ダブルスコアTO   1

「たのもーッ」
 大型の台風が小笠原沖にあり、その遙か北に位置する人工島・天島にも、不気味な強風を吹き荒れさせていた。
 そんな9月の某日、気象庁が直撃を予測する、そのリアル台風に一歩先んじて、少女の形をした大型台風が、浄善女学院バスケ部の体育館を直撃した。
「たのもーッ」


   ダブルスコアTO(タイムアウト)
   道場破り


「ハアッ!?」
 その時代錯誤にして場違いな挨拶に、思わず練習の動きを止めた部員達のリアクションを、言葉にするとそうなる。
「見学はお断りしてるんだけど?」
 一年の安部夏陽(なつひ)が、奇妙な闖入者の応対をした。こうした雑事に、二三年が関わることはない。また生憎と、この日は監督、コーチともに不在だった。
「よく守衛さんが通してくれたわね?」
「さっき正門で用を言ったら、追い返されちゃったんで、こっそり忍び込んじゃいました」
 ヘヘッ、と笑ってそう言うと、彼女はペロッと舌を出した。そんな子供っぽい仕草に、憎めない愛嬌があると夏陽は思った。
「でしょうね」
 しかるべき用向きのない、他校の生徒(たぶん中学生)の訪問を、正門詰め所の守衛が受け付けるはずはなかった。だが、警備が厳重というほどではない。その意志をもって臨めば、守衛の目を盗んで、突破することは可能だろう。
「それで、どういうご用向きかしら。まず、学校名と名前を名乗りなさい。それから――」
「舌は出さない!」
 のちに後輩から「鬼姑」とアダ名される厳格さの片鱗を伺わせて、夏陽は言った。
 ハイッ、と背筋を伸ばし、彼女は答えた。
東(あずま)第三中学三年、伊東真希。このチームで一番強いひとと、勝負させてください!」

「ブッ」
 またも部員全員が凝固するなか、夏陽の同輩である一年の田渕万里が吹き出した。
「なに、このコ! おもしろーいッ。それって、道場破りィ?」
「まあ、そんなとこです」
 夏陽は大きく、鼻でため息をついた。
「悪いけど、帰ってちょうだい。アホの遊び相手をするほど、うちはヒマじゃないの」
「勝負させてくれるまでは、帰りません」
「イヤなら守衛さんに頼んで、つまみ出してもらうまでよ」
「………」
 伊東真希と名乗った少女は、さっと周囲に視線を走らせると、あっと驚く素早さで、手近にいた田渕の持つボールを奪った。「あ」という声が一拍遅れて、田渕の口から漏れた。
「そんなに時間は取らないですから、いいじゃないですかあ。大会(インハイ)も終わったんだし。ねえ、白石センパイ?」
 伊東はゆっくりとドリブルしながら浄善女学院のエース、白石 絢(しらいしあや)の姿をコートに見つけると、彼女に向かってそう言った。

