月刊誌『正論』2002年3月に掲載された文章だそうです。最初、部分的に引用するつもりだったのですが、判断を読者に委ねる意味で、全文を紹介します。赤字で表示されている部分が、私の読んでいただきたい箇所です。


【許されない教育への政治勢力介入】




驚くべき東京都福祉審議会の答申
 「例えば、仮に、少年非行が凶悪化している場合であれば、それは権利を侵害された子どもたちの社会への抗議という声として聞くべきであって、なおさら子どもたちの権利保護を急がなくてはならないはずである」
 これは、東京都児童福祉審議会(福祉局所管)が平成10年7月30日、東京都に提出した「新たな子どもの権利保障の仕組みづくりについて」と題する答申(意見具申)の一部分である。答申は、わが国が平成6年「児童の権利に関する条約」(通称児童の権利条約)を批准したことを受けて、東京都福祉局に意見を求められた審議会(福田義也金城大学特任教授)が出した結果である。
 この答申の前書きにも書かれている通り、審議会は、東京都に「提言を真正面から受け止め、その施策化を着実に進めることを切望」している。つまり、この答申の精神に基づいて、東京都の政策、もっと具体的にいえば、いわゆる「子どもの権利条例」などを整備しろと言っている。
 この答申にはいくつかの問題がある。一番重大な問題は、子どもを権利の主体と捉える考え方が先行していることだ。子どもを権利行使の主体として位置付けることによって、いわゆる「意見表明権」など、子どもの権利がより鮮明になることを狙ってのことだろうが、余りにも作為的だ。
 昨今の子どもたちの目に余る行動を思い起こしてほしい。普通の子どもたちがコンビニエンス・ストアーの前に座り込み、喫煙は当たり前、飲酒さえ公然としている。そんな状況のなかで、「ちょっと待てよ。子どもたちに権利、権利を教えてきたが、その権利の教え方は間違っていなかったか。義務を伴わない権利はないと教えるべきではないか」と、権利を教える際に義務も教えるべきだと考える教師も増えている。
 答申では、「我々(委員)は、それぞれの立場において子どもの問題とかかわってきたが、その経験を通して、むしろ「権利を侵害された子どもたち」が、「問題を起こす傾向にある」と断言している。驚くべき独断だ。
 この審議会は、20名の委員と6名の臨時委員から成り、委員長は前述した福田義也氏。26名中、10名が大学の教師である。彼らはどうして「権利を侵害された子どもたちが問題を起こす」と断定できるのか。この答申は続いて、「少年非行が凶悪化しているのであれば、それは権利を侵害された社会への抗議」として「聞くべきだ」とまで言い切っている。
 「我々は、それぞれの立場において子供たちの問題とかかわってきた」というが、この先生方、大学で学生とどんなかかわり方をしてきたのか疑問を持つ。
 今、大学では、学生の学力の低下が問題になっている。大学入試のあり方にも原因があるだろうし、緊張感のない授業にも問題がある。
 ある私立大学の教授が、「10年前の学生と今の学生は天と地ほどの差がある。10年前の基準で選考したら9割は単位が取れない」と嘆いている。では、単位習得を難しくしたらと思うが、「そんなことをしたら学生がいなくなる。楽な方を選ぶから」という。
 また、関西の大学で講師をしているある先生は、「授業中にコーラを飲むなんて当たり前。そんなことは注意しない。僕は割り切ってやっていますから」と、もう投げやりだ。
この審議会委員の先生方の大学がそうであるとは言わないが、権利を侵害されたから凶悪犯になるなどという奇想天外な論理を、「経験上そうなんだ」と言われても納得は出来ない。毎年各地の成人式で幼稚園児以下の行為が繰り返されているが、こんな物分りの良いおとなが、礼義以前の常識を欠いた名ばかりの成人を、ひいては犯罪者を作り出していることに気が付かないのか。


「権利条約を読み替えろ」
 更に驚くべきことに、東京都青少年問題協議会(生活文化局所管)が、平成11年4月2日に同じような答申を出している。「子どもの権利保障」と題するこの答申には、「子どもの権利条約をいかす東京プログラム」とサブタイトルが付いている。この協議会の答申も前に紹介した福祉審議会の答申と大同小異である。
 児童の権利条約には、さまざまな擁護されるべき権利が規定されている。その31条をとらえて、答申は「児童には遊ぶ権利がある」と主張する。曰く、子どもには遊ぶ権利があり、大人は「子どもが遊びやすい環境を整える義務」があるそうだ。そんなに「堅苦しいものではない」とも言っているが、本当にそうだろうか。事例を見て驚いてしまう。遊ぶ権利について、具体的な例を挙げて示しているので、以下引用してみる。
 子どもがあそびから帰ってきた。
 親「良かったねー。元気で帰ってきて。さー。手が汚れているから手を洗ってきて」
 親「まー、汚い足をして、じゅうたんが汚れちゃうんだから」

