声に出して文句を言いたい日本語(4)


『声に出して読みたい日本語』の中には、良い文もあるにはあるのです。ですが、あえて詰まらない選択にこだわって、紹介していきます。



   『ロミオとュリエット』   ウィリアム・シェイクスピア(坪内逍遥訳つぼうちしょうようやく


ュリ お、ロミオ、ロミオ! 何故なぜおまえはロミオゃ! 父御ててご

   をも、自身じしんをもしまや。それがいやならば、せめ

   てもわし恋人こいびとゃと誓言せいげんしてくだされ。すれば、わし最早もう

   ピューレットではない。

ロミオ (かたわらきて)もっと聞かきこうか? すぐものを言うか?

ュリ 名前なまえだけがわし敵ぢかたきじゃ。モンタギューでうても立派りっぱ

   おまえ。モンタギューが何ぢなんじゃ! でもあしでも、かいなでも、

   かおでもい、ひといたものではない。おなにほか

   名前なまえにしや。何ぢゃ? 薔薇ばらはなは、ほかんで

   も、おなうにがする。ロミオとても其通そのとおり、ロミ

   オでうてもも、其持前そのもちまえのいみじい、とうととく

   はのこう。……ロミオどの、おのがものでもない

   其代そのかわりに、わしをも、こころをもってくだされ。


(『声に出して読みたい日本語2』 斎藤孝編著 p216)




 前回までは、腹から声を出すことに対する、斎藤孝の意識を問題にしていましたが、今回は、日本語を声に出していうということにたいする意識をもんだいにしていきたいと思います。

 この文章を読んだ時、これは受け狙いの選考だなと思いましたが、解説の部分を読むと、この予想の半分は当たっていたようです。ですが、その一方で、「逍遥訳のシェークスピアには近代日本演劇を背負う気概が感じられる」などとも言っています。

 まあ、日本演劇史の中で坪内逍遥の存在が大きいことは認めます。ですがそれは、先駆者として無視できないということであって、今の日本演劇の現状の中で、今も坪内逍遥の存在が無視できないという意味ではありません。はっきり言って、戯曲を「声に出して読む」テキストとして考えている演劇人の中で、坪内逍遥を意識している人は先ず居ないでしょう。

「声に出して読む」テキストとして、つまり、上演台本としてのシェイクスピアとして、小田島雄志訳を無視して通ることはできません。シェイクスピアの翻訳は、坪内逍遥も含めて小田島以前と、小田島以降の二つにはっきり分けられると言っても過言ではありません。



   『ロミオとジュリエット』第二幕第二場より


ジュリエット  おお、ロミオ、ロミオ! どうしてあなたはロミオ?

  お父様と縁を切り、ロミオという名をおすてになって。

  それがだめなら、私を愛すると誓言して。

  そうすれば私もキャピュレットの名をすてます。

ロミオ (傍白)もっと聞いていようか、いま話しかけようか。

ジュリエット  私の敵といっても、それはあなたのお名前だけ、

  モンタギューの名をすてても、あなたはあなた。

  モンタギューってなに? 手でも足でもない!

  腕でも顔でもない、人間のからだのなかの

  どの部分でもない。だから別のお名前に。

  名前ってなに? 薔薇ばらと呼んでいる花を

  別の名前にしてみても美しい香りはそのまま。

  だからロミオというお名前をやめたところで

  あの非のうちどころないお姿は、呼び名はなくても

  そのままのはず。ロミオ、その名をおすてになって。

  あなたとかかわりのないその名をすてたかわりに、

  この私を受けとって。


(『シェイクスピア全集T』 白水社刊 ウィリアム・シェイクスピア著 小田島雄志訳 p83)




 小田島雄志は、シェークスピアの戯曲の上演台本としての側面に徹底的にこだわった英文学者です。

 例えば、シェークスピアの作品には、たくさんの駄洒落や言葉遊びが含まれています。これらは、従来の翻訳では無視されてきました。英語の駄洒落が日本語では駄洒落にならないという事情があったのですが、小田島さんは、あえて、原作の駄洒落や言葉遊びまで含めて翻訳しようとがんばって、とうとうシェークスピアの全作品をそのコンセプトで訳し上げたのです。

 時には思い切った意訳を試みながら、原作に笑いを意図した言い回しがあれば、そこは同じように笑いを期待する表現にした。シェークスピアの作品が戯曲であることを考えれば、ひたすら文章の意味、単語の意味を忠実に訳していく翻訳よりも、シェークスピアの翻訳としてふさわしいものになると、小田島氏は考えたのです。

 今日、シェークスピアが上演される場合、小田島訳のテキストが使われるのが普通です。上演される場合、これまでのどのテキストよりも、小田島訳が優れていたからです。

 声に出して読みたい日本語を標榜する斎藤孝が、なぜこの優れた小田島訳を無視してあの、ぎくしゃくした坪内逍遥訳の方を載せたのでしょうか。

 おそらく、単に好みの問題なのでしょう。斎藤孝は、文語調が好きなのです。単に、斎藤孝の趣味嗜好の問題であって、あのテキストが声に出して読むのに適しているわけでもなんでもありません。

 斎藤孝は、文章を黙読することと、音読することの違いをどこまで意識しているのでしょうか。あまり深く考えず、とりあえず自分の好みの文章、自分の聞きなれた文章を集めてみただけという好い加減さを、この本に感じるのは私だけなのでしょうか?

