『子ども時代の扉をひらく 七つの物語』 アリス・ミラー著 山下公子訳 新曜社刊


 アリス・ミラーの最新作ですが、今回の著作に関して、私の評価は微妙です。

 先ず、今回の作品が小説の形式を取っていることに関して。率直に申し上げれば、アリス・ミラーには余り小説家の才能があるとは思えません。余りに会話が説明的過ぎるし、対話の形式になっているものも一綴りの文章をぶつ切りにしたような印象で、余り感心しませんでした。

 第二に、原初療法に関する問題です。

 原初療法というのは、赤ん坊の出産時のストレスが後の人生の大きなトラウマを生むという考え方に立つものです。ですから、そのトラウマと向き合うことが、その人間を解放する大きな手がかりになる訳です。

 アリス・ミラーは、『魂の殺人』の頃、原初療法の熱烈な支持者でした。その後、原初療法に対して懐疑的になるのは、この療法の後継者の治療集団がカルト集団のようになり、詐欺事件にまで発展してしまったという経緯があるようです。この辺りの事情は、本書の五番目の物語の中でも詳しく扱われています。

 結局、アリス・ミラーは、本書で原初療法支持の立場に戻ったということです。スキャンダルな事件は二人の犯人の個人的な生育歴も問題で、原初療法自体の問題ではないという立場です。
 
 なぜアリス・ミラーはこれほどまでに原初療法にこだわるのか?

 思うに、彼女の理論は、子どもは何歳から自分に加えられた虐待を意識し、記憶しているのかという問題が生じるからだと思います。極論すれば、虐待という意識もなく、その虐待を記憶にとどめない時代には、子どもに対して気を使う必要も無く、好きなことができるということになります。

 アリス・ミラーは、言葉を覚えていない赤ん坊の時代でさえ、目も見えていない時代でさえ、いや、まだ胎児の時代でさえも、与えられた虐待の記憶は残り、その後の人生に大きな影響を与えると主張しているのです。その意味で、彼女は原初療法の理論を無視することができないでいるのです。

 彼女のこの基本姿勢を、私は支持します。にも拘わらず、私はアリス・ミラー本来の理論と、原初療法の理論の間に、融合し得ない違和感を感じるのです。

 アリス・ミラーの理論の魅力は、その人道主義的な内容もさることながら、行動主義的な明確さにあると、私はそう思います。ある人物が子ども時代に受けた虐待、それをしつけと呼ぼうが、教育と呼ぼうが構わないのですが、彼が受けた虐待的な行為と、後に彼が行う問題行動を並べてみただけでその理論の正しさが確認できる、その明確さにあります。

 人文科学が、例えば物理学や数学のような普遍性を持つことは不可能だと言われています。私は、アリス・ミラーの理論は、人類の歴史の中で初めて生み出された、普遍的な妥当性を持つ人文科学の体系であると、そう考えています。

 ところが、原初療法はそうではない。フロイト理論のような、あるいは、「甘やかされた子どもはキレやすい」といった俗説のような不明確さを感じるのです。信じている人間にとっては疑いの無い事実のように思えるが、信じていない人間にとっては馬鹿馬鹿しくてまともに聞く気にもなれない。そういう不確かさを、感じずにはいられないのです。

 胎児の時代からの体験が、後の人格形成に影響を与えるという発想を否定するつもりはありません。ですが、そのメカニズムが原初療法そのままになるかと聞かれると、私には疑問です。そして、アリス・ミラーには今の原初療法にあまり深入りしてもらいたくない。これが、私の率直な気持ちです。

 その一方で、この著作の中で、アリス・ミラーが従来の理論をまた一歩推し進めたなと感じられる部分もあります。それは、原初療法にまつわる治療集団のカルト化に関する考察で、カルト集団や独裁国家を支える大衆の精神性にまでメスを入れたということです。

 アリス・ミラーの虐待理論を非常に簡略化すると、二つのパターンに集約されると思います。一つは、長じて、かつて自分を虐待した親と自分を同一化していくプロセス、もう一つは、かつて虐待されていた子ども時代の自分と今の自分を同一化していくプロセス。

 例えば、ドメスティック・バイオレンスの場合、DVを行う夫は自分とかつての虐待的な親を同一化することで妻に暴力を振るい、妻はかつて虐待されていた子ども時代の自分と同一化することで、今日依存的に夫の暴力を受け入れていくことになります。

 断っておきますが、それぞれの人間が親グループと子どもグループに分かれる分けでありません。家庭内では虐待的父親であった夫が、会社では上司の命令に犬のように盲従する子どもであったりもする訳ですし、夫の前では無力な子どもであった妻が、自分の子どもの前では虐待的な暴君であったりもする訳です。

 アリス・ミラーは、このような二つの転移の形態を様々に描き出してきました。ですが、こと独裁政権に関しては、例えばヒトラーのような、虐待的な親の立場の分析はなされていましたが、かつての子どもの立場からそれを見るという作業は、私の知る限りではありませんでした。

 おそらくは、今回の著作で初めて、アリス・ミラーは独裁主義国家やカルト集団を支える側の人間の立場からの分析を試みたのです。

 詳しくはこの本を手にとって読んでいただければと思うのですが、一言でいうならば、それは集団的名共依存関係です。虐待的な独裁者(あるいは教祖)と、無力な子どものような国民(あるいは信者)が、ちょうどDVの夫と妻のように、お互いを支え合っている訳です。

 お互いの関係では親と子どもの関係であった独裁者(教祖)と国民(信者)は、外部の弱者に対してはそろって親の立場に立ちます。ちょうど、ヒットラーとドイツ国民の関係がかつての虐待的な親子関係の再現であったものが、ユダヤ人に対しては一丸となって虐待的な親の役を演じるようなものです。

 全ての人間が、このような共依存関係に陥るわけではありません。独裁政権下のドイツにおいても、例えばシンドラーのように、ヒットラーに批判的なドイツ人も大勢いました。

 このような共依存関係におちいりやすい人間と、陥りにくい人間が居る訳です。そして陥りやすい人間は、何度もこのような関係に巻き込まれていきます。例えば、かつての左翼学生運動の指導者が極右的な学者になったり、忠実な日本軍人が連合国に積極的に協力して日本攻撃の急先鋒になったり、麻原教祖の熱烈な信者が、法廷では教祖をおっさん呼ばわりして罵倒したりということも、当然起こりうることなのです。

 どのような人間がこのような共依存関係に陥りやすいのかは、明白でしょう。ですから、子どもは愛情一杯に育てなければいけないし、自尊感情をしっかり育ててやらなければならないのです。

 ところで山下公子先生、『望まれぬ鍵』と『呪われた知』の翻訳はどうなっているのでしょうか? 出版社に以前問い合わせたところでは、もうとっくに出版されているはずなのですが。心待ちしています。


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