 これは、どこの家庭でも一般に見られる光景である。
 このお母さんの言葉も日常良くある話だ。ところが、この発言は、「権利条約の趣旨からはずれている」と糾弾される。
 「何が……」と思う人が多いと思うが、この審議会での議論はそうではない。つまり、このお母さんは、子供の遊ぶ権利を侵害していることになってしまうのだ。つまり、前に述べたように、親は子どもが遊びやすい環境を整えることが、義務とされている。従って、子どもが遊びから帰ってきて、汚い足で玄関にあがることを咎めれば、この時点で「子どもの権利を侵害した」とされる。
 更に答申は、こんな権利条約を守れない親を見通ごす国は、「子どもの権利条約にいわれている子どもの権利が守られていない」とも言っている。国が子どもの権利に疎い母親を教育しろとでも言うのだろうか。
 息子「僕は、画家になりたい」
 親「バカなことを言うんじゃない。医学部に行きなさい」
 こんな会話も日本中の家庭にあるだろう。
これは、進学を前提としたものだが、東京の大学に行く、行かないということもある。家業を継ぐ、継がないとの議論もある。そんな議論はあちらこちらにあり、親子の葛藤がある。中には初心貫徹する場合もあるし、そうでない場合もある。どちらが良かったかなどというのは、人生の終末に各々が感じることだ。
 ところが、この答申は、こんなことにも目くじらをたてている。権利条約第24条には、「健康を享受する権利」が書かれている。「受験勉強で心身が弱る」ことを何とも思っていない親が多い。小学生の頃から塾通いで子どもは休むことも出来ない。ノイローゼになると言う。だから、「勉強をしろ」と言うのは、「健康を享受する権利」を侵害するらしい。さらに31条の「休息、余暇及び文化的生活に関する権利」も侵害することになるらしい。
 答申は、その後、日本において子供の権利がいかに侵害されているか、条約の条文を持ち出して解説を試みている。曰く、
 ○「児童の発達しつつある能力に適合する方法」で指導を与えると言う父母の責任を果たしていない。能力にあった指導をしていないということだ。
 ○「表現の自由」(第13条)を侵害している。
 ○「意見を表明する権利」(第31条)を侵害している。子どもの話を聞く時は「子どもが話しやすい環境を作れ」と指示している。
 ○「生命に対する固有の権利」を侵害している。ここで、答申は、「子どもは誰のためでもなく、親のためでもなく、自分自身のために、そのたった1度の人生を生きる権利がある」と解説をし、親が、「自分自身の極値観を押し付けたり」することはおかしいと言っている。

 つまり、この答申によれば、「医学部に行きなさい」といった日常どこにでもある、進路に関する親の発言ですら、権利条約の数条を「侵害」することになる。
 児童の権利条約の必要性は誰もが認める。世界では、人身売買の対象となったり、戦闘に駆り出されたり、売春を強制されたりする子どもたちが存在する。そうしたニュースを聞いて、心を痛めない人間はいまい。だから、国際条約として児童の権利を保全することは当然のことである。
 ただ、この条約に書かれている様々な権利保護を、ある特定の視点から意図的に解釈をすることは許されない。答申では、「権利条約を読み替えろ」と言っている。とんでもない話だ。審議会がいつからそんな権限を持ったのか。この答申をそのまま活かすとするなら、親は自らの体験に基づいた指導すらできなくなってしまう。
 この答申がどのような視点で、また、どのような審議過程を経て作成されたのかについてはい議事録が公表されていないので、つまびらかではないが、仮に、審議委員の選任が公平、公正に行われたという前提に立っても、「特殊な」議論が特定の委員によって主張されたことは間違いない。残りの委員は、その「特殊な」主張に対して敢えて意見は述べないと言う、極めて日本的な審議が展開されたのであろう。
 私も都議に当選して、各種の審議会、評議員会の委員を務めてきたが、人権とか平和といった議題には、ほとんどといって良いほど反論は出てこない。東京都の外郭団体である歴史文化財団の評議員会をしていたときに、墨田区にある「江戸東京博物館」の展示が政治的に偏向していると指摘したことがある。この博物館には平和をテーマにしたコーナーがある。昭和の歴史を紹介した年表の中で、文学に関して、『蟹工船』や『太陽のない街』といったプロレタリアート文学を紹介するだけで、当時、盛んにもてはやされた保田與重郎などの日本浪漫派の記載がない。このことを指摘した折に、いわゆる「自虐史観」の委員と議論になったが、他の委員は何も発言せず押し黙ったままであった。ところが会が終了した後、私の隣にいた某国立美術館の館長が「私も、土屋先生と同じ意見です」と言ってきた。審議会や委員会の審議の実態はそんなものだ。何人かの委員が先鋭的発言をすると、残りの委員は沈黙してしまう。このふたつの審議会が、そうだと断定は出来ないものの、通常の感覚からすれば、異論があってもおかしくはない。異論がなかったとするなら、この審議会、あらかじめ、特定の目的のために人選がなされたと考えるのが妥当である。


