの四角い枠に当てればいいから)
 レイアップやローポストからのジャンプシュートは、とうに諦めた。残り一週間、せめてゴール下のシュートだけでも習得させておきたかった。ゆかりのシュートは不可欠だった。なぜなら、ゆかりのスタメン入りが懸かっているからだ。単に2オン2に勝つだけなら、彩ひとりでも勝つ自信はあった。だが、彩がひとりで得点したのでは、磯辺を押しのけて、ゆかりがポジションを獲るのは難しい。にも関わらず、彼女のそれは、一向に上達の気配を見せなかった。
(下手なのはしょうがない。でも――)
 それ以前に、ゆかりには最も肝心な覇気、やる気が感じられなかった。なによりそれが、上達を妨げている。ただ唯々諾々と従順に、苦しい時間が過ぎ去るのを待っている。そんな気がしてならない。それが彩を苛立たせた。
 そして、ランニングがラスト2周に差し掛かったとき、ついにゆかりの足が止まった。
 そのまま地面に膝をつき、うなだれる。

 遥か先を走っていた彩が、逆戻りして駆け寄る。
「どうしたの? あと2周だよ。頑張って。ほら立って!」
 彩がゆかりの腋に腕を差し込んで立ち上がらせようとする、そのとき、彩の耳に、ゆかりのかすかな囁きが届いた。
(もう、いやだよ)
「……え?」
 ゆかりのふたつの瞳から、大粒の涙がこぼれるのを彩は見た。
「もう、いやだよ……」


「ドアホ!」
 女子ばかりの体育館に、ただひとりの男の怒声が響きわたった。
「何べん言わすねん! やめてまえッ」
 すみません。ミスをした部員が頭を下げる。もう一度、お願いします。
「もっかい最初からッ」
 ハイッ。コート上の女子部員が返事をする。が、へとへとのためか、まばらで元気がない。
「声が小さい! 全員で返事せえッ」
 ハイ!!
「あの、監督。……君津監督」
 マネージャーが恐るおそる呼び掛ける。君津紀明の周囲には、雷雲が立ち籠めていた。こんな時に練習に無関係な用件で割り込むのは、決死の勇気を必要とした。
「なんや!」
「監督の携帯に、さっきからお電話なんですが……」
 そう言って、彼の携帯フォンを差し出す。
「無視せえッ。それぐらいの判断もできんのか!?」
「でも、禿(かむろ)監督からです。なにか、重要な用件では?」
 電子音を鳴らし続ける君津の携帯のディスプレイには「禿哲哉」文字が明滅していた。
「なんやと?」
 ひったくるように、マネージャーから携帯フォンを受け取ると、「安芸君、あとを頼む」と言い残して、体育館の扉を開けて姿を消した。
「そういう時は、『君津の携帯です』と言って出ればいいから」
 浄善女学院バスケ部アシスタントコーチ・安芸小百合(あり)は、冷や汗をかいているマネージャーにアドバイスした。
「用件を聞いて、メモを監督に渡しなさい。それか、私に言ってくれてもいいから」
 はい、すみませんでした。そう詫びて、マネージャーが下がった。二年生だが、マネージャー歴は半年だ。もう半年になるのに、というのが、安芸の本音であった。まったく、最近の若い子は、気はしが利かない。そう思って、まるでおばさんの繰り言のようだと、口元で苦笑いした。
 それにしても。と安芸は思う。
天女(あまじょ)の禿監督が、いったい何の用なのかしら……?)

  16

(すまないね。ご多忙中のところ)
 君津の携帯から、天島女子大附属バスケ部監督・禿哲哉の声が聞こえた。
「しょうもない話やったら、ソッコーで切るぞ」
(桜井さんが昨年、松芝の監督を辞任したことは覚えてるね?)
「そんなことも、あったのう。ザマぁ見さらせや」
 桜井修造。プロバスケチーム・松芝を長年に渡って指揮した、前監督である。在任中、チームを常にリーグのトップクラスに維持した功績は、名将の誉れ高い。一方で、それは強引な有力選手の引き抜きによるものだとの批判の声も強い。また、あまりにもシステマティックな選手の管理で、当の選手たちからは決して慕われた監督ではなかった。毀誉褒貶の激しい男だった。松芝辞任の真相は、オーナー連との折り合いが悪く、更迭されたのだという噂もある。
 君津と禿は、ともに現役時代を松芝の桜井監督のもとで過ごした、元チームメイトである。そして、君津にとっては、選手時代に監督である彼に暴力を振るったことで、松芝を去るみならず、プロバスケリーグそのものを干されたという、因縁の人物でもあった。
(桜井さんの、再就職先が決まったよ)
 君津はソッコーで携帯フォンを折り畳み、通話を切った。


