<<公教育のしつけ観>>


 公教育に於いて、三つの子育て観の全てが批判の対象になっている事について、例えば、こういう考え方もある。

 それぞれの子育て観そのものが悪いのではなく、それがゆき過ぎてしまうと批判の対象になるのだ。何事も、中庸というのが大事なのだ。

 こういった見方は余りに公教育に好意的過ぎる見解と言えるだろう。例えば、5段階評価で成績オール3、素行はABC三段階評価で全てBである生徒は、バランスが取れていると学校で褒められるだろうか。やはり、成績は5を、素行はAを目指して頑張れとハッパを掛けられるのではないだろうか。

 実は、公教育の世界には、今までこの文章の中では扱っていなかった、五番目の子育て観に支配されている。それを仮に、全人主義と呼ぶ事にする。

 全人とは、全ての面に於いて優れている、完成されているという意味である。全人主義、全人教育とは、凡そ考えられる全ての要素について、完璧を目指すという教育観である。

 全人主義の立場から厳格主義者が批判されるのは、ゆき過ぎた厳格主義のせいではない。完璧な礼儀正しさを会得する為には、どれ程厳格主義がゆき過ぎても何の問題も無いのである。問題は、厳格主義者が、学歴主義・童心主義の子育てを軽視している点にある。

 同様に、学歴主義者は厳格主義・童心主義の視点に欠けている点で、童心主義者は厳格主義・学歴主義の視点が欠けている点で批判される。全人主義に於いては、これら三つの立場全てに於いて、完成されている事が要求されるのである。

 学校は勉強をする場所であるから、勉強は出来なければならない。しかも、暗記科目だけ得意とか、論理的科目だけ得意というのは、全人教育では許されない。暗記科目も、論理的科目も全て出来なければならない。

 しかも、それだけでは不十分である。体育も音楽も、習字も、美術も技術も家庭科も得意でなければならない。

 これらの科目が全て得意科目だとしても、それだけでは不十分である。礼儀正しく、集団生活に順応出来なければならない。

 学科の成績が全て完璧で、礼儀正しく、集団生活に完璧に順応出来たとしても、それで許される訳ではない。一度遊び始めれば、非常に元気に、無心に遊ぶ事が出来、何時も沢山の友達に囲まれていなければならない。

 これだけの課題を全て完璧にこなせなければ、全人主義の教育に於いて批判の対象とされても文句は言えないのだ。

 学校は挫折の場であると良く言われる。その意味は、大部分の生徒が、全人主義の教育によって不完全な子ども、課題の残る子どもと評価されてしまうという意味である。

 保護者もまた同様であって、全人主義によって大部分の保護者は、子育てに完全に成功したとは言い難い者、少なくとも、子育てにまだ課題を残す者と評価されるのである。

 学校の評価は、先ず最終的な到達点を示す。それは、五段階評価の5であったり、十段階評価の10であったり、Aであったり、三重丸であったり、「よくできました」であったりするが、学校での評価というのは要するに、この到達点に達したか達しなかったか、達していないとすれば、目標との間にどれ程の開きがあるかを示すものである。

 但し、目標点に達しているものはそれ程重要ではない。目標点に達していない項目をどうするか、それが学校での指導の眼目であり、全てでもある。

 生徒の長所を認めていく、良い所を伸ばしていくなどと美辞麗句を並べてみても、所詮学校の評価は生徒のあら探しに過ぎない。そのような評価の中で生徒は追い詰められ、保護者もまた、子どもと共に追い詰められていく。


 戻る 前へ 次へ