大学教育について


 優等生シリーズの結びとして、大学での優等生について、考えてみます。

 まず、一般的な意味での優等生について。一言で言うならば、卒業の時点での「優」の数が多い生徒の事です。

 一般的な意味での優秀な大学生になる為には、根気と真面目さが必要です。出席を取らない授業も真面目に出席し、ノートを丁寧に取り、試験前には指定された教科書にも一応目を通し、ちゃんと試験勉強して臨む。どちらかというと、小学校高学年での優等生と同じ資質が要求されます。

 しかしまた、中学・高校での優等生の資質も、同時に要求されます。何しろ、大学の試験は殆ど全部論述試験です。与えられた設問に対する答えを考え、原稿用紙3〜4枚の解答をひねり出して答案用紙に書き込む。これだけの作業を時間内に出来る能力が必要です。俗説では、大学の先生は答案を読んでいない、ぱっと見て黒っぽい答案用紙から「優」を付けるとか、飛ばして余り飛ばないものから「優」を付けるなどという噂も有りますが、実際には殆どの先生がちゃんと読んでいます。

 という事は、大学での優等生というのは、小学校の高学年から中・高を通じてずっと優等生だったタイプという事になるのでしょうか。

 加うるに、大学での優等生には要領も必要です。同じ答案を書いても、点の甘い先生と辛い先生とでは結果が異なってきます。そこで、優等生達は自分の人脈を駆使して授業に関する情報を集めて回ります。あの先生は点が辛いと噂される先生の授業を、優等生は選択しません。

 大学の成績で一度「良」や「可」を取ってしまうと、もうそれで成績が決まってしまいます。この成績は成績証明書に記載されます。対して、「不可」、つまり不合格の成績は幾ら取っても記載されません。ですから、優等生は自信の無い授業、これは「優」が取れないという授業はわざと落とします。必修科目については、翌年もう一度履修して「優」が付けば、それが最初から取れた「優」か、何度も受け直しての「優」かの区別は成績証明書の何処にも記載されません。ですから優等生は、不安な科目はどんどん落としていきます。

 どう思いますか?大学の優等生というのは、こんなものです。善意で解釈すると真面目な努力家タイプと取れますが、悪意で見ると成績証明書の結果だけにこだわる功利主義者とも思えます。変に要領を駆使するところも不快です。

 そもそも大学教育というのは、高校までとは違う筈です。高校までの勉強にはきちんとしたカリキュラムがあって、その与えられたカリキュラムをちゃんとこなしていく子が優等生なのです。

 大学は違います。大学のカリキュラムなどというのは、あくまで便宜的なものです。大学での勉強内容というのは、あくまでも自分でテーマを見つけ、自分で勉強し、それを一本の卒業論文に纏めていくというのが本道です。その意味で、上のような生徒を優等生と呼ぶことには抵抗を感じます。

 何故上のような学生が評価されるのかと考えれば、それは「産学共同」的な発想に強く支配されているせいではないかと思います。奇妙な事に、企業は学歴として大学卒を求める癖に、大学の勉強を一所懸命にしている生徒は敬遠するのです。だったら最初から高卒の社員を雇えば良いのにと思うのですが、それでは企業の格が下がるとでも思っているのでしょう。

 純粋な意味で大学らしい勉強が出来るのは、文系であれば文学部、理系であれば理学部です。ですが、この両者は「虚学」と呼ばれ企業から敬遠されます。つまり、学問の為の学問であって、企業の役に立たないという訳です。対して、文系では経済学部や法学部、理系では工学部などが「実学」として好まれます。企業の役に立つ学問だからです。

 因みに、『学問のすすめ』の福沢諭吉先生も、『天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず』とは言っていますが、一方で学問をした人は人の上に立ち、学問をしない人は人の下に立つのだとも言っています。しかも、「虚学」はやっても余り役に立たないので、「実学」の勉強を大いにしなさいと奨めている訳です。福沢諭吉というと人間の平等を唱った人道主義者のように思われていますが、実は今日の学歴社会を生んだ張本人のような人なのです。