 気付いていた。導火線に火が点いていたことを。だが、それに目を背けていた。見て見ぬ振りをした導火線の火花が、いま爆薬に届いたのだと彩は知った。
(自分に負けちゃだめだよ)
(辛いかもしれないけど、練習って辛いものなんだよ)
(この辛さを乗り越えなきゃ、強くなれないよ)
(ここでやめたら、以前とおんなじだよ?)
 説得の言葉は、ただ、空回りするだけだった。当然だと彩は思う。ゆかりは腹を括っている。あの気の優しいゆかりが、はっきりと「いやだ」と言ったのだ。自分でも紋切り型だと思う言葉で、説得などできるはずなどなかった。
 それでも、ここで諦めるわけにはいかなかった。なにより、ゆかり自身のために。

「ゆかり――。ダンクって、知ってる?」
「………」
「シュートってふつう、下からボールを入れるでしょ。それをリングよりも高くジャンプして、上から叩き込むんだ。カッコイイんだよ。女子でそれができる選手を、ダンクレスっていうの」
 ゆかりが本気でバスケに取り組めば、そう遠くない将来、ダンクレスになれるって、そう信じてる。
 脚力をつけて、身体を絞って軽くなれば、もっともっと高く跳べる。その背丈があれば、ぜんぜん夢なんかじゃない。思い切り手を伸ばせば、掴みとれるんだよ!
「だから、なに?」
 いけない、と思った。そんなことを言っちゃいけない。だが、堰を切ったゆかりの感情は、理性の言うことを聞かず、日頃抑圧されているがゆえに、いざ解放されるとコントロールが効かなかった。
「夢じゃない? 私にはもともと、そんな夢なんかない。ダンクレス? なにそれ? そんなものになりたいなんて、これっぽっちも私は思ってない!」
「聞いて、ゆかり」
 バスケってね、背が低いと、本当に不利なスポーツなんだ。パスひとつするのだって、高く跳び上がらないといけなくて、倍疲れるんだ。
「背が高いっていうのは、それだけで才能なんだよ。私みたいなチビが、死に物狂いで努力しなきゃいけない分を、ゆかりは初めから持ってる。それは神様がくれた、最高の宝物なんだよ」
「違う違う違う!」
 ゆかりは、いやいやをするように首を振った。
「彩ちゃんにとっては宝物でも、私にとってはそうじゃない。身体を交換できるなら、こんな身体が欲しいってひとがいれば、よろこんで譲ってあげる」
 私の将来の夢はね、お嫁さんになること。好きなのは、お料理にお裁縫。笑っちゃうでしょ。笑っていいよ。そう言うと、みんな笑うんだもの。
「こんな大きい私は、普通の女の子の普通の夢をいっちゃいけないの? 普通の女の子らしくしちゃいけなくて、バスケやバレーボールや、プロレスラーをやらなきゃいけないの!? そんな運命を与えたのが神様なら、そんな神様、私は信じない。こんな身体、私には呪いでしかない!」

「そうやって、大きいことを苦にして、これからも生きていくの?」
「………」
「自分の顔が気に入らないなら、整形して変えられるかもしれない。でも、自分の背丈は変えられない。こればっかりは受け容れるしかない、ゆかりの宿命なんだよ?」
「そんなこと、言われないでもわかってる!」
 ゆかりの涙をたたえた真っ赤な瞳が、正面から彩を見据えた。
「いいや、わかってない」
 ゆかりを不幸にしているのは、大きいからなんかじゃない。物事をそんな風に考える、ゆかりの心根そのものだよ。ゆかりが自分を誇らしく思えば、きっとレディとしてだって魅力的になれる。それなのに、我が身を呪って、いじいじイジけて、自分の殻に閉じ籠もってるから、からかわれたり、利用されたりするんだ。自分が輝いて、幸せになる方法は、すぐそばにあるのに、ゆかりはそれを見ようともしない。
「そんなの、お為ごかしじゃない!?」
 彩ちゃんは、前にもそう言った。だけどそれは、私にバスケをやらせるための口実でしかない。たまに良くしてくれるひとは、みんなスポーツや武道をやらせようとする。南田先生もそう。彩ちゃんだってそうだよ。
「彩ちゃんは、自分では果たせないことを、私を仲間にして、果たしたいだけだよ……」

