学級崩壊を巡って(3) 家庭の教育力が低下した


 前回に続いて、『日本人のしつけは衰退したか』講談社現代新書1448からの引用です。

 この本の筆者によれば、現代の家庭で、教育力が低下したなどとはとんでもない。今の家庭は、かつてない程に教育に対する意識が高まっている。ある意味で高まり過ぎている状態であるという事です。

 例えば、今の保護者はしつけを学校や塾、学習教室などに頼っている。自分自身で子どもをしつける自覚と自信に欠けているせいだという説があります。

 ですが、この本の筆者によりますと、保護者は決してこれらの教育機関を盲信している訳ではないのです。彼等は、子どもを通わせる前にそれらの教育機関に対して厳しいチェックを行っていますし、また、通わせている間もチェックは行われています。このチェックに落第すれば、塾や学習教室であれば余所の塾、学習教室に生徒を奪われるという事になりますし、学校であれば保護者が苦情を言いに押し掛けてくるという事になります。

 つまり、こういう事です。保護者はその教育的な意識を高め過ぎた結果、単に家庭内で子どもをしつけるだけの存在から突出し、子どもを巡る環境全体が子どもの成長に相応しいものか、チェックし、取捨選択を行う教育コーディネーターになっているという事です。学校や塾などにしつけを任せていると見えるのは、単に子どもをしつける許可を与えているに過ぎないのです。

 通りすがりの大人が、親切心で子どもに注意しても、今の親は礼も言わないで逆に怒り出したりする、と非難する声もあります。ですが、今の家庭教育の現状からすれば、保護者のチェックを受けずに突然子どもをしつけようとする大人は、単なる乱入者に過ぎないのです。その時子どもを叱った基準が家庭の方針と異なったりすれば、まさにそれは単なる迷惑に過ぎなくなるのです。

 さて、この辺りから原典を離れて私個人の意見です。新聞の投稿欄などに見る、しつけも出来ない親達の話の多くは、このしつけの方針の違いによるものが結構あるような気がします。最近よく人の口に上る、地域社会との関わりなども交えながら考えてみましょう。

 例えば、電車の中で子どもが走り回っているのに、注意もしない親。このような保護者は、一言で言って童心主義者です。つまり、子どもは子どもらしく、元気で遊び回っているのが一番だという考え方です。このような人にとって、あるべき地域の姿というのは、無邪気に遊ぶ子どもを暖かく見守る集団であるべきなのです。ところが、余り童心主義に重きを置いていない大人の目から見ると、この子育ては単なる甘やかしにしか見えません。

 例えば、深夜の塾通い。子どもを熱心に塾に通わせる保護者は学歴主義者です。このような保護者にとって地域社会とは、将来の為に頑張っている子どもを励ましながら、時にはサポートしてくれる存在であるべきです。ですが、学歴主義を重視しない大人から見れば、このような保護者は大事な子ども時代をつまらない事で浪費させている馬鹿な親としか見えません。

 そして、ろくに子どもの意見も聞かず、何でも自分の言いなりにさせようとする親。あるいは、つまらない事ですぐに叩いたりする親。こういう保護者は厳格主義者、つまり、子どもを厳しく育て、礼儀正しい子どもにしようとする人間です。このような人間にとって地域社会とは、一人一人の大人が威厳を持って子どもに接し、子どもの間違った行動があればビシビシ叱り合い、また、罰し合う存在でなければなりません。ですが、厳格主義を重視しない大人にとってこういうしつけは単に子どもを追い詰めているだけ、虐待しているだけとしか思えません。

 このように、家庭の教育力の低下を嘆く声の大部分は、単に子育てに対するスタンスの違いに過ぎない場合が多いのです。また、近所の子どもを叱ったり褒めたりする場合も、子育てのスタンスの違う子どもが相手であれば、迷惑がられるのは当然です。結局、知らない子どもに対して下手にしつけようとしないのが無難という事になる訳です。

 こんな話もあります。あるタクシーの運転手さんが子ども連れのお母さんを乗せた。車中で騒ぐ子どもに対してお母さんが、「ほら、そんなに騒ぐと、運転手さんに怒られますよ」とたしなめた。それに対してこの運転手さんが、「奥さん、私は怒りませんから、御自分で叱って下さい」と切り返したと言うのです。自分の子どもを叱るのに他人を引き合いに出さないと叱れない。これも、家庭の教育力の低下の例として語られた話です。