条例制定運動の本当の目的
 「児童の権利条約」は国連の世界人権宣言や人権に関する国際条約に基づき、児童の保護と援助を保障することを目的として制定された、内容的に完成された条約である。
 ところが、わが国においては、それが、「読み替え」のもとに捻じ曲げられ、特定の政治勢力の主張を正当化する手段として使われようとしている。
 相次ぐ児童虐待が、マスコミを通じて報道され、多くの国民は心を痛めている。また、アフガニスタンをはじめ、世界各地で、紛争が絶えない。それによって、多くの子どもたちの命が、軽んじられ、短い人生を終えている。誰もが子どもたちを救わなくてはならないと思うだろう。この誰もが、普通に思う気持ち、人間としての良心を、いわゆる「子どもの権利条例」制定を進める勢力は逆手に取る。
 先に紹介した、東京都の2つの審議会の答申にも、盛んに児童虐待が顔を出す。児童虐待を論じ、次に塾通いを批判し、不登校の問題を取り上げ、最後には子どもの意見表明権に至る。児童虐待に対処すべしという主張に反対する者はいないから、最後の意見表明権の行使が条約の規定を捻じ曲げたものと感じても反対はしづらい。つまり、ここで反対すると人権を尊重した条約そのものに反対しているような印象を受けるからだ。そこに、推進派のねらいがある。


埼玉県立所沢高校の事例
 所沢高校は、卒業式の開催をめぐって紛争が続いた高校であるが、所沢高校の生徒たちは、「児童の権利条約」の参画権を行使して、学校行事は自分たちが「主役」であるとし、自分たちの意見が学校長等の意見より尊重されるべきであると主張する。当然、学校式典における国旗掲揚と国歌斉唱を「強制」として、これを行わないことを「自由」としている。
 条約を逆手に取った典型的な闘争がここにある。彼らは児童の権利条約と憲法を根拠に次のような意見表明を行っている。
 【日の丸・君が代間題への意見表明文】所沢高校卒業準備委員会 1997年2月
 <子どもの権利条約>:日本は1994年5月批准(第14条)
 1 締約国は、子どもの思想、良心および宗教の自由への権利を尊重する。
 2 締約国は、親および適当な場合には法的保護者は、子どもが自己の権利を行使するにあたって、子どもの能力の発達と一致する方法で子どもに指示を与える権利および義務を尊重する。
   (略)
 日の丸掲揚、君が代斉唱の強制は、明らかに本条の1、2項に違反する。
 <日本国憲法>
 第19条[思想および良心の自由]思想および良心の自由は、これを侵してはならない。憲法によっても、日の丸掲揚、君が代斉唱の強制はできないことが定められている。例えば、卒業式などにおいて、「一同起立、国歌斉唱」と促すことは実質的に命令であり、私達の良心の自由をも侵したことになると考える。
 (略)学校という教育の場で、子どもをターゲットにして日の丸掲揚、君が代斉唱を強制する必要は全くない。そして、「子どもの権利条約」という国際条約を日本も批准しているにも関わらず、条約の精神に反した思想の押しつけを行うならば、国際社会での信頼を築くことはできないと考える。また、私達は、日の丸・君が代が戦前の日本の軍国主義の象徴であって、現在も日の丸・君が代に対し激しい嫌悪を感じる人々が、アジア人をはじめ多く存在することを知った。(略)
 私達は以上の理由によって、所沢高校の主役である所高生の立場から、卒業式を含む学校教育の場における日の丸掲揚、君が代斉唱の強制に反対し、意見の表明とする。

