呪われた教育(3)


 勉強嫌いの人は、とかく勉強というものを功利主義的に捉えがちです。勉強することが面白くもなければ、楽しくもない。ですから、やっておけば将来何かの役に立つと考えなければ、とても勉強などしていられないのです。

 例えば、「算数の計算は役に立つけれども、数学などは全然役に立たなかった」などと子どもに言うお母さんが、結構居ます。数学の教師で、そういう母親の子どもの、「先生、数学なんかやって、一体何の役に立つの?」という質問に悩まされた覚えが、何度もあるはずです。

 自分の子どもに対してこういう言葉を口にする母親に対して、三つ、言いたいことがあります。先ず、「数学なんて、何の役にも立たない」というイメージを持った子どもが、役に立たない勉強はしたくないと言って数学の成績が伸びなくなったからと言って、教える人間のせいにしないで下さいね。数学ができなくなる呪いの魔法を掛けたのは、あなた自身なんですから。

 第二に、数学は、将来の役に立たない学問ではありません。ただ、たまたまあなたが数学を使わない仕事(家庭の主婦という仕事)に就いただけなのです。世の中には、例えばノーベル賞を取った島津製作所の田中耕一さんのように、高等数学を使って仕事をしている人がたくさん居るのです。大手企業だけでなく、中小企業にまで。なぜ文系の学生よりも理系の学生が高く評価されるのかと言えば、それだけ、そういう能力を持った人材に対するニーズが高いということです。

 もし、世の中から数学というものが消えて、算数だけの知識しかない世の中になったらどうなるでしょう。自動車も、電車もバスも飛行機も、存在しません。国家的な規模で建築される一部の建物を除いて、庶民の家屋はせいぜい二階建て。高層ビルやマンションもありません。大量生産の製品は無くなりますし、電気ガスの安定供給も不可能になるでしょう。時代はおそらく、平安時代位にまで逆戻りするでしょう。まあ、物質文明を嫌って、日本固有の精神文化を求める人は、そういう暮らしに戻りたいと思っているでしょうが、私はごめんです。

 第三に、これが一番言いたいことですが、勉強の出来る人は、それが将来役に立つから一生懸命勉強しているのではありません。楽しいから、面白いから夢中になって勉強するのです。そしてこの点は特に強調しておきたいことですが、真面目に、勤勉に、一生懸命勉強している人は、遊び半分で勉強している人に絶対に勝てません。

 数学好きのAくんの例です。彼は、元々数学が得意なので、授業時間の中で教科の内容が理解できてしまいます。問題演習の時など、たいてい一番に済んでしまうので、他の子ができるまでの間に教科書の先の方を読み進んでいきます。つまり、授業中に次の授業の予習を済ませてしまいます。その時点で既に宿題が出されている場合には、宿題もその時間にしてしまいます。

 そんなAくんですから、家で数学の勉強をする必要は全くないのですが、家でもやはり数学の勉強をしています。家庭学習は苦手科目の社会や英語の勉強が中心ですが、苦手の科目の勉強ばかりでは疲れてしまうので、時々生き抜きに難しめの数学の問題を解いて、気分転換をするのです。時々、面白い問題に夢中になりすぎて社会や英語の勉強時間が少なくなってしまうことがありますが、数学の難問を解くことは、Aくんにとってそれほど楽しいことなのです。

 そんな人間が居るものかと思うかもしれませんが、意外に多いのです。嘘だと思うなら、書店に行ってみて下さい。パズルの本や雑誌がたくさん並んでいます。中身は、要するにおいしいとこ取りの数学の問題集です。お金を出してでも難しい数学の問題を解いて楽しみたいという人が、世の中にはたくさん居るのです。そして、数学は苦手だが死ぬ気でがんばるという人は、一生掛かっても、こういう遊び半分の数学好きには勝てないのです。「好きこそものの上手なれ」というのは、真実なのです。

「うちの子は、本を読まないで困ります」という相談を受けることがあります。何軒がそういうお宅を拝見して、私の中で、読書嫌いの子どもが育つ家庭の、一つのステロ・タイプが出来てしまいました。

