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運動会は誰の為 運動会というものは、学校に通っている間だけのものかと思っていましたが、大人になっても地区の町別運動会などというものがありまして、結構かり出されたりします。 驚くのは、町別運動会に予行演習が無い事です。もちろん、予め競技のどれに出場可能かなどという照会があったり、出欠の確認があったりと、事前の準備が全く無かった訳では無いのですが、予行演習というのは無い。いきなり当日集まって、式次第に沿って進行していくのです。それで結構、支障無く進行していくのです。 もし予行演習無しでこれ程円滑に競技が進んでいくとするならば、学生時代、あれ程やらされた予行演習という奴は一体何だったんでしょう。 要するに、運動会というのは生徒の為のものではないという事ですね。もし単に、生徒が日頃の技能を発揮して競い合うだけの行事であるとすれば、町別運動会同様、予行演習無しで実施できるのです。そこに予行演習が必要になってくるのは、別の事情があるからです。 つまり、運動会というのは、学校が、如何に自分達が上手に生徒を管理しているかを外に示す、デモンストレーションの場な訳ですね。だから、生徒の行進が整然と行われるとか、競技と競技の間の移動が速やかであるとか、団体演技が一糸乱れず行われているとか、そういう事に拘る訳です。そういう余計な事に神経を使う分、予行演習などという無駄な労力が必要になってくる訳です。 それでは、そんなデモンストレーションを誰に見せるのか。先ず、親です。ですが、本当に見せたい相手は、やはり貴賓席に居るのでしょう。団体演技が、保護者席にお尻を向けて貴賓席を正面にして行われる事を考えても分かります。教育委員会も含めた教育関係者や政治家、地方の顔役、日本の教育は、やはりそういう方面の人間の為に存在しているという感覚が強いですね。学校は生徒の為の場所ではない。 この点は、何れ問題にされると思います。完全週五日制の授業体制になれば、授業時間が足りなくなるという事態が当然、起こってきます。その只でさえ足りない授業時間を、運動会の予行演習に取られて、可成りの授業が不成立になっている、これは大変な無駄ですから。 団体演技は体育の授業時間内に完成させる。当日の進行は町別運動会形式で、予行演習無しで行う事を前提とした内容にする。それで十分だと思うのですが。 運動会に限らず、学校の行事というのには、余所行きの顔を取り繕ったものが多いですね。授業参観などもそうです。授業参観用の授業内容を予め準備して、破綻の無い所を見せようとする姿勢が強い。私は以前から、授業参観よりも休み時間参観を実施するべきだと主張していました。アラを隠した余所行きの顔しか見せて貰えないのであれば授業を参観する意味が無いと思うのです。子ども達のありのままの姿、学校のありのままの姿を知る為には、学校の教師の目の届かない所での様子を見るのが一番だと思っていましたから。 学級崩壊が社会問題になり始めて、授業参観は「クラスのありのままの姿を見せる」参観が広がり始めています。その傾向は歓迎するのですが、運動会に関しては、まだまだ旧態依然としたものが多いように思います。 私は小さい頃から鈍足で、ですから運動会は嫌いでした。運動会というのは詰まるところ、足の速い人間の為のお祭りですからね。その、鈍足の人間の立場から一言。 どんな場合でも、学校での「みんな一緒」主義は災いですが、運動会の「みんな一緒」主義も困りものです。走るのが得意な人間と、走るのが苦手な人間を並べて同じ事をさせるのは、決して平等ではないんです。「馬も四つ足、鹿も四つ足」などと言って、馬に鹿と同じように崖を駆け下らせるようなものです。ある生物学者によると、もし本当にこんな事を言ったとすると、源義経は可成りの愚か者という事になるそうです。同じ四つ足でも馬と鹿の骨格の構造は可成り違っていて、馬が鹿のように岩場を飛び回ったり、崖を駆け下りたりするのは殆ど不可能なのだそうです。 