ダブルスコアTO   21

 大木ゆかりが学校を休んだ。
 登戸 彩がそのことを知ったのは、彼女に教えられてだった。
大木(あいつ)だったら、来ないぜ」
 犬飼は彩が座っている校庭のベンチの隣に腰を下ろした。そこは彩とゆかりが、お昼をともにする指定席だった。
「風邪で休みだとさ」
 さっき南田とすれ違ったとき、そう言っていたと犬飼は告げた。女子バスケ部顧問の南田教諭は、大木ゆかりのクラス担任でもある。
「………」
「購買部、急いだほうがいいんじゃねえか」
 もう、こんなんしか残ってねえだろうけどな。
 磯辺は手に持った袋に入ったクリームパンをぶらぶらさせた。
「ホンッと甘党ですね。キャプテンて」
 ストレス溜まってるんじゃないですか?
「かもな」
 ワガママなお姫様に、生意気な後輩まで加わって、気苦労は絶えねえよ。
「今度の2オン2は、どうするんだい?」
 立ち上がって、購買部に向かおうとする彩の背中に、犬飼は問うた。
「どうって?」
 彩は振り返って訊いた。
「大木が出ないからって、1オン1にはしないってことさ」
「なんでそうなるんですか? ゆかりはたまたま病気で休んでるだけで、元気に学校に出てきたら、いっしょにやりますよ」
 そうはならないことは、彩が一番よくわかっていた。だが、ゆかりがバスケ部を辞める気でいることは、まだ彩ひとりしか知らないことだった。
「そうかい? いや、私はてっきり、あいつがリタイアして、それで気まずくて、学校にも出て来れなくなったんじゃないかと思ってさ」
 完全に図星だった。彩は、このバスケ部主将の前で、シラを切る愚を悟った。
「仮にそうだとしても、1オン1にしてくれとは言いませんよ」
「へえ」
「別のパートナーをよこせとも言わない。かえって、1対3になるだけだしね。キャプテンと磯辺サンのコンビはそのままでいい。私ひとりで相手になりますよ。1オン2でね」

「そう言うと思ったよ」
 再びきびすを返した彩の背に、また犬飼は言った。
「なにしろ春日部の“サソリの毒針”だもんなあ」
 彩が足を止めた。

(ミニバス時代、春日部スコーピオンズでエースを張っていた、彼女の通り名よ。聞いたことない? あなたも埼玉でミニバスやってたんでしょ)
「うちは弱かったからな……」
 本多 雪にそう答えながら、犬飼はかすかに思い当たる節があることに気付いていた。――春日部に一コ下の凄いヤツがいるらしい。いままで思い出すこともなかったが、そんな噂を耳にした覚えがある。そいつがどんな名前だったか、記憶は定かでない。だが、登戸 彩――その名を最初に耳にしたとき、確かにどこかで聞いたような気がしたことを、彼女は思い返していた。

「なーんだ」
 彩が言った。今度は振り向かずに。
「バレてたんだ」
 それだけ言うと、また購買部に向けて歩きだした。犬飼はそれ以上なにも言わず、黙ってクリームパンの袋を開けた。


 犬飼の予言通り、購買部にはすでに菓子パンの類しか残ってはいなかった。
 ゆかりと昼食をともにするようになって、購買部のパンからは遠ざかっていた。ゆかりが彩の分の弁当を作ってくれていたからだ。