 最近では様子が変わってきたようですが、以前は文系で大学院などに残るともう就職がありませんでした。理系の工学部などは学部の知識だけでは企業で通用しないという事で修士卒の人間の方が就職に有利だそうですが、これも博士課程まで進むと就職しにくくなるそうです。学者は要らない、というのが企業の本音です。

 大学生が勉強しない、大学生の学力が落ちているなどと問題になっていますが、基本的に企業が望むのは大学に入学はしたが勉強はしない大学生です。下手に大学での勉強に入れ込んで「学者さん」になられては使いにくいのです。麻雀や合コンばかりしている位でちょうど良いのです。ですが、企業で要求する最低限の学力さえ持たない大学生が現れ始めた。それで企業サイドも慌て始めたという事です。

 ですから、大学生の学力と言っても、要求されるラインは可成り低いだろうと思います。きちんと敬語が話せないとか、誤字が多いとか、計算能力が劣るとか、読み書き算盤のレベルの学力が問題になっているのではないでしょうか。或いは、英会話の能力とか、一般常識の問題とか。要するに、高校までの習得内容を問題にしている訳で、これを大学教育の問題と捉えるとますます大学がおかしくなってしまうのではないかと思います。

 今、入りやすく出にくい大学の姿が模索されていますが、出にくいの意味が、出席重視の授業を増やすとか、大学生の私生活まで大学が管理するといった改革であれば大学教育が死んでしまいます。寧ろ、出席などしなくても論述試験でキチンとした答案の書けている生徒を通す方向で検討してもらいたいものです。因みに、大学の授業で仏と呼ばれるのは、出席さえキチンとしていれば答案の内容が酷くても通してくれる教師。逆に、出席していても答案の内容が酷ければ落とすという教師は鬼と呼ばれます。出席していなくても答案の内容が良ければ通してやるという教師も、結果としては鬼です。大学教育を厳しくする積もりが、楽勝の仏だらけの大学になってしまったという事が無いように祈ります。

 ところで、本当の意味での大学での優等生というのも居ます。そういう生徒について話してみましょう。

 例えば、大学受験の時点で自分の大学での研究分野がはっきり決まっている生徒。勿論、そんな生徒は少ないのですが、毎年一割程度は居ます。人気の学問は英語、歴史、心理学が文系の三巨頭で、教師になりたいから教育学という子がこれに続きます。どれも文学部系統、つまり虚学です。理系の場合、機械いじりが好きという事で工学部を志望する生徒が多いようです。あと、少女漫画で『動物のお医者さん』という人気漫画が連載されていた頃は獣医志望の子が結構居ました。

 こうして並べてみると、文系の実学を研究分野として考えている受験生は殆ど居ない事に気が付きます。その理由はいろいろあるのでしょうが、一つには、中・高を通じて文系実学の勉強をする機会が殆ど無いという事も一つの要因であると思います。

 文系実学に当たる分野は、中学校であれば公民ですね。高校であれば政治経済の分野ですが、これは大体倫理社会と一体になっています。実学系の法学・経済学・政治学などと虚学の最たるものである哲学・倫理学が一つに合わさっているという不思議なカリキュラムになっている訳です。どちらかと言えば、余り本気で教える気の無い分野を纏めて一つにしてしまったという感があります。

 大学入試の科目で倫社・政経を選択している受験生に会うととても困ります。受験できる選択肢が極端に狭くなるからです。ですから、大抵の受験生は日本史・世界史・地理の中から選択科目を選びます。大学側も、通り一遍の知識しか習っていない政治経済の問題は作りにくいという事情があるのかもしれません。

 色々な内容がごちゃ混ぜになっている。通り一遍の事しか習わず内容が分かりにくい。大抵、中三、高三で習うので、受験勉強に追われている時期で余り印象に残らない。大学受験の選択科目にすると極端に不利。様々な要因から、中高生にとって文系実学の勉強は馴染みが薄く、面白くないものになっています。これだけ色々な要因が並ぶと、文部省は中高生に文系実学の勉強をさせたくないのではないかとさえ思えてきます。