 ポイントは二つ、保護者の方が教育熱心なこと、そして、本棚には、偉人の伝記と歴史物語が並んでいて、それ以外の本は、教科書くらいしか並んでいないこと。

 問題は、一生懸命に子どもを勉強させている保護者の方、大抵はお母さんが、本嫌いだということです。お子さんが本を読まないのは、お母さんの読書に対する感覚で読書の習慣付けを考えたために、結果として子どもを本を嫌いにさせてしまったのです。

 どこに問題があるか。このお母さんは、本を読むこと自体に、何の意味も見出せていないのです。一冊の本を夢中になって読む、そういう行為自体に何か意味があるとは思っていないのです。

 こういうお母さんにとって、読書の意味は、そこに書かれている内容から将来役に立つ情報を得ることです。

 ですから、伝記。そこから、将来に役に立つ人生の教訓を得ようとする。世の中で、他人の自慢話くらいつまらないものはないんですけれどもね。

 ですから、歴史物語。将来、社会の授業で歴史を勉強した時の助けにしようという訳です。こちらは、歴史に興味を持つ子どもも居ますから、まあ良いとしましょうか。

 問題は、役に立たない本を取り上げていることです。将来、役に立つ情報が書かれていない本、特におもしろおかしいだけで内容の無い本は、取り上げてしまいます。どんな読書家も、最初に読書の楽しさを知った本はそういう本ですのに。

 もちろん、最初から読書など見向きもしない子どもも居るでしょう。ですが、中には、本との運命的な出会いになるはずだった本を、「またこんなつまらない本を読んで」と取り上げられた子どもも中には居たはずです。そういう子どもの場合、お母さんが何もしなければ、本好きの子どもに育っていたかもしれません。

 読書というのは、本を読むこと自体に価値があるのです。内容から何かを得るというのは、二次的な価値です。したがって、良い本というのは、読んで面白い本のことです。特に、今、まさに読書の習慣を付けようという子どもにとって、ただ、読んで面白いというだけで、その本は最高の名著と言ってよいのです。

 私の子どもの頃、漫画ブームが起きた時、「漫画を読む楽しさを知った子どもは読書をしなくなる」という意見が世の中に広がりました。今でも、そういう意見を持っている人は少なくありません。

 大嘘です。私は大学院生に多くの知り合いがいますが、みんな漫画マニアです。漫画を読む人は活字の本も読んでいるということです。逆に、漫画さえも読めない人間が、どうして読書を楽しめるのかという言い方もできます。

 思うに、漫画反対論を唱える人は、読書が嫌いなのです。そもそも、読書など苦痛で根気のいるものだ。なにか他に楽しいものがあれば、なんで好き好んで、読書なんて糞面白くないことをするものかと、そういう感覚でものを言っているのです。

 私の子どもが通っている小学校の読書の時間に、馬鹿な男性教師が生徒を怒鳴り散らしているのを目撃したことがあります。曰く、「読書中に私語をするな!」「読書の時には背筋を伸ばせ!」図書室で大声を出して、なんて非常識な奴だ、いったい何者だと思ったら、教師でした。思わず笑ってしまいましたね。

 思うに、その教師も読書が嫌いなんです。だから、読書自体よりも、私語をしない、姿勢を正す、ということに意味を見出していたのです。自分の怒鳴り声がうるさくて、本を読む雰囲気ではないことは、別に問題ではないのです。読書自体には、なんの意味も無いはずなのですから。

 本当の読書というのは、そんなものじゃないですよね。本来、読書というのは、部屋に長々と寝そべって、お菓子でも摘みながら、時にはおならなどもしながら、するものじゃないですか。そんな、姿勢を正して、一言も口を利かずに苦行のようにする読書なんて、何の意味もありません。

「そんなことはない、読書というのは、居住まいを正して、心を静かに鎮めてするものだ」というあなた。では、あなたはその姿勢で、五時間、本を読み続けられますか?