 二人が出会った次の日の昼休み、ゆかりは彩に訊いた。
「彩ちゃんって、いっつもお昼はパンなの?」
「別に好きなわけじゃないんだけどさ」
 コロッケパンを頬ばりながら言った。
「うち、母親いないから。料理も得意じゃないし」
「そうなんだ……」
「気ぃ遣わなくっていいよ。亭主と娘見捨てて、田舎に帰った薄情母だし」
「うちは、お父さんがいない。私たち、なんだか似てるね」
 彩はそのとき、自分たちが不思議な絆で結ばれているのだと、強く感じたのを覚えている。
「でも、いいなあ。そんな豪華な弁当作ってくれる、お母さんがいて。やっぱり片親なら、ぜったいお母さんがいい。料理が上手くて、優しいお母さんに限るけどね」
 これ、私が作ってるの。と照れ臭そうに、ゆかりは言った。お母さんは夜の仕事で、お弁当までは作ってられないから。
「駅前でスナックやってるの。『浮わ木』っていうお店」
 取って付けたように言った。色を売る商売だと誤解されたくなかったのだろう。
「じゃあこれ、全部ゆかりが作ってるの!? エラーい!」
「好きなおかずがあったら、食べていいよ。いっぱいあるし」
「ホントにぃ!? じゃあこれ、いっただっきまーすッ」
 ゆかりの弁当の中から、だし巻玉子を指でつまんで頬ばる。
「おいひ〜ッ」
「よかったら、彩ちゃんの分も、作ってこようか?」
「ええーッ、悪いよそれは」
 ううん。と、ゆかりは首を振った。作る量を増やすのは、全然手間じゃないから。
「ホントぉ? 嬉しいッ。こんな豪勢なお弁当、毎日食べられるんだ!」

 それ以来、彩は学校での毎日の昼食を、ゆかりと同じ――サイズは一回り小さかったが――弁当を食べて過ごした。ゆかりと別離した、あの日まで。
 そして、その翌日も、翌々日も、購買部のパンが、彩の昼食となった。犬飼らとの勝負は、明日に迫っていた。

  22

「登戸はどうしたんだよ、登戸はあッ?」
 体育館に小城の声が響き渡った。部活の時間が始まっても、登戸 彩は姿を見せなかった。掃除当番や補習などでないことは、クラスメイトである小城には、よくわかっていた。
登戸(あいつ)だったら、来ないぜ」
 扉を開けて現れた犬飼が、小城に言った。
「用事で休むってよ。おおかた、大木の見舞いだろうよ」
「ケッ」
 と、小城は吐き捨てた。
「口実つくって、サボりやがって」
「よくないなあ。そういう言い方は」
 その柄にもない猫なで声の主は、磯辺だった。
「クラブ活動への参加は自由、だろ。やめようじゃないの。そういう体育会系のノリは」
 無論、磯辺の言葉を、額面通りに受け取る一・二年生はいない。目障りな登戸 彩がいないことで、彼女の機嫌がいつになく良いだけだということを後輩たちはよくわかっていた。
(よく言うよ。いつも先輩の命令は絶対とか言ってるくせに……)
「なんか言ったか?」
 磯辺の腕が、小城の首に絡まる。
「いえッ、なんにも言ってませんッッッ」
(ところでよ――)
 小城の耳元で、そっと磯辺が囁いた。
(お前にちぃと頼みたいことがあんだ。あとで部室でな)
「………」
 憂鬱な気分が顔に出るのを必死に抑えつける。ろくでもない頼み事であることは、経験上わかっていた。こんなことなら、近付くのではなかった。これまで幾度も繰り返してきたその思いを、小城はいま一度リフレインした。


 電話帳で調べた所在地を頼りに、彩は朱雀駅前のその雑居ビルにたどり着いた。
 大木ゆかりの自宅のチャイムに、反応はなかった。意外ではなかった。母親はもう勤めに出ているであろうし、ゆかりが本当に病気だとも、彩は思っていなかった。だが、学校を休んだゆかりに、電話で連絡が取れず、自宅でも会えないとなれば、残る手掛かりは、ここ以外になかった。
 見上げた雑居ビルの外壁に、ネオンの電飾で縁取られた各店舗の看板が並んでいる。彩の視線の先には、そのひとつ「スナック 浮わ木」の看板があった。

