『"It"(それ)と呼ばれた子』 デイヴ・ベルザー著 田栗美奈子訳


 この本については、以前からその存在は知っていました。ただ、題の付け方がいかにもトリイ・ヘイデンのぱくりという感じがして、なかなか手が伸びなかった。

 読んで驚きました。すさまじい内容です。まさに、「カリフォルニア州史上最悪の虐待」の記録です。この本を読んだ人間は、二度とホラー小説を読めなくなるでしょう。現実の虐待親のすさまじさを知れば、『ジェイソン』だの、『十三日の金曜日』だの、まるでちゃちでお話になりません。

 この本の中には、特筆すべき点が二つあります。一つは、これほどすさまじい客体を受けながら、彼が凶悪な犯罪者や、虐待の連鎖を繋ぐ虐待親にはならなかったということです。

 もし、不幸な家庭の中の奴隷のままの生活が続いていたなら、彼はどうなっていたか分かりません。彼の魂を救ったのは、彼の虐待が露見した後の、ソーシャル・ワーカーや、里親たちの愛情に他ならないでしょう。

 もう一つ、この物語の中では、体罰以上に残酷な、「心理的虐待」の恐ろしさが、綿密に描かれています。

 家庭の密室の中で、主人公、デイヴ・ベルザーは、性的虐待以外のあらゆる虐待を徹底的に仕掛けられます。長い苦難が続いたあと、ようやく保護され、虐待親から救い出された彼は、身体的暴行やネグレクト(保護の怠慢ないし拒否)からは救われます。

 だが、保護された後も、心理的虐待からは逃れられない。彼の母親は、機会ある毎に彼に呪いの言葉を浴びせかけ、幸せになりかけていた彼の精神をズタズタに引き裂きます。

 困ったことに、彼自身が母親に会いたがっている。母親の肉体的暴力から解放されただけでは足りず、母に愛されたいという強い欲望から逃れることができず、彼は何度も危険な獣に近付いていき、そしてまた、魂を食いちぎられてしまうのです。

 この作品の中で、彼は自分が母親の呪縛から逃れ、魂の平安を得たとしています。だが、私の見る限り、彼はまだ救われていません。

 彼が最初に結婚した女性は、彼の母親そっくりに彼を傷付けます。彼女の浪費癖を満足させるための彼の苦労を一切認めることなく、自分ばかりが悲劇のヒロインであるかのように主張し、やがて酒に溺れて生活を荒廃させていきます。彼女と主人公の夫婦生活の場面を読んでいると、主人公の求めていた問い、なぜ母親は自分を虐待するに至ったかの答えが、再現ドラマの形で展開されているような気がします。

 三部作のうち、二作までは、主人公とこの女性とが結婚生活を続けていた時に書かれました。その意味では、少なくとも彼はこの二作目を書き上げた時点で、まだ母親の虐待の呪縛から逃れ得ていなかったのです。

 三作目の時点で、彼は既に離婚しており、代わりに、すばらしい女性と出会って幸せな結婚生活を始めます。ただ、それは三部作の完結編が出る前の、ごく最近の事情です。その後、すばらしかったはずの彼女が結局は、前の女性と同じ欠点を持っていたということにならないという保証はどこにもありません。

 日本人の虐待に対する意識も随分と高まってきてはいますが、まだ、身体的な兆候が存在しなければ虐待とは認めないという面が強いです。真に恐ろしいのは心理的な虐待であると、私はそう思っています。

 この本は、虐待を受けた人間が救われるために辿る、様々な局面での困難が余すこと無く書かれています。そして、この本の中で書かれていることの全ては、これからの日本が虐待撲滅のために歩まなければならないことのほとんどが、提示されていると思えます。

 まだ読んでいない方は、今すぐ是非、読んでみてください。


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