リーダーの不在(4) −学級崩壊−


 今までの話の文脈で、学級崩壊の問題を考えてみます。

 具体的な話に入る前に、今までの教師の学級のリーダー作りのプロセスをもう一度復習しておいて下さい。


第1段階
 何かと反抗する真のリーダーを問題児と規定し、排除する。代わりに、教師の指示に素直に従う中間管理職的なリーダーを学級の中心に据える。
第2段階
 中間管理職的なリーダーを中心に、学級作りが進められていく。中間管理職的なリーダーは、教室の中での良い見本とされる。対して、真のリーダーが教師に対して示す反抗は問題視され、他の生徒の悪い見本とされる。
第3段階
 真のリーダーの行動に、本当に問題行動が出始めたりする事もある。
第4段階
 次第に一般の生徒も真のリーダーを軽視し始め、中間管理職的なリーダーを中心にクラスが纏まり始める。


 さて、NHKが学級崩壊の問題を初めて取り上げた時、名前などは失念しましたが、以前からこの問題に取り組んでいたある大学の先生が、学級崩壊の起こるまでのプロセスを次のように解説しています。


第1段階
 学級崩壊を起こす教師には共通する点がある。そのような教師は、それぞれの生徒の良い点を捜していくのではなく、一つか二つの評価の基準によって生徒に優劣を付ける傾向にある。例えば、「先生の指示をてきぱきと処理できる」、「子ども同士のグループ遊びが得意である。」など。
 この場合、先生の指示をテキパキとこなせて、グループ遊びが得意な子が優等生、先生の指示をなかなかうまくこなす事ができず、グループ遊びにもなかなか参加できない子は問題児となる。その他の子は普通の子。
第2段階
 この評価によって学級運営が為されていく。優等生がみんなの手本であり、問題児は学級の中で疎外されがちになる。
第3段階
 先ず、問題児と評価された子どもが授業をボイコットし始める。
第4段階
 問題児の行動に、他の生徒が従い始める。学級の崩壊。


 見比べてみて下さい。私が意識的に対応させて纏めたという所もあるのですが、両者は非常によく似たプロセスを辿っています。

 第4段階だけが違います。リーダー作りでは、一般の生徒は真のリーダーを見捨てて教師の側に付きます。それで、真のリーダーは孤立化してしまいます。

 一方の学級崩壊ですが、教師からそれなりに評価されている普通の生徒や、非常に高い評価を受けている優等生までが、問題児の味方に付いてしまいます。先生の味方をする生徒は一人も居ない。それで、学級全体の生徒が問題児的な行動を取り始めるという事になる訳です。

 学級崩壊について語られる時に良く聞く、従来の教育的手法が通用しなくなったというのはそういう事だと思います。本当は、問題児が孤立する予定だったのです。それが、結果として孤立したのは教師の方だった。一言で言うと、学級崩壊というのはそういう現象なのだと私は理解しています。

 今の子どもには従来の教育的手法は通用しないのだという、この認識は是非持ち続けて欲しいと思います。いや、もう一歩進めて、従来の教育的手法に頼っている教師は学級崩壊を起こすと考えた方が良いかもしれません。学級崩壊を起こしやすい教師は確かに存在するのです。

 学級崩壊の報道の中で気になっている事があります。それは、小学校の高学年で学級崩壊を起こした教師が、高学年の担任をやりたがらず、低学年の担任に回りたがるという話です。

 私は少し意地の悪過ぎる見方をしているかもしれません。学級崩壊を起こす教師が高学年を避けるというのは、自分の指導方針の根本的な問題を改善していこうという努力もせず、問題から逃げていこうとする態度の現れのように思えるのです。もっと意地の悪い見方をするならば、このような教師が高学年の担任をしているのは、学級崩壊が起きる迄は逆に低学年の担任を避けていたのではないかとも考えられます。以前ならば、高学年よりも低学年の担任の方が大変でしたから。

 私が気になっている事というのは、このような私の想像が正しい場合の事です。今まで低学年を避けていた、学級崩壊を起こしやすい教師がみんな低学年の担任を希望する事により、低学年での学級崩壊という現象が頻繁に起こり始めるのではないかという事です。私の思い過ごしであれば良いのですが。

 さて、教師の立場に立って考えるならば、学級崩壊は大変深刻な問題です。それでは子どもにとってはどうなのでしょう。

 子どもの側に立って考えるならば、学級崩壊とは外部からの介入者である教師を否定する事によって、子ども集団が自律的に動き始めた事を意味していると考えられます。その行動が些か幼いのは、これまでの学校教育の中に、集団の自律的行動力を養うシステムが欠けていたせいです。

 子ども集団が再生し始めているという実感を裏付ける経験を私はしています。それが全国的なものか、私の周りの極めて局地的な現象か、それは分かりません。ですが少なくとも、私の周りで学級崩壊を起こした集団の中では、そのような現象が起こりつつあります。それは、ガキ大将の復活です。

 ガキ大将と言っても、旧き良き日本映画の中に登場してくるような、子分を何人も従えているような強いリーダーではありません。ガキ大将一人に腰巾着一人のコンビが何組か生まれているという程度です。ジャイアンとスネ夫の組合せを想像してみて下さい。ガキ大将は腰巾着を馬鹿にしながらも結構世話を焼いてやったり他の友達からかばってやったりし、腰巾着はガキ大将の意見に言いなりで、ガキ大将以上に自分が評価される事を嫌がります。そんな2人組が何組か見られます。十年前には無かった事です。

 私はこのような関係が良いものとは思っていません。しかし、そのような関係が生じてくる方が寧ろ自然だろうと思っている訳です。そしてそのような自然な人間関係が生まれてくるという事は、子ども集団の自律性が回復されつつあるのではないかと、そう思っている訳です。もしそうならば、学級崩壊は寧ろ望ましい現象かもしれないと思います。勿論、自律的な子ども集団が維持されながら、授業も成立するというのが一番望ましい形なのですが。

 学級崩壊が解決するか否か、その鍵は教師の側の適応能力に掛かっていると言えるでしょう。従来の教育的手法を捨て、自律性を回復しつつある子ども集団とどのように関わっていくべきか、新しい教育的手法を模索していかなければなりません。

 今言ったガキ大将と腰巾着の関係を例に取ってみます。このような関係は、子どもの一人一人の権利を保障するという立場で考えるならば決して望ましい関係ではありません。だからと言って、手っ取り早くこの関係を解体してしまえというのではこれまでと同じ事です。

 それが子ども社会の中で自然に生まれてきたものであるならば、先ずその存在を認める事から出発する。その上で、例えば親分子分的な関係を、より成熟した民主的リーダーとその支持者といった関係に育てていくという方向で考えていかなければなりません。

 子ども集団に対する介入を一切するなという事ではありません。例えば、子ども集団の中でいじめが起こった場合は、その子どもを守らなければなりません。大の虫の為に小の虫を殺すといった発想は、学校教育の中で許されるものではありません。但し、これはあくまで特例的な措置です。

 せっかちな私は既に何度か結論を口にしてしまいました。教師の学級運営の都合で子ども集団を解体、再編成する構い過ぎ教育ではなく、子ども集団をありのままの姿で認め、その集団自体の成熟の手助けをしていく、そういった教育の為の手法を生み出せない限り、学級崩壊は無くならないだろうと、私は思うのです。


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