 窓がなく中の様子が伺えないこの種の店の構えには、馴染みのない者を寄せつけない威圧感のようなものが存在する。ましてや、彩は中学生である。コンビニや喫茶店のように、気軽に足を踏み入れるわけにはいかなかった。それでも、「準備中」の札がかかった扉のノブに思い切って手を伸ばす。鍵はかかっていなかった。
「すみませーん。まだ開けてないんですよ」
 席はカウンターだけの狭い店内を掃除している中年女性が、背を向けたまま言った。気の早い客と、勘違いしたのだ。このスナックのママで、ゆかりの母親だろう。
「あのー」
 およそ客筋とは程遠い声を聞いて、中年女性は振り返った。
「大木ゆかりさんの、お母さんですよね?」
「ゆかりのお友達?」
「はい。あの――」
「ひょっとして、登戸 彩さん?」
 中年女性は彩が名乗るより先に、彩の名前を言い当てた。
「よく言ってたからね。学校の友達のことなんて、ろくに喋りもしなかったあの子がさ」
 彩の疑問に答えるように、中年女性は言った。
「ちょうどよかった。――私も直接あんたに会って、話を聞きたいと思ってたのよ」
「私にですか?」
 叩きつけるように壁に手をつけて、中年女性は顔を近付ける。明らかにそれは、彼女の彩に対する、不穏な感情を物語っていた。
「あんたいったい何の権利があって、ゆかりにあんな無茶なことやらせてんのさ?」

  23

「おいしい!」
 焼うどんをひと啜りして、彩は賞賛の声をあげた。香ばしいソースの匂いが食欲をそそる。お詫びの印にと、ゆかりの母が振る舞ったのだった。
「ゆかりが言ってました。お母さんの作る焼うどん、絶品だって。どんなに頑張っても、真似できないって」
「そりゃ褒めすぎだよ」
 ゆかりの母は、笑ってそう言った。
 誤解はすぐに解けた。だが、不可解さはさらに増した。ゆかりの母にとっても、彩にとっても。

「じゃあ、先週の金曜に、あの子はあんたとの練習をいやだって断ってるんだね?」
「はい……。月曜から、ゆかりが学校を休んで、それで私てっきり、気まずくて学校に来れなくなったんじゃないかと思ったんですけど……」
「妙だねえ……」
 訳がわからない、というように、ゆかりの母は首を振った。
「あの、ゆかりはお母さんに、なんて言ってたんですか?」
「ちょうど、金曜の晩だったよ。晩っていうより、真夜中だけどね――」
 ゆかりの母は語り始めた。あの雨の日の出来事を。

 鍵を差し込み、扉を開ける。「ただいま」は言わない。娘はとうに寝ている時間だ。居間の明かりを点したとき、娘の部屋から明かりが漏れていることに彼女は気付いた。勉強をしていて、そのまま寝込んでしまったのか。
「ゆかりぃ、起きてんのかい?」
 そう声を掛けて、襖を引き開ける。
 ひっ、と声をあげそうになった。襖を開けたすぐそこに、ゆかりの大きな身体が突っ立っていたからだ。
「……もお、びっくりさせないでよぉ。いま何時だと思ってんの」
「お母さん――」
 思い詰めたような娘の表情が、ただごとでないことに、彼女は気付いた。この時間まで、自分の帰りを待っていた。そのことがすでに、事の重大さを物語っていた。
「お母さん、お願いがあります」
「なんだい、あらたまって」
「一週間、ううん、五日だけでいいの。これから五日間、私のやることを黙って許してほしいの」