「一番強いと認めてくれるのは光栄だけど……」
(よく言うよ、自分でもそう思ってるクセに)
 田渕が口には出さず、頭の中でそう言葉にした。
「あなたに先輩呼ばわりされる謂われはないわ。うちに入学したいの?」
「ハイ!」
 元気に伊東は答えた。
「だったら、しっかり勉強して、入学試験に合格することね」
 うーん、困ったな。といって、伊東は本当に困った顔をした。
「ワタシ、勉強苦手なんですよねー」
 思わず、白石が笑った。
「だったら、どうするの? バスケの特待生で入学するつもり? それで私に勝てば、監督が自分を欲しがるだろうって、そういう魂胆? 長いことバスケやってきたけど、あんたみたいなおバカ、初めて見たわ」
「ハイ。ワタシ、バカです」
 伊東は、明るくそう応えた。
「バスケバカです」
 バ〜スケひとす〜じバカ〜に〜なり〜。とアニメ『空手バカ一代』のテーマソングの替え歌を田渕が口ずさむのを白石の視線が捕らえた。表情は静かだが、それが叱責を意味することは、部員には明らかだった。一般入学でエースの座を勝ち取った彼女が、スカウトの特待生で一年にしてレギュラーとなった田渕らを内心快く思っていないことは、部の誰もが承知していることだった。首を竦める田渕の背中を「言わんこっちゃない」というように、同じスカウト組で同輩のレギュラー、相羽早織(あいおり)が苦笑いしながら肘で小突いた。
「バカバカしい!」
 白石は吐き捨てた。
「スカウトを期待してるなら、おとなしくお家で待つことね。それだけの実力と実績の持ち主なら、どこかから声が掛かる。うちの監督もコーチも、そのために今日も飛び回ってる。名前も聞いたこともない誰かさんには、お声は掛からないでしょうけどね」
「……神室カントクには、この間スカウトされました」
(!)
「ぜひ天女(うち)に来てほしい。天羽(あもう)の右腕になってほしい。って、そう言われました」
 智将、神室龍哉(かむろたつや)。天島県下ナンバー1の地位を不動のものにする、天島女子大附属高校の監督である。彼の監督就任以来、県内ではただの一度も敗戦はない。
 その天女(あまじょ)で、「天才」と呼ばれ、一年生にしてエースとして君臨。今年度のインターハイ県予選では、新人王とMVPのダブル受賞を果たしたプレイヤーが、天羽七海恵(あもえ)である。
「そんな法螺話、誰が信じるもんですか!」
 安部夏陽が歩み寄って言った。
「それが本当なら、天女に行けばいいじゃないの! 天羽の右腕にでもなんでも、なればいいでしょう!」
「だって、つまんないじゃないですか」
 涼しい顔で、伊東は言い返した。
「県内負けなし――。そんなチームの一員になるより、そんなチームを倒すほうが、百倍面白いじゃないですか」
(――!)
「だからワタシ、ここに入りたいんです。県下ナンバー2の浄善女学院に。確かにワタシ、実績はありません。夏の県大会でも、二回戦で負けちゃったし。でも、実力はあります。勝負すれば、それがわかります」
「とんだ、誇大妄想狂ね」
 白石がシュラッグした。
「来るところを間違えたんじゃない? 天島女子大病院にでも行ったら? 精神科にね」
 そう言うと、きびすを返した。
「なんだか疲れちゃった。色んな意味で。今日はこれで上がるわ。お疲れ」
「そんなに歳下と戦(や)るのが、イヤなんですかあ?」
 白石の背中に向けて言い放つ。
「天女の一年に、手も足も出なかったから?」
 その瞬間、体育館の空気が凍りついた。彼女がこの部の、最大の腫れ物に触ったからである。
 白石が振り返った。無表情な面(おもて)が、かえって凄味を帯びる。能面のような表情に、眼だけが伊東を射るように光っている。
(あちゃ〜、一番言っちゃいけないことを……)
 田渕が手のひらで顔を覆った。
「伊東って言ったね?」
 白石の眼が、座っていた。
「少し、図に乗り過ぎじゃない?」
「やめてください!」
 立ち塞がるように、夏陽が割って入った。
「立場を、お考えください。名門浄善のエースが、こんなどこの馬の骨とも知れない人間の、相手をするべきじゃありません! 思い知らせてやれと仰るなら、私が相手になります」
「安部、どきなさい」
 静かに、白石が告げた。
「誰に向かって指図してるの。分をわきまえなさい」
「……失礼しました」
 蒼白な顔で夏陽が頭を下げ、道を開けた。身長170強の白石が、160弱の伊東を見下ろす。
「天女のスカウトが仮に本当だとしても、私は高校三年。このチームでエース張ってる女よ。それをどこのお山の大将だか知らないけど、中坊の分際で勝負しろですって? 高校バスケットをナメるのも、たいがいにしなさい。そののぼせ上がったアタマを自分で冷やせないっていうんなら、私が冷やしてあげる。お望み通り、勝負してあげるわよ。少しは身の程ってものがわかるでしょうよ」
「そう来なくっちゃ」
 伊東は、ニンマリと笑みを浮かべた。
「でも、ワタシが勝ったら、ちゃんとワタシのこと、カントクさんに伝えてくださいね。約束ですよ」