「足の速い遅いが問題ではなく、一生懸命頑張る事に意味があるのです。ビリでゴールした子にみんなが拍手を送ってやっている光景を見る時、私は何時も感動して涙が出てきます」それは、拍手する側は気持ちいいでしょうし、涙でも鼻水でも好きなだけ出してくれたら良いでしょう。ですが、毎年ビリになって、毎年拍手されている者の屈辱感も少しは考えて貰いたい。感動したいのなら、名作映画のビデオでも借りて、一人で見て感動していれば良いのです。あなたの感動に付き合わされる人間の身にもなって戴きたい。 ですから、私は運動会というものがずっと嫌いでした。ところが、大人になって、地区の町別運動会というものに参加してみると、これが結構楽しいのです。 何故かと言うと、要するに、悪しき「みんな一緒」主義が全く無いからです。かけっこには、足に自信がある人が入れ替わり立ち替わり出場します。私は、綱引きとか、玉入れとか、無難な種目だけ出場していますが、全く出場せずに応援専門の人も何人も居ます。それぞれが、自分の負担にならない立場で関わって、それぞれに楽しんでいる。こんな良い形の運動会の運営方法があるのに、何故学校でこれが出来ないのでしょうか。 勿論、運動の苦手な子にも運動させない訳にはいきません。ですが、それは日頃の体育の授業内で行えば良い事です。運動会はお祭りです。お祭りは、みんなが楽しめるものでなければなりません。その意味で、地区の町別運動会というのは可成り理想的な運動会に近いと私は思います。対して、学校の運動会にはまだまだ課題が山積みされているという気がします。 何故こんな事になるかというと、運動会は誰のものかという、根本のところで間違えているのだと思います。先ず、運動会は来賓のもの、次に、参観する保護者のもの、次に、監督する教師のもの、そして最後に生徒のものという優先順位ですね。これがそもそも間違いなのです。 地域の町別運動会というのは、先ず市民のものですから、自然に市民の楽しめるものになっていく訳です。楽しめないようならば参加しなければ良い。でも、参加者が殆ど居なくなってしまえば運動会自体が成り立ちませんから、少しでも多くの人が楽しめるように工夫していきます。自然に、運動会の形式も洗練されてくるという事になります。 昼のお弁当、最近の運動会では保護者と子どもと別々に食べさせる学校が増えています。親が見に来られない家庭の子どもが可哀想だからという配慮からだそうです。 これは一見平等のように思えますが、結局は例の悪しき「みんな一緒」主義に過ぎません。みんな同じ事をしていれば文句は無いだろうという訳です。 私は、それぞれの立場で食事を楽しめる形を考えるべきだと思います。家族と食べる者は家族と食べれば良いし、家族が来ていない者は友達と食べても良い。実際、私の子どもの頃は、親が来ていない子どもは友達のお父さんお母さんが呼んでくれて、一緒にご飯を食べたりしたものです。そんな輪にも入り損ねた子どもは、先生が呼んでくれました。マニュアル通りに「みんな一緒」の運動会よりも、よっぽど人間的な光景だと思います。 しかも、このような変化には、実はもう一つの事情があるようなのです。運動会は同時期の日曜日に集中します。あちこちの学校の運動会が同日に重なったりする。運動会当日に保護者の来られない子どもには、教師の子どもが多いという事になるのだそうです。 つまり、運動会当日に親子でお弁当を食べる事を禁止したのは、教師が、自分の子ども可哀想さに、親の参加できる子どもも保護者とお弁当を食べられない決まりにした、という側面があるようなのです。こうなると、職権濫用という気さえしてきます。 こうなると、いよいよ運動会の主役は子どもでも保護者でもない。教師の中の序列は、実は来賓、教師、保護者、子どもの順なのかもしれません。 子どもを主役として、給食を変える、トイレを変える、教室を変える、様々な努力が為されてきました。運動会も、そろそろ変わっても良いのではないでしょうか。 戻る 前へ 次へ 『言いたい放題』表紙へ |