永遠の子


 あの人は人間ができているという意味で、「あの人は大人だ」などという言い方をしますね。その逆に、軽蔑の意味を込めて「あいつは子どもだ」などと言う。

 でも、大人になるって、一体どういうことなんでしょうね。私にはどうも、もう一つよく分からないのです。

 小学校の五年生の頃、六年生の女子生徒で気になる人が居ました。同級生に好きな子が居たので、こちらの方は半分憧れの対象という感じでしょうか。

 廊下ですれ違うと、同級生の女の子よりも、この六年生の女子生徒はずっと大人びて見えました。彼女が親しげに話をしている、同じ六年生の女の子も男の子も、みんな、大人に見えた。

 でも、自分が六年生になってみると、六年生は大人でもなんでもないんですね。自分も子どものままだし、自分以外の同級生もみんな子どもでした。

 六年生の目から見ると、中学生はすごい大人。でも、自分が中学生になってみると、二年生になっても、三年生になっても、やはり子どもです。高校生は大人に見えましたが、高校生になってみると、やはり自分は子どものままでした。大学生は大人に見えましたが、やはり、なってみると子どものままです。

 まるで武蔵野の逃げ水のようです。自分の目の前にはいつも大人の世界が広がっている。でも、そこまで行ってみると何も無くて、やはり少し目の前に大人の世界が見える。そんなことの繰り返しでした。

 大学生になって、四回生になって、学内でも古株になった頃、30代の男女の飲み会に混じって酒を飲む機会がありました。20代前半の若造には、30代の女性は存在感がありすぎて、圧倒されました。そんな手ごわそうな女性に動ずることもなく平然として渡り合っている男たちにも、なにか敵わないものを感じて、小さくなっていました。

 同じことの繰り返しです。自分が30になってみると、同年代の男も女も、ただの子どもでした。

 一つだけ、今までと違ったことがありました。

 自分が30を越えた頃から、自分よりも年長の人間に、大人を感じなくなってきました。30の自分と同じように、40女も50男も子どもですし、もっと上の世代にも、やたらと子どもっぽい部分が目に付くようになってきたのです。

 もしかすると、人間の精神の成長というのは、30位までで止まってしまうのかもしれません。年を取ると子どもに還ると言いますが、もしかすると、30位を境に、少しずつ子どもに戻っていくのかもしれません。その兆候が顕著になってくるのが、お年寄りというだけで、実は精神年齢はもっと早くから衰え始めるのではないでしょうか。

 肉体的な能力のピークは25歳位だと言われます。記憶力や思考力も、これ位を境に衰えていきます。そう考えていくと、人間の成熟度がこれ位を境に衰えていくという考えも、強ち的外れではないと思います。

 その成熟のピークの時代、私は子どもだった。私だけでなく、私の周りの人間はみんな子どもだった。

 人間は、大人にはならないのだろうと、そう思ったりします。ただ、経験の乏しい子どもが、経験豊かな子どもになるだけで。子どもであることには少しの変わりも無い。

 年を取るということはどういうことなのだろうと、色々と考えてみました。「大人」は、「子ども」からどう変わっていくのか。単に経験の多少だけの問題なんだろうかと。

 例えば、子どもは30までどう変わっていくのか、30を過ぎると何が変わらなくなり、衰えていくのか。

 複雑さかな、と思いました。単純な子どもが、複雑な子どもになる。意地の悪い言い方をするならば、屈折した子どもになる。それを良い面から捉えれば人間が成熟していくということになるのでしょうが。

 様々な経験の中で、次第に精神が複雑になり、屈折していく。その頂点が30前後で、そこからだんだん人間が単純になっていくという感覚は、自分の生活感覚とも一致します。例えば、頑固になってくるとか、融通が利かなくなったくるとか。若い世代の人間のすることがやたら気に障るようになったくるとか。

 30代成熟説から離れて、年を取るにつれて変わっていくことも考えてみました。

 先ず、元気が無くなる。年を取るというのは、元気な子どもが疲れた子どもに変化していくということだと思います。年を取ると子どもに還ると言いますが、字義通りの子どもと子ども還りした子どもを比べてみると、子ども還りした子どもは明らかに疲れた感じがします。

 若い頃、私の部屋には色々な語学の参考書が並んでいました。英語・ドイツ語・フランス語・中国語・朝鮮語・ロシア語・古代ギリシャ語・ラテン語・サンスクリット語の入門書まで並んでいました。古文も語学と考えると、ざっと十種類の語学参考書が揃っていた計算になります。

 別に、語学が得意だった訳ではありません。むしろ、苦手と言ってよい。でも、いつかこういったものを、全部でなくてもどれか一つでもマスターするときがくるのではないかと淡い期待を持っていたのでする

 40を越えたころに、この中のドイツ語・フランス語・朝鮮語・ロシア語・サンスクリット語の参考書を処分しました。英語と古文の参考書は、仕事柄、必要になる可能性がありますし、古代ギリシャ語とラテン語は部分的な調べものに活用することもあるので取ってあります。ささやかな野望で中国語の参考書だけ残してありますが、これもいずれ捨てるときが来るでしょう。

 理由は、残りの寿命を考えたとき、もうこれをマスターする時間は残っていないだろうし、たとえ残っていたとしても、マスターしたものを活用できる機会はもう無いだろうと思ったことです。

 これも、年を取るということでしょう。過剰な期待かもしれませんが、十種類の語学の参考書を並べていた頃の自分はまだ、自分の可能性を信じていた。それがだんだん、「もう時間が無い」という感覚に、変わり始めています。

 自分の可能性を信じている子どもから、諦めを覚えた子どもに変わる。これも、年を取るということなのでしょう。

 最後に、死とお友達になれるというのも、年を取るということなのでしょう。

 若い頃は、いつか死ななければならないということが、非常に理不尽なことと思っていました。自分の死だけでなく、自分の大切な人間の死が、どうしても受け入れられなかった。

 ですが、年を取るにつれて、身内が死んでいき、友達が死んでいき、ご近所のだれそれが死んでいきという体験を重ねるにつれて、だんだん死が身近なものになってくる。

 死ぬのが怖くなくなったというわけではありません。やはり死ぬのは怖いし、大切な人間を失いたくはない。ただ、人間はいずれ死ぬということを、当たり前の事実として受け入れられるようになってきたということです。

 もう一つ、死とお友達になるというのは、自殺をしたり、ヒステリックに人の命を奪ったりというのとも違います。日常、当たり前の出来事として、死と共存しているという感覚ですね。毎日、ご飯を食べ、眠り、そのような日常の中に、死者を弔うという行為が普通に組み込まれてくるということです。

 そして、自分の死を意識するということ。生きるということが、悔いなく死ぬための形作りという感覚が少しずつ芽生えてきているのも確かです。

 まあ、大人になるということの意味を、強いて探すならばそういうことでしょうか。死を受け入れながら生きるという感覚、これだけは、子どもの頃の自分に無かったものですから。





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