 所沢高校の生徒達の飛躍した論理こそ、条例推進派の運動の目的なのだ。所沢高校における紛争に、外部の教職員組合からの介入があったことが新聞で報じられているが、政治的意図を持った大人が、児童の権利なるものを曲解して学校に持ち込み、生徒を洗脳している。学校に政治を持ち込むことを正当化するために、児童の権利条約を利用しているのだ。
 所沢高校の生徒会代表者達が、卒業式の国旗・国歌問題について、学校長と話し合いをした時の模様が生徒会発行の通信「FREE」(1997年4月9日)」に掲載されている。その末尾に次のようなことが書かれていた。
 「今回の校長先生との話し合いで、校長先生は先生と生徒は違うとか、法律のもとで作られた学習指導要領で決められていることだから生徒が話し合うことではないと言われました。学校で生活しているのは生徒だよ?校長先生のこの生徒に対する態度、皆さんどう思いますか?」(下線筆者)
 学校長の言葉は当然である。学習指導要領の位置づけも正しい。それを態度が悪いと言わんばかりの傲慢さである。学校は教育機関であって、町の共同体ではない。仮に、推進派の解釈のもとに「条例」が制定されることになると、所沢高校での闘争が、全国に波及することになる。


子どもの意見表明から国旗拒否まで
 「国際化時代の人権入門」(日高六郎監修社団法人神奈川人権センター編集、発行)には、推進派の主張する子どもの権利が分かりやすくまとめられている。この本では、「日本の子どもたちがおかれている状況」は、「危機的なものがある」と言っている。「子どもたちには最善なものが与えられなければならない」と言うこの本は、子どもたちの失敗や、試行錯誤に「暖かい励ましが大切」であるが、それが許されていないとも言う。では、許されていない状況とはどんなものかといえぱ、「高校紛争が力で押さえつけられ」「管理教育が横行」して、学校は息が詰まる雰囲気だと解説をしている。そして、高校紛争などは、「追いつめられた子どもたちによる現状に対する強烈な"Non"の意見表明」と結んでいる。
 「Non」とフランス語を使うなど、まるで、大学紛争当時の暴力学生を正当化するような論評だ。子どもたちが置かれている状況が危機的なものであることに異論はないが、その分析が、高校紛争が力で押さえつけられたり、管理教育の結果とは理解出来ない。ここで言う高校紛争とは、例の所沢高校などの紛争を指すのであろうが、現在、所沢高校は正常化の道を歩んでいる。入学式や、卒業式に国旗、国歌反対を叫んだ「あの頃」とは別の学校のように静寂を取り戻しているといわれる。生徒の権利を振りかざし、校長をつるしあげる状況こそ異常以外の何物でもない。正常化した学校のどこが、子どもたちの権利を抑圧していると言うのか。
 推進派のある教員は、学校教育に「旧態依然と戦時中の軍隊の考え方が引き継がれている」と言い、その事例として運動会などの行進を挙げている。また、ある支援団本役員は、子どもたちが「学習指導要領に悲鳴をあげている」と言っている。本当だろうか。運動会の行進が軍国主義に通じるとどれだけの人が思っているか。それよりも、中学生などの運動会で、だらしのない行進のさまを見て、「少しは行進の指導くらいしっかりしろ」と感じているのは、私だけではあるまい。そして、学習指導要領を否定している組合の主張を、あたかも指導要領によって子どもたちが抑圧されているかのように表現するという姑息な手段を使っている。
 この本では、子どもの権利として、精神的自由の権利を挙げ、「学校での日の丸、君が代の強制は出来ない」と言い切っている。加えて、「学校行事や集会での集団的儀礼」は、「人権侵害の恐れがある」とまで言うのである。