(五日――)
 彩はゆかりの母親の話に耳を傾けながら、ゆかりの言った言葉の意味を考えていた。
(ということは、今日まで。2オン2の勝負は明日。辻褄は合う。でも――)
 でも、どうして?
 泣いて、バスケなどやりたくないのだと、そう言って別れたのだ。その夜、急に心変わりして、自分にも告げず、学校にも来ず、ひとりトレーニングを積んでいるというのだろうか。
「学校まで休むってんだから、親としては本当は止めなきゃいけないんだろうけどねえ。――タバコ、いいかい?」
「……あ、はい、どうぞ」
 シガレットケースから取り出してくわえた煙草に火を点ける。銘柄は知らないが、それが高級な外国タバコであることは、彩にもわかった。
「滅多に我が儘なんて言う子じゃないんだけど、あれで言い出したら聞かない子でねえ……」
「わかります」
 お人好しなだけではない芯の強さは、皮肉なことにバスケをやめるという意志を彩の懇願にも関わらず貫いたことでわかった。だからこそ、本気でバスケに取り組むなら、大変な選手になれるのにと思う。
 不可解ではあるが、もし本当に、ゆかりが明日の勝負のための特訓を自らに課しているのだすれば、彩にとってこんな嬉しいことはなかった。だが――。
「無茶って、言いましたよね」
 彩にはひとつ、気掛かりな点があった。
「ゆかりは、ゆかりさんは、いったいどんなトレーニングをしてるんですか?」
「実際どんなトレーニングをしているかは知らないよ」
 大きく紫煙を吐き出して、彼女は彩に答えた。
「この眼で見たわけじゃないからね。ただ、眼にした範囲で言やあ、ありゃまるで、ボクサーの減量みたいだね」

 このくそ暑い炎天下に、長袖のトレーナー着て、おまけにその上から雨ガッパを頭までスッポリかぶっちゃってさ。それで外を走るんだよ。
 家へ帰ってきても、その格好のまんまさ。こんな商売やってるから、昼間は寝てるんだけどね、気になって眠れやしない。こっそりあの子の部屋を覗くとさ、膝抱えて、眼だけギラギラさせて、踞ってるんだよ。ひどい空腹と、渇きに堪えながらね。
「食事は、していないんですか!?」
「してないよ。ちゃんとした食事はね」
 日に何本かのバナナ。水分はレモンで摂っているようだ。ゆかりの部屋の屑籠に、絞り抜いた雑巾みたいな、ぺしゃんこの皮が捨ててあった。それがいま、ゆかりの口にしている、全てだった。
「もう見てらんなくてさ。思い切って食事を出したんだよ、あの子の前に」

 お粥と目玉焼き、それに味噌汁。極度の空きっ腹に、重い食事は障るだろうとの彼女の判断だった。普通なら、ゴクリと生唾を飲み込んだだろう。だが、その生唾すらわかぬほど、ゆかりの身体は渇ききっていた。わなわなと震えるように、それに手を伸ばす。
「なんのためだか知んないけど、そこまでするこたないんだよ。さあ、おあがり。おいしいよ!」
 痛々しいほどの逡巡、葛藤。そして、泣きそうな歪んだ顔で、母親の運んだそれをお盆ごとひっくり返す。
「ゆかり!」
「ごめん、お母さん。食べ物粗末にして。でも、もうやめて。こんなことするんなら、私、この家を出ていく――!」

「まるで……」
「ボクシングのスポ根漫画みたい、だろ?」
 その滑稽さを自嘲するような顔つきで、彼女は言った。指の間で煙をくゆらせていた洋モクを灰皿に擦りつける。その高級シガレットとは裏腹に、ゆかりの母の指は、優美さとは程遠い、細いが節くれ立つ、苦労人のそれだった。
「わからない……」
 うなだれるように、彩はそう呟いた。ゆかりがやっていることの意味も、それほどの強烈な意志を突き動かす、突然の心変わりも。
「ひょっとすると……」
 ゆかりの母は、彩の疑問に答えるように言った。
「あのひとのことを、思い出したのかもしれないねえ」
「あのひと?」
 ちょっと待ってて。そう言うと、店の奥の戸棚の引き出しから、一枚の写真たてを取り出し、彩の前に置いた。
「これって……」
「よく撮れてるでしょ?」
 それは男子バスケ選手の、ダンクの瞬間をとらえた写真だった。いまはなき実業団チームのユニフォームを着ている。バスケ選手としても、かなりの巨体の持ち主であろう。なにより、リングにボールを叩き込むことが嬉しくならない、そんなほれぼれするような楽しげで幸せそうな、そんな彼の表情が、とても印象的だった。
「堀田健司。××電工センター。身長198センチ。私の最初の旦那。そして、あの子の実の父親」

続く

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第1稿 2006.04.30