 たしか作家の田辺聖子だったと思いますが、原稿を書くと、必ず誰かに読んできかせて、その反応をみて原稿に手を入れるのだそうです。

 声に出して読むというのはどういうことか。先ず、音としての美しさです。音読して初めて生まれる、美しさがある。味わいがある。

 第二に、文章の呼吸、リズムです。句読点の打ち方がうまい作家は、つまり、声に出して読まれることを意識して句読点を配置しているのです。文章の長さの配置も、声に出して読まれる時の呼吸が大きな決定要素になります。

 一番重要なのは、文章としての意味の取りやすさです。耳から聞いてもきちんと意味の取れる文章は、黙読しても読みやすい文章です。学術論文の類いならばまだしも、文学作品として、耳で聞いてすっとその世界に入れる作品を目指すのは当然のことでしょう。

 現代人に、あの坪内逍遥訳を音読させる時点で、斎藤孝はそういう文学的な世界が理解できていないと言わざるを得ません。彼にとっての日本語というのは、あくまでも本に書かれているものを目で追う。そしてがんばって理解する。その上で、腹に力を入れて声に出して読むという、そういう作業に過ぎません。

 要するに、企業で毎朝社訓を復唱させる、ああいう感覚ですね。だから、堅苦しい重々しい文章の方が良いのです。分かりやすい=安っぽいとでも思っているのです。

 そういえば、声に出して読む事に拘った人物に、詩人の谷川俊太郎が居ますね。ノーベル文学賞を受賞した大江健三郎をして、私が詩を書かなかったのは、同時代に谷川俊太郎という天才が居たからだ、と言わしめた大詩人です。

 谷川俊太郎の詩の中には、言葉の意味を越えて日本語を音楽のようにして楽しむ詩が幾つもあります。じづらで読むと、単なる言葉遊びのようにしか読めない。ところが口に出して読んでみると、なんとも言えぬ味わいがある。谷川俊太郎は、福音館書店の月刊絵本『こどものとも』にもときどき文章を載せているので、私の子どもは随分とお世話になったものです。『声に出して読みたい日本語』よりも、『こどものとも』を読ませておいた方が日本語の力が付くかもしれません。

 谷川俊太郎だけではない、そもそも詩は口に乗せて味わうためのものです。その意味で、今日本で出版されている詩集は全て、声に出して読みたい日本語のテキストです。しかも、本当に声に出して読む価値のあるテキストです。

 もちろん、『声に出して読みたい日本語』にも詩は載せられています。でも、国語の教科書や副読本に載っている範囲のものしか載せられていない。斎藤孝が詩を読みふけって、珠玉の作品を探してまわったという雰囲気はありません。明治から昭和初期にかけての文学作品はよく読んでいるようですが、それも単に文語調の重々しさに憧れているだけのようにも思えます。

 ちなみに、シンガーソング・ライターと言われる人たちの詩も、声に出して読むことを前提にした歌詞を書いています。

 例えば、中島みゆき。『地上の星』の大ヒットでまたファン層を拡大したようですが、彼女には長い不遇の時代がありました。人気が無かった訳ではありませんが、彼女の歌は暗い、と言われていた。ユーミンの歌を聴いている人はおしゃれ、中島みゆきの歌を聞いている人は暗い、などと言われていました。

 そんな不遇の時代に、日本詩人協会は協会あげて中島みゆきを応援していました。彼女の書く歌詞は、詩として高い評価を受けていたのです。

 もちろん、ユーミンの書く歌詞が大したことないという訳ではないでしょう。ただ、中島みゆきが詩人の感覚で詩を書いていたのに対して、ユーミンはコピー・ライターの感覚で詩を書いていたということなのだと、私は思っています。

 最近の曲で言うと、浜崎あゆみの詩はなかなか良いですよね。私個人は、相川七瀬の詩が好きです。

 こうして考えていくと、声に出して読む日本語のセンス、今の若い人はすごいです。斎藤孝も、こういう詩にもっと接していけば、日本語のセンスが磨かれていくのではないかと思います。

 でも、難しいかもしれませんね。あの人は、永遠の受験生ですから。受験参考書で評価されているものしか、評価できないかもしれません。





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