  2

「先生ッ、君津(きみつ)先生、こちらです」
 新幹線の改札を出た彼を、浄善女学院のアシスタントコーチ・秋さゆりは手を振って出迎えた。
「いかがでした? 神奈川のほうは」
「獲った。富山(とみやま)は、うちに来てくれる」
「よかった。おめでとうございます!」
「うん。秋君のほうは?」
「加地あい、加地のぞみ、ともにオーケーの返事をもらいました。姉妹そろって、うちに来ていただけます」
「よし!」
 浄善女学院バスケ部監督・君津紀晃は、そう口にして拳を握った。
「これで、神奈川一のシューターと、東京を代表するガードコンビがうちに……。県内トップクラスの西澤を加えて、天島最強の一年生チームができますね」

「安心はできんよ」
 東京駅から天島へ直通する特急列車・アクアライナーのシートで、君津は言った。窓の外は暗い。時間はすでに、深更を過ぎていた。自ら風を斬る高速の車中からは、外を吹き荒れる強風さえも、見定めることは困難だった。
「神室は妙に鼻が効くところがある。どんな逸材を発掘してくるかわからん。それに、天羽のことを考えれば、この布陣でも不足と言わざるを得ん」
「それだけに、大木ゆかりを獲得できなかったのは、残念ですね」
「彼女は、しゃあないよ。あの条件は飲めん。ま、ほかの強豪チームにも行かへんのが、せめてもの救いやな」
「天女も、桃花も、大木の獲得を断念したそうですね」
「結論はどこも同じやな。それにしても、桃花はビッグ・ヤンを抱えて、まだ大木を獲ろうってか。強欲タヌキめ!」
「彼女、どうするつもりなんでしょう。まさか本当に、このままバスケをやめるつもりなんでしょうか?」
 さあな。と、君津は気のない返事をした。
「あれだけ恵まれた体格があるのに……。日本バスケ界全体の損失です」
「生まれながらに恵まれてる人間、というのは得てしてそんなもんや。努力して掴み取ったものではないから、本人には有り難みがない。だから、あっさり捨てられもする。
 俺は、いわゆる天才に用はない。血の滲む努力を惜しまん根性が、俺は最大の才能やと思ってる。あの白石のような、な」
「その白石の件なんですが……」
 話すきっかけを与えられて、秋は切り出した。
「先生をお迎えする少し前に、私に連絡がありまして。今日、部のほうで、ちょっとした事件があったそうなんです」
「事件?」

  3

「――で、結局、白石は、その伊東っちゅう中学生に、1オン1で十本とも取られてもうたんか?」
 その翌日、君津はミィーティングルームで、夏陽から“事件”の詳細を聞いた。
「最初は、5本勝負でした」
 夏陽が君津の問いに答えた。
「それが全部取られてしまって、白石先輩がさらに勝負を要求したんです」
「それで十本に。それもストレート負けか」
「先輩はまだやると仰ってましたが……私が止めました」
「よく止めてくれたわ」
 君津の傍らの秋が言った。
「白石さんのプライドが、ボロボロになる前に」
「もうボロボロになっとるよ。中学生相手に、ただの一太刀も返せんかったんやからな。――それで、白石はどうしてる?」
「今日は、学校にも来ていません。田渕さんから聞いたところでは、かなり塞ぎ込んでおられるようです」
 白石と田渕は、ともに同じ寮住まいである。
「まったく、あのドアホが。何を勘違いしとんねん。世界の女王にでもなったつもりか。上にも下にも、自分より強いヤツなんぞ、なんぼでもおるわ!」
 苦虫を噛み潰した顔で口にすると、夏陽に告げた。
「昨日の一件についてはわかった。お前は練習に戻れ」
「あの、監督……」
 逡巡を見せながら、夏陽は君津に問うた。
「なんや」
「伊東……さんの件なんですが……」
「ああ?」
「……いえ、すみません。なんでもありません。失礼します」
「ああ、ちょー待て」
 一礼し、ドアノブに手を掛けた安部の背に向けて、君津が言った。
「白石に会(お)うたらな、俺がこう言うてた伝えとけ。強いヤツに遭(お)うたぐらいで、ヘコむな。倒すべき目標があるのは、楽しいやないか――とな」

