新版『才能ある子のドラマ』−真の自己を求めて− アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社


 この本は出版順から言うとアリス・ミラーの最初の著作になります。ですが、その後彼女はこの本に全面的に加筆し、改訂版として出版し直しました。わたしが入手したのはその改訂版です。加筆前のものを読めなかったのが残念です。

 旧版と新版の違いを、訳者である山下公子さんはこのように説明しています。旧版を出版した時点で、アリス・ミラーはまだ精神分析学者だった。その後、彼女はその方向性の違いから、精神分析から絶縁した。新版の改訂にあたって、彼女は当時の意識で用いていた精神分析の概念を全て捨て去った、と。

 さて、わたしはこの本に先立って、『魂の殺人』『禁じられた知』『沈黙の壁を打ち砕く』などの著作を読んでいました。そしてその時点での私のアリス・ミラーに対する理解を、この著作は全く覆してしまいました。

 それまでの著作で私が見てきた例というのは、幼児の虐待の経験によって麻薬中毒患者になったり、極悪非道の独裁者になったり、連続殺人者になったり、神経症になったりした患者さんの例が殆どでした。そこで、私はこう考えていました。幼児に酷い虐待を受けた人間は、その影響によって犯罪に走ったり、精神障害に悩まされたりする。虐待を受けなかった子どもはすくすくと良い子に育つ、と。

 ところが、『才能ある子のドラマ』で紹介されているのは、幼児のトラウマによって良い子、優等生に育った子どもの例であり、幼児のトラウマによって社会的地位や名声を手に入れた人々の話なのです。

 また、その幼児のトラウマについても、虐待と呼べる程酷い行いが無くても、子どもの心に傷を与えることがある例をたくさん紹介しています。

 結論から言うと、私の最初の解釈はそう見当外れのものではありませんでした。ただ、自分の子どもに優等生に育ってほしい、立派な社会人になってほしいという親の欲が私の目を眩ませたのです。また、偶発的な出来事によるトラウマは仕方が無いとして、親が自分の子どもに全くトラウマを与えない子育ては可能だという私の楽観主義が、解釈を甘くしていたという事です。


 『どのような人のなかにも、多かれ少なかれ、自分自身にもわからない隠れた小部屋があり、そのなかにその人の子ども時代のドラマの遺物がしまわれています。その小部屋に間違いなく足を踏み入れることになるのが、本人の子どもたちで、それ以外の人にはたいがいの場合、その小部屋は閉ざされています。』
(アリス・ミラー『才能ある子のドラマ』P40、41より)


 この一節の中に、この著作の基本的なスタンスが明確に表現されています。アリス・ミラーに対してある程度の予備知識を持っている人であれば、此処で言う「子ども時代のドラマの遺物」が、決して快いものでない事を理解できるでしょう。それは親達がかつて子ども時代に心に受けた傷であり、その痛みの生々しさ故に忘れてしまいたい、そして現に記憶の奥にしまい込んでしまった生傷の事です。

 親が望むと望まざるとに関わらず、子どもは親のトラウマの影響から免れません。例えば彼女は、幼い頃にアウシュビッツで自分の両親がガス室送りにされるところを見送らなければならなかった娘の例を、そして彼女が自分の子どもに対してこの辛い体験を隠し通したにも関わらず、その子どもの中に親の体験の再現と思われる行動が確認された例を報告しています。

 親のトラウマから自分の子どもを守る事ができないとすれば、親はどうすれば良いのでしょうか。子どもの感情を受け入れなさい、とアリス・ミラーは言います。子どもの中に生じる怒り、不満、嫉妬などの感情を堰き止める事無く受け入れる事で、子どもは自分のトラウマに耐えるすべを身に付けるのです。

 このような感情を禁じられた子ども達はどうなるのでしょう。幼い子どもにとって、親の愛情は必要不可欠なものです。その親の愛を繋ぎ止める為に、子どもはこのような感情を自ら封じ込めてしまいます。そのような子どもは、成長してからも自分自身の心の痛みについて鈍感であったりします。そして、当然の事ながら、自分の子どもの心の痛みについても鈍感です。

 親から嫌われそうな自分を封じ込めた後、子どもは両親の欲求に順応しようとします。親が自分に望んでいる姿だけを見せる態度を、自分の中で発達させていきます。特に繊細な子どもは、親の心を良く読み取り、時には親の協力者や保護者の役割さえ演じます。しかし、それはこの子の本当の姿ではありません。親に愛される為に作り出した「偽りの自己」なのです。