 ですが、こうも考えられます。このお母さんは地域の教育力の中で子どもを育てたかったのです。悪い事をすれば周りの大人がみんなでたしなめてくれる、そんな環境で子育てがしたかったのです。ですが、現実の社会の中ですでに地域の教育というのは成り立ちにくくなっています。ですから、このお母さんはバーチャル世界であるべき地域社会を作り上げ、その中で子どもをしつけようとしたのです。確かに運転手さんは引き合いに出されましたが、実際に子どもを叱っているのはお母さんですから、別に責任を回避している訳ではないのです。

 勿論、全ての保護者を無批判に擁護する事は出来ません。子どもを虐待死させる保護者、子どもの弁当代わりにスナック菓子を持たせる保護者、問題となる保護者は沢山居ます。そういった保護者の存在を計算に入れても、昨今の「家庭の教育力低下」論は可成り的外れの部分が多いように思えます。

 さて、現在の家庭の教育力が、下がったのではない、寧ろ極限にまで上がっているのだと考えるならば、学校という場所の変化の一つの要因も見えてきます。

 かつて、家庭の教育力が低かった時代、あるいは地域において、教育コーディネーターは担任教師一人でした。教師は子どもに対する方針を決定し、それを各家庭に周知徹底させ、場合によっては不適切な家庭の環境の改善を求めたりもしていたのです。

 ですが、今や各家庭の教育力は高まり、一つ一つの家庭が教育コーディネーターの機能を果たしています。40人学級であれば、40の司令塔が存在するという事です。そのような状況で、かつてと同じような学級運営が不可能な事は目に見えています。

 仮に担任教師が童心主義の方針を立てたとしましょう。学歴主義や厳格主義の保護者は、甘やかしだ、教師に威厳が無いと批判するでしょう。仮に担任教師が厳格主義の方針を立てたとしましょう。童心主義や学歴主義の保護者は、横暴な教師だ、管理主義的だと批判するに違いありません。そして、担任教師が学歴主義の方針を立てたならば、童心主義や厳格主義の保護者は、人間性軽視だ、偏差値教育だと騒ぎ始めるでしょう。何れにせよ、担任の教師の方針の元に保護者が心を一つにして団結するなどという事態はあり得ません。

 このような状況の中で、従来の感覚でクラス作りが出来ないのは寧ろ当然と言わねばなりません。新しい環境に対して教師はどのように適応していけば良いのか、その適応能力が問われる時代が来ているのです。

 原著の内容に戻ります。私は既に、童心主義、学歴主義、厳格主義という三つの概念を紹介しました。そして私は、それぞれの保護者を三つのタイプに分類する形で話を進めました。

 ですが、私がそうしたのは、あくまでも優先順位の問題と考えて下さい。この本の筆者によると、結局、教育に関心を持つ保護者は、この三つの価値基準を全て意識しているという事なのです。従って、子どもに対して要求される事柄も、この三つの価値観全てが要求される事になる訳です。

 今や、子どもは「パーフェクト・チルドレン」である事を要求される、気の毒な存在になっています。勉強が出来るだけでは駄目です。礼儀正しくなくては。勉強が出来て礼儀正しいだけでも駄目です。一旦遊び始めると、無邪気に遊びに没頭し、沢山の友達が作れなければ。

 こうした「パーフェクト・チルドレン」である事を要求され続けている子ども達が、精神的に追い詰められていくのは当然です。そんなに何もかもうまくいく子どもはそんなに居ませんから。みんな、どこかの基準で落ちこぼれているという事になります。

 母親もまた、「パーフェクト・チルドレン」を育てる事の出来る「パーフェクト・マザー」である事が要求されます。子どもがどれかの基準で落ちこぼれている場合、それは取りも直さずその子を育てた母親が駄目親であるという評価に繋がっていきます。追い詰められているのは子どもだけではないという事になります。

 そんな状況の中で、「家庭の教育力低下」論が如何に危険なものかお分かりでしょう。この論説に刺激された母親は、ますます「パーフェクト・マザー」の性格を強めて、教育コーディネーター的な役割を強化していきます。それは取りも直さず、学校の教師批判をエスカレートさせていく事になる筈ですし、追い詰められた教師は再び「家庭の教育力低下」論を……という悪循環に陥るだけです。

 結局、学校という場所が変わる以外に解決は無いのでしょう。どう変われば良いのかと聞かれれば、それは一口では言えませんが。


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