ダブルスコアTO    ダブルスコアTO(タイムアウト)
   払暁 序章


  1

 桃花(とうか)学園新監督、桜井修造がその家を訪れたのは、夏も盛りを過ぎた八月の終わりの、その夕暮れだった。戸口の表札には「権藤」の文字が刻まれている。
「いらっしゃい。――お久しぶりね」
 引き戸を開けた権藤の妻、良恵が、そう言って彼を出迎えた。
「近くまで、来たものでね……」
 桜井の声には、含羞があった。彼女とは、遠く学生時代以来の再会となる。

 座布団に正座する桜井の前で、ぐつぐつと鍋が煮立っていた。蓋をしていても、わずかな隙間から漏れる湯気に乗り、食欲をそそる匂いが彼の鼻腔をくすぐった。
「楽にしてくださいね」
 ビールとコップを盆で運んできた良恵が言った。
「あ、いや。どうか、お構いなく。用件を伝えたら、すぐに帰りますので」
「そんな水臭い。ゆっくりしてってくださいよ。よかったら、泊まっていったら?」
「そう言っていただけるのは有り難いんだが、色々と立て込んでいてね……」
「名門復活の、請負人ですものね……あらやだ!」
 最初に言うべきことを忘れていたことに気付き、良恵は口元を押さえた。
「インターハイ優勝、おめでとうございます」
 そう祝福すると、良恵は桜井の手にするコップにビールを注いだ。
「いやあ……」
 照れ臭そうに、桜井は笑みを浮かべた。その様子を見れば、彼を知る多くの人間が眼を丸くしたであろう。彼は笑わぬ男として、知られていた。――冷徹。彼を評する言葉は、その一語に尽きた。試合の指揮。チームの訓練。そして、選手やスタッフを獲得する、政治的手腕においてさえも。それがバスケ界にその名を知られた、桜井修造という男の、顔だったのである。

「ごめんなさいねえ。本当はもう帰っていたはずなんですけど、今日、生徒が街で騒ぎを起こしたらしくて、それで警察に……」
 この家の亭主の帰宅が遅れている理由を良恵はそう説明した。
「大変ですな。学校教師というのは」
「やだもう。そんな他人行儀な」
 そう笑いながら、肩を叩く。良恵はすっかりリラックスしていた。元来気さくな性格だが、酒が入っていたのも手伝っていたかもしれない。
「変わらないね。君は」
 そんな良恵を、桜井は眩しそうに見つめた。
「そうやって君の笑顔を見ていると、まるで大学時分に戻った気がする」
「ウソばっかり。ぶくぶく太っちゃって、ガッカリしたでしょう?」
「幸せな証拠だよ。奴を選んだ、君の男を見る眼は、正しかった……」
「でしょお〜」
 うふふ、と良恵は笑ってみせた。

 思いのほか遅くなっている亭主の帰宅に、一度は煮えた鍋の火は消され、二人は惣菜を肴に、ビールを酌み交わしていた。中学生になるひとり娘もいたが、予備校の夏期講習からまだ帰っていない。窓の外はすでに暗い。学生時代、落とせなかったからこそ執着した女性と再会し、夜間こうして彼女の家で、二人きりでいる。そのことが、ほどよく回った酔いも手伝って、桜井をいつになく浮ついた気分にさせ、饒舌にさせた。
「君が私を振って、奴を選んだと知ったときは、わけがわからなかったよ。あんな岩みたいな顔の、短足ガニ股の、デートの食事にあろうことか小汚い大衆食堂へ連れていく男の、一体どこがいいんだと真剣に悩んだものだよ。あの当時はね」
「女はね」
 桜井のコップにビールを注いで言った。
「わかるのよ。ロマンチックな気分にさせてくれる男と、自分の人生を本当に幸せにしてくれる男の違いを」
「それは君のような、賢い女性に限った話だよ」
「わからぬ女もいる。死んだ妻がそうだったよ。もっとも、最後には愛想を尽かして、離婚届一枚残して、出ていったがね」
「あなたは、変わったわね……」
 じっと桜井を見つめて言った。
「ずいぶん老けただろう。特にこの辺が」
 気苦労が絶えなくってね。と自分の真っ白になった、銀髪と呼ぶのが相応しい頭を指さした。
 ううん。と良恵はかぶりを振った。
「眼が、優しくなった。まるで別人のよう。あの頃の修ちゃんとは……」
「いま、デートを申し込んだら、オーケイしてくれるかね?」
「そうね……」
「シャンパンにでも、すればよかったかな……」
 手土産に持参した、灘の銘酒を眼にして、桜井は言った。
「せっかくだけど、遠慮しとくわ。今度口説くときは、二人っきりの時にしてちょうだい」
「チッ、バレてたか」
 女の子の声に驚いた桜井が振り向くと、そこにわずかに開いたガラスの障子から、二対の眼が覗いていた。ガラリとガラス戸が開き、姿を現したこの家の住人二名。ひとりは娘の節子。そして、もうひとりは――。
「誰が岩みたいな顔の、短足ガニ股だって?」
 この家の亭主、そして、白虎四高の教諭にして、男女バスケ部を兼任する監督でもある。
「こっそり勝手口から入ってみれば、これだ。ひとの女房をたぶらかしおって。相変わらず、油断も隙もないヤツだな、貴様は。桜井ッ」
 岩のように厳つい顔をさらに鬼の形相にして、権藤次敏はそう怒鳴った。