 そして、それが本音なのではないでしょうか。文部省が一番嫌がるのは、恐らく中高生が学生運動に手を染める事だと思います。ですから、中高生の間は社会に目を開いてほしくないのでしょう。経済学を勉強すればマルクスの名前が出てきます。その意味で、経済学と哲学を同一視する感覚も分かります。法学は憲法九条の問題や人権の問題などが絡んできますし、政治学は日本の政治に対する批判の根拠を与えかねません。

 こうして、大学教育は、文系実学を嫌って虚学中心の小・中・高の教育と、虚学を嫌って実学中心の企業のニーズとの間で思い切りねじれているのです。大学教育の正常化の為には、まずこのねじれの問題を何とかしなければならないのではないでしょうか。

 まず、高校については、文系実学(及び哲学)についてもう少し時間を掛け、ある程度の深さを持った内容を教えるべきでしょう。

 経済学に進む生徒が毎年経験している悲劇があります。そもそも、文系を選択する男子生徒の場合、数学や物理・化学などの理系科目が苦手だからという消極的な理由による場合が多いのです。そして、文系の中でも文学部は就職に不利だし、社会学部は一般企業に潰しが利かない。経・商・法のどれかと考えて、一番企業に喜ばれそうな経済学部を選択します。

 ところが、経済学は数学と密接に関わり合っているのです。数学から逃げたいが為に文系を選択して、結局数学が不可欠の学部を選んでしまう。商学部に進んだ生徒も同じ事です。法学部も多少数式が必要になるようです。高校を出てこれで数学と縁が切れると思っていたのが、高校の数学よりも分かりにくい数式を学ばなければならない羽目になる。実学系の大学生の勉強嫌いは、一つにはこういう事によるのではないかと思います。大学受験前に多少とも予備知識があったなら、このような悲劇は避けられた筈ですのに。

 一方で、企業の方も大学教育に対する考え方を改めるべきでしょう。口では社員の独創性を唱いながら、そういった人材を使いこなせず敬遠する。一方で高学歴を望みながら学者は要らないという奇妙な精神構造は、結局日本の企業体質の幼稚さを露呈しているものであると思われます。学者が使いづらいのならば採用の条件を高卒にすれば宜しい。かつてはそういう時代もあったのですから。大学卒の採用を望むのならば、それなりの意識を持った人間を受け入れる覚悟をするべきです。

 最後に、大学はもっと毅然として自らの職分を果たしていくべきではないでしょうか。大学の格は卒業生の就職した企業の格で決まる。だから企業のニーズを無視出来ない。その結果が今の大学を駄目にしているという気がします。一方で、社員の卒業大学によって企業の格が決まってくる一面もあるのです。大学関係者はその事を忘れているのではないでしょうか。

 例え、就職が決まっている生徒でも試験の出来が悪ければ落とす。好い加減な卒論を出す生徒も卒業させない。本当の意味での出にくい大学というのはそういう大学の事です。その結果、本当に優秀な学生だけが集まるようになれば、企業もその大学の生徒を取る為に方式を改めてくるでしょう。「青田買い」をすれば一流大学の生徒を取り逃がすという風潮を作らなければ、大学教育は軽んじられていくばかりです。

 本当の意味で大学の勉強を真面目にこなした生徒を評価するシステムを考えていくべきです。要領ばかりの「優」コレクターの中に、大学教育の意味さえも否定している者が多く居る事に早く気が付くべきでしょう。

 少子化の波の中で、多くの大学が生き残りを賭けて必死なのは分かります。ですが、その結果大学の存在意義までも危うくしてしまうような妥協はするべきでないと思います。結局、最後に生き残るのは最も大学らしい大学だった。そうなる事を祈るばかりです。


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