受容するということ(3)


 子どもの意見を受容する。でも、子どもの意見に、自分自身が賛同できないこともあります。明らかに、意見が違う。

 子どもの意見を否定したり、批判したりしていたのでは、相手を受容できません。それでは、嘘をついてでも、子どもの意見に賛成してやらねばならないのでしょうか。

 そんなことは、無いと思います。

 大人は、子どもの模範になるべき存在です。人に迷惑を掛けるなと教える保護者が子どもに迷惑を掛けていたり、暴力を振るう生徒を叱る教師が体罰を振るったり、禁煙指導をしている教師が煙草をぷかぷかやっていたり、それでは相手の信頼も得られませんし、口だけの指導ではなんの成果も得られません。

 なぜ、相手を受容するのか。自尊感情の欠如によって生きる力を失っていたり、自分のトラウマとうまく付き合っていくことが出来ずに苦しんだり、自分本来の能力を発揮できずにいたりする人に、悩み、苦しみから自らの力で立ち向かっていける力を付けてもらうためであろうと、私はそう思っています。

 相手の自尊感情を育てていこうとする人間が、自分自身に対する自尊感情を持っていなければ、どんな影響力も発揮できません。まるで、無能なサラリーマンが上司にへつらうように、自分の意見を隠して相手に合わせていたのでは、「受容」も単なるおべっかに過ぎなくなってしまいます。

 自分の意見を曲げてまで、相手に合わせる必要はありません。ですが、相手に、自分の意見をストレートにぶつけてしまったのでは、相手の否定になってしまいます。

 どうするのか? 意見の食い違わない部分で、相手を認めてやるということです。

 例えば、「子どもは叩いて育てられることで良い子に育つ」という意見の人間を受容しなければならないとする。本当は、そんな人間、受け入れてやりたいとは思わないんですがね。ですが、子ども自身が、自分は叩いて育ててもらっているから、親に愛されているんだなどと思っている場合もあります。

 そんな場合、例えば、こんな返事の仕方になるかもしれません。「本当に、お母さんのことが好きなんだね」子ども自身の意見は受け入れられませんが、母親に愛されたいと思う気持ちは認められますし、それを否定しようとは思いませんから。

 あるいは、こんな言い方も出来るかもしれません。「お母さんは、君のことで一生懸命だったんだね」子どもを叩いたことを良いこととは認められませんが、子どものことに対して一生懸命になること自体は否定されるべきことではありません。だから、そこを認めてやる。

 こういう言い回しを、私は最近、金盛浦子先生の本の中から見付け出しました。相手を大切にすると同じだけ、自分を大切にする。自分を大切にしているからこそ、相手を大切にできる。「受容」という態度は、結局、自分自身に対して優しくなければ、できないことなのだと、最近思い始めました。

 そう言えば、アリス・ミラーの『魂の殺人』の中にも、アメリカ人のカウンセラーの感動的なエピソードが紹介させていました。

 相談者は、我が子に対する虐待を止められない母親です。いけないと思いつつも、つい、子どもを叩いてしまうと、悩んでいます。

 こんな母親に、子どもを叩くことはいけないことだと諭してしまえば、相手に対する否定になってしまいます。かと言って、今のままで、いいんだよ。叩きたいときもあるんだよなどと、認めてしまうこともとてもできない。

 そのカウンセラーは、こう訊いたそうです。「本当は、誰が叩きたかったんですか?」

 意表を突かれた母親は、とっさに「私自身を」と答える。そして、わっと泣き出したということなんですが。

 これなどは、かなり高度な「受容」の仕方です。子どもを叩くという行為自体を通り越して、子どもを叩かずにはいられなかった母親の本質的な問題を受容しようとした。まあ、アマチュアにはちょっと難しいので、真似はしない方が無難かもしれません。

 いやあ、人を受容するというのも、奥が深い。最近、そう思います。


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