  2

 節子とは、帰り道で会った。と、権藤はそのゴツい顔に似合わず、丹念に鍋のアクを大さじで取り除きながら説明した。
「この時間に二人きりだ。まさかとは思ったんだが……」
「お父さんて、意外と焼き餅焼き」
「言っとくが、母さんの不貞を疑ったわけじゃないぞ。この男が信用ならんのだ」
 この男はな、学生時代、母さんにぞっこんだったんだ。娘に向かって、権藤はそう言った。
 信じらんない。と節子は心底驚いた様子で言った。
「お母さんて、悪趣味」
 あまりの言葉に父親は絶句し、桜井は破顔した。
「君なら、どちらを選ぶ? 若い頃のお父さんと、私と」
「もちろん、おじさまーッ」
「――だそうだ」
「こらッ、腕を組むな。寄りかかったりするんじゃない!」
「節子ちゃんは、お母さんに似ているね」
「よく言われます」
「本当に良かった。……お父さんに似なくて」
「私も胸を撫で下ろしています」
「それは俺もそう思っているが、貴様に言われると腹が立つな!」
「また喧嘩? 久しぶりに会ったときぐらい、仲良くしたら?」
 良恵が桜井の手土産の銘酒を燗にして、座卓に運んだ。
「いや、もう結構ですから。どうぞお構いなく」
「せっかくだ。ゆっくりしていけ。どうせもう、名古屋行きの便はないぞ」
 銚子を傾けながら、権藤は言った。
「今夜は泊まっていけ。用向きはあとでじっくり聞こうじゃないか。どうせロクでもない話なんだろうがな」

「うまい」
 猪口の酒を飲み干すと、深々と溜め息をついた。
「この手土産だけは、気が利いていると誉めておこう」
「どうせ日頃、ヒドい安酒しか飲んでおらんのだろう」
「私はスコッチ党だが、日本酒でも本物はいい」
「お前もやるか?」
 灘の銘酒に眼をキラキラさせている娘に向かって、銚子を向けた。
「ハイッ。いただきますッ」
「おいおい、まだ中学生だろう、この子は?」
「俺は小学生の頃から、呑んでいたよ」
 くーッ、んまいッ。もう一献、と言って猪口を差し出す。
「いやはや。娘さんも父親譲りの、大変な酒豪になりそうだね」
「女はお酒が強いほうがいいのよ」
「修ちゃんみたいな、紳士ばかりじゃないから。男は」
「酒を飲む資格は年齢じゃない」
「アルコールを正常に分解する肉体と、呑んでも呑まれない精神の二つだよ。この条件を満たしていれば、幾つで飲んだって構わんし、そうでないなら二十歳を過ぎたって飲むべきじゃない」
「これで教師だというのだから、呆れるよ」
 無論、飲酒を認めるのは、俺の前だけだ。そう権藤は付け加えた。
「当然だが、煙草など絶対に赦さん。成人しても、煙草だけは赦さんつもりだ」
「自分は吸うくせにか?」
「女は子どもを産まねばならんからな」
 子どもを産まぬ年齢になったら、好きにすればよい。権藤はそうも言った。
「よくそんな前近代的な男性主義で、教師が務まるものだ。社会科だろう、お前の専門は」
「時代がどう変わろうと、何が正しく、何が正しくないかは変わらんよ。俺はたとえ一人になろうと、俺が正しいと信じることを貫くまでだ」
「自分の意志で性別すら変えられる時代なんだ。『正しいこと』は変わるんだよ。お前の言っていることは、ただの独りよがりの強情に過ぎんよ」
「トランスジェンダーについて、貴様に講釈してもらう必要はない」
「ほらもう、また喧嘩する」
 呆れた口調で、良恵が割って入った。
「男のひとって、どうしてこうなのかしら」