教育の現場で
 いまさら教育現場がどんなに荒廃しているかを述べる必要もないが、「子どもの権利」関係の条例が制定されずとも、児童生徒問に誤った権利意識が蔓延して久しい。今や「子どもの人権」「子どもの権利」は巨大な力となって学校現場に君臨している。教師達は職員室で「なんでこんなに生徒をチヤホヤしなきゃならないの?」などと冗談を言っている。誤った人権感覚が学校現場に混乱をもたらしている。
 例をあげてみよう。生徒がベルトを鞭のように使って壁を打っていた。その傍を通りかかった教師が驚いて注意した。すると生徒は「うるせー。おれの気持も知らずにいきなり怒りやがって。おめえ、それでも教師か」と、その教師を怒鳴りつけた。教師が驚いてその態度について注意すると、「おれのこと知ってるのかよ。分かりもしないのに、くどくど言いやがって。10年はえー(早い)。殴られてーのか」と脅した。教師がさらに注意すると、その生徒は大声で「うるせー」「死ね」「馬鹿野郎」「しつけえんだよ」と怒鳴りながら、なおもベルトで壁を鞭打ち、足でも壁を蹴り続けた。騒ぎを聞きつけて別の教師が来ると、生徒はその教師に「こいつ、俺のこと注意しやがった。俺の気持分かってねえーのに」と言いつけた。
 この生徒の「おれの気持も知らずにいきなり怒りやがって」という言い分は、明らかに人権意識がベースになっている。生徒が粗暴な振る舞いをしても、その心の背景にある状況を理解し生徒の気持を受け入れる教師が、人権を配慮する良き教師となるわけだから、この教師は黙っているしかない。
 「おめぇ」「てめぇ」「こいつ」呼ばわりされるのは、今や新米教師だけではない。校長や教頭も生徒に胸ぐらを捕まれ、「おめぇ」とどやされる。土下座させられそうになった校長もいる。人権が教師と生徒の関係を、「対等」という美名のもとに溶解させてしまったのだ。だから、教師の指導が生徒に通らなくなってしまった。「川崎子どもの権利に関する条例」によると、子どもは「大人のパートナー」なのだそうだ。すでに教師が指導力を失っているところへ、「パートナー」としての地位が与えられ、学校現場はますます秩序を失う。
 「子どもの権利」「子どもの人権」は、教師と児童生徒の日常に行き渡っている。1966年度(兵庫)と1967年度(群馬)の日教組教育研究全国集会で報告された内容のまとめがインターネットのHPに掲載されている。そこに教師の精神に、曲解された権利条約がどのように影響しているかが書かれていて興味をひく。
 (事例1)
 ある小学校ではシャープペンの使用が禁止になっているそうだ。シャープペンは芯が折れたり詰まったりして、授業中、子どもが集中しないことがあるからと言うのがその理由だ。極めて、合理的な理由で非難されることはない。児童のなかに「シャープペンを使いたい」と言うものがいた。当然、教師は「だめ」と指導をした。そこでは相手は現代っ子だから、多少のやり取りがあった。しかし、最終的に教師はシャープペンの使用を許さなかった。単にそれだけの話だが、この教師は、「子どもの権利条約」第5条に従って禁止したとわざわざことわっている。
 第5条にはこう書かれている。「父母若しくは場合により地方の慣習により定められている大家族若しくは共同体の構成員、法定保護者又は児童について法的に責任を有する他の者がその児童の発達しつつある能力に適合する方法で適当な指示及び指導を与える責任、権利及び義務を尊重する」

 この教師は、自分が指導したシャープペンの禁止について、この条文を持ち出して「人権」に対し言い訳をしている。指導に自信がないのか、私は人権主義者と主張したいのか知らないが、これからはこのような条文を持ち出さないと、学校で指導が出来なくなってしまうのであろうか。
 (事例2)
 登校時に制服を着るのはいやだ、体操服でもいいではないか、あそこの学校は自由服だ、何故、制服を着なくてはだめなんだと生徒が言った。この教師は、職員間でそれが話題になったら言ってあげようと話を打ち切っている。この教師の反省は次のとおり。
 「登校時来るのに体操服であってはならないことになんの意味もない。ただ、集団のきまりだからということで押しつけられることはまさに管理教育。その後彼は体操服できている。制服問題に関しても子どもの言うとおりである。制服自由化が進む中で保護者の意向だけで決めていくのは方法として子どもの権利条約の精神とは異なる。」(下線筆者)

 こんな議論が公然と職員室のなかで行われていることに愕然とする。体操着は体操をする時に機能的な動きが出来るように作られているもので、あくまでも運動着であって、通学する時に着るものでは本来ない。この教師、規則の意味をこうした機会に教えるべきであるし、服装のTPOも教えなくてはならない。その義務を放棄して制服は押し付けで、管理教育の現われだとするのは、責任の放棄であり、無責任極まりない話だ。こんな生徒迎合、責任放棄があるから、人間としての常識をわきまえない、未成熟な人間が育成されることになる。