 五時間というのは、どこから弾き出してきた数字か? 例えば、こういうことです。

 ある、一人住まいの下宿生。明日は一時間目から大学の授業があるので、早起きしなれればならないのに、今夜は妙に目が冴えて眠れない。時計を見ると、もう1時近い。本でも読んで、頭を疲れさせたら眠れるかと思って、ふと手に取った小説が大失敗で、困ったことにひどく面白い。

 読みふけっているうちに2時を過ぎて、一時間目の授業に出席するのは諦めた。とにかく、キリの良いところまで読んで寝てしまおうと思うのだが、あと一章、この出来事の決着が付くまでと、ずるずる読んでいるうちに外は白んできて、とうとう、一冊読み終わってしまった。こうなれば自棄だと、一睡もしないまま、ふらふらしながら一時間目の授業に出かける。

 こういうことは、本好きの人間なら誰でも一度は経験しているんじゃないでしょうか。この下宿生くんが、本を読み始めた時間を1時、読み終わった時間を6時と考えて、五時間と言ったのです。ちなみに私は、2時に読み始めて読み終わったのが9時という経験がありますので、7時間ぶっとうしで本を読んでいたことになります。

 その間、少しは休憩も取っているはずだというのは、本当に本嫌いの人の意見です。こういう場合、休憩を取らなければならないほど疲れてくれれば、ちゃんと寝られているはずなんです。

 もちろん、途中でトイレ位には行っています。それも、膀胱が膨らんできたが、きりの良いところまで読んでと、おしっこしたいのをもじもじと我慢しながら読み進んで、よし、ここで行くぞと急いでトイレに立って、戻ってきたらすぐにまた読み始めるのです。できれば5時間、7時間、ぶっ通しで読み通したいのですが、仕方なく一時中断するのであって、集中力が切れて、疲れが出て、休養が必要になる訳ではありません。

 話は少し変わりますが、私が全人教育主義を諸悪の根源と考えているのも同じような意味合いがあります。

 よく、遊びに興じている子どもに対して、「そのエネルギーと気力を少しでも勉強に向けたら、もっと良い成績が取れるだろうにな」言葉のあやではなく、成績の良い子の大部分は、遊びのエネルギーを勉強に活用している訳です。

 ただ、今回繰り返し主張していますが、全ての教科が楽しい子どもはまずいません。そうすると、遊び感覚で優秀な成績を取っている子どもを勉強嫌いの教師が評価すると、これは本当の実力ではないということになってきます。好きな分野だけ成績が良いのは、勉強しなくてもたまたまその分野について知識があっただけのこと、他の分野の成績が振るわないのは、結局、勉強の姿勢が出来ていないことになるのです。

 勉強の苦手だった先生にとって、勉強というのは、嫌いなことを我慢して、努力してするもの。元々好きなことで良い成績を取るのは、結局勉強して身に付けた実力ではないので、偽物ということになります。もしその子が、好きだった分野が嫌いになって、それでも頑張って良い成績を取れたなら、その時は評価できるのでしょうが。

「○○君のように自分の好きなことだけしかできないというのでは、本当の実力は付きませんよ」

 本当は、逆なんですけれどもね。嫌いなことを、ただ努力と根性でこなした勉強は、結局身に付きません。本当はその勉強嫌いの先生も、そんなことは知っているんです。

 だって、学校の先生も今と変わらぬ全人教育主義の中で教育を受けてきたのです。その中で、先生自身が努力と根性で勉強してきたとするならば、その時に勉強してきた全ての教科について出来ていなければおかしいんです。

 でも、現実には教えられるのは自分の専門教科だけ。他の教科に関しては全く教えられない人が殆どです。結局、身に付いた勉強は自分の得意分野だけということになります。

 勉強が嫌いだった先生の中には、その専門分野でさえ好きではなかったという先生も居ます。そういう先生の場合、教師になってからもう一度教科の内容を勉強し直したとか、学生時代には理解できていなかったが、自分が教える立場になって初めて分かったということがたくさんあったりします。自分自身も学生時代、マスターできなかった内容を、さも知っているのが当たり前という顔で教える。人にものを教える仕事というのも、詐欺師紛いの胡散臭い仕事です。

 いや、勿論、その教科が昔から好きで、従って本当の実力を身に付けている教師が教科の勉強を全くしないという訳ではありません。生徒の何倍も勉強しているからこそ、教える立場にいられるのですから。一時間の授業をするためには、最低一時間の準備をする。予備校の人気講師になると、一時間の授業に二時間、三時間の準備をする。生徒を納得させる授業を展開するためには、教師も一生勉強です。