 すまないね。バツが悪そうに、桜井は詫びた。こいつといると、どうもムキになっていけない。
「煙草を吸わせてもらって、いいかな?」
 内ポケットから、シガレットケースを取り出して訊いた。
「じゃあ私、灰皿とってきますね」
 権藤が頷くと、節子は居間を出ていった。
「お前は、やらんのか?」
 不審に思って桜井が尋ねた。権藤も現役を退いてからは、かなりのヘビースモーカーだったはずだ。
「願を掛けた。県大会を制し、全国に行くまでは、煙草はやめると誓った」
 もう三年目になるんですよ。良恵が言った。
「そりゃよかった。君のご主人は、一生煙草を吸わずに済む」
「ぬかしたな!」
「いい加減にしなさい! 二人とも。いい歳をして、子どもみたいに!」
「……はい」
 いい歳をした男ふたりは、母親に叱られた子どもみたいに、おとなしくなった。

  3

「名古屋へ行ったら、見学にお邪魔していいですか?」
 煙草の紫煙を燻らせる桜井に向かって、節子が問うた。
「君も、バスケを?」
「私はやりません。父に、シゴかれたくないので」
 確かに、やるとなったら、ほどほどでは済まないだろうね。君のお父さんは。桜井はそう言って笑った。
「貴様にだけは言われたくないな」
「娘さんは確か、まどかさんといったな。小中学を通じてクラブにも所属しなかった彼女が、高校デビューでいきなりインターハイMVPだ。まったくどんなスパルタ教育を叩き込んでいたのやら、想像を絶するよ」
「私以外の指導者に、任せたくはなかったのでね。言っておくが、NBA養成ギプスなるものは付けておらんぞ」
 女子バスケット界の星一徹。マスコミが面白半分にそう書き立てることを忌々しげに、節子の持ってきたクリスタルの灰皿に、煙草をねじりつけた。
「それはそうと、ならなぜ君は、うちのチームを見学に来たいんだね?」
「この子ったら、漫画を描いているんですよ」
 節子の先手を打って、良恵が答えた。
「女子バスケを題材にしたいんですって。スポーツ根性もの」
「ほお」
 バスケって、一番漫画に合ったスポーツだと思うんです。節子はそう力説した。
「ポジションはあっても、全員がシューターで、自陣と敵陣を目まぐるしく駆け回る。そんなスポーツ、ほかにないじゃないですか」
「確かに、バレーやテニスはコートをネットで区切られているし、同じ系統のサッカーは、攻守の分担が明確で、ディフェンダーがゴールを決めるというようなことは、あまりないからね」
 そうなんです! 桜井の的確なリアクションに、節子は声を高めた。
「それに、ほかのスポーツで、対戦中にライバル同士が言葉を交わすって、有り得ないですよね。野球にしても、バレー、テニス、サッカー、格闘技、漫画の題材にされるスポーツの、ほとんどすべて」
「でも、バスケだけが違うんです。息がかかりそうな至近距離で、互いの身体を密着させながら、『もっと本気でぶつかって来いよ』とか『ファウルが怖いのか』とか、そんな会話が無理なく成立するんですよ」
 トラッシュトークといって、本当は禁じられているんだがね。そう言って、桜井は苦笑いした。
「君も、まどかに興味があるのかい?」
 現役時代は全日本代表選手として活躍し、引退後は監督として、JBL(バスケットボール日本リーグ)日本一の王座を不動のものにした。その腕を買われ、この数年間優勝を逃してきた女子バスケの名門、桃花学園の監督に就任。見事に最初のインターハイを優勝で飾った男、桜井修造。その父の血を受け継ぐサラブレッド、桜井まどか。桃花学園一年。今回のインハイ優勝の伏兵でもあった彼女は、漫画の素材としては打ってつけだろう。
「いえ。まどかさんも素晴らしい選手だと思いますけど、それよりも私、ヤン・メイファ選手に、お会いしたいんです」