 夏陽が辞去したミーティングルームで、君津が笑みを浮かべた。
「うちの白石を完璧に封じ込めるとはな。大した奴やで。伊東真希、とかいうのは」
「天羽七海恵に並ぶほどの、ですか?」
「まだ、そこまでは言い切れんよ」
 苦笑いを浮かべて言った。
「けど、それだけの器を感じる。秋君――」
「はい」
「さっそく伊東真希の学校に、連絡を取ってくれ。会ってみたい。できる限り早く」
「はい」
 秋が席から立ち上がった。

(道場破り、とはな)
 ほかに誰もいなくなったミーティングルームで、君津はひとり北叟笑んだ。
(なによりも――)
(神室の誘いを蹴って、俺のところに来たっちゅうのが、おもろいやないか。こんなおもろいことがあるかい)
(残念やったな。お前が口説き損ねた逸材、俺がもらうぞ! 悪く思うな、神室よ)

  4

 監督は、伊東を獲るだろう。
 そのことに、疑問の余地はなかった。だが、夏陽はそのことに、拭い去れない不安があった。彼女の入部が、我が部に禍いをもたらすのではないか――と。
 だが、その一方で、こうも思う。
(私はただ、彼女の実力に、嫉妬しているだけではないだろうか……?)

 千々に乱れる夏陽の心に去来するのは、昨日の伊東との、別れ際の一幕だった。
「大したものね」
「………」
「白石先輩が太刀打ちできないなら、ほかの誰も、あなたには敵わないわ」
「それはどうも」
「1オン1ではね。でも、覚えておいて。バスケは5人でするものよ」
「知ってますよ」
「どうかしら。あなたほどのひとが、なぜ無名のまま埋もれているのか、想像はつく。あなたにマークが集中して、身動きが取れない。ほかのチームメイトは、フリーになっても点が獲れない……」
「そうですよ。だから、強いチームメイトと組みたいんです」
「チームメイトに恵まれなかった。あなたはそう思っている。でも、本当はどうなんでしょうね。真相は、あなた自身に原因があるのじゃないしら?」
「どういう意味ですか?」
「どんなに個人では巧くとも、チームプレイのできない人間は、ヘタクソ以下だということよ」
 うーん。と考え込んだ伊東は、しばしの沈黙ののち、顔を上げ、
「キモに命じておきます」
 と言った。
「でも、ちょっと言わせてもらっていいですか」
「どうぞ」
「そうやって、ひとのアラ探しやってるひとも、自分で思ってるほどチームプレイは得意じゃなさそうだな〜、なんて」
「!」
 憤怒の形相を表に出すまいとするだけで、ありったけの自制心を必要とした。
「それはどうも」
 正直、自制できているかどうも、自信は持てなかった。
「肝に銘じておくわ」
「それじゃ、シツレイします。安部センパイ」
 ニッコリと会釈して、正門へ向かう。
 堅く拳を握った腕が、肩から小刻みに震えていた。
 ただでさえ強い風が、校舎と体育館に挟まれた校庭をビル風となって渦巻き、伊東の背を睨む安部夏陽の髪を、怒髪天を衝くの言葉通り逆立たせていた。
 夏陽の心にも、嵐が吹き荒れていた――。

  5

「そう。監督、そんなこと言ってたんだ」
 あのひとらしいや。そう言って、白石 絢は静かに微笑み、紅茶のカップを口に運んだ。
「でも、簡単にそんなふうには思えないよ。実際、ショックだよ。小生意気な中学生に、コテンパンにやられちゃったんだもん。いままで自分が汗水ながしてやってきたことって、一体なんだったんだろうって、そんな気になっちゃうよね」
 白石の様子に、夏陽は安堵した。口ではそう言ってはいるが、それはとりもなおさず、そんな自分を直視できるほどに、立ち直っている証左でもあるからだ。
「もっとも、しばらくはバスケともお別れだけどね」
「先輩……引退されるんですか!?」
「うん。いままで迷ってたし、インハイが終わっても、しがみついてきたんだけど、受験一本に絞ることにしたの。私、不器用だから、どっちつかずじゃ、結局どっちもダメにしちゃいそうで。大学でバスケを続けるためにも、ひとまずバスケはおあずけ」
「そうですか……」
「ホントは嬉しいんでしょ。うるさい小姑がいなくなって」
「そんなこと! 私、先輩のこと大好きです。尊敬していて、お手本で、目標でした。本当です」
「ありがと。私も安部のこと好きよ。後輩のなかで、一番可愛かったな」
 嬉しそうに俯いて、頬を染める。そんな夏陽を好もしそうに、白石は見つめた。
「あいつ、うちに来るそうね」
「ええ……」
「良かったじゃない。私は卒業しちゃうけど、あんたは二年。あいつは一年。たっぷり遊べるよ」
「他人事だと思って、面白がらないでください。今から気が重いです」
「どうやって、教育する?」
「部員になったら、容赦はしません。まず、先輩を先輩とも思わない性根から、叩き直します!」
「できるぅ? 手強いよ〜、あいつは」