  17

 その言葉は、したたかに彩を打ちのめし、彼女の欺瞞の皮を剥いだ。
「そうだね。……その通りだよ」
 ゆかりの言う通りだった。ゆかりのため? なんと傲慢で、卑劣な誤魔化しをしていたのだろう。ゆかりにも、自分自身にも。もう小ぎれいな理屈で、正当化するのはやめよう。彩ははじめてストレートに、自分の正直な気持ちを、ゆかりにぶつけた。
「開き直るわけじゃない。ゆかりに言われて、やっと気付いた。そうだよ、私がゆかりを欲しいの。ゆかりがコートで暴れ回る姿を、私が見たいの!」
 前にチームメイトに恵まれなかったって言ったよね。本当は、けっこう強い中学にいたんだ。だけど家庭の事情で、どうしてもこっちに転校しないといけなくなって、それで腐ってたんだ。もう以前のようなレベルで、バスケはできないんだ、なんて。でも、この中学にきて、ゆかりがいた。私が見た、私が知ってる、どのバスケ選手よりも大きい中学生が! 諦めてた夢を、諦めなくていいんだと思った。彼女となら、もう一度、全国を目指せるって!
「お願い、ゆかり!」
(!)
 彩はグラウンドの地面に、両手をついた。
「辛いだろうけど、私のわがままを聞いて。私の夢に付き合って!」
「なに、それ……? やめてよ。やめてよ、そんな真似! 勝手だよ。勝手すぎるよ……」
 ゆかりのこたえは、激しい拒絶だった。
「どう言われたって、いやなものいや。自分にできるからって、他人にもできるなんて思わないで」
 お願いだから、私をほっといて。私のことが嫌いじゃないなら、せめてそっとしといて。自分の夢を押しつけないで。
「――私はあなたの、お人形じゃない!」
(……!)
 その、ゆかりの言葉は刃となって、彩の胸を貫いた。


 しばらくして、デスクに置いた禿の携帯に、君津からのコールが鳴った。禿の口元に笑みが浮かぶ。
「必ずかけてくると思っていたよ」
(かけ直してこんかい! ズボラなやっちゃで)
「切ったのは君だ」
(なんぼしょうもないネタでも、オチは気になるやろが)
「……桃花学園だよ」
(なに?)
「桜井氏の再就職先だよ。桃花学園の次期監督に、桜井氏が内定した。この意味はわかるね? つまり、日本高校女子バスケの最高峰のチームの監督として、我々のお相手をしてくだるということだ。あの桜井さんがだ」
 わずかに沈黙し、君津が訊いた。
(確かな情報なんか、それは)
「週バスの三原くん、知ってるだろ。彼女からの報せだよ。間違いない。たったいま、名古屋で記者会見が終わったそうだ。今夜はこのニュースで、バスケ界は大騒動だよ。もしもし……?」
 禿の携帯のスピーカーは、何の声も寄こさず、やがて通話が相手先から途絶えたことを知らせるツー音が鳴った。


 通話を切った、その意識すらなかった。君津の携帯は彼の手のなかで、握り潰されんばかりの圧力に耐えていた。
(あの男が、桃花の監督に――)
(桜井――)
(まさか、あんたと戦(や)り合えるとはのォ)
 その時の君津の表情を誰も目撃しなかったのは、彼にとって幸いだった。その顔をこの学校の女生徒が見れば、さっと小走りに遠ざかったであろう。それは鬼の喜悦だった。

 体育館に戻った君津の様子を見て取った安芸は、それがただならぬものであることを察知した。
「あの……禿監督からは、どのような?」
「安芸君、全員を集合させてくれ。いますぐ」
 安芸の問いに、君津は取り合わなかった。
「はい。でもあの、今日のメニューは、これで終了ですが?」
「メニューは変更や。いまから、紅白戦をやる!」


 通話の切れた携帯を、禿は掌で弄んだ。
(伝えたいことは、もう一件、あったんだけどな……)
(まあいい。どうせ、今夜には知れることだ)
 このニュースは日本の、いや、アジアのバスケ界を震撼させるだろう。それは桜井修造の桃花学園監督就任とセットの、もう一方の「事件」によって。

(桜井さん、あなたというひとは――)
(変わってませんね。あなたが松芝の監督に就任されたときと少しも。いや、より過激になっておられる)
(日本のバスケ界だけでは収まらず、とうとう中国まで敵に回すおつもりですか?)
 手にした携帯を上着のポケットに入れると、自分が指導するチームの練習を見に行くべく、禿は己れの座す、車椅子の車輪のハンドルに手を掛けた。

続く

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第1稿 2006.03.20