「過保護」について


 先ず、「過保護」という言葉の意味を辞書で引いてみます。対照的解釈の代表として、三省堂の新明解国語辞典の解釈と、講談社の日本語大辞典の解釈の二つを並べてみます。


(新明解国語辞典) 自分の子供だからというので必要以上に大事にして育てること。

(日本語大辞典) 子どもに対して必要以上に世話をやき、指図しようとする親の養育態度。また、その結果、独立心に欠け、依頼心の強くなった子どもの状態。


 新明解国語辞典は面白い辞典です。語義の客観性を捨てて、生きた言葉の姿を切り取ろうとします。「善処」を引くと、「政治家の用語としては、さし当たってなんの処置もしないこと」などと説明してあったりします。ユニークな辞書です。そういう辞書ですから、「過保護」の意味も、現在一般に使われている誤解に沿って解釈されています。

 新明解の解釈によれば、「過保護」とは子どもを大事にし過ぎる事、つまり、子どもに対して厳しさに欠ける子育ての事です。要するに、「甘やかし」=「過保護」という考え方です。

 ですが、「甘やかし」と「過保護」は本当に同じものなのでしょうか。私は違うと思います。

 例えば、親が何か大事な仕事をしているのを子どもが見つけて、自分もしてみたいと言ってきかない。そこで、よしよしそれならやって御覧とやらせてみる。「子どもを厳しく躾ける」派の人から見ると、これも立派な「甘やかし」です。子どもの要求に親が折れているのですから。

 ですが、これは「過保護」でしょうか。子どもが何かに主体的に挑戦しようとしている時にこれを支援する。これは「過保護」とは正反対の態度ではないでしょうか。

 「子どもを厳しく躾ける」派の人々の、「過保護」という言葉の乱用には目に余るものがあります。「甘やかし」=「過保護」というのは序の口です。「子どもの要求を受け入れる事」=「過保護」、最近では、「子どもの権利を認める事」=「過保護」という使い方もされています。一体、「過保護」とは何か。もう一度考え直す必要がありそうです。

 例えば、子どもが工作をしています。一部、非常に難しい箇所があります。「○○ちゃん、そこは難しいから、そこだけお母さんがやってあげましょうね。」と母親が手を貸す。これは立派な過保護です。子どもが自分でしようと頑張っているのに、助けを求められないうちから親が手助けしていたのでは過保護と言われても仕方がありません。つまり、子どもが将来的に体験するであろう失敗や困難に対して、親が子供を「保護」してしまう訳です。

 それでは、これはどうでしょう。子どもが工作をしています。一所懸命にしているのですが、難しくてなかなかうまくいきません。「何をぐずぐずしてるの、イライラする!貸しなさい!」と横から母親が取り上げてサッサとやってしまう。これは過保護と言えないでしょうか。

 私は、どちらも過保護だと思います。子どもが学習すべき失敗や困難を予め取り除いてしまったという意味では、前者も後者も同じ事です。その口調が優しいか、厳しいかの違いは事の本質と無関係です。「甘やかし」=「過保護」というのは間違いだと言ったもう一つの意味はそういう事です。「甘やかし」以外の、「厳しい躾」による「過保護」というのもあるのです。

 その点、日本語大辞典の解釈はバランスが取れています。この解釈には「甘やかし」による「過保護」も、「厳しい躾」による「過保護」も含まれて居ますし、逆に「過保護」ではない「甘やかし」は含まれていません。強いて言うならば、「過保護」な態度の主体は「親」に限定されるものではないと思います。また、「指図しようとする」は削った方が良いと思うのですが、その理由は次回に回します。

 という事で、一応日本語大辞典の語義の方を正当なものと考え、「過保護」の定義を「子どもに対して必要以上に世話をやこうとする養育態度。また、その結果、独立心に欠け、依頼心の強くなった子どもの状態。」としておきます。

 さて、辞書の意味から離れて、子どもが何かを学習する過程に沿って、「過保護」とはどのようなものか、もう少し考えてみたいと思います。

 学習のプロセスを、大雑把に3つに分けてみましょう。


 第一段階 学習する事柄に対して、経験も無いし、習熟もしていない。
 第二段階 学習する事柄に対して、経験は有るが、未だ習熟していない。
 第三段階 学習する事柄に対して、経験も有るし、既に習熟している。