「雨、降ってきたね」
 喫茶店のウィンドウを大粒の雨が叩き始めた。
 三日間も小笠原に停滞したまま、勢力を拡大し続けた大型台風は、いよいよゆっくりと北上し、天島に近づきつつあった。
「そろそろ、帰ったほうがいいわ。最後に、部を去る先輩の置き土産として、聞いてちょうだい」
「はい」
「エゴイストがいるせいで、チームの和が乱れる。――そんなことを言ってるうちは、本当のチームの和なんてないということ」
(!)
 それは先日、伊東から指摘された、手痛いしっぺ返しそのものだった。
「チームの枠に収まりきらない、そんなプレーヤーがいるものよ。そんなプレーヤーに、枠に収まることを強いるのではなく、むしろチームの枠を広げてみせる。難しいことだけど。それが、真のチームの和だと思う。あなたたちが入部したばかりの頃、教えたよね。One for all. All for one.」
「One for all. All for one.」
 夏陽が、その言葉を復唱した。
「そう。――伊東を使いこなしなさい」
「………」
「あいつは天女打倒の、またとない戦力になる……!」

「私にできるかどうか、正直、自信がありません……」
 しばらくの黙考ののち、口を開いた。
「でも、先輩の言葉は、胸に刻みつけます。決して、忘れません」
 拳を胸に当てて言った。
「そろそろ行きましょ。いよいよ本降りになってきたみたい」

 喫茶店の扉を開けると、雨は滝のような土砂降りに変わっていた。
「うわー、電車止まっちゃうかも!」
 白石を振り向いて驚いた。彼女は傘を広げもせず、滝のような雨に打たれるにまかせていた。
「どうしたんですか、先輩! 風邪ひいちゃいますよ!」
 慌ててそばに寄り、自分の傘で先輩を雨から守ろうとする。
「いいのよ」
 だが、彼女は自ら傘の下から逃れた。まるで、自分から雨に打たれたがっているかのように。
「先輩……?」
「手を出しなさい」
 真っ赤になった白石の眼を、夏陽は見た。
(先輩、泣いて……?)
「手を、出して」
「こう、ですか」
 小さく挙手をするように、夏陽が右の手をあげた。
 パシィ――。小気味いい音を鳴らして、白石の掌が夏陽の掌を撃った。
「バトンタッチよ」
「………」
「私のこの想い。私の無念、私の悔しさ。全部、あなたに託す。――天女は、あなたたちが、倒しなさい」
 一切の未練を断ち切るように背を向け、去る。振り返ることはなかった。
 夏陽も泣いていた。冷たい雨が頬を撃ち、涙の温もりを感じることはなかったが、自分が確かに泣いていると、夏陽にはわかった。
(ありがとうございました。先輩、本当に、ありがとうございました……!)
 豪雨が白石の姿を隠すまで、夏陽は礼を続けた。雨の冷たさは、感じなかった。むしろ、燃えるように滾る身体に、それが心地よかった。夏陽の全身から、湯気が立ちのぼっていた。

 嵐のなかを夏陽が疾走(はし)る。
 水しぶきを蹴立てて。
 高まる内圧の赴くまま。
 己れの疾走の行く先が、二年後の夏、天島で巻き起こる、高校女子バスケ界の嵐であることを、この日の夏陽は、まだ知らない。

道場破り 了 

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第1稿 2004.09.30
第2稿 2007.11.11