 ですから、良い子はいつも憂鬱です。親に受け入れられる事の無かった「真の自己」の痛みが常に心の奥で疼き続けています。表面上は明るい子でも内実は同じです。ただ、こういった良い子達は自分の痛みを感じる感覚を封じられていますので、自分の憂鬱の本質を理解する事ができません。

 これは私の補足です。少年犯罪や問題行動が起こる時、何故こんな優等生がとか、今まで何の問題も無かった普通の子なのになどといった驚きの声が聞かれます。要するにそれは、その子どもが良い子であり続ける事に疲れてしまったという事だろうと思います。 

 ですが、中には一生良い子を演じ続ける人も居る訳です。今回、アリス・ミラーが取り扱っているのは、そんな人々の問題です。

 話を戻します。そんな人々の最初の例として、アリス・ミラーは心理療法家を挙げます。幼い頃、親に愛される為に親の欲求に感応し、無意識の内に親の期待に応えてきた子ども達は、時に成長しても他人の無意識の欲求に敏感に反応する感覚を持ち続けます。そうして、かつて両親に対してしたと同様に、他人の無意識の世界をのぞき見る事に喜びを見出したりするのです。

 ですが、それは多くの場合、その心理療法家が自分自身の過去の心の傷に囚われている証しでもあります。彼等は患者と自分の関係の中でかつての自分と両親の関係を反復強迫的に繰り返し、そして往々にして、自分の幼年時代と両親の理想化の為に、患者の精神的外傷に更に抑圧を掛けたりさえします。

 次に、アリス・ミラーは「華々しい」人の例を挙げます。彼等は才能や地位などに恵まれ、人々の賞賛を浴びながら生きていきます。ですが、彼等が求める賞賛は子ども時代に満たされなかった欲望の代償行為なのです。子どもの頃、親から与えられたくて与えられなかった愛を、今世間の人々から受ける事によって自らの心の隙間を埋めようとしている訳です。

 ですが、本当に満たされたかった幼年期は既に過ぎてしまいました。今どれ程の賞賛を浴び続けようとも、本当に満たされる事を望んだ子どもは既に居ないのです。ですから、彼等は如何に賞賛を浴び続けようとも、真に満たされる事はありません。

 ですから、彼等の華々しさは抑圧の裏返しです。賞賛を受けている時の彼等が如何に自信に満ちて輝いていたとしても、一度その賞賛から離れると、忽ち不安と抑圧に苦しめられたりするのです。

 自分の子どもを愛せない母親達が居ます。彼女達はかつてありのままの自分である事を許されず、良い子であろうと努めてきた子ども達でした。ですから彼女達は自分と子どもの関係の中で、母と子ども時代の自分の関係を反復脅迫的に再現してしまうのです。彼女の子どもがかつて自分が許されていなかったような感情を自分にぶつけてきた時、彼女は困惑し、逆上し、何をどうしたら良いのか分からなくなってしまいます。そして結局、かつて自分がそうされたように、子どもをコントロールしようとします。子どもの中の痛みの感情を封殺してしまおうとするのです。

 子どもの頃に親から受けた蔑視がその後の行動にどのように反映されるかの問題は複雑です。親が子どもに対して無意識に与える軽視、蔑視の感覚は幼児に対する精神的虐待の本質と言っても良いものです。それ故、それは様々な行動と結び付けられています。詳しく知りたい方は原典に当たって下さい。

 最後に、「虐待的な扱いを受けた結果、優等生として子ども時代を過ごせ、しかもその後の人生も華々しいものになる可能性があるのなら、その方が良いじゃないか。」とお考えの方に、この本の中の次の一節を送りたいと思います。


 『ある女の患者さんはあるとき、まるで自分は今まで竹馬に乗って走っていたような気がすると言いました。竹馬に乗って走り続けている人は、自分の脚で走れる人のことを、うらやましく感じるようになりはしないものでしょうか。たしかに自分の脚で歩く人は背も低く、「あたり前」にしか見えませんが。そして、竹馬に乗り続けている人は、自分が竹馬なしでは歩くこともできなくなるように仕向けた人に対して、溜りに溜った憤りをかかえているのではないでしょうか。いつでも健康な人は嫉視されるものですが、それは、健康な人は讃歎してもらうために休む間もなく努力を続けたりせず、何とかして目立たなければともせず、落ち着いて自分のあるがままでいられるからです。』
(アリス・ミラー『才能ある子のドラマ』P62、63より)


 この本を読んで以来、私は自分の子どもに良い子に育ってほしいという願いを掛ける事を止めました。今は、幸せであってほしいと願うだけです。


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