 揚美華(ヤンメイファ)。桃花学園一年。身長実に198センチ! アジアの大巨人と呼ばれ、中国女子バスケを背負って立つ逸材といわれた彼女が、日本遠征の折り、まだ監督就任が内定段階の桜井と接触し、日本への留学・桃花学園入りを決めたことをバスケ界で知らぬ者はいない。歯がみする中国バスケ首脳部を尻目に、まんまとヤンを鼻先からさらってみせた手腕は、桜井の政治家としての力量をも内外に見せつけたのである。
「ほう」
「君の好みは、なかなかに通だねえ」
「私、その漫画のヒロインを身体の大きなコにしようと思うんです」
 そう節子は理由(わけ)を説明した。
「大きくて、でも、根はとっても優しいコで、プレイはどっちかというと不器用で、けどゴール下では、途轍もなくパワフルな、そんな選手なんです。そんな彼女が、美形のセンス抜群の選手や、同じタイプのパワープレイヤーと戦いながら、成長していく。そんな物語なんです」
 なるほど。いいかもしれないね。桜井は言った。
「バスケ漫画は、そのジャンルの先駆けとなった作品を除けば、総じて主人公の身長は平均以下だ。そういう小さい選手が、平気でダンクをしたりするんだが……。ここらでまっとうに大型プレイヤーを主役に据えるのは、案外受けるかもしれないよ」
 桜井は漫画を読む男ではなかったはずだが。権藤は意外に思ったが、そのことを口にすれば「高校生の監督をやるんだ。そのぐらいのリサーチはするさ」とでも言い返して寄越すだろうと思い直した。この男の勉強ぶりには、常に驚かされてきたのだ。ヤンも日本の漫画好きだと、インタビュー記事を読んだ覚えがある。
「ホントですかあ!? 日本一の監督さんに、お墨付きいただいちゃった。こんな心強いことありません。友達に相談すると、みんなそんなのダメだって言うんです」
「だから私、身体の大きい女性が、どんな悩みがあるのか、自分をどう思っているのか、生い立ちはどうだったのか、想像だけではなくて、実際のところを知りたいんです。それで、ヤン選手に、お目にかかって、お話を伺えたらと思うんです」
「いつでも来るといい。ヤンにも取材に応じさせよう」
 ありがとうございます! 節子は立ち上がって、深々と頭を下げた。
 練習が終わったら、おいしいものでも食べにいこう。桜井はそこまで言った。
「うれしいッ。おじさま、だーい好き」
 節子は腕に手を絡ませて歓びを示した。
「もう、この子ったら。すっかり修ちゃんに夢中みたい」
「だって、素敵なんだもん。ロマンスグレーで、身体は引き締まってて、こんなひとがお父さんだったら、私、ファザコンになっちゃうかも」
「ファザコンどころか、父親を憎んでいるかもしれんぞ」
 権藤の表情は仏頂面だった。娘が桜井を気に入り、ベタベタすることが、相当に面白くないらしい。
「どうして?」
「本人に訊いてみろ」
「お父さんの、言うとおりだよ」
 権藤は意外げに、桜井に眼を向けた。そのいらえは、予想外だった。
「私が素敵な男性に見えるのは、どうやら適当に距離を置いて付き合っている間だけらしい。長く身近に私と接する者は皆、私を憎んで去ってゆく。妻も、下の娘も。まるで私を愛したことが、人生最大の過ちだったかのようにね。……いや、これは妙な話をしてしまったね」
「ともえちゃんは、まだ行方知れずなの?」
 良恵の問いに、桜井は黙って頷いた。離婚した妻は、すでに他界している。桜井は妻のもとにいた下の娘を引き取ろうとしたが、ともえは頑としてそれを拒んだ。結局、母方の祖父母のもとに引き取られることになったが、折り合いが悪く、飛び出していったきり、行方は杳として知れなかった。
「どこでどうしているのか……。あれは気丈な娘だ。生きているとは思うが、喘息持ちでね。それが気掛かりだよ」
「下の娘さんについては、俺からも耳に入れておきたいことがある。それはあとで話すとして……」
 権藤は娘に顔を向けた。
「節子、食事を奢らせるのは構わんが、間違ってもよそで、そんなふうに腕を組んだりするんじゃないぞ」
「なんでよー」
「なんでもだ」
「確かに、よしたほうがいいね。私はともかく、君まで変な目で見られかねないからね」
「いやな世の中ね」
 良恵が嘆息した。
「自分の娘ほどの年頃の女の子に、いやらしい欲情をもつ男も男だけど、腕を組んでいるだけで、そういう関係だと思う世間って、なんなのかしら」
「狂っとるんだよ、この国は。どこもかしこも、どいつもこいつもな」
「だからってシニカルに、そんな時代だと諦めてられるか。俺は俺の関わる子どもらだけでも、人間としてまっとうであるとはどういうことか、教えていくつもりだ」
「気にしないでください。父のいつもの口癖ですから」
 節子の言葉に、桜井は静かに微笑んだ。そして、何かを言いたげにチラと権藤を見たが、それには何も言わず、代わりに節子に向き直り、こう言った。
「まあいずれにせよ、わざわざ名古屋にまで来る必要は、ないかもしれないよ」
「?」
 桜井のその言葉の意味を、節子は解釈できなかった。権藤にも。だが、それが桜井の謎かけであることだけは、権藤には察しがついた。それは彼がここ天島に赴いたこと、そして、権藤宅を訪れたことと、おそらく無関係ではないのだ。

続く

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第1稿 2005.02.05