児童の権利条約の精神に立ち返れ
 児童の権利条約は、世界の子どもたちの人権を守るために、各国にその対策を義務付けることを目的としている。ユニセフは条約採択当時、この条約の趣旨を「世界では、今も1日に4万人の子どもたちが、下痢やはしかなど簡単に防ぐことのできる病気が原因で死んでいます。そして、その殆どが発展途上国の子どもたちです。また、先進国でも、いろいろな差別、親による虐待、麻薬、性的な搾取など、子どもの権利の侵害状況は深刻です」と述べ、この条約は「子どもたちの権利を保障する」ためのものとしている。
 また、この条約の前文にも、「極めて困難な状況の下で生活している児童」のために、「特別の配慮が必要であることを認め」、「特に発展途上国における児童の生活状況を改善するため」にこの条約が作られたと書かれている。
 このことからも明らかなように、「児童の権利条約」は、主に発展途上国における極めて悲惨な状況を克服するために制定されたものである。もちろん、先進国においても社会構造の歪みから人権が侵害されている、保護すべき児童についてこれを救済する意味もあり、そうした観点から評価すべき条約である。
 ところが、この条約に最初にとびついたのが、日教組(日本教職員組合――旧社会党系)に事務局を置く「子どもの人権連」だ。教育を政治支配して来た団体は、あらゆることを政治的に考える。この他、全教(全日本教職員組合――共産党系)もその戦列にあった。ここから、この条約の解釈が不当に捻じ曲げられることになった。
 国連での条約採択の約1カ月後に、この団体は、「子どもに大人と同様の主体的権利行使能力がある」と言う観点に立ったパンフレットを発行。この解釈のもとに、「児童では権利の主体としての子ども観が浮き彫りになっていない」と、「児童」を「子ども」に言い換え、子どもを前面に押し立てて政治活動が開始された。
 そのようななか、わが国の高校生が、制服は権利の侵害とばかりに国連児童の権利委員会(ジュネーブ)に訴えたことがあったが、「制服が着られるだけ幸せ」「スイスに来て意見が言えること自体恵まれている」とたしなめられた。あたりまえだ。多くの子どもたちが貧困で苦しんでいるにもかかわらず、遠い東洋から高い航空運賃を払って「一体何をしに来たの」というのが、飢餓に瀕している人たちの率直な感想だろう。
 戦後の長い間、平和、民主主義、人権は、共産主義、社会主義を信奉する団体の政治戦略に使われて来た。社会主義社会の建設を夢見る教職員団体が教育現場を支配してきたことにわが国の悲劇がある。


ならば公開討論を
 東京都でも、「子どもの権利条例」制定をすすめる動きがあるが、「意見表明権」などを中心に多くの異論があるため、条例制定に向けた作業は中断となっている。極めて常識的判断と言える。子どもを取り巻く社会環境は悪化していることは間違いがない。しかし、だからと言って、高校生に政治活動を許し、教科書の検定を批判させ、学校を解放区にしてしまう可能性を孕む条例制定に到底賛成は出来ない。
 権利条例は、本来の条約の趣旨に基づいた、「児童の権利条例」として制定されなければならない。推進派がバイブルのように言う「生徒人権手帳」(三一書房)には、生徒は団結し、教員や親と連帯して敵と戦おう。敵は大企業、支配階級だなどと言うアジテーションが連なっている。革命家を育成するつもりかと言いたい。笑い事ではなく、真剣にそんなことを考えている勢力が、権利条例制定をすすめようとしているのだ。この条約を本当の意味で子どもたちの権利擁護の条約とするためには、広範な議論が必要だ。そして、その過程で「児童の権利条約」の条文解釈をもう1度やり直す必要がある。
 石原都知事は、次世代を担う子ともたちに対して、親と大人が責任をもって正義感や倫理観、思いやりの心を育み、人が生きて行く上で当然の心得を伝えていく「心の東京革命」を提唱しており、私は都知事の考えに強い共感を覚える1人である。
 児童の権利条約を捻じ曲げたまま条例化をすすめようとしている人たちに提案したい。公開の場で討論をしようではないか。児童の権利条約の解釈から徹底的に討論しようではないか。


東京都議会議員  土屋 たかゆき


H10.4.20 産経新聞『アピール』欄
東京都議会議員 土屋たかゆき



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