 第一段階は、未だ学習は始まっていません。第三段階では既に学習は完了しています。つまり、学習というのはこの第二段階の状態を指す訳です。

 この第二段階の状態で、学習を指導する側の態度として二つのものが考えられます。一つは、未だ未熟な段階からどんどん自分一人の判断で行動させる。失敗を重ねながら試行錯誤して、学習していかせるやり方です。いわゆる、自律学習ですね。

 もう一つの態度は、学習者が未熟な間は指導者が手取り足取り教える。学習者が十分に習熟した時点で一人立ちさせるという考え方です。初心者特有の失敗や効率の悪さを指導者が補う形です。

 どちらの態度を取るかで第二段階の学習全体の状態が異なります。前者では、学習者は常に自律的に学習に取り組みます。後者では、大抵の失敗の種は指導者によって取り除かれ、常に指導者の保護の元に学習が行われます。 

 言うまでもないと思いますが、「過保護」とはこの後者の状態を言います。

 一つ例を出しましょう。私の子どもが保育園で自転車の乗り方を習ったのですが、その教え方がなかなか面白いやり方でした。もしかすると、今は何処でもそうして教えているのかもしれませんが、少なくとも私の子ども時代には無かった教え方です。

 園児の為に用意された自転車は、園児が跨って両足がしっかり地面に着く位の小振りの物です。補助輪は付いていません。園児たちは、それを両足で交互に地面を蹴るようにして乗り始めます。発明された当初の自転車の乗り方です。そうして乗りながら、慣れるにつれてペダルを一踏み、二踏みし始める。そうして、徐々に自転車に慣れていく訳です。

 私がこのやり方に感心したのは、このやり方で習った場合、補助輪を外された時のあの恐怖感を全く感じないで済む事です。補助輪付きの自転車に乗り慣れていて、ある日突然それを外された時の不安感を私は今も覚えています。中には、徐々に慣れる為に補助輪を少しずつ上げていくという人も居ましたが、倒れる危険性が生じるポイントを越える時点で、やはり似たような不安感を体験しているようです。

 自転車の補助輪は、「過保護」の象徴です。自転車に乗っている間中、補助輪は子どもが倒れて怪我をしないように保護しています。補助輪が付いている間は、子どもは自律的に自転車を乗りこなす事ができないのです。

 これは、「過保護」状態ですすめられた学習に共通するものです。即ち、自律・一人立ちの時点で強い不安感を感じる事です。「過保護」状態で学習した子どもは、学習内容に習熟した時点でもう一度、一人立ちの不安感と向き合わなければなりません。既に学習内容に習熟した後ですから、自分自身が自分に期待する到達度もハイレベルです。それだけに、不安感も大きいのです。

 自律的に学習を進められた者にも自律の不安は当然あります。ですが、未熟な時点での一人立ちのハードルはそんなに高くありません。ですから、本人が自分の一人立ちの不安を意識する事は殆ど無い筈です。ちょうど、補助輪無しの自転車で練習した園児たちのように。

 それでも、一人で自転車に乗る、位の不安感はなんとかみんな克服できるでしょう。困るのは、この不安感を克服できずに、その学習内容を自律的に用いる事を放棄してしまう場合です。残念ですが、そういう事は良くあります。 

 例えば、大学生の「五月病」。「過保護」状態で小・中・高と勉強してきた大学生が、突然自律的な学習を要求されて戸惑っている状態、と私は理解しています。この場合、多くの大学生が一部の科目を除いて全く勉強に取り組まないまま卒業していきます。一部の科目とは、必修の外国語など、大学でも「過保護」状態で世話を焼いてくれる科目の事です。

 社会人になっても、自分自身の責任で決断する事を極端に恐れる人が居ます。彼等は、自分が「過保護」に育てられたと言われた時、否定するかもしれません。私の両親は躾に厳しい人だったと。そしてそれは事実かもしれません。ですが、「厳しい躾」による「過保護」の存在を確認した今、彼等の反論は反論の意味を為しません。


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