 ですがやはり、教える教科の勉強が好きだった先生と嫌いだった先生の間には、歴然とした差があります。例えば、勉強が苦手だった先生に限って、分からない生徒に対してことさら厳しかったりします。それは、その先生の中で、勉強=辛いもの、苦しいものというイメージが定着してしまっているからです。勉強で生徒を追い詰めるのは、先生にとってそうであるところの勉強を、生徒に肌で感じさせるための行為で、その先生にとっては、勉強は辛い、苦しいと感じたところから、本当の勉強が始まるのです。言うならば、勉強のことで生徒を追い詰めたり苦しめたりするのは、教師としての愛情表現の一つということになるのです。

 教える教科が好きだった先生の長所は、その教科の楽しさを教えられるということですね。その教科が嫌いな生徒、苦手な生徒に対しても、まずその楽しさを伝えようとする。もちろん、それで全部の生徒がその教科を好きになる訳ではないでしょうが、もし教科の楽しさを生徒が感じ取ってくれた場合、自然に成績も伸びてきます。

 教科の知識についても、元々その教科が嫌いだった先生は底が浅いことが多いです。例えば、小学校の先生で、小学校で習う漢字で熟語を作らせて、中学校で習う読みを書かれてもそれを知らないでバツにしてしまうなどということが起こります。また、中学校の英語の先生で、和文英訳の答えで、教科書通りの答え以外は全部バツにしてしまう先生も居ます。

 こういう先生は、やはり今でも勉強が嫌いなんですね。漢字問題の小学校の先生は、小学校の範囲の内容は毎年同じことを教えているので馴染んでいるのですが、それ以上の内容を自分で勉強しようという意欲は無い。だから、ちょっとちょっと違う内容になるとまるで分からなくなってしまうのです。

 和文英訳の英語の先生の場合も、中学校の学習範囲の中であれば別解を書かれても判断できるのです。ですが、一度別解も可とすると、高校の範囲の表現とか、ネイティヴの好んで使う表現とか、どこからどんな表現が出て来るか分からない。欧米からの帰国子女などがクラスに居た場合、先ず自分の実力では太刀打ちできない。ですから、いっそ別解は一切不可にしてしまおうということになるのです。

 勿論、昔その教科が好きだった先生だってスーパー・マンではありません。知らないことは幾らでもあります。ですが、元々その教科が好きだった先生はその教科の知識をどんどん広げていくでしょうし、生徒が自分の知らない表現を使ってきた場合、あやしいなと思えば一応調べるでしょう。そういうことは楽しみの一つですから、あまり苦にならないのです。

 先生も人間ですから、間違えることもあります。その間違いについても、その教科が好きだった先生と嫌いだった先生では対応が全く変わってきます。

 昔からその教科が好きだった先生は、その教科についての自信があります。言葉を変えれば、その教科の指導をする立場の自分に対して、しっかりした「自尊感情」があります。たまに間違いをしたとしても、それで自分のキャリアが台無しになるとも思いませんし、それで生徒の信頼を失うとも思いません。ですから、「ごめん、間違えた」で軽く済ませてしまうことができます。

 昔、その教科が嫌いだった先生には、どこかに後ろめたさがあります。勉強が苦手だった過去の自分、その教科の成績が振るわなかった過去の自分を隠し通さなければ、先生としての威厳を保てないと感じているところが、どこかにあります。いろいろ、細かいところで無理をして、虚勢を張っているのです。ですから、間違いを犯したりすると、自分の本性を見透かされるのではないかという恐怖心を感じたりするのです。

 だから、完璧な教師を演じようとする。また、間違いを犯さないために、生徒から自分の本性を見透かされないような指導方法や、テスト内容を作ったりして、なんとかボロが出ないように苦労します。勉強嫌いの教師にとって、人にものを教える仕事は、綱渡りみたいなものなんです。

 最初の話題と少しずれてしまいましたが、つまり、楽しいから勉強するというのが勉強の基本であって、その基本から外れると、教える側も教わる側も非常にしんどくなるという、そういう話でした。

 最後に、勉強が嫌いだった先生、今からでも、自分の教えている教科を好きになる努力をしてみませんか。「俺の趣味は英語だ」「私は国語という科目が大好きだから」心からそう言えるようになれば、随分と世界が変わってくると思いますよ。

 今でも十分、自分の専門教科が好きだという先生は、聞き流しておいて下さい。







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