「公私の公」と「公私の私」


 「公私混同するな!」などと叱られる事がありますね。生徒が先生に、あるいは会社の部下が上司にこう叱られたりします。

 例えば、会社の電話で私用の長距離電話を掛ける。「公私混同するな!」ですね。あるいは、私用で会社を休んで仕事の段取りを狂わせたりすると、こう言われるかもしれません。

 学校ではどんな時に言われるでしょうかね。良く覚えていません。この言葉で随分叱られた印象だけは残っているのですがね。

 ところで、日本人はこの言葉の意味を誤解しているという話を以前聞いた事があります。公私の私は、英語のprivate(個人の)に対応し、対して公はpublic(公衆の)に対応する。

 「公私の公」も、「公私の私」も、本来その主体は国民なのだそうです。国民全体の利益、または権利を問題にするのが「公」、対して個人の利益や権利を問題にするのが「私」なのですね。

 それでは、私達日本人が「公」と考えている会社や学校は何かと考えますと、これは、「法人」ですね。組織の形を取っていますが、これも一企業、あるいは一校の学校と考えるならば、これは公私の「私」に当たります。

 そう考えていくと、日本人の「公私混同」という言葉の使い方は随分と変です。「私」同士の利害で、支配する側の「私」の利害を指して「公」、支配されている側の「私」の利害を指して「私」と言っているのですから。これは本来の意味での「公私混同」とは違います。

 以前、ルノアールでしたか、バブルのさなかに何億という金を積んでオークションで競り落とした社長が、「自分が死んだら、自分と一緒に焼いてしまえ。」などと寝ぼけた発言をしたそうです。こういうのが、本当の「公私混同」ですね。

 名画というのは、人類共有の財産です。個人がその名画を所有したというのは、いわばその名画の管理権を手に入れただけで、その名画自体を完全に自分のものにした訳ではないのです。寧ろ、名画を手にした者は、その名画の保全状態を保つ為に努力し、求めに応じてこれを一般に公開し、そして自分が所有している間にそれを傷付ける事無く、次の所有者に手渡すという重い義務を負うのです。その程度の事も分からない者は、名画を所有する値打ちがありません。

 実際、この国には「公私混同」している不届き者が可成り居るそうです。日本に流れ込んだ名画で、行方不明になったものが沢山あると聞いています。それらはもしかすると何処かで本当に焼かれてしまっているかもしれないし、たとえ年月を経て何時か再び世に出る事があっても、その時は酷く損傷しているかもしれません。長い年月を経た油絵の保管はとても難しいでしょうから。

 ところで、公務員の事を「国民の公僕」という事がありますね。つまり、公務員は国民の公共性の為に奉仕する僕である、という意味ですね。

 公立の先生も公務員です。それでは、公立の先生は誰に対して仕えているのでしょうか。先生の使命が生徒の「教育権の保証」である事を考えれば、仕える対象は生徒ではないでしょうか。

 そうすると、所沢高校の式典問題などは「公私混同」の最たるものです。学校経営という「私」的な問題を押し通す為に、生徒、つまり「公衆」の意見を黙殺しようとしているのですから。

 それでは、何故そんな誤解が生じたか。そんな誤解というのは、企業や学校の都合が「公」で、社員や生徒の都合が「私」であるといった誤解の事です。

 「公儀」という言葉は、「幕府」とか「朝廷」とかいったものを指す言葉です。そもそも、「公」という言葉自体が、本来「支配するもの」を指す意味に用いられていた訳です。そういう言葉を public の訳語に当てた。そこに一つの問題があったという事です。

 日本人の中で、「公私」の「公」と「公儀」の「公」が混同されている。そこで、「公私混同」という言葉が、「支配(管理)されている者が自分の都合で支配(管理)する者の指示に逆らう事」を「公私混同」とする誤用が始まったのでしょう。

 気を付けなければなりません。公私の「公」という言葉は、既に非常に日本的な言葉になってしまいました。他の国では通用しないような奇妙なニュアンスを含んだ言葉になってしまいました。日本人が勝手に作り上げた横文字表現を指して和製英語と言いますが、西洋から輸入した概念を日本風に歪曲してしまうのも、一種の和製英